あらわれる・あらわす(4)
星野廉
2020/09/19 08:33 フォローする
うんちについて、考えていました。で、その兄弟姉妹である「うんこ」という言葉を何げなく広辞苑で引いていて、語源が載っているのにはびっくりしました。「うん」というのが「いきむ声=息む声」から来ているというのです。「うん」と素直にうなずけず、「うーん」と思わず息んでしまいました。いきむ=息むとは、息をつめてお腹に力を入れて、「うーん」と気張ることです。何だか、ますます、うんちに思い入れを深める結果となりました。
で、思ったのですが、
*「あらわれる」の中心的イメージ(=コア・イメージ)は、赤ちゃんとしてこの世界と「出あう」ことである。
そして、
*「出る」の中心的イメージ(=コア・イメージ)は、うんちをすることである。
と言えるのではないでしょうか。
まず、前提として確認しておきたいのは、
*「あらわれる」と「出る」に先立って、「出あう・あう」という「出来事=事件=偶然性の生起」がある。その次に、あるいは並行して、「あらわれる・出る」という「知覚」が生じる。この「出来事=事件=偶然性の生起」と「知覚」は、通常、きわめて短期間=ほぼ瞬時に起きる。
ということです。
*
では、「あらわれる」の補足説明からしますと、
*「あらわれる」とは、「見る・見える=知覚する」という能動的な自分の行為を、「まわりの世界」=他者に責任を転嫁することにより、受動的な行為に転換する=下手に出る=恐怖感・不安感をやわらげる、という身体的な知恵が働いた結果としての言語上の操作である。
ように思えるのです。
簡単に言いますと、こっちの責任で「見ちゃった」のではなくて、「あら~、われの責任じゃないぞよ=あんたが悪いのよ」という感じで、向こうが勝手に姿を「あらわした」ことにしてしまう、という意味です。ずるいと言えばずるいし、精神衛生上、自分を守るためなのだから、賢いと言えば賢い。やっぱり、ヒトはたくましい。という感じでしょうか。
一方、
*「出る」とは、「見る・見える=知覚する」という能動的な自分の行為を、「まわりの世界」=他者に責任を転嫁することにより、受動的な行為に転換する=下手に出る=恐怖感・不安感をやわらげる、という身体的な知恵が働いた結果としての言語上の操作である。同時に、自分がつくった、あるいは、生じさせた=起した現象を、「まわりの世界」=他者に責任を転嫁することにより、まるで自然発生的な現象であるかのように装う、あるいは、故意に思い込むことにより、その現象との距離感を演出しようとする言語上の操作である。
ように思えます。
端的に言うなら、「あんたなんて、知らないよ=はじめまして」と、とぼけるのです。なぜ、とぼけるのか=距離感を演出するのか、については、ケースバイケースで多種多様な理由があるでしょう。きのう挙げた例から、選びます。
1)「給料(※ボーナス、退職金)」が出た」(※「あらわれた」とは言いません)の場合には、自分が一生懸命働いた当然の報酬なのに、会社や役所に花を持たせているのでしょう。ぺいぺい時代からの宮づかいが身についてしまった結果だと推測されます。
2)「定額給付金(※補助金、奨励金、助成金)が出た」(※「あらわれた」とは言いません)の場合には、「お上」への配慮です。こういう感情を改めない限り、この国は良くなりませんね。もとは税金なのに。いや、あれだけ大量の国債を発行しているのですから、連帯保証人にされての大借金ですか。ああ、こわい。
3)「分配金(※配当金、保険金、補償金)が出た」の場合には、これも、受けとって当然なのに、「出る」と言うのは、謙虚さの「あらわれ」でしょうか。次の例とも、大いにかぶる面がありそうです。
4)「懸賞金(※一等賞)が出た」という場合には、これはヒトの力など到底歯が立たない「圧倒的な支配力を持つパワー」=超越者への畏怖が根底にあるのではないでしょうか。3)の場合ともかぶる=重なるというのは、3)が「運(うん)」に多分に左右されるからです。
*
さて、
*「あらわれる」の中心的イメージ(=コア・イメージ)は、生まれたばかりのヒトが赤ちゃんとしてこの世界と「出あう」ことである。
とさきほど書きましたのは、上で補足説明いたしましように、ヒトにとって、
*「見る・見える=知覚する」という能動的な自分の行為を、「まわりの世界」=他者に責任を転嫁することにより、受動的な行為に転換する=下手に出る=恐怖感・不安感をやわらげる。
という「最初の」体験が、「誕生=母親から見れば出産=かっこうをつけると世界と出あうこと」だからなのです。
天井の染みやトイレの壁の染みに、何かが「あらわれている」。走査線か画素の集まりに、番組の映像が「あわられている」。化学繊維のかたまりである、くまのプーさんのお人形に、くまのプーさんが「あらわれている」。ケータイの液晶にお友達や好きなヒトの姿が「あらわれている」。
こうした、「あらわれ」の原体験が、
*おぎゃーっ!
