代理としての世界 -4-
星野廉
2020/09/26 08:29
前回の「代理としての世界 -3-」の終わりのほうで書いたセンテンスを引用させてください。
>「自分」も、「世界(or身のまわりor宇宙)」も、「知覚・認識・意識する」も、「代わり=代理=仮のもの=借りもの」らしい。
以上のフレーズを真に受けると、「自分」というものが、あやふやで頼りないものになってしまいます。「自分」が、ふつう考えられている=イメージされている「自分」ではなく、「他人」みたいに思えてきませんか? だって、「自分」は「代わり=代理=仮のもの=借りもの」らしい、という「与太話=フィクション=作り話」なんですよ。冗談は顔だけにしてくれ、と思う人がほとんどではないでしょうか。
このアホも、そう思います。ただし、ちょっとだけ、そう思うくらいです。内心では、かなりマジで、「自分」は「代わり=代理=仮のもの=借りもの」らしいと思い込んでいます。でも、これは「与太話=フィクション=作り話」にしかすぎないのだと、これまた、かなりマジで考えてもいます。ついでに申しますと、ヒトは「与太話=フィクション=作り話」しか、こしらえることはできないとも思っています。
なにしろ、「何かの代わりに何かではないものを用いる」という仕組みが、ヒトの「知覚」、「認識」、「意識」と呼ばれていることorもので働いている、という点から、ものごとを考える癖が付いているのです。アホに付ける薬はないみたいです。ひとさまから、おまえはビョーキだと言われても、反論するだけの度胸も根拠もありません。最初から、議論をする気持ちがないのです。議論にせよ、取っ組み合いの喧嘩にせよ、まして戦争にせよ、戦うor闘うのが苦手なのです。
戦うor闘うくらいなら、初めから「参りました」と降参しておき、相手がこちらの負けを受け入れてくれれば、「ああ、よかった」と心の中でつぶやき、「参りました」とは正反対の気持ちや意見を温存させておく。これまで、そんな調子で、他人との争いを避けてきました。これも、偏屈と同様に癖のようです。生き方だなんて偉そうな言葉は使いませんけど。いずれにせよ、いつもこんな調子で生きてきたので、直りそうも=治りそうもありません。致し方ありません。
ところで、ここだけの話ですけど、天動説を信じています。理由は単純でして、どうしても地動説を「体感できない=体が納得してくれない」からです。一般に言われていることや、「真実」とか「事実」という名の付いたことよりも、自分の体のほうが信頼できる場合って、ありません? 映画やテレビの画像が、画素とか呼ばれている点の集まりだとか、静止画像をコマ送りしたものだとか言われても、「はい、そうですね」とか「本当だ。今言われて、気づいたよ。分かる、分かる」という具合には、体and/or脳が素直に納得しないのと同じです。
世界でいろいろな神や神々や霊魂やイワシの頭や妖精のたぐいが信じられている。これらのものは、このアホには到底信じられないし体感もできないものです。でも、その手のものを信じている人たちの中には、いわゆる科学者も、あるいは極悪非道の「ひとでなし」と呼ばれている人もいるようです。そのうえに、神様のたぐいの威を借りて、私腹を肥やしている「罰当たりな」人たちも少なからずいるみたいです。そんなふうにきわめてテキトーなのがヒトの世界なのです。ですから、天動説を信じていても恥ずかしくはないはずなのですが、正直申しまして、やっぱりどこかに恥ずかしいという気持ちがあります。偏屈な割には、人目を気にする小心者なのでしょうね。話を戻します。
>ヒトは「与太話=フィクション=作り話」しか、こしらえることはできない。
これは、「何かの代わりに何かではないものを用いる」という仕組みが、ヒトの「知覚」、「認識」、「意識」と呼ばれていることorもので働いている、と思い込んでいる者にとっては、当然の話=フィクションなのです。
ヒトは、「知識=情報」と呼ばれるものやことを、現存の仲間たちとの間で伝え合うor交わす媒介として「言葉」を用います。「知識=情報」は「言葉」という形で、同時代を生きる仲間同士のみならず、亡くなった仲間たちから受け継ぎ、将来生まれるであろう仲間たちに引き渡されます。この場合の「言葉」は、広く取ったほうが便利だし、正確だと思われます。話し言葉や書き言葉だけでなく、表情や仕草や身ぶり手ぶりを含む身体言語=ボディランゲージ、合図、手話、指点字、点字、音声(発声)、音楽、映像、図像、さまざまな標識や記号や数字や信号などまで含めてみましょう。
今述べた広義の言葉もまた、「何かの代わりに何かではないものを用いる」という仕組みにおいては、「代わり=代理=仮のもの=借りもの」だと言わざるを得ません。簡単な比喩で説明すると、広義の言葉とは「道具」です。その「道具」の使用目的は「何かを伝える」や「何かを表す=現す」ことのようです。ただし、ヒトは「道具」そのものを、その使用目的とは無関係に触れたり(※「戯れる」と言ってかまわない場合も想定しています)集めたりする習性があるみたいです。また、意識的にか無意識のうちにかを問わず、当初の使用目的とは異なる目的に使用することもあります。
たとえば、話し言葉で何かを伝えるのではなく、言葉を音として楽しむ。これは、難しい話ではありません。誰かの話を聞いて、その内容の100%を理解するなんてこと、あり得ますか? その話を聞きながら、ほかのことを考えたり、この人の声や話し方が好きだとか嫌いだとか感じることがないですか? 話し言葉と歌とは、かなり近いです。話し言葉に節とかメロディーが付くと、歌になります。メッセージソングなんて古い言い方がありますが、歌の場合に、その歌詞の意味がどれだけ重要な役割を担っているかは、とても曖昧です。
歌詞にしろ、演説やプレゼンにしろ、言葉という「道具」に込められていることになっているはずの「メッセージ」とか「意味」なんて、ヒトがその言葉に期待しているほどの働きはしていないと思われます。聞き手は話の○○%しか聞いていない、なんてプレゼンのハウツー本によく書かれていますね。そういうハウツー本に書かれている話も○○%しか読まれない、という「メッセージor意味」でしょう。そう思うと、あの種のいかがわしい書籍にも説得力を感じます。
話し言葉は、音声の集まりです。その音声は、何かの「代わり=代理」の役目を果たすだけでなく、あるいは、そうした役目を果たすと同時に、「代わり=代理」という名にも値しない全く「別の何か」になっている場合がある。正確に言うと、ヒトは音声を「気ままに=勝手に=恣意的に」聞いているし、そのような聞き方しかできないということです。これを言い換えると、話し言葉は、話す側と話を聞く側のヒトたちがどんなに頑張っても「何かの代わり」に成り損ねたり、「別の何か」にすり替わってしまうという事態が常態化しているようだ、となります。
ということは、「何かの代わりに何かではないものを用いる」というのは、誰かor何かの意思や思惑とは関係なく働いている仕組みだという意味になります。つまり、この仕組みにヒトの企みが入り込む余地はなさそうです。この仕組みを、ヒトは仕組むことはできない。そんなふうに言ってもいいと思います。「話し言葉で何かを伝えるor表す」と口では言えても――本気でそう思い込んで、そう言っている人たちは多いし、ヒトの世界ではそれがほぼ常識となっているみたいです――いざやってみるとかなり難しいし、正確にやろうとするのは不可能と言わざるを得ないというのが、このアホの意見=うわごとです。
要するに、いわゆる「話が通じない」という状況の話をしているわけですけど、この話はみなさんに通じているでしょうか? 心もとなしという感じです。でも、「心もとなし」とあまり考えないのがヒトの「たくましさ=鈍感さ=生きるうちに身につけた惰性」ですから、気にせずに「話が通じない」という話を進めましょう。
「話が通じているようで通じていない」というトホホ状態は、話をする側および聞く側の人のせいではありません。話し言葉という「道具」(※念を押しておきますが、比喩です)に対して、ヒトが主導権や支配権を持っていないというか、持つことが不可能だからです。整理します。
(1)話し言葉という「道具」を用いる限り、ヒトは伝えようor表そうと思う「何か」を「道具」で代用するしかない。つまり、話は「道具」をパーツとして「作る=組み立てる」しかない。
(2)話し言葉という「道具」は、話す側においても聞く側においても、「何か」を伝えるor表すという使用目的を満たし損ねたり、「別の何か」にすり替わる可能性が高い。こうした事態の根底には、ヒトの集中力と脳の情報処理能力に限界があることに加え、そもそも「何かの代わりに何かではないものを用いる」という仕組みがある。
(3)話し言葉という「道具」を使用するさいに、ヒトは「道具」に対して主導権を握っていない。
以上の3点は、上述の広義の言葉すべてについて言えるような気がします。
※この記事は、かつてのブログ記事に加筆したものです。https://puboo.jp/users/renhoshino77
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