代理だけの世界(4)
げんすけ
2020/09/09 08:50
*「何か」の代わりに「何かではないもの」を用いる。つまり、代用する。
つまり、
*代理の仕組み
と呼んでいるもの・こと・状況・現象について考えているわけですが、前回の「代理だけの世界(3)」では、
*ヒトは「現実」を知覚できない。
という指摘をしました。このフレーズにある「現実」とは、
A)「自分の周り=世界=森羅万象=宇宙」
とも、
B)「実体=ほんまもん=現物=物そのもの=物自体=現実にある物」
とも言えるように思います。A)がマクロ的、B)がミクロ的見方に立った言い方だと、もっともらしく考えることもできるでしょう。
*
で、前回「代理だけの世界(3)」のおさらいをしますと、
*ヒトは「現実」を知覚できない。
というネガティブな言い方は、
*ヒトは「現実」を知覚器官と脳において信号化したうえで、「代理=信号=情報」として認識する。
とポジティブに言い換えることができそうです。このフレーズなら、いくらか人間様の面子も保たれるし、元気が出そうな気もします。でも、これは単なるレトリックの問題です。
*ヒトは「現実」を知覚器官と脳において信号化したうえで、「代理=信号=情報」として認識するしかない。
と語尾をいじっただけで、またもやネガティブな響きを持ったフレーズになってしまいます。
何かを記述するさいには、「レトリック=言い方=プレゼンテーションの仕方=ものは言いよう」次第で、そのフレーズなり語のイメージはがらりと変わります。また、同じフレーズでも、それを受け取る側のヒトによって、そのイメージは千差万別でしょう。
何を言いたいのかと申しますと、代理の一つである言葉というものは、「曲者である=癖がある=寝癖と同じく真っすぐにはならない=素直ではない」だということです。もちろん、これはヒトとヒトの間で生じる問題であり、代理である言葉の属性ではありません。
*
ヒトとヒトとがコミュニケーションをする場合には、言葉の使用が圧倒的に多いと思われます。言葉という代理自体は、「匿名的=中性的=非人称的=ニュートラル=のっぺらぼう=タブラ・ラサ」なのですが、それを発する側および受け取る側のヒトたちは、その時の状況や気分、各人の性格や信条や考え方次第で、多種多様なイメージをいだき、多種多様な解釈をするようです。
比喩的に言うなら、言葉や代理一般は無色なのに対し、
*ヒトは十人十色であり、しかも一刻ごとに揺らぎ変化し不安定である。
という感じでしょうか。ややこしいですね。困ったものですね。言葉をめぐって、ヒトが混乱に陥ったり、ヒト同士が争ったりするのも無理はないと思います。
*
話を変えます。
前回の続きとして、今回は、
*「代理」は「信号」および「情報」である。
という見地から「お話=与太話=でまかせ」をしたいと思います。どうして、このフレーズが出てきたのかは、でまかせとしかお答えできません。
この駄文は、筋道を立てるとか、論理的とか、緻密などという美辞麗句=ぼのぼのれいくとは無縁です。さりとて、勘とか直観とか直感とかいう言葉を使うのももったいないです。「でまかせ=出るに任せる=でたらめ=さいころを振って出た目そのまま」くらいが妥当かと思います。
さて、さきほどのレトリックの話を蒸し返すことになりますが、上記のフレーズは、
*「代理」は「信号」および「情報」でしかない。
とも言い換えることが可能です。ポジティブに取るかネガティブに取るかは、読むヒト次第です。また、同じヒトでもその時の気分次第でしょう。
ややこしくなりそうなので、とりあえず、
*「代理」は「信号」および「情報」である。
というフレーズで話を進めてみます。
単純化すると、
*代理=信号=情報(※「=」と数学の等号とは関係がありません)
となりそうです。
