かく・かける(4)

げんすけ

2020/09/05 07:58


 前々回の記事「かく・かける(2)」で、


*「かく・かける」のコア・イメージ(=中心となるイメージ)は、「宙ぶらりん」である。


という意味のことを書きました。


 あれから、いろいろ考えてみたのですが、自分という一匹のヒトのはしくれが「宙ぶらりん」であるせいか、ヒトあるいは人類という存在自体が「宙ぶらりん」であるように思えてならなくなりました。


「わたしは宙ぶらりんなんかではない。まして、人間は宙ぶらりんな存在では決してない」。そんなふうに、憤(いきどお)りを覚え、お気を悪くされた方には、深くお詫び申し上げます。単なる愚者 or 狂人の戯言だと思って(※思うどころか、実際、そうみたいなのです)、以下の文章をお読みください。


 前回の記事「かく・かける(3)」では、


*「印(=しるし)」は「物体」ではなく、「視覚的イメージ=像=形」である。


とも書きました。


 言い換えると、「ニュートラルな信号」という意味です。


*その「ニュートラルな信号」が、メッセージを担った「合図=めくばせ」であったり、


*そっくりな仲間たちとともに、あちこちに存在する「トリトメのない記号」であったり、


*それ自身ではない、何かの代わりとして存在する「表象」であったりする。


という話もしました。


 たった今、「書きました」「言い換えると」「話もしました」と「述べました」が、実際には、パソコンのキーボードのキーを叩くという形で、「書いている」わけです。


 ただし、現時点において、「書く」という作業は、多様な形で存在しています。歴史が苦手な自分は、やたら、「太古」とか、「大昔」とか、あいまいな表現を用いますが、その「太古」や「大昔」にヒトは、おそらく、「引っ掻く」「傷つける」「削る」「彫る」「並べる」「塗る」「貼り付ける」といった工作で用いる作業や動作で、「書く」という「行為」をおこなっていたものと想像できます。それは「描く・かく・えがく」「印す・しるす」と大差なくおこなわれていたものとも、考えられます。


 そして、現在では、上で挙げた作業=動作に加えて、たとえば、キーを


*叩く or 押す


あるいは、液晶画面に


*触る or 押す


という形で「書く」という作業をおこなっています。ある種の障害者向けに、画面に


*目線=視線=まなざしを、向ける=置く=据える


という形で「書く」作業を可能にしている機器があるらしいことも、知りました。また、スピーカーに向かって、


*話す


ことにより、文字を「書く」ことができることは、もう常識になりつつあります。もっと、ほかの形態もあるでしょうが、思いつきません。


     *


 以上が、現在の「書く」なのです。特に過去10~20年間の科学技術の発展は、「書く」と「文字」の形を飛躍的に広げました。これから先も、その範囲はさらに拡大するでしょう。とはいうものの、基本は、


*しるす・しるし


ではないかと思っています。


「しるす・しるし」の語源は、手元の辞書を引いても分かりません。こういう場合、きのうも書いたように、素人は、素人であるからこそ、かっこうをつけたり、気兼ねをすることなく、


*「今、ここにある」ものに注目し、手もちの知識と情報で間に合わせる


という方法も取れるわけです。


 気取っていえば、クロード・レヴィ=ストロース「印」の「ブリコラージュ」もどき。これって、カーネル・サンダースおじさん手製のフライド・チキンっていうのと、似た響きがありませんか? ブランド(=商「標」=焼「印」=烙「印」)ぽいという意味です。ちなみに、レヴィ=ストロースという、フランス式の発音を英語風に言えば、リーバイ・ストラウス、つまりリーバイスという商「標」をもつ会社名=創業者名になります。ユダヤ系です。


 いずれにせよ、もちろん、ほかの選択肢もありそうですが、身の程をわきまえ、無精者は無精なやり方で楽問します。「正しい vs. 正しくない」ごっこを職業としているわけではないので、「正しくなくていいんだよ」 or 「正しくなくていいじゃんか」のスタンスでいく、という意味です。


     *


 で、思ったのですが、辞書で「しるす・しるし」のあたりを見ていたら、「しる・知る・領る・痴る・汁」なんていうものもあって、そのうちの


*「しる・知る・領る」


に言い知れぬ魅力を感じ、その項を読み耽っているうちに、糟汁(かすじる)を口にしただけで足元がふらつくほどの下戸(げこ)である自分が、その魅力に酔い痴れてしまったのです。あとは推して知るべし。神のみぞ知る。知らぬが仏。Don't be silly. = silly + ass = serious【「なぜ、ケータイが」(安心してください。過去の記事を読まなくても分かるように書きますので)からの自己パクリです】というわけで、マジで、


*「これって、もしかして、つながっているのとちゃうか」


と思い込んでしまったのでした。


 どういうことかと申しますと、辞書によれば、


*かつて、「しる・知る・領る」とは、何かを目にしたときに、「これは全部、わたしのものだ。わたしにまかせとき」と主張する、という意味だった。


ようなのです。


 実に欲深くてジコチュー。いかにもヒトらしい。人間らしい。ヒューマン(human)かつヒューメイン(humane)。


 この発見=見解には、少々、不満(「ふまん」)はあるが、犬のフンを「踏まねー」でも済みそうだ。こりゃあ、ウンがいいワイ。ハウ・ラッキー・アイ・アム!=ワイはなんてウンがいいんや。きっとそうだ。そうにちがいない。間違いない。言えてる。言えすぎ。上杉謙信。お家(うち)はやっぱり杉(すぎ)で建てるといい(※このあたりは、真剣に読んだり、深読みなさらないでください、ただ景気づけをしているだけなのです)。


 簡単に申しますと、「ワイ=私=わたくし」ならぬ、ワンちゃんやネコちゃんの


*マーキング行動


を思い出したのです。


*おしっこ(しる=汁)をかける(=「かける」)


ことで、「ここは、わたしのテリトリー」と主張=意思表示する。ネコちゃんの場合には、おしっこ(=「かける」)以外に、あちこち、


*「引っ掻く」=「かく」


こともあります。いずれにせよ、「おしっこ」が出てくるくらいだから、辞書に「知る・領る・痴る」といっしょに並べてあった


*「汁」


も、つなげて、仲間に入れてやっても、罰は当たらないのではないか。そうすると、おやおや、ワラ・コインシデンス= What a coincidence! =「何という偶然であろうか!」。駄洒落を通り越して、ばればれのヤラセですね。牽強付会(けんきょうふかい)とも言いますよね。はい。


 で、念のために、


*マーク= mark


を英和辞典で調べてみたのです。


 図星でした。楽しみは独り占めしたくないので、みなさん、中型以上の辞典で、mark を引いて、そのいろいろな意味を斜め読みし、語源の部分にちょっとだけ目を通してみてください。やっぱり、ヒト=人間様も生き物のはしくれだったのです。文字通り、お里が「知れた」わけです。


     *


 ヒトは、


*テリトリーを持ちたがるし、いったん持ったと決めたなら、ぺぺっと唾をつけて、自分のものだという「しるし」をつけておきたい。


 どうやら、寡黙なマラルメ師は、そばにいるらしい。そんな気持ちになってまいりました。待った甲斐がありました。国際政治の話(「際」とは「間(=あいだ・あわい)」のことにほかなりません)で、道草=無駄話をしながら待った甲斐がありました。


 ダムみたいに無駄ではなかったのです。『ゴドーを待ちながら』のように、デジャ・ヴュを伴う繰り返しのめまいを覚えながら「待った=舞った」甲斐がありました。


 そういえば、バイリンガル作家を余儀なくされたサミュエル・ベケットは、『ゴドーを待ちながら』を英仏両語で書いたという噂を思い出しました。 Waiting for Godot と En attendant Godot の間(=あいだ・あわい)には、何があるのでしょう? 


 また、前回の「かく・かける(3))」で出てきた(※いや、「出した」というべきでしょう、あれは「やらせ」を引き寄せるための「やらせ」だったのですから)、サイコロジー= psychology と、プシコロジ = psychologie との間(=あいだ・あわい)には、何があるのでしょう? 


 さらに言うなら、やはり「かく・かける(3))」で出した、 information と intelligence の間(=あいだ・あわい)には、何があるのでしょう? ちょっと見てみましょう。


*間(=あいだ・あわい)I ・i・ Y・ y ⇒ in ⇒ inter ⇒ inform ⇒ information


*間(=あいだ・あわい)I ・i・ Y・ y ⇒ in ⇒ inter ⇒ intelligent ⇒ intelligence


 ちなみに、Y y は、フランス語では「 i grec 」=イ・グレックと読み、「ギリシャ風の i」という意味です。「 I ・i 」(フランス語ではほぼ「イ」と発音しますね)と、 「 Y・ y 」との間(=あいだ・あわい)には、間(=あいだ・あわい)しか存在しません。なぜ、アルファベットに「イ」が2つ必要なのか、今も不思議です。


 日本語の表記で、「い・ゐ・イ・ヰ」「え・ゑ・エ・ヱ」「お・を・オ・ヲ」があるのと、似ていませんか? アルファベット同様、あいうえお表に今述べた文字のペアがある(ないのが普通ですけど)のは、やはり不思議です。たぶん、お勉強をすれば、その経緯は分かるのでしょうが、勉強嫌いなので、「不思議だな」にとどめておきます。


     *


 それは、さておき、上記の2つの*に連なる「間」に関する「ニュートラルな信号」たちが並ぶ必然性に似たものも、あるいは意味に似たものも、見せ「掛け」にしかすぎません。


 in は、中学1年生の教科書で出てくる単語です。「……の中に(で)、間に(で)」という意味になり得ます。その兄弟の inter は international (国「際」的な)でおなじみですが、その inter =「際」も、「……の中に(で)、間に(で)」という意味になり得ます。


 で、inform には「知らせる」という意味がありますね。だから、information には、「お知らせ・ご案内」=「知識」という語義もあります。一方の intelligence は、スパイ活動という意味の「情報=諜報」に加えて、AI= artificial intelligence =人工知能の「知能=知性」という語義もありますね。


 以上が、「しる・知る・領る」につながり、マーキングとテリトリーにとにからみ、「かく・引っ掻く・掻く・書く」という係わり合いを見せ、「かく・かける・掛ける」と手をつなぎ、「掛け」にまで来たという次第です。


     *


 誰かに頼まれたわけでもないのに、わざわざ律儀に、他人様から見れば「とちくるった」=「常軌を逸した」文章を、解説し弁解しているのは、性分でしょうか。ポル・ポトから始まり、国際関係・国際政治についてのくだくだした話に移り、途中で妙なことを書き出した、あんな紛らわしい文章は、適当に書き改めるなり、削除するなりして、肝心のところだけを記事にしておけばいいのかもしれません。


 でも、自分にとっては、あのお待ちする「儀式」の過程こそが大切なのです。削除すると、言霊が怖いという気持ちも、正直申しまして多分にあります。でも、あの文章は、ここまで来るのに絶対に必要なものだったのです。


*必然なのか、偶然なのか


という、


*宙ぶらりんな


問題=状況=事態を、「かけた・掛けた・懸けた・賭けた・書けた」「欠くこと・書くこと」ができない文章なのです。


 問題は深刻です。少なくとも、自分にとってはマジで深刻なのです。その問題=状況=事態を、「掛け」=「賭け」と言葉にしたところで、何の意味もありません。このブログに書かれている言葉たちと、その書き手の「あやうさ」を、万が一(※たぶん、そんなことはないだろう、とは思いますが)、気に「懸けて」いらっしゃる方のために、以上、とりあえず記しておきます。ややこしいと思われた方は、お忘れになってください。


     *


 さて、ちょっとシリアス( serious )な感じになってしまったので、少々 silly + ass 気味に「軌道修正=シンコペーション」します。


★あすこそは、「賭ける」について「書ける」といいなあ、と願を「かける」つもりです。マラルメ師のご降臨を、ひたすら待つのみという感じです。


と、前回の記事の最後に書いただけのことはありました。


 実は、今回の記事を「書く」ことは、「賭け」だったのです。まったくの「でまかせしゅぎじっこうちゅう」だったのです。ちなみに、「でまかせしゅぎじっこうちゅう」は、かつて短期間やっていたブログタイトルです。日テレの「笑点」的内輪受けギャグになって、申し訳ありません。


 で、「書く」と「印す」については、何とか「書けた」のですが、肝心の「賭け・賭ける」について、「書ける」状態にある兆(きざ)し=「しるし・印・標・徴・験・記し・著し」はありません。さきほど、リーバイスとKFCの話あたりで、ちょこっと出た=漏れたくらいです。でも、


*必然と偶然について思索=詩作=試作を重ねた


マラルメ師がそばにいる気配がする以上、このまま「でまかせしゅぎじっこうちゅう」を続ければ、


*何とかなる


という気もしないわけではありません。


 ですので、書き続けてみます。そこで「賭ける」を辞書で調べていたところ、「『掛ける』を見よ」みたいな、素っ気ない記述があり、指示に従ってある項目を読んでみたところ、たいした収穫はありませんでした。


 トートロジーというんですか? 「AはAだからAなのよ、わかったかしら」みたいな感じで、テキトーにあしらわれてしまいました。でも、テキトーは嫌いじゃないので、イヤーな気分になることはありませんでした。むしろ、言葉に関しては、テキトーがトーゼンだと、あらためて痛感=納得しました。


 辞書、特に国語辞典って、そういうテキトーな記述が多いですよね。調べたい言葉の意味の説明というより、調べたい語をちょっとだけ言い換えてあるだけだったり、「○○を見よ or 参照」とか書いてあって、馬鹿正直にその「○○」を見る or 参照すると、ほぼ同じ言葉が書いてあるだけ。そういう失望を何度か味わうと、辞書なんて、もう引きたくなくなります。ですから、辞書を引きたくない、と言う人たちの気持ちは、よく分かります。


 ところで、この失望感は、トイレの落書きで受けるがっかり感に似ていませんか? どういうことかと申しますと、エッチな落書きではなくて、トイレの個室に入って用を足していると、目の前の壁に「右を見よ⇒」とあるのです。そこで、馬鹿正直に右の壁を見ると「後ろを見よ」と書いてあるんです。


 え、何だろう? 用を足しながらの不自由さにもめげず、好奇心に負けてわざわざ後ろの壁を見てみると、「ばーか」と同じ筆跡で書いてあってこころが傷つく……。こういうたちの悪いいたずらに、小学生のころ一度引っ掛かったことがありました。いや、三度でした……。あのときのがっかり感=失望感と、粗悪な国語辞典の「○○を見よ or 参照」が酷似=激似だと言いたいのです。要するにヒトを馬鹿にしているんですよ。プンプン。


 話をもどしますね。


     *


 で、「賭ける」については、宙ぶらりんな状態に置かれてしまいました。


 むっ、……。


 出ました。というか、もよおしてまいりました。マラルメ師の気配を感じます。宙ぶらりん、と言えば、「あれ」ではないか――。さっそく、きのうの記事から「あれ」、つまり大切な部分を自己輸血=コピペさせてください。


 というわけで以下は引用です。


*かかる


という、受動的=風まかせ的=なりゆきまかせ的=身をゆだねる的な、言い方もできます。実際、そんなふうに風に飛ばされて「引越しをする」クモを見たことがあります。個人的には、その受動的なイメージが気に入っています。うん、


*宙ぶらりん


でいきましょう。これが「かく・かける」のコア・イメージです。


 以上が引用でした。


 そうでした。もう、きのう、ヒントが用意されていたのです。これを必然と呼ぼうと、偶然と呼ぼうと、やらせ=出来レースと呼ぼうと、どうでもいいことです。肝心なのは、


*「賭ける」とは「宙ぶらりん」である。


だけです。


 ちょっと想像力を働かせてみましょう。あるいは、実際に、洗濯ロープか何かを、高いところにある釘のようなものに引っ掛ける。いや、これだと首吊りを連想させてヤバいですので、やめましょう。それより、単に、椅子に腰かけて、椅子の脚を部分的に浮かせてみてもいいでしょう。宙ぶらりん状態か、それに近い状態を作るのです。


 今、PCのそばで立ち上がって一本足で立ってみても、または、スマホを手にしたまま鳥さんのように一本足で立ってみても、


*ほぼ宙ぶらりん状態


を体験できます。できれば、つま先で立ちましょう。


*おっとっと。危ない。あやうい。やばい。やべー。マジヤベ。たよりない。よるべない。馬鹿みたい。あほちゃうか。こんなんでいいのかい? 助けてくれー!


 それが、「賭ける」なのです。というより、むしろ、


*「賭ける」の原点=原風景


なのです。


 体感できましたでしょうか? 何となくからだで感じれば、それでいいのです。理屈なんて、いざとなったら、役に立ちません。特に、「賭ける」においては、理屈は無力です。イ・ビョンホン主演の「オールイン」を見ていて、そう感じました(※あのドラマのビョンホン、かっこよかったです)。何しろ、


*半端じゃなく強い「何か」から垂れ下がった糸に、しがみ付いて=引っ掛かっての「宙ぶらりん」


なのですから。


 以上が原点=スタートライン=「位置について、よーい、ドン」です。「何だ、そんなことだったのか」とお思いになっている方々も、いらっしゃるにちがいありません。でも、「そんなこと」で済ませられる問題ではありません。


 この先、


*何に何をかけるか


は、あなた次第です。このあとが大切なのです。「何に何をかけるか」は、あくまでも個人の問題です。しかも、大問題です。ただし、原点だけは同じです。


*「宙ぶらりん」が原点だ


ということです。ヒトも、ヒト以外の生き物たちすべてにとっても、原点だけは同じです。


 ところで、ひょっとして、まだ、片足が宙に浮いたままでいらっしゃる、そこのあなたさま、ひっくり返らないように気をつけてください。



※この文章は、かつてのブログ記事に加筆したものです。https://puboo.jp/users/renhoshino77




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