なのです。まことに、おめでたい=祝福すべき=感動的な=驚嘆すべき話ではありませんか。
*
さて、本題に入ります。うんちです。
*「出る」の中心的イメージ(=コア・イメージ)は、うんちをすることである。
に対して、
*なぜ、うんちなのか?
と疑問をお持ちの方が、たくさん、いらっしゃるにちがいありません。涙だって、よだれだって、おしっこだって、汗だって、おならだって、みんな「出る」って言うじゃないか?
*どうして、うんちだけが、特権化=特別扱い=「えこひいき」されなれば、ならないの?
ごもっともなご質問だと存じます。
でも、実は、これまた、まことに、おめでたい=祝福すべき=感動的な=驚嘆すべき話なのです。赤ちゃんとうんちの出あいについて、「あらわれる・あらわす(2)」で書いた部分を、コピペさせてください。
★生後あまり経過していなくて、なるべく固形に近いうんちを、ほぼ初めて、しかも裸で排泄した場合を想定しています。たぶん、
*あれっ?
って感じで、見る=知覚するのではないでしょうか? 【中略】
*あれっ? = 出た = 何だろう? = どこから来たのだろう? = あらわれた
という感じではないでしょうか? 【中略】
さて、ここで、「いないいないばあ」という赤ちゃんを対象とした遊びが、赤ちゃんにとって「いる/いない」「ある/ない」「あらわれる」という現象を体感する象徴的な体験であるらしい、という説を思い出しましょう。それを前提に、話を進めます。
ある赤ちゃんが、「未分化」というか、自分と他者とを意識していない「段階=時期=状態」であれば、
*あれっ? = 出た = 何だろう? = どこから来たのだろう? = あらわれた
であり、自分と他者との区別ができ始めた「段階=時期=状態」であれば、
*あれっ? = 出た = 何だろう? = 自分から出たのかなあ? or 自分が出したのかなあ? (=ほぼ「あわられたのではない」)
という具合になるような気がします。もしも、こんなことがあるとすれば、これって、赤ちゃんにとっては大発見だと思います。言い換えると、
*「あらわれたのではない」(否定)を知覚=意識=思考するのは、同時に、「あらわれる」(肯定)を、知覚=意識=思考することでもある。
からです。もう少し正確に言うと、
*「いきなり、あらわれる」=「不意の出あい」=「遭遇」(肯定も否定もないor肯定も否定もできる余裕はない)が生じた=起きたのではなく、「自分の中から外へ出た」=「どこからかではなく、自分から出た」=「『ない』が『ある』になった」=「ほぼ『いないいないばあ』」が生じた=起きた。
です。自と他の区別の萌芽 or 誕生、自己意識の萌芽 or 誕生、自他未分化からの離脱の始まり、自我の目覚め・・・という感じでしょうか?