で、「信号」という言葉を見ていて、以前、「ノイズ」ということについて考えていた時期があったのを思い出しました。どう考えていたのかは、当ブログのブックマークにある「うつせみのうつお」という「お墓=倉庫=がらくたを収めたサイト=駄文庫」を覗けば分かると思いますが、面倒なので、「ここで即席に」=「でまかせに」考えてみます。【注:「うつせみのうつお」とは、過去の全ブログ記事を収めたウェブサイトでした。削除して現在はありませんが、その代わりに、全ブログ記事を電子書籍化し、パブーのマイページに置いています。ここが、新しいブログ記事のお墓=倉庫です。】
駄文は学術論文でも評論でもありませんので、定義や一貫性という窮屈な衣をまとう必要はありません。
ちなみに、「でまかせ」とは、この駄文ではポジティブ、いやニュートラルな意味で使われています。誰もがやっていることを、美辞麗句に言い換えることなく、すっぴんで言っているだけです。
話を戻します。
どうやら、信号や情報には、ノイズが付き物のようです。ノイズって何でしょう? 個人的には、邪魔、乱舞、誤作動、不具合、ズレ、飛躍、撹乱、跋扈(ばっこ)、中断、停止、「ありゃ!?」、「こんなはずじゃなかった」、「ん?」といった一連の言葉やフレーズを連想します。
*「実体=ほんまもん=現物=物そのもの=物自体=現実にある物」 ⇒ 知覚・認識
とか、
*知覚器官での受信 ⇒ 信号化 ⇒ シナプスを通じての伝達 ⇒ 脳での処理
といった嘘くさい図式を用いるならば、その図式が示している過程のどこにおいても、ノイズは発生するだろうという気がします。
たとえば、ヒトの行動が原因であるか外的な要因によるものかを問わず、ヒトをめぐる環境は、事故、災難、事件、紛争、天変地異に満ちています。その結果、障害や欠損や不幸に見舞われるという事態が頻繁に起こるのは、みなさんご承知の通りです。
というわけで、
*「代理」は、「ノイズ」を伴う「信号=情報」である。
と記述するほうが、「事態=状況」を「正確に論じている」=「もっともらしく、でまかせを言っている」と言えるのではないかと思います。
*
上で「ノイズ」をめぐって「ああでもないこうでもない」=「ああでもあるこうでもある」ごっこをしているうちに、以前「ノイズ」について考えていたのと同じころに、「経路」という言葉を使って、でまかせを書いていたなあ、と思い出しました。
「経路」も上述の「うつせみのうつお」の中に収めてあるはずなのですが、「倉庫=墓場」まで取りに行くのが面倒なので、ここで再度でまかせに考えてみます。確か、次のような与太話でした。
*ヒトは出来レースをやっている。
言い換えると、
*ヒトの脳の中には、「経路=筋道=回路=線路=シナリオ=『こうなればああなる』=『この場合にはこうする』=ルール=約束事=プロセスの手順=八百長の筋書き=文法=指切りげんまんハリセンチョップ」が先天的に存在しているらしい。そうとしか考えられない行動を、ヒトはする。
たとえてば、ヒトの赤ん坊であれば、五年から十年ほどで、いわゆる人種や民族といった差異に関係なく、ある特定の言語を習得させることができます。また、ある特定の生活様式を身に付けさせることができます。どうやら、そういうふうに「できている」=「プログラム可能な仕組みが備わっている」=「出来レースの素地がある」みたいなのです。
というわけで、
*「代理」は、「経路」に沿った、「ノイズ」を伴う「信号=情報」である。
と記述するほうが、「正確に論じる」=「もっともらしくでまかせを言う」ことができるのではないかと思います。
だから、たいていのヒトは、大人が手助けをしなくても、乳房およびその代用物からお乳を飲むのでしょう。また、少し大きくなれば、ちょっと練習をするだけで自転車に乗れるようになるのでしょう(個人差はありますが)。ひょっとして泳げるようにもなるかもしれません(ちなみに私はカナヅチですけど)。
ちなみに、乳房もお乳も自転車も水もすべて「代理」です。知覚されたものであって、「実体=ほんまもん=現物=物そのもの=物自体=現実にある物」ではないという意味です。
*
*「代理」は、「経路」に沿った、「ノイズ」を伴う「信号=情報」である。
という長めのフレーズができたところで、このフレーズを前提に、
*「代理」とは「情報」である。
と切りつめてみましょう。
こういう「切りつめる」という横着な方法を「一般化」とか「抽象化」とか言います。とはいえ、そもそも、
*「何か」の代わりに「何かではないもの」を用いる。つまり、代用する。
つまり、
*代理の仕組み
というフレーズそのものが、
*「一般化=抽象化」を「一般化=抽象化」したもの
と言えるわけで、何を今さらという感じのお話なのです。言葉は何とでも言えますから、
*「代理の仕組み」とは「一般化=抽象化」である。
とか、
*代理とは「一般化=抽象化」された「一般化=抽象化」である。
とか、
*個々の代理は、「一般化=抽象化」された断片である。
という具合に、
もっともらしいフレーズを増産することが可能です。
*
今回、一番考えてみたかったのは、
*「一般化=抽象化」されたものである「代理」。その「代理」の特性を「一般化=抽象化」するとどうなるか。
ということなのです。
そのさいに手続き上しなければならないのは、「一般化=抽象化」という仕組みを言葉で記述することです。
またもや、既視感を覚えました。以前、「普遍性」ということについて考えていた時期がありました。これまで書いたブログ記事のお墓である「うつせみのうつお」にお参りにいかずに、ここで「ブリコラージュ=手仕事=やっつけ仕事=『手持のもので手っ取り早く仕事を済ましちゃいましょう』」をしてみましょう。
最近百歳で天寿を全うされたブリコラージュという言葉の命名者にちなんでというわけではありません。単なる横着なのですけど――。そもそもブリコラージュとは、横着の「変種=一種」なのではなかったかとも思っております。
で、「一般化=抽象化」という仕組みについては、
*複数あるいは多数の「代理」のある一部分に注目して、それと共通する部分を有する「代理」に同一の名前を付ける。
*「一般化=抽象化」という仕組み。
とりあえず、以上のようなフレーズにしておきます。
この二つのフレーズにおいて忘れてはならないのは、「代理」が既に「一般化=抽象化」されたものであるということです。それに再度同じ処理を行っている点は、きわめて興味深いと思います。
*「何か」の代わりに「何かではないもの」を用いる。つまり、代用する。
つまり、
*代理の仕組み
が、既に代用されているものである「代理」および「代理の仕組み」を、再度「代理」および「代理の仕組み」という「代理」を用いて「『代用している』=『代理の仕組み』を用いている」のと同じ「処理=作業=操作」をしています。
*
ややこしいですね。
不正確になるのを覚悟して、簡単に言うと、たとえば
1)●年■月▲日★時▼分〓秒に、あるヒトによって「発信された=記述された=言われた=書かれた=知覚・認識された」「代理A」は、●年■月▲日★時▼分〓+1秒に、あるヒトによって「記述された=言われた=書かれた=知覚・認識された」「代理A+1」とは、異なる。
また、
2)●年■月▲日★時▼分〓秒に、あるヒトによって「受信された=記述された=言われた=書かれた=知覚・認識された」「代理A」は、●年■月▲日★時▼分〓+1秒に、あるヒトによって「記述された=言われた=書かれた=知覚・認識された」「代理A+1」とは、異なる。
ということです。【※ 上記の二フレーズの違いは「発信された」か、「受信された」かです。】
1)だけでも、話を済ますことができますが、つい2)まで書いてしまいました。
*
1)だけを問題にした場合には、
*ヒトは刻々と「揺らいでいる=変化している=ぶれている=不安定な状況にある」。
と、時間に重点を置いた形で、ヒトの「多面性=多重性=多層性」を強調することができます。これは、ヒトがある時点である地点にしか存在できないと想定するなら、空間に重点を置いていることにもなります。
ここで確認しておきたいのは、「代理」や「代理の仕組み」は「匿名的=中性的=ニュートラル」なものであり、「代理」を用いるヒトを問題にしているといいう点です。ヒトなしに「代理」も「代理の仕組み」も成り立ちません。繰り返しますが、問題になっているのはヒトです。
*
ややこしいですが、あえて、1)と2)の違いを問題にした場合について説明します。
*ヒトは「代理」を「発信する」
と、
*ヒトは「代理」を「受信する」
においては、「主語=主体」であるヒトが問題ではなく、「代理」を「発信する」か「受信する」という「方向性」に注目しています。言い換えると、
*「発信する=出る・出す」:「代理」が、「実体=ほんまもん=現物=物そのもの=物自体=現実にある物」=「自分の周り=世界=森羅万象=宇宙」に働きかけ、何らかの「影響=運動=変化=変質」を生じさせる。
であり、
*「受信する=出ていない・出していない」:「代理」は、「実体=ほんまもん=現物=物そのもの=物自体=現実にある物」=「自分の周り=世界=森羅万象=宇宙」に働きかけてはおらず、何らかの「影響=運動=変化=変質」を生じさせていない。
となります。ヒトが「代理」を「発信する」か「受信する」かにおいては、その結果のみが問題になっています。ヒトの「意思=意志」には左右されません。代理の「働きかけ」=「『影響=運動=変化=変質』の『生起=発生』」に注目します。
*主導権が、ヒトから代理に「移っている=映っている=写っている=伝染っている」。
という「事態=状況」が問題視されています。これは、二十一世紀では、きわめて恐ろしい「事態=状況」となっています。それを「指摘したくて=訴えたくて」、この駄文を書きました。
「代理」は刻々と「影響=運動=変化=変質」しつつあるように思われます。時の推移は、「代理」の推移でもあります。
当ブログで、少し前に「言葉とうんちと人間」という駄文を書きましたが、どうやら、うんちは出てしまったみたいです。出そうとして息んで出したのか、つい漏れてしまったのかは問題ではありません。出てしまったことを直視しましょう。
いったん出てしまったものは、さ迷い続けます。静止することなく、何らかの運動を起します。その運動がどんなものであるか。これを看過することも、失念することも、すっとぼけることもできない「事態=状況」なのではないでしょうか。
*
今回の駄文の迷走ぶりを見てやってください。「代理」=「言葉」がまさに「でまかせ」を演じてくれました。ちなみに、これは再演です。代理にとって初演はありえません。再現=再現前でもあります。代理においては、現前はありえません。
あくまでも、「代わり・かわり」であり、「再び・ふたたび」なのです。「代わり・かわり」と「再び・ふたたび」が二者間での演技ではなく、複数あるいは多数の「あいだ・あわい」での「出来事=でる・くる・こと」であることは、言うまでもありません。わざわざ représentation などという言葉を借りなくても、「かわり・かわる」「ふたたび・ふた・ふたつ」「あいだ・あわい・あいま・あい・あう」という「代理」で、ことの次第を演じてもらうことができるみたいです。
このように、「代理」とは出るに任せるしかないのです。出してみないことには、どうなるのかは分からないようです。主導権は、残念ながら、ヒトにはないみたいです。
ということで、今回の駄文の駄文ぶりの言い訳とさせていただきたいと存じます。
わきつれて だいりにしては あどをうち
「代理だけの世界」という読み切り連載(※短い連載という意味です。)は、今回をもちまして終りにいたします。無駄に読みにくい駄文とお付き合いいただき、ありがとうございました。
※この文章は、かつてのブログ記事に加筆したものです。https://puboo.jp/users/renhoshino77
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