げん・言 -4-
星野廉
2020/09/20 14:07 フォローする
ヒトが世界や宇宙を「見る」ときには、知覚や意識というフィルターを通して、世界や宇宙の「代わり」つまり「代理」を「見ている」のだ。そういう考え方があるみたいです。たぶん、そうなのだろうと思います。ただ、そう断言したとしても、真偽を確かめる方法をヒトは手にしてないという気はします。
そもそも何かを観測したり真偽を判断するという行為は、ヒトには似つかわしくない。こんなふうにも言えそうです。そうであれば、例の「すべてはまぼろしだ」という、明快と言えば明快、杜撰(ずさん)と言えば杜撰、興ざめと言えば興ざめ、不毛と言えば不毛、他に言いようがないといえば他に言いようがない、それを言えばおしまいだと言えばおしまいになる話に、落ち着いてしまいます。こういうのを不毛の多毛作と言います。
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ニヒリズムという言葉を思い出します。もちろん、こんな考え方を意に介しないヒトのほうが、圧倒的多数であるにちがいありません。世界や宇宙や森羅万象については、何とでも言えます。
神、神々、仏、愛、希望、真理、聖なるもの、救い、悟り、知識、学び、習得、学習、学問、技術、テクノロジー、スキル、ノウハウ、発展、進歩。
こうした言葉や、その言葉をめぐる物語を口にするヒトたちで、世界は満ちていることは間違いないだろうと思われます。こうした言葉とその物語には、こころに訴える力がある。そう感じる、あるいは、そう言うヒトがたくさんいるにちがいないと思います。
ほとんどのヒトがそうだと言うべきでしょう。この文章を書いている者も含めての話です。ただ、そうした言葉と物語の力を、全面的に肯定できずに、ためらいを覚えているヒトたちもいるという感じがします。この文章を書いている者も含めての話です。
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世界や宇宙や森羅万象について、次のような言葉とイメージを用いて語る。
神、神々、仏、愛、希望、真理、聖なるもの、救い、悟り、知識、学び、習得、学習、学問、技術、ノウハウ、発展、進歩。
抽象的です。つかみどころのない、トリトメのない話と言えないこともありません。言葉そのものではなく、言葉というフィルターを通して、言葉の向こうにあるまぼろしとイメージに注意を向ける。そうした意識の仕組みが「抽象的」だという印象を生じさせているのかもしれません。
言葉はそうした抽象化という仕組みを基本としてヒトを動かし、また動かされる側のヒトもその仕組みに慣れ、抽象化という言葉の特性を積極的に利用するようになって今日に至っている。そんなふうにも言えそうです。
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「言葉の物質性」というフレーズについて、よく考えます。個人的には好きなイメージです。官能的とも言える体験へと導いてくれるからです。
言葉は代理でしかないという、がっかりするほかしかない考え方に立つのなら、「言葉という代理の物質性というまぼろし」という、これまたがっかりするほかしかない話になるのでしょう。それでも、かまいません。ヒトはヒトでしかありません。それ以上でもそれ以下でもありません。
「言葉の物質性に触れる」とは、正確には「言葉という代理の物質性というまぼろしを、知覚および意識というフィルターを通して感じ取る」とでも言えばいいのでしょうか。フィルターが比喩であることは言うまでもありません。比喩の比喩です。それでも、かまいません。致し方ないとも言えます。
ヒトは、「何か」の代わりに、「その「何か」ではないもの」を用いている。
ヒトにおいては、知覚器官と脳とのあいだの各所で、情報あるいは信号が伝達および処理されていて、それがヒトにおける知覚および意識である。
今挙げた2つのフレーズを前提として認めるなら、ヒトが何かに、触れたり、何かを耳にしたり、目にしたり、舌で味わったり、何かの匂いを嗅ぐといった行為は、すべてが間接的な擬似世界での行為ということになりそうです。それでも、かまいません。致し方ないことです。
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言葉の表情、言葉が送ってくるめくばせや合図、言葉の演じる動作に敏感になること。これが、「言葉の物質性に触れる」という意味です。いかがわしく、うさんくさい話であることを承知で、単純にそう考えましょう。
言葉の意味と呼ばれているものや、言葉が指し示すと言われている「何か」や、言葉の背後にあると信じられている「何か」を、見ようとか読もうとか分かろうとする姿勢とは異なる、言葉との接し方や付き合い方だ。とりあえず、そう考えてみましょう。あくまでも、とりあえず。
ややこしいことではありません。日常生活で体験している出来事のはずです。今すぐにでも、実行できる行為だと思います。
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読経をするか聞く。詩吟をするか聞く。知らないあるいは堪能ではない外国語を耳にする。ぼんやりと他人の話し声を聞いている。寝入る寸前に耳に入る会話。ふと耳にするどこかの方言。読み聞かせる。読み聞かされる。カラオケで歌う。カラオケで他人の歌声を聞く。CD・MD・iPodでボーカルの入った音楽を聞いたり、それに合わせて歌詞を口ずさんだりハミングする。発話、つまり言語に障害のあるヒトとやり取りをする。遠くから届いてくる聞き取りにくい声がふいに耳に入る。ささやくようなか細い声を聞き流す。
以上は、聴覚および発声を基本とする体験です。「耳を傾ける」というよりも「聞こえてくる」という感じの「聞く」かもしれません。また、「声を出す・歌う」といっても、自分の発する「声」の意味をはっきり意識している行為ばかりのようでもありません。
意味を持つ「声」であるはずのものが、意味とは離れたいわば「一種の音」として耳に入ってくる。あるいは、自分が声を発している瞬間や持続した時間に「身をまかせる」、またはそのなかに「投げ込まれる」体験でもあるとも言えそうです。
「抽象的」というのが、フィルターを通して感じられる「間接的」、つまり「隔たった」という意味なら、この曖昧で漠然とした体験は、むしろ「具体的」、言い換えるとフィルターを通さない「直接的」で「即物的」な音声との触れ合いとも言えそうです。
「ぼんやりしている」のに「具体的」とも言い換えられそうな気がします。でも、単なる言葉の綾だと言って済まされない感じがします。
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書道。書写。写経。パソコンのワープロソフトを使って文字を表示、あるいは印刷しようとして、フォントの選択に迷う。手書きで年賀状の宛名を書こうとしているとき、緊張したり、逆に集中力が薄れてきて何を書いているのか瞬間的に分からなくなる。本や雑誌を読んでいてだんだん眠くなり、活字を目で追うのさえ億劫になる。
ハングルやアラビア文字で書かれたメールや手紙が届いて、戸惑う。パソコンのワープロソフトで文章を書いていて、文字変換にてこずる。読みにくい手書きの文字で書かれた文章を判読する。眼鏡を外した状態で、目にしたぼんやりとした文字。虫眼鏡で拡大しなければ、小さな虫のようにしか見えない文字。
以上は、視覚によって文字を認識するさいに、「文字が文字として感じられなくなる」体験だと考えることができそうです。
「文字」に備わっているはずの「意味」や「読み」が、曖昧になる。文字が、「かたち」や「もよう」に見えてくる。こうした体験のなかに、目の不自由のヒトが、指先で点字を読む行為を含めてもいいのではないかとも思います。残念ながら点字は読めませんが、点字を指先の皮膚でなぞっていて、点字が点字ではなくなるような瞬間がある。そんなケースも十分ありそうな気がします。
フィルターつまり代理である、具体的で即物的な紙面の染みや凹凸(おうとつ)の形である、文字や点字を通して、曖昧で漠然とした「何か」つまり「意味やイメージと呼ばれているまぼろし」を「読み取る」。
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ふだんは「読み取る」とは「分かる・悟る・学ぶ」「理解する・納得する・習得する」へと向かう行為だと言われています。それに対し、インクの染みの形を形として、あるいは、紙面に打ち込まれた凹凸を凹凸として、知覚・認識する行為は、「ぼんやりしている」「書かれている内容に集中していない」「変だ」「危うい」と言われそうな気がします。
でも、その「ぼんやり」や「集中していない」や「変」を、ヒトは日常的に頻繁に経験しているはずです。さもなければ、起きている間じゅう、神経を集中していなければなりません。そんなことは、ふつう、ヒトには無理なのではないでしょうか。授業中、仕事中、自動車の運転中でも、状況は変わらない気がします。適度に気を抜いているからこそ、然るべきときに集中できる、という考え方も可能ではないかと思われます。
それはそれでいいとして、気になってならないのは、「抽象的」と「具体的」という2つの言葉の関係性です。一般的には、反対の意味だと言われていますが、何だかよくわからなくなってきました。2項対立というのは、やっぱり、いかがわしくて、うさんくさいという気がします。
この「何だかよくわからない」感じを、馬鹿だからとか、変だからとか、言葉の綾とか、矛盾とか、混乱とかいう、安易な言葉で片付けていいものなのでしょうか。もしかすると、そうなのかもしれません。
ため息がもれます。言葉はぐちゃぐちゃごちゃごちゃだ、という思いを強くします。
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言葉を狭く取ると、話し言葉と書き言葉があたまに浮かびます。話し言葉は肉声かスピーカーを通した声、書き言葉は手書きの文字か活字だと単純化できそうです。
日本語の場合には、音(おん)と字から見た場合、たとえば、次のようになるでしょう。
「 chi ・ ti ・ち・チ・千・知・智・値・血・痴・地……」
「 ran ・らん・ラン・乱・卵・蘭・覧・欄・ LAN ・ run ……」
「 I ・ yi ・ wi ・い・イ・ゐ・ヰ・以・伊・井・意・異・緯・胃・衣・医……」
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試しに、「ち」と言ってみましょう。上下の歯が触れ合いますね。硬い物同士が接するわけですから、ぶつかるという感じでしょうか。するどい音です。
赤ちゃんや、ヒトの生活圏でよく見られるペットや家畜や野生の生物に向かって、「ち、ち、ち……」などと連続してその音を発したら、穏やかではない感情を相手に引き起こしそうな気がします。赤ちゃんだったら、泣くかもしれません。ワンちゃんだったら、うなったり、ほえたりするかもしれません。
