夢の素(4)
星野廉
2020/09/23 11:27
ある作家の作品を読んでいると、その作家の「夢の素」らしきものを感じることがあります。自分の場合には、複数の作品を読んだことのある作家はあまりいません。例外はスティーヴン・キングです。多作な作家ですから、本屋さんに行けば、たいてい何冊もの作品に出会えます。
処分してしまったため、手元にあるキングの本は数冊しかないのですが、文庫本の後書きなんかに記してある作品リストでタイトルを眺めていると、内容が断片的によみがえってきて、「ああ、あれがキングの『夢の素』だ」と思い当たることがあります。たとえば、雨です。冒頭に雨、それも暴風雨の描写がある作品が多い気がします。
キングファンだと自称なさっている宮部みゆきさんもそうです。2人に共通するのが、雨と火と少年( or「少女」とされながら説話的要素としては「少年」の機能を果たしているキャラクター=登場人物)でしょうか。キングの場合には、子ども、特に男児にいたずらをする性的虐待者がよく出てきますが、それも「夢の素」だという気がします。「サバイバー」である自分は、その「夢の素」に敏感に反応=感応=感光=共振します。これもまた、きわめて個人的=ひとりよがりな=妄想的なものですけど。
雨が降ると物語が始動する。性的虐待者 or 変質者(※これって差別語でしたら、不快な思いをされた関係者の方々にお詫び申し上げます)がストーリーの展開を促してくれる。キングの作品には、そうした不思議な「癖」があります。プロの文芸批評家なら、それだけの材料で論文を1本書けるでしょう。
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そうした作家の「癖」=「夢の素」に注目する文芸批評のやり方があります。学生だったころに、よくその手の本や論文を読みました。小説や詩よりも、小説や詩を論じた批評のほうが好きで、作品をそっちのけで批評ばかり読んでいました。そのあげく卒論には、ロラン・バルトがバルザックの中編小説『サラジーヌ』を批評した『S/Z』を批評する、という屈折した方法をとりました。
指導教授が理解のあるヒトだったので、その方針でオーケーになり、1週間ばかり、それこそ昼も夜も区別できないほど熱中して書き上げました。押入れに積んである段ボール箱のどれかに、卒業論文のコピーが入っているはずです。
作家の「癖」=「夢の素」に注目する批評家にも、いろいろな「癖」=「夢の素」あります。作品の語り方=説話の方法に注目するとか、作品に頻出する語にこだわるとか、作品にあらわれるイメージを体系化して理屈をつけるといったやり方が頭に浮かびます。
ガストン・バシュラールというヒトの批評もおもしろかったです。よく覚えていないのですが、確か火・水・土みたいなものをキーワードに作品を論じるのです。批評とは、「こじつける」作業が基本となりますから、その「こじつけ」の奇抜さが醍醐味というか面白さとも言えます。ジャン・リカルドーというヒトの「こじつけ」もアクロバティックで、おもしろいというより、馬鹿みたいにおかしかった記憶があります。手品みたいなのです。
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そうした批評家の批評行為を始動させるのも「夢の素」=「癖」=「方法」なんです。
話を飛躍させると、ヒトは誰もが「夢の素」=「『思い・思考・空想・妄想・錯覚』を促してくれる要素」をいだいているように思います。「夢の素」が、動作・行動へと「移る=変わる」。「転写されて」動きになる。そんな感じです。
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話を飛ばします。
夢にもいろいろありますが、幻覚も「夢=重い思い=多義的で重層的な思い」のうちのひとつです。抑うつと一緒に暮らしている身ですので、ドクターからお薬を処方してもらっています。ドクターに言わせると、とてもお薬に弱い体質なんだそうです。
ある日、処方せんを持って薬局へ行き、お薬を買って家に帰ってきて、あまりにもふさいだ気分だったので飲んだところ、自分では覚えていないのですけど、親が言うには、壁を伝わりながら家の中を這い回っていて、居間でひっくり返ったそうです。頬っぺたをつねっても、補聴器をしたままの耳に向かって怒鳴っても、まんじりともせず、5時間ほど爆睡(爆酔?)状態にあったらしいのです。もちろん、そのお薬は捨てました。後日ドクターは、「ええっつ? あんな「なるい」やつで、そうなっちゃったの?」なんて言って、あきれていました。
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まだ見たことのない甘美な、あるいは激烈かつ刺激的な夢を見たくて、お薬を飲むヒトたちがいます。昔からいたようです。で、その体験を書いて残しているのです。さまざまな形式のものがありますが、次のような「固有名詞」が「夢の素」となって、思い出されます。「トマス・ド・クインシー」『阿片服用者の告白』「オルダス・ハクスリー」『知覚の扉』「ウィリアム・バロウズ」『裸のランチ』「アーヴィン・ウェルシュ」『トレインスポッティング』。
また、直接には関係ないのですが、その水脈の水先案内人となってくれた「由良君美」『椿説泰西浪漫派文学談義』。自分からあえて「夢」を求めたわけではないエピソードをつづった「澁澤龍彦」『都心ノ病院ニテ幻覚ヲ見タルコト』。この記事を書きながら、そんな「夢の素」がぱちぱちと弾けます。他人事のように、ただ今、その線香花火のささやかな炸裂を見ているところです=見られているところです=傍観しているところです。けだるくて、とてもいい気分です。あっ、「高山宏」も弾けました。懐かしい。
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話を戻します。いや、戻っていくのか、飛んでいくのか、ずれていくのか、わからなくなりました。
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パブーのマイページで、自分がこれまで書いてきた数々の記事を読み直すと、「夢の素」だらけ、それも金太郎飴状態、つまりワンパターンギャグであることがよく分かり、恥ずかしくなります。全然、芸がない。同工異曲=変奏=変装=変相=返送=変造というやつです。そろそろ、この連載は打ち止めにした方がいいのかもしれません。
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久しぶりに澁澤龍彦のエッセイが読みたくなりました。押入れのふすまを開けて、段ボール箱を漁ってみます。初めて泰西へ目を向けるきっかけを与えてくれた「夢の素」。
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La chair est triste, hélas ! et j'ai lu tous les livres.
Fuir ! là-bas fuir ! ……
学生時代に暗唱させられた詩の冒頭が口をついて出てきました。こういうのも、「夢の素」です。
là-bas あなたへ、fuir 逃げよう――。いや、逃げたい。消えたい。
ma・larme・mais
ま=間=真=魔=目=身・ら=裸=螺=羅=喇=螺・る=流=縷=弄=榴=瘤・め=目=芽=女=奴=罵
ゆ・め・の・も・と
yu・mai・nos・mot・taux
こういうのって、あやういです。決して、よくはありません。よい兆候ではありません。そう、おもいます。あす、違うドクターを訪ねてみます。
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やっぱり、そろそろ、「夢の素」という連載は打ち止めにした方がいいのかもしれません。
何見てた まなこ開けた ネコに聞く
夢の素 さらし続けて うつおぎに
うつせみの 声にもあきて あなたへと
卒塔婆(そとば)立て 耳を澄ませど 音はなし
つぶすなよ ふみにもやどる たまのこえ
以前なら あやめたブログ 夢をまけ
※この記事は、かつてのブログ記事に加筆したものです。https://puboo.jp/users/renhoshino77
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