あらわれる・あらわす(3)
星野廉
2020/09/19 08:26 フォローする
米国の金融の中心は、今やニューヨークではなくワシントンです。という意味のことを、きのうのニュースで聞きました(※この記事が書かれたのはずいぶん前ですが、文章の勢いを殺がないために加筆は最小限にとどめます)。アイロニックですが、うまい表現だと思いました。言えてます。1つ間違うと、ブラックジョークですけど。要するに、政府が printing money (お札を刷る)をせっせと行って、民間企業に多量に注入しているという、米国にとっての非常事態なのですから。ということは、世界にとっての非常事態です。
ところで、お金はヒトがつくっているものです。それなのに、「給料(ボーナス、退職金)が出た」、「定額給付金(補助金、奨励金、助成金)が出た」、「分配金(or 配当金)が出る」、「保険金(or 補償金、還付金)が出る」、「懸賞金が出る」のように言います。この「出る」というのは「あらわれる」の親戚みたいですが、「給料(or 保険金)があらわれる」とは言いません。どうやら、ちょっとお勉強をする必要があるようです。辞書をつかって、調べてみました。
まず、気になる言葉は、
*「あらわれる・あらわれ・あらわす・あらわ・ある・あり」「でる・いづ・いずる」「いる」「おる」
です。
たくさんありますので、少しずつ、見ていきましょう。
*あらわれる・表れる・現れる・顕れる・洗われる
*あらわれ・表れ・現れ・顕れ
*あらわす・表す・現す・著す・顕す
*あらわ・露・顕
*ある・有る・在る・或る・生る・荒る・離る・散る
*あり・有り・在り
*でる・出る・デルフォイ
*いづ・出づ
*いずる・出
*いる・居る・入る・射る・要る
*おる・居る・下る・降る・折る・織る・愚る・オルガスムス・オルガニズム・オルグ
以上、概観しました。なかには、どうして? とお思いになるものが混じっていると思います。気になったので、いっしょにして並べただけで、語源とか、「ただしい」 vs. 「正しくない」だけを基準にしているわけではないので、ご容赦ください。
*
こうして大和言葉系の「ひらがなだけ」で書かれた言葉を、分光するように「漢字=感字+ひらがな」で表記しなおして見ると、また、違った感慨を覚えます。現われ、表れ、洗われてくるような気がします。あらあら、居る、入る。在った、会った、遇った、生った、散った。そんな感じ、勘じ、間じ、観じです。
*言葉が、森羅万象=宇宙の圧倒的な偶然性を、懸命に真似ている。模倣している。その結果として、言葉たちは、人為的=でっち上げられた必然性=整合性など無視して、素知らぬ顔をして、そこに居る=入る。そこに在る=散る=生る。おそらく、この現象は、人為を超えて起こっている。
前回の「あらわれる・あらわす(2)」で、「間(=ま・あいだ・あわい)=際(=さい・きわ)」という言葉をつかいましたが、上の言葉の羅列を見ていると、まさに言葉たちの「間(=ま・あいだ・あわい)=際(=さい・きわ)」を目にしている思いがします。ヒトは、言葉=言語を獲得して以来、洗練させていく過程で、森羅万象に言葉を重ねる=こじつける=たとえるという作業をしてきたはずです。
それは不自由を自由と錯覚しなければ成し遂げることができない、ほぼ不可能とも言える難業だったはずです。そのはずなのに、言葉というものが、いとも簡単につかうことができるといった気持ちになっている。変です。少なくとも、自分は、その「錯覚=変なこと」に敏感でありたいと思っています。
*
さて、もう少し、細かく具体的に見ていきましょう。
*あらわれる・表れる・現れる・顕れる・洗われる : 表に出る・隠れていたものが出てくる・隠されていたものが出てくる・「いないいないばあ」・「ねえ、見て見て」・「見よ!」・「こんなん出ましたけど」・「ぐにょ」・「実は、……です」・「よかった。やっとで出られたよ」・「びっくりした?」・「ばれちゃった」・「ごしごし、さぶさぶ、きれいになりましたねー」・「すっきり、くっきり」・「隅から隅まで、とことん見せてもらいます」
*あらわす・表す・現す・著す・顕す : 「見よ! 参ったか? 怖れ入ったか?」・「思い切って打ち明けます」・「こうすれば、わかってくれる?」・「こういうことです」・「こんなことを書きましたので、読んでください」・「世の中のみんなに知ってほしいのです」・「ねえねえ、わたしってすごいんですよー」
*あらわ・露・顕 : 「あら、見えちゃったのね」・「丸見え」・「丸出し」・「すっぽんぽん」・「なるほどねー」・「もう隠すところなし」・「包み隠さず」・「おおっぴら」・「そこまでやるの? or そこまで言うの?」
*ある・有る・在る・或る・生る・荒る・離る・散る : 「『0/1』の『1』(※2進)」・「『□/■』の『■』」・「えっへん(※咳払い)」・「入ってまーす(※ノックに対する返事)」・「どかん」・「どっしり」・「生きてるよー」・「ここは、うちのテリトリーです」・「えっへん(※威張っている)」・「またまた来ました」・「あれよあれよ」・「It's mine.」・「誰にも渡さない」・「これで決まり」・「……ということです」・「もう、そんな時間?」・「……なのだ」・「ずっといつまでも」・「あっ、出ました」・「まあ、こんなになっちゃって」・「バイバイ」・「ばらばらになる」・「おーい、げんきかー!」
*でる・出る&いづ・出づ&いずる・出 : 「ああ、どうも、こんにちは」「はじめまして」・「来ました」「来ましたね」・「やあ」「やあ」・「よろしく」・「はじめます」・「こういうお話です」・「こんなところにあったのか」・「では、失礼いたします」・「おあとが、よろしいようで」・「バイバイ」・「ちらり」・「ちょこっと」・「ちょっとだけよ」・「♪仰げば尊し……」・「あれよあれよと」・「ここのは、おいしいんですよ」・「ああ、あそこからいらしたのですか」・「ほら、くれてやる」・「パチパチ(※拍手の音)」
*いる・居る・入る・射る・要る : 「『0/1』の『1』(※2進法)」・「『□/■』の『■』」・「えっへん(※咳払い)」・「入ってまーす(※ノックに対する返事)」・「どかん」・「どっしり」・「生きてるよー」・「ここは、うちのテリトリーです」・「ちょこちょこ、うろうろ、おろおろ、ばたばた、さーっ、ひゅーっ、びゅんびゅん」・「にょきにょき」・「ここは、うちのテリトリーです」・「えっへん(※威張っている)」・「ふうーっ」・「こうしていると落ち着くなあ」・「おじゃまします」・「びゅーん」・「さっと……」・「大当たりぃ~」・「これがなきゃだめなのよー」
*おる・居る・下る・降る・折る・織る・愚る : 『0/1』の『1』(※2進法)」・「『□/■』の『■』」・「えっへん(※咳払い)」・「入ってまーす(※ノックに対する返事)」・「まだあ?」・「悪いけど、そろそろ」・「ちぇっ」・「そんなこと、わかっているって」・「ぽとり」・「ひゅーっ、ぽとり or ぼた or ばたり」・「どっこいしょ」・「では、このへんで失礼します」・「もう、いいです」・「あきらめした」・「ありがたく頂戴いたします」・「びちびち」・「ぐにゃり」・「ぽきっ」・「こっちとこっちを合わせて重ねます」・「こっちとこっちを合わせて重ねたら、次は、そっちとそっちを合わせて……」・「への字」・「まいりました、ご勘弁を願います」・「ああ、しんど」・「糸を使って、がったんごっとん」・「あれをこっちに、これをあっちに」・「ぼけーっ or ぽーっとなる」
以上です。
つかわれている個々の漢字についても、お勉強したいのですが、機会をあらためます。
*
ところで、前回の「あらわれる・あらわす(2)」という記事のなかで、「いないいないばあ」について、次のように書きました。
*さて、ここで、「いないいないばあ」という赤ちゃんを対象とした遊びが、赤ちゃんにとって「いる/いない」「ある/ない」「あらわれる」という現象を体感する象徴的な体験であるらしい、という説を思い出しましょう。
上のように書きましたが、あとで読み返して補足したくなりました。違った視点から、説明し直します。
中上健次という、もう亡くなった作家と、蓮實重彦という文芸評論家との対談集を、かつて読んだことがあります。その本はもう、手元にないので、うろ覚えの内容を書くしかないのですが、次のような発言を中上がしていた記憶があります。
*テレビのアニメを見ていて、幼い娘が物語の主人公に同情して涙を流すことがある。まだ幼いのに既に物語の定型が身に付いているのだと思うと、物語の恐ろしさ=強さに驚きを覚える。
そんな意味の話だったと思います。対談のほかの部分を、すっかり忘れているのに、その個所だけが印象に残っているのは、
*物語=フィクションの定型
という図式に興味を引かれたからだと思います。当時、「いったいフィクションって、なんだろう?」という疑問=関心を持っていたのです。今の自分にとっても、興味深いテーマです。何を言いたいのかと申しますと、
*「いないいないばあ」は、あくまでもフィクションである。
という点です。
言い換えれば、「お遊び」=「……ごっこ」なのであって、実体験というより、括弧にくくられた「実体験」というか、
*本当を装った「本当」である。
ということです。
*
「いないいないばあ」については、以前、フロイトが注目した「fort / da」というお遊びといっしょに引き合いに出しました。もっとも、「fort (いないいない) / da (ばあ)」は、糸巻きを投げる遊びだということで、具体的にどんなふうにしてやるのかは知りません。フロイトは自分の孫がその遊びをするのを見ていて、何やら深遠な解釈をしたらしいのですが、その学説も知りません。なお、そのお孫さんも、赤ちゃんというより、もう少し年長さんだったようです。
ですので、ここでは、赤ちゃんを対象にして、手で顔を隠したり、その手を開いて顔を出して遊ぶ、例の日本式「いないいないばあ」だけに絞り、フロイトの学説も抜きに話を進めます。また、赤ちゃんは生後6カ月未満と限定します。まず、
*「いないいないばあ」は、赤ちゃんにとって、自己と他者の区別を意識するきっかけとなる、きわめて重要な意味を持つ「実体験」ではない。
という前提に立ちましょう。もし、そうした「実体験」があるとすれば、赤ちゃんの目の前から、実際に、誰かがその場を離れて
*「いなくなる」
という体験でしょう。その体験において、赤ちゃんは、恐怖 and/or 不安 and/or 「よるべなさ」を感じるだろうと思われます。逆に、誰かがそばに、
*「あらわれる」
ことによって、喜び and/or 安心感 and/or 「守られているという気持ち」を感じるだろうと思われます。この場合に、「自己と他者の区別を意識」しているかどうかは、YES vs. NOといった2項対立で処理できる問題であるとは、個人的には考えていません。ですので、保留しておきましょう。
一方の、「いないいないばあ」ですが、これは明らかに「遊び」です。おそらく、赤ちゃんも、それが「お遊び」=「……ごっこ」であると、言葉ではなく、体感していると思います。つまり、
*フィクションであると体感している。
という意味です。
「いないいないばあ」という遊びにおける、赤ちゃんとその遊び相手のヒトそれぞれの状況、動作、表情、気持ち(=機嫌)などのさまざまな要素によって、「いないいないばあ」が、赤ちゃんにとってどのような体験となるのかは、ケースバイケースでしょう。赤ちゃんのご機嫌の良し悪し、明るい所か薄暗い所か、相手となるヒトの表情を赤ちゃんが「快」「不快」のいずれのほうに近いものとして受けとめているかによっても、異なるにちがいありません。
いずれにせよ、
*赤ちゃんにとって、「いないいないばあ」が、「お遊び」=「……ごっこ」=フィクションである。
ことは、「ほぼ」認識されているものと考えていいのではないでしょうか。
*
ここで、このブログでよくつかう、「広義の言葉」という言葉を紹介させてください。
*広義の言葉=言語とは、話し言葉、書き言葉、表情や仕草や身ぶり手ぶりを含む身体言語=ボディランゲージ、手話、ホームサイン(※家庭だけで通じる断片的な手話)、音声(=発声)、音楽、合図、映像、図像、さまざまな標識や記号や信号など
この「広義の言葉」を「表象(=「何かの代わりとして用いるもの)」として、使用しているヒトの子である赤ちゃんは、「いないいないばあ」という「遊び」のなかでは、
*この「遊び」を、「広義の言葉」を用いた「遊び」の1つとして、意識している。
のではないでしょうか。おそらく、「自己と他者の区別を意識する」という作業=行為=「いとなみ」とは、異なるレベルの話であるような気がします。
以上の考え方が、たとえば発達心理学と呼ばれる分野において、似たような説として存在しているのか、あるいは、むしろ否定するような説が存在しているのか、あるいは、複数の学説が拮抗しているのかは知りません。あくまでも、素人の楽問での道草話です。強調したいことは1つだけです。
*目の見え始めた=知覚が活発になり始めた時期の赤ちゃんは、「フィクション」を意識しているか、意識し始めている。
と言えそうな気がします。
ここでの「フィクション」とは、「戯れ」「遊び」に近い意味です。同時に、
*目の見え始めた=知覚が活発になり始めた時期の赤ちゃんは、「広義の言葉」が「表象(=「何かの代わりとして用いるもの)」として働いている=機能しているという「仕組み=メカニズム」を体感=知覚し始めている。
とも言えそうな気がします。
赤ちゃんに表象作用の仕組みなんか分かるわけがないじゃん、アホか? とおっしゃるのは、よく理解できます。でも、表象作用などという難しい言葉をつかうから、そう思えるのであって、赤ちゃんでも、幼児でも、いわゆるコドモでも、
*何かの代わりに何か別のものをつかっている
という仕組みは体感できるし、実際に体感しているように思えます。
赤ちゃんや、幼児や、いわゆるコドモって、あなどれませんよ。馬鹿にしちゃ、だめだと思います。案外、オトナのほうが、知性と痴性がしゃしゃり出てくるため、表象が表象であることを、ころりと忘れて、ずいぶん、しっちゃかめっちゃかしているじゃありませんか。この自分のやっていることを反省してみても、つくづくそう思います。お金、言葉、イメージ、レッテル、そうした表象たちにどれだけ、振りまわされていることか。
一方で、
*コドモたちは、遊び=フィクションの大家
ですから、けっこう、さめていますよ。
*子どもは、現実と仮想現実を混同する。
なんて言う、オトナたちが一部いますが、まずご自身のことをお考えになれば、あのような暴言=妄言は吐けないのではないか、と思います。オトナだって、現実と仮想現実を混同しています。それがヒトの習性なのです。きのう、
*赤ちゃんを、言葉で馬鹿にするのはやめましょう。
と書きましたが、きょうは、
*難しい言葉をつかって、赤ちゃんやコドモを馬鹿にするのはやめましょう。
と言いたいです。きのうも書きましたが、オトナとコドモって分かれているようで、分かれていない面がたくさんあるように感じられます。
*いわゆるオトナも、いわゆるコドモも、ゆるやかに=連続的につながっている。
のです。
このテーマについては、いつか、整理して詳しく書いてみたいと思っています。
*
以上は、きのうの午後、インターネットで検索しまくり、赤ちゃんや幼児やいわゆるコドモに関する、いろいろなサイトを覗いてみているうちに感じたことが、かなり影響しています。したがって、さきほどの「いないいないばあ」について書いた部分も、実際に、赤ちゃんを観察して感じたことではありません。
はっきり申しまして、でまかせ=思いつきです。楽問=ゲイ・サイエンス=「楽しくやろう、お勉強ごっこ」の戯言としてさっと目を通していただければ、それだけで嬉しいです。
で、少々話は脇にそれるのですが、言いたいことがあって、むずむずしてきたので、白状します。実は、きのう検索しまくっていたのには、別の理由があったのです。ちょっと恥ずかしいのですが、不思議というか、気になって仕方ないことがあったのです。今も気になっています。
これまた、前回の記事で書いたことの蒸し返しなのですが、
*うんち
のことがあたまから離れないのです。
きのう書いたことくらいでは満足できないのです。アホなりに、ああでもないこうでもない、ああでもあるこうでもあると考えて、納得したいのです。うんちについて検索して、蘊蓄(うんちく)を傾けた議論をしようとか、うんちをたれたり、いや、蘊蓄を垂れたりしよう、などという魂胆や野心なんてありません。
ただ、考えてみたいのです。検索をしても、大した満足が得られなかったので、自分流に、今ここにある物や事や現象を見つめ、手持の知識と記憶を総動員するやり方で、うんちと取り組んでみます。
先週までやっていた「かく・かける(1)」~「かく・かける(8)」シリーズと、その補遺=おまけ=付録=追加である4本の記事:「占い・占う(連載「かく・かける」の補遺)」、「賭け・賭ける (連載「かく・かける」の補遺・第2弾)」、「書く・書ける(1)」、「書く・書ける(2)」では、テーマの性質上、マラルメ師の気配を感じていましたが、今回の「あらわれる・あらわす」シリーズでは、人面○○と赤ちゃんとのあいだで、話がうろうろしていて、テーマの性質上、フロイト師の気配というか影を感じます。
フロイト師は、幼年期にやたらこだわったヒトだったし、うんちや肛門の話もかなり好きそうでしたね。自分って、同化しやすいというか、感化されやすいところがあるようなので、この類の話題は看過したほうがいいのかもしれませんが、できそうもありません。
きょうは、このあと、家事をしながら、うんちのことを考えて走り書きメモをせっせとつくろうかと思っています。
ですので、次回は、そうしたメモを継ぎはぎして、うんちの話を書くことになりますが、できるだけ不快な記事にならないように努力しますので、ぜひ、また遊びに来てくださいね。お待ちしております。
※この文章は、かつてのブログ記事に加筆したものです。https://puboo.jp/users/renhoshino77
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