「らん」はどうでしょう。英語を日本語で表記する場合には、ラ行は、言語では「 r 」だったり「 l 」だったりします。英語を母語としていない場合には、両者の音を区別するのは、難しいですね。英語の「 r 」と「 l 」の発音の区別に苦労するのは、日本語を母語とするヒトたちだけではないと聞いたことがあります。
英語の「 b 」と「 v 」の区別についても、同様の話を聞いた覚えがあります。ふいに思い出しましたが、スペイン語を母語とする人たちにとっては、「 sit と seat 」、「 pit と peat 」の発音をするのも聞き取るのも苦手らしいです。
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発音、詳しく言えば、子音や母音や、さらにまた破裂音や摩擦音などといった分け方があるそうですが、言語間の発音の違いを考えただけでも、その多様さに驚きます。母音は「あいうえお」の5つだけしかない、といった簡単な話ではないようです。
「い・イ・ゐ・ヰ」については、現在話されている日本語では、発音上の差はないみたいですね。この国にはたくさんの方言がありますから、詳しいことは知りません。ひょっとして、昔の発音の名残をとどめている方言があっても、不思議はないと思われます。
試しに、「い」と言ってみましょう。少し伸ばして「いー」と言ってみましょう。唇と口に緊張感を覚えませんか。またもや、昔の記憶が呼びさまされました。歌手の松田聖子さんは、「い・き・し・ち・に……」など「 i 」を伴う語の発音が、格段にきれいだという評を聞いたか読んだことがあります。そう思って「赤いスイートピー」なんてフレーズの音の記憶をたどると、めりはりが利いていて、確かにきれいだったような気がします。
ここで、ちょっと考えてみてください。「ち」「らん」「い・いー」と発音した時に、あたまに何かが浮かびましたか。たとえば、上記の「漢字」やその漢字の意味に相当するイメージが、あたまのなかに「ちらつく」とかしましたか。
何かが「ちらつく」にしろ、声というか音を出すのに一生懸命になって「夢中」あるいは「無心」だったにしろ、たぶん、その時のふつうではない心境、つまり、「ぼんやり」とか「(自分のしていることの意味に)集中していない」とか「変」な心もちが、「言葉の物質性に触れる」だったのではないかと思います。
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言葉のフェティシストでありたい。
語弊のある言い方だとは思いますが、そう願っています。フェティシズムとは、何かの機能や目的や役割ではなく、そのもの自体にこだわりをしめすことだと理解しています。その対象になるものをフェティッシュ、そうした傾向のあるヒトをフェティシストと、一般には呼んでいるみたいです。フェティッシュのコレクションに夢中になるタイプのヒトもいるようです。
個人的には、辞書を読むのが好きです。かつてよく「読んだ」――というか、ほとんどの場合が斜め読みですから「見た」というべきかもしれませんが――小説や哲学書を読むよりも、今は好きです。
辞書は言葉の意味を調べるものとされていますが、言葉の表情とか身ぶりとか目くばせを楽しむ場にもなるという気がします。少なくとも、自分の場合には、そうです。
新聞や雑誌の活字を虫眼鏡で拡大して、書体ごとに異なる美しさを味わうのも、好きです。これは、一度やり始めると、1、2時間が過ぎてしまいます。ちょっと、後ろめたい思いがあり、それが官能性に結びついている気もします。
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言葉の「意味するものやこと」ではなく、話し言葉なら音や声の大きさや質に、書き言葉であれば文字や活字の種類や形に敏感でありたいと願うと同時に、現にそうした言葉の側面に愛着をいだいている自分の性癖を感じます。
その反面と言うか、そのせいかと言うか、「言葉の意味するものやこと」に注意を払わなければならない、言葉の操作が苦手です。具体的にいえば、論理的思考とか、筋道を立てて考える・話す・書くとか、話や文章に整合性を持たせるとかいう、一連の作業のことです。そうした行為に対する不信感は強いです。そうした行為を実践しなければならない場合には、苦痛を覚えます。
学校に通っていた頃には、感想文などの「さくぶん」と言われるものは、嘘をだらだらと書くことで切り抜けてきましたが、レポート・小論文・学術論文となると、かなり苦労しました。そうした文章を書くためのマニュアルを参考にして書いていましたが、信じてもいないことを実行するわけですから、今でも思い出したくない心の傷になっています。
言葉の物質性や、言葉の断片的あるいは表層的なレベルでの意味・イメージとたわむれているほうが遥かに快いです。圧倒的な偶然性に身を任せて、でまかせを並べているのが性に合っている気がします。
毎日四六時中、「言葉の物質性に触れていたい」という意味ではありません。そうした極端な話をしてはいません。言葉の抽象性と深くかかわることなしに、ヒトが日常生活を送れないのは言うまでもありません。フェティシズムは、ささやかに、密かに楽しむものだと思っています。
※この文章は、かつてのブログ記事に加筆したものです。https://puboo.jp/users/renhoshino77
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