代理としての世界 -3-
星野廉
2020/09/26 08:18
恥ずかしいフレーズを書かせていただきます。
「自分」って何でしょう。
みなさん、上のセンテンスを読んで恥ずかしく思いませんか。書いた者も恥ずかしいのですから、お読みになった方も恥ずかしいのではないかと想像するのは、自意識過剰というやつでしょうか。ちなみに、自意識過剰という言葉にも「自」という言葉が出てきますね。
>「自覚的にとらえている」というのは、嘘なんです。
>ヒトは、自覚なんてできっこない。「自覚する」という言葉とイメージを「作ってしまった=捏造してしまった=でっちあげてしまった」ので、その気になっているだけだ。つまり、引くに引けない、という状況になってしまったのではないか。
以上は、「代理としての世界 -1-」の最後のほうで書いた部分からの引用です。
「何かの代わりに何かではないものを用いる」という仕組みが、ヒトの「知覚」、「認識」、「意識」と呼ばれていることorもので働いているとするなら、おそらく、「自分」「自」「自覚する」などという言葉が指していることorもの――何を指しているかについての意見やイメージは各人によって異なりますから、すごくテキトーな=杜撰な話をしていることをお詫び申し上げます――は、すべて「何かではないもの」、つまり「何かの代わり=何かの代理」ということになりそうです。「自分」や「自分の思い」ですらが、「代わり=代理=仮のもの=借りもの」だと考えられます。
自分は自分以外の何ものでもない。自分の思っていることは、当の本人の思っていることなのだから、その内容は承知している。そんなふうに信じている人にとっては、自分が「自分=本人=本もの」であるのは当たり前であり、自分が何ものかの代わりを務めているといった考え方なんて正気の沙汰じゃない、と思うにちがいありません。
自分が自分であることに疑いを持つ度合いが小さい人ほど、「自分って何なのでしょう」とか「自分とは何ぞや」という具合に考えることはないのではなかろうか、という気がします。いわゆる気質というものがあるみたいです。漠然とした印象を申しますと、「自分とは何か」といった問いにこだわったり悩んだりするのは、癖のようなものだという感じがします。みなさんは、どうお思いになりますか。ご自身の場合で考えてみてください。「自分って何だろう」なんて、考えることがありませんか?
もっとも、「自分って何だろう」という問いは幾とおりかの解釈ができそうです。思いつくままに、挙げてみます。
(1)私という人間は、他人と比べてどういう点が優れていて、どういう面で劣っているのか。
(2)私は、どんな性格(or運命or使命)を持った(or授かった)人間であり、どう生きたらいいのだろう。
(3)今の自分は仮の(or偽りの)姿であり、本当の自分はこんなふうじゃないはずだ。本当の(or本来あるべき)自分を探し求めてみたい。
(4)今、この世でこうしている自分ではなく、生まれ変わりを何度も経てきたコアとなる自分について知りたい。
(5)自分がいて、その自分が世界(or身のまわりor宇宙)を知覚・認識・意識しているという話になっているけど、その「自分」とか「世界(or身のまわりor宇宙)」というのは何なのか。「知覚・認識・意識する」とは、どういうことなのか。
(1)から(4)については、大きめの本屋さんへ足を運んで、「自己啓発・ビジネス書」「スピリチュアル・占い」「恋愛・性格診断」「宗教・哲学」「就活特設コーナー」などという文字の書かれたプレートや貼り紙をお探しになれば、その近くに置いてある本に、ある程度納得できるor満足のいく答えや、答えとまでは言わなくてもヒントは見つかるような気がします。
上の中で(5)が長くなったのは、このうわごとをつづっているアホが考えていることだからです。ちなみに、このアホは(5)のような愚問にこだわっているので、本屋さんに答えを探しに行く気はありません。愚問は、自分で考えるのがいちばんいいという、経験からくる思いがあるからです。アホを長年やっていると、いろいろな経験をするものです。その経験から、「あきらめ」という名の「学習」をします。
ここで言う愚問とは、愚者が自分で納得しなければ満足できないような問いだ、くらいでイメージしてください。へそ曲がり=偏屈者は、他人の言葉には耳を貸さない。そのたぐいの話をお聞きになったことが、あるいは、そうした状況を体験なさったことがありませんか。そんな感じです。偏屈者は、放っておくのがいちばんです。相手にしちゃいけません。生きた実例が申していることですから、信用してよろしいかと存じます。
愚者=へそ曲がり=偏屈者は、世間でそう呼ばれていない人たちなら、あまり気にしないことにこだわります。で、上述の(5)なのですが、問いの形を取っていますが、答えは出ているのです。というか、このアホの場合には、出まかせと思いつきで、勝手に解決したつもりになっているのです。そうです。さきほど上のほうで書いたことと、ほとんど同じです。一応まとめてみます。
「自分」も、「世界(or身のまわりor宇宙)」も、「知覚・認識・意識する」も、「代わり=代理=仮のもの=借りもの」らしい。
こんな具合になります。最後は「らしい」で終わっていることに注目してください。「自分」を「代理」だと思い込んでいる者が、このセンテンスを「である」と断定口調で終えることはできません。偏屈者にも、それなりの仁義はあるみたいです。
※この記事は、かつてのブログ記事に加筆したものです。https://puboo.jp/users/renhoshino77
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