★から以上までが引用部分です。
*
要約しますと、赤ちゃんにとって、うんちは、たとえ「うん」と息んだにしろ、漏れたにしろ、
*「出た(=あれっ!?)」と「出した(=やっぱり!)」の中間というよりも、むしろ、その両者の連続した意識のうちでは、「出した(=やっぱり!)」寄りにある出来事である。
という気がします。
*「出した(=やっぱり!)」を、あえて「出た」と引き戻す意識の働き
が、上で述べた、
*「まわりの世界」=他者に責任を転嫁することにより、まるで自然発生的な現象であるかのように装う、あるいは、故意に思い込むことにより、その現象との距離感を演出しようとする言語上の操作である。
という説明になるのです。
なぜ、そのような操作をするのかというと、うんちが、
*自分から離れる=分離される or 分離する=「まわりの世界」の一部になる
さまを「見る=知覚する」からです。
断っておきますが、赤ちゃんにとって、自分と「まわりの世界」は分化されているような気もするし分化されていないような気もするという、きわめて曖昧な状況にあるということです。
さらに、強調しておきたいことは、これは赤ちゃんだけの状況ではなく、いわゆるオトナにとっても同じ状況=意識であるという点です。
オトナは「自他未分化」という階段を晴れて卒業して、「自他分離」という階段に上ったというようなおとぎ話=馬鹿話は、このブログでは嘘=作り話=方便=「時にはつかうツール」として扱います。現に、引用部分の最後のほうでは、方便=「時にはつかうツール」として、やや後ろめたそうにつかっています。
もし、「自己=自我」と「他者=世界」という別個のものが存在するならば、比喩的に言えば、それは固体のように存在するのではなく、液体か気体のように、時によって混じり合ったり、分離し合ったりする形で存在するのでしょう。たとえば、ぼけーっとしている時、うとうとしている時、眠っている時、あるいは、動転している時、精神的にかなり動揺している時、ショックを受けた時、酔っ払っている(※たいていはオトナだけですが)時、あるいは、何かに夢中になっている時のオトナ、コドモ、赤ちゃんは、両者が混じり合った状態にあるはずです。
これは、何かに書いてあったことの引用ではなく、自分の実感でもあります。
で、うんちですが、今述べたような、
*「自己=自我」と「他者=世界」の「間(=ま・あいだ・あわい=際(=さい・きわ)で、ぷかぷかと浮いている。
感じをイメージしてください。
*「出る」とは、「出た」のちには、「ぷかぷか浮いている」状態に落ち着く。
と言えそうな気もします。躍動感までは行かない
*浮揚感(=運動)
つまり
*ぷかぷか
が非常に重要です。
*出たものは「静止」してはいない。
という点に、注目していただきたいのです。
いったん出たものは、必ず、何らかの運動に誘発されます。比喩をつかえば、いったん「出た」給料も、給付金も、保険金も、うんちも、太陽も、声も、にきびも、幽霊も(※「出る」という言葉の話をしていますので「出ました」)、新刊書も、選挙候補者も、テレビドラマの役者も、家出したお父さん or お母さん or お子さんも、火も、くいも、そのまま静止し続けることはありません。
一方、「あわられる」場合には、静止したまま、しつこく居座ることも、往々にしてありそうです。真価、効果、正体、正義の味方、英雄、悪の権化、○○の神様、救世主、影響、才能、成果、結果などです。もっとも、影響や結果みたいに、「出る」とも言うものは、概して「不安定」な気がします。
で、うんちですが、以上ごたくを並べてきましたように、
*「あらわれる」の中心的イメージ(=コア・イメージ)は、生まれたばかりのヒトが赤ちゃんとしてこの世界と「出あう」ことである。
と上述したのと同様に、ヒトの原点である、
*初めてのうんち
というおめでたい体験を祝って、
*「出る」の中心的イメージ(=コア・イメージ)は、うんちをすることである。
としたいのです。
たった今書いた文に、赤ちゃんという言葉がないことに注目してください。ここでのうんちは、赤ちゃんも、いわゆるコドモも、いわゆるオトナもみんな含めての排便というきわめて重要な行為として、受けとっていただきたいのです。
赤ちゃんが初めて、自ら息んで外に「出して」おきながら、他人事みたいに「出た」と体感する、象徴的な意味については上で述べました。今度は、このブログを書いている1匹のアホも、そして、貴重な時間を割いてこのブログをお読みになっている、あなたも含めてのお話をさせてください。
*
ヒトである限り、誰もが、何かの形で、外から食物を体内に摂取し、その一部を自分の身体の一部と化し、残りのものを外へと返す=出すという「いとなみ」を、毎日行っています。呼吸という形で、酸素を体内に取り入れることも、基本的には同じです。だって、ヒトは、1人1人が酸素と交換して、二酸化炭素を排出しているのです。ということは、ヒトは、
*「自と他」
などと抽象論を言う以前に、生物=生体としてのレベルにおいて、「まわりの世界=他者」と同化、あるいは、混じり合って存在しているわけです。ゾウリムシさん、ギンバエさん、アサガオさん、キリンさんたちと同じです。さきほど、心理 or 精神 or 心のレベルで、「自己=自我」と「他者=世界」は、はっきり分けられるものではないという意味のことを書きましたが、
*物理的 or 生物的レベルでも、「自」と「他」は、はっきり分けられるものではない。
ようです。
ところで、うんちって、自分でしょうか、自分の一部でしょうか、もう外に出たのだから他者 or 「関係のないもの」でしょうか?
個人的な話をしますと、排便のたびに、自分はうんちをよく観察します。そのほうがいいと、かかりつけのお医者さんに言われて、納得したからです。お医者さんの話では、「出る」うんちには、いろいろなものが「あらわれる」そうです。
さきほど述べましたように、「出る」ものに比べ、「あらわれる」ものはしつこい=しぶとい=下手をするとこわい、のです。だから、うんちに「あらわれるもの」は、あなどれません。
よく考えてみると、そうですよね。自分のなかから出たものですから、自分のなかのことを「知っている」わけです。たとえば、黒いとか、血が混じる、は危険「信号」だと、教わりました。もちろん、固い軟らかいも大切な「信号」です。沈むより、浮くほうがベターだとも教えてもらいました。理由は聞き損ねましたけど、本当らしいです。何かにも書いてありました。
どうやら、
*「出る」ものに「あらわれる」ものを「見る=知覚する」
ことが大切なようです。
これって、自分でもできる、いや、家でなら通常自分でしかできない、医療の基本の1つではないでしょうか。世界の衛生状態が悪い地域では、現在でも、
*「出る」ものに「あらわれる」ものだけでなく、「いる」ものを「見る=知覚する」
ことが大切だと聞きます。
回虫とかギョウチュウのことです。この国でも、そうした線虫たちを撲滅できたわけではないので、油断はできません。そう思うと、いろいろなことを教えてくれる、うんちって、愛おしく、健気な存在ではありませんか?
*「生きる」
という言葉が「息・息をする」と語源的につながっているらしいことを思い出しましょう。息(いき)んで(=気張って)出しただけのことはあります。ごくろうさま。ありがとう。さようなら。と声を掛けてやりたくなります。
実際、その日の気分で、そんな言葉を口にして、水で流してお別れする時もあります。ほぼ毎日(※ヒトによっては、不定期に)出あって、別れる、自分の一部。それが、うんちです。
というわけで、うんちに対して、鼻をつまむのではなく、花を持たせてやりたいのです。ですので、
*「出る」の中心的イメージ(=コア・イメージ)は、うんちをすることである。
という、このブログでのとりあえずの「定義」にご理解をいただければ、嬉しいです。
*
あっ、忘れるところでした。もう1つ、うんちに花を持たせてやりたい大切な理由があるんです。決定打みたいなものです。
どうやら、赤ちゃんや幼児は、うんちにとても愛着を感じているみたいなんです。フロイトが、赤ちゃんがお乳と乳房 or 哺乳瓶の乳首に依存し愛着する時期を口唇期、その次を肛門期と名づけたのを、うさん臭く思っていたのですが、あながち出まかせとも言えないなあ、と感じています。
クレヨンしんちゃんの、うんちやお尻に対する愛着と執着なんて、幼児の気持ちをよく観察した結果みたいで、あなどれないです。オトナが、ばばっちい(※広辞苑によりますと「ばば」にはうんちの意味があるとのことです)とか、ばっちいと怒鳴りつけて、しつけ=押し付け=教育をしなければ、きっと赤ちゃんは、ずっとうんちと戯れていますよ。
ところで、フロイトにはシリアス(= serious ≒ silly ass)なのