つくる(4)

星野廉

2020/09/20 07:58 フォローする

 また、趣味が1つ増えました。カー・ウォッチングです。カラスの観察ではありません。車のほうです。「また、……増えました」と書いたのは、前のシリーズを書いているあいだに、赤ちゃんに興味を持ち、赤ちゃんウォッチングが趣味=楽しみの1つになったからです。赤ちゃんウォッチングは、今も続いています。それに、自動車ウォッチングが加わったというわけです。


 きのうの記事の最後のほうで書いたことがきっかけで、やたら車、特に、正面からの車の「顔」を見るのがおもしろくなってきたのです。買い物のついでに、歩道から車道に目を走らせ、


*「おお、あの顔はなかなかチャーミングだ」「あれは、強面だな」「ありゃー、なんてブサかわいいのだろうか」「ん? 誰かに似ている」「こいつは、意地が悪そうな表情をしている」「How sweet!」「うへっつ!」


なんて具合に、自分の顔を棚に上げて、他人様のオクルマを拝顔するようになりました。ネットで中古車関連のサイトに入って、にやにやしてもいます。ちょっと、いや、かなり不気味ですね。そのせいか、きょう書く記事用の走り書きメモが激減して、困っている最中です。


 とはいえ、だいたいが、


*即興=アドリブ=でまかせ=なりゆきまかせ=風まかせ


で、毎日の記事を書いていますので、


*ま、いっか、


の精神でいきます。


     *


 さて、自動車ですが、真正面から見ると、どうしても人面を連想してしまうのです。目、鼻、口、耳に相当するパーツが必ずあります。髪型まで連想させる車種もあります。会社名や車種名には、まったく関心はありません。その表情だけに惹かれるのです。これって、ひょっとしてビョーキ=あやういでしょうか?


*ま、いっか


にしておきます。それほど、おもしろいのです。ちょっと止められそうにありません。


 きのうの記事で触れましたように、自動車の玩具はたくさんあります。本物のミニチュアもどき。自動車や消防車やパトカーやダンプカーの、


*ほぼ一般化された=共有化されたイメージ


をプラスチック、木、金属を使用して製造したもの。キャラクターグッズ。というふうに、いろいろありますね。大きさも、幼児が乗れるようにつくられたものから、グリコのおまけよりも小さなものまであります。形も、完全に顔や表情が浮き出ているもの、つまり、


*人面を模倣したもの


もあれば、


*あえて人面を模倣する作為が認められないもの


もあります。で、個人的には、後者にさえ、人面を認めてしまう=見てしまう=あらわせてしまう=出させてしまうわけです。言い換えると、


*イメージの問題であるため、個人レベルの勝手=ヒトそれぞれ状況になってしまう


わけです。


 オトコの子、オンナの子という区別は、あまり好きではありませんので、以下の話は、そういう区別を前提としているのではなく、そういうふうに玩具がつくられて、販売されて、購入されている、とだけ理解してください。


 どういうことかと申しますと、自動車の玩具は主にオトコの子用、リカちゃん風のお人形さんは主にオンナの子用という、暗黙の了解みたいな区別があるということです。それにちょっと似ていますが、話を進める便宜上、玩具を、


*乗物、および、無生物



*ヒトに似せた人形、および、生き物、および、架空の生き物


の2つに分けて考えてみます。くどいですが、性差は考慮に入れていないと理解してください。


 大切なのは、


*コドモが、玩具を手に取って、動かしたり、音声を発することにより、ストーリーや、ストーリーの断片を演じる


ことです。


あるいは、


*フィクション=お話=物語=ストーリーテリングや、動き=ダンス=仕草=表情=シチュエーションを演じる


と言ってもかまいません。こうした「お遊び」=「戯れ」=「……ごっこ」をするということは、たとえ、まだ話し言葉を流ちょうに使用できない乳児や幼児であっても、


*表象の働き(=「何かの代わりに「その『何か』ではないもの」を用いる」という、代理=代行の仕組み)



*学習する以前に体得している


からではないか。そんな気がするのです。


 一方で、


*「体得している」は「学習している」と重なる部分もあれば、重ならない部分もある=「体得している」と「学習している」とはグレーのグラデーションを成している


のではないか、とも考えています。「学習する」の前に「体得している」があるというのは、個人的には、すごく「衝撃的であると同時に魅力的な}=「1つ間違うときわめて危険 or うさんくさい」考え方なのです。このことについては、のちに触れます。


 以上のことをまとめると、


*乳幼児は、玩具を使用することで、表象の働きを身体で演じる。これは、物語=フィクションを演じる萌芽とみなすことができる。


のではないか、となります。


     *


 で、話を少しもどしますが、玩具には、オトコの子用、オンナの子用を想定した、と想像できるものがあります。たとえば、消防自動車の形をした木製の玩具を、親なり親戚の人が男児に与え、金髪で青い目をしたオンナの子の形をした人形を、オトナが女児に与えるケースのことです。


 個人的には、オンナとオトコも、コドモとオトナと同様に連続していると考えています。ですので、男児と女児とを、故意に=恣意的に=オトナの都合で=人為的に区別・分類する傾向を助長する風潮には、加担したくありません。


 小児科のある医院の待合室なんかに、多種多様な玩具が置いてありますね。ああいうところで、乳幼児を遊ばせ、その子が興味や執着を示した玩具を、おうちで与えてはどうでしょう? その子の感情や意思や好みを、尊重してあげてはどうでしょう? 


 育児も子育てもした経験もなく、現にコドモもいないアホオヤジが、無責任=勝手=テキトー=アホなことを言うな、と言われれば、返す言葉はありませんが、そう思っています。で、大切なことは、あくまでも、


*フィクションの萌芽


です。その萌芽のほうが、断然おもしろいです。玩具に限らず、


*ヒトに似せてつくった人形


については、「1カ月早い、ひな祭り」と「ひとかたならぬお世話になっております」で、詳しい考察を行っていますので、ご興味のある方は、ぜひ、ご一読ください。


     *


 ここで思い出したのですが、旧約聖書の「創世記」では、確か、


*神に似せて


土(=アダーマー)から最初のヒト=オトコ=アダムをつくり、アダムのあばら骨で最初のオンナ=エバ(=イブ)をつくった、と書いてあったと記憶しております。


 別に記憶に頼らずに、書棚に収めてある英語と日本語でそれぞれ2種類の「聖書=the Bible」を参照すればいいようなものですが、聖書が昔から苦手なのです。恥ずかしい話ですが、「読んだ」ことがないのです。必要に迫られて、必要な個所だけを「調べた」ことはありますが、「読んだ」ことはありません。


 愛用の辞書のなかには、「調べた」り「引いた」だけでなく、「読んだ」こともある、と言えるものがあります。でも、聖書は「読めません」。


 そんな分際で、西洋の文学や哲学を大学で学んだなんて、いけしゃあしゃあと他人様に言ったり、ブログで書いたりしているのですから、身の程知らずの極致です。それは、若い頃から百も千も承知なのですが、


*読みたくない


んですよー。読もうとしたことはあります。でも、


*おもしろくない


んですよー。そんなざまで、マラルメだの、バルトだの、デリダだのと、言ったり、書いたりしてきたのは、ルール違反であることは痛いほど分かっております。たった今、


*「このいかさま野郎めが」


という、幻聴(※対話するさいには「ゲンチョーさん」と呼んでいます)らしき声が聞こえたような気もします。


 でも、やっぱり、


*おもしろくないし、読みたくない


んです。勘弁してくださいよ、ゲンチョーさん。これまで、自分はわりと、自分に正直に=わがままに=自己中心的に=やりたい放題に=きままに=テキトーに、生きてきたほうだと思っております。だから、やりたくないことは、やらずに、ここまで「生きて=息て」来ました。ですので、これから先も、できれば、そんなふうに「生きて=息て」行きたいのです。


 とういうわけで、聖書は、これから先も読まないと思います。


 姑息な言い訳を申しますと、こころを込めずに「聖なる書」を読むなんて、キリスト教の信者および信徒の人たちに失礼だと思います。キリスト教の神様は信じていないので、神様に失礼だとは思いませんが、他人さまには、自分なりの形で、誠意をもって礼儀を尽くしたいと考えております。


 したがいまして、軽々に聖書を読むことは差し控えさせていただきます。ご理解をいただければ、幸いです。えっつ? 誰も、あんたに聖書を読んでくれなどと頼んではいない、ですか? 安心いたしました。いずれにせよ、ありがとうございます。


     *


 で、さきほどの記憶に話をもどします。旧約聖書によると、神が、


*神に似せてヒトをつくった


らしいという点に興味を引かれます。いちばん関心があるのは、


*どの部分を似せてつくったのか


という点です。形なのか、こころなのか、仕草とか表情なのか、顔だけなのか、といったディテールを知りたいのです。創世記を読めば書いてあるのでしょうか?…… 


 とにかく、


*神に似せた


ということだけは確かなようです。記憶が間違っていなければ、ですけど。


 なぜ、その点にこだわるのかと申しますと、


*つくることは、似せること=真似ること、あるいは、コピー(※複製)すること=そっくりにすることである。


のではないか、に関心があるからなのです。言い換えると、


*「つくる(作る・造る・創る)」前に、「まねる(真似る)=まなぶ(学ぶ)=まねぶ(学ぶ)=ならう(習う・倣う・慣らう)=なれる(慣れる・馴れる・生れる・熟れる)」がある。


のではないか、となります。この考え方を前提にすると、上述の


*学習する以前に体得している


という言い方は、きわめてうさんくさいものに感じられます。今のところは、謎=不思議=「どうなんだろう?」としか言えません。


     *


 話を、


*作品をつくる=創作する


というヒトの行為に絞ります。あたまに浮かべているのは、広範囲にわたるものでして、


*言葉による構築物、つまり、小説、詩歌=韻文、散文、あるいは、実用文、公文書、記録、報告書など


です。


 こうなると「何でもあり」ですね。言葉で言ったり書かれていれば、ぜんぶ、それはフィクション=作り話だ、という個人的な思い込み=信念があるからでしょう。その思い込み=信念を前提とすれば、簡単に、


*創作する前に、模倣する=模作する=模索する。


とも言えそうです。よく、裁判中に、弁護側が検察側を批判するさいに、検事調書=検察官面前調書を、


*検事の作文


と呼ぶことがありますね。あれって、罵倒=悪態のつもりらしいのです。


 でも、言えてます。というか、検事の作文であることに間違いはありません。検察官は、事件の起きた最中に現場に立ち会わせていないのが普通です。証拠物件と伝聞(=ほぼ「なあ、そうなんだろ? そうだと言えよ」)をもとに作文する以外に、調書を作成する方法はありません。ですから、調書が作文であるという点に、何の論理的矛盾もありません。


 きのうの記事のテーマに関連しますが、


*司法機関・捜査機関はもちろん、お役所の書類のすべては、「雛形=お手本=例文」に(or を)「沿った=踏襲した=真似た」「作文=物語=フィクション」である。「雛形=お手本=例文」から逸脱すると、上司からのハンコ=認証=了承=OKはもらえない。その上司は、そのまた上司からのハンコ=認証=了承=OKはもらえない。以下同文が続く。


と言えそうです。


 以上述べてきたことは、「かく・かける(5)」で、書きました、


*詩作=思索=試作


という考え方にも似ています。つまり、


*何かを「つくる」にあたっては、何らかの「制約=枠組み=約束事=ルール」があるため、それを学習する必要がある。


という、きわめて当たり前のことを指摘しているだけだとも言えます。少し話を変えます。


     *


 団体で行う競技である、バレーボールを例にとります。生まれて初めてバレーボールをしようとする人たちがいる、とします。バレーボールのルールブックを入手して、それを1ページめから読みながら、練習をしていく方法をとる人たちもいるでしょう。ボールをつかっての基礎的なテクニックの練習なら、1人か2人でもできないことはありません。


 でも、試合を前提とする練習ならば、ルールに沿った人数以上を確保し、できれば、対戦の練習をするのに十分な人数がほしいところですね。いずれにせよ、いいチームをつくるためには、既存のチームの練習や試合を間近にみて、そのチームのヒトたちの動きを真似て、その人たちから手取り足取り教えてもらうのがベストでしょう。


 コンピューターを使用したゲームでも同じです。もちろん、器用な人だと、新しいゲームにいきなり手を出し、ちょっといじっている間に、すぐに基本的なルールや操作を覚え、比較的短期間で、徐々に実戦=実践できるようになっていくこともあるでしょう。でも、たぶん、その人は、その前に、似かよった、または、似ていなくても、同ジャンルのさまざまなゲームをやった実践経験=蓄積があるにちがいありません。


 で、言葉をつかった創作に話をもどします。「かく・かける(6)」に、俳句を例にとって、創作について説明した部分があるので、そこを自己輸血=コピペさせてください。


     *


★みなさんは、俳句を詠む場合、まずどうなさいますか? 今まで俳句を詠んだことのないヒトが、俳句を詠もうとするとき、5・7・5という規則だけをあたまに入れて、いきなり、森羅万象に目を向けるなんてことをするでしょうか? そのまえに、既存の俳句を読むだろうと思います。


*俳句は、いきなり詠むのではなく、まず読む。


のです。


 和歌であっても、ヨーロッパの言語の定型詩でも、状況は同じだと思います。さらに言うなら、韻文だけでなく散文でも同じことが言えるような気がします。たとえば、基本的に何を書いてもいい、


*小説は、小説を読んでから書ける(=掛ける=賭ける)。


のです。話を一気に飛躍させますが、ヒトの赤ちゃんは、いきなり言葉をしゃべりません。


*赤ん坊は、話し言葉を聞いてから話すようになる。


のです。


     *


 ★から以上までが、引用です。


 俳句に限らず、さきほど触れた小説にしろ、エッセイ、歌の歌詞でも、同じことです。つくる=書く前に、まず、あるお手本を読んで、それから、いろいろな他のお手本を読み続けながら、「じゃあ、そろそろ1つ書いてみよう」なんて感じで、練習、あるいは、いきなり本番に入るわけです。音楽は詳しくありませんが、曲つくりも、似たようなプロセスをたどるのではないかと想像=妄想しています。


 ところで、


*あの人は、勉強していないのに100点が取れる。


という言い方がありますが、あれは正確ではないと思います。基本的に、無から有は生じません。


*あの人は、1回だけ勉強しただけで100点が取れる。


というべきでしょう。確かに、そういう情報処理能力や記憶力を持った人がいます。実際に、見たり会ったことも何回かあります。教科書を1度読んだだけで、その内容を理解したり、暗唱できる人って、確かにいました。そういう人を、そうではない人が、


*あの人は、勉強していないのに勉強ができる。


などと思い込むのでしょう。ここにも、そういう思い込みだらけのお手本が1匹います。そのアホの経験を振り返っても、「あの人は、勉強していないのに勉強ができる」が、単なる「思い込み=錯覚=嘘」、あるいは、単なる「ジョーダンか言葉の綾」であることは確かなようです。


     *


*創作する前に、模倣する=模作する=模索する。


と、


*何かを「つくる」にあたっては、何らかの「制約=枠組み=約束事=ルール」があるため、それを学習する必要がある。


については、こんな感じです。ただ、気になることが1つだけ残っています。


 繰り返しになって恐縮ですが、この記事の冒頭近くで書いた、


     *


★こうした「お遊び」=「戯れ」=「……ごっこ」をするということは、たとえ、まだ話し言葉を流ちょうに使用できない乳児や幼児であっても、


*表象の働き(=「何かの代わりに「その『何か』ではないもの」を用いる」という、代理=代行の仕組み)



*学習する以前に体得している


からではないか。そんな気がするのです。一方で、


*「体得している」は「学習している」と重なる部分もあれば、重ならない部分もある=「体得している」と「学習している」とはグレーのグラデーションを成している


のではないか、とも考えています。


     *


 ★から以上の部分が、非常に気になります。


 簡単に申しますと、ひょっとして、


*ヒトには、生得的な=先天的な、フィクション、および、表象の働きを学習するために不可欠な、骨組み=回路と素子=器が備わっている。


のではないでしょうか。ここで思い出すのが、「言語能力(linguistic competence)」という考え方=物語=フィクションです。またもや、コピペさせてください。


     *


★おそらく、チョムスキーは次のようなことを考えていたみたいなのです。


* 森羅万象=「世界 or 宇宙」  ⇒  人間機械=言語能力  ⇒  正しい文=言語運用


 ヒトには言語を習得する能力がそなわっている。その能力は、ヒトという種に共通の属性をもっているらしい。その証拠に、ヒトの子(特に乳幼児)であれば、人種・民族・出身地に関係なく、どんな言語でも習得させることができる。その能力を「言語能力(linguistic competence)」と、とりあえず呼ぼう。さらに、ヒトが言語能力(抽象的なもの)を発揮して見えるあるいは聞こえるかたちで表出 or 産出した結果=話し言葉・書き言葉(見聞きできる具体的なもの)を「言語運用(linguistic performance)」と、とりあえず呼ぼう。みたいな話=考え方が前提としてあるようなのです。


     *


 ★から以上は、「「人間=機械」説(2)」から引用しました。もっとも、以上は、チョムスキーが大の苦手なアホが勝手に思い込んでいる可能性の高い考え方=物語=フィクションなので、チョムスキーに詳しい方が、「チョムスキー様 or 師は、そんなアホなことは考えたことがないぞよ」とおっしゃるのであれば、ご面倒ですが、引用部分の「チョムスキー」を「あるアホ」にあたまのなかで置き換えてください。


 話をややこしくしたくないので、「あるアホ」の考え方=物語=フィクションでいきますが、個人的には、とても魅力的な=便利な=使い勝手の良さそうなお話なのです。この惑星のコドモたち、および、その成れの果てのオトナたち、つまり、


*ヒトには、共通したフィクションの骨組み=回路と素子=器が、生来備わっている。


とするなら、何て、ロマンチックなお話なんでしょう。さきほど、謎であり、うさんくさくもあると指摘した、


*学習する以前に体得している


と激似ですが、このさい、とりあえず(=いちおう=やむをえず=「ま、いっか」)「ロマンチック」のほうに加担しておきます。


 世界中のコドモたちが、いろいろな言語でおとぎ話を聞かされ、はらはらどきどきしたり、時には、しくしく泣いたり、またある時には、うっとりとした目でほほ笑む。そんな光景が目に浮かびます。夢があっていいですね。


     *


 と、落ち着いたところで、この4回続いたシリーズも一段落ついたもようなので、4という数字で終わるのはちょっと抵抗があるのですが、「いちおう」打ち止めにします。次回からは、新しいテーマで書きます。


 きょうも、ここまで目を通していただいた方に、お礼を申し上げます。今夜、夢の中で、幼い頃に「読み聞かせ」をしてもらったお話に再会できるといいですね。では、また。



※この文章は、かつてのブログ記事に加筆したものです。https://puboo.jp/users/renhoshino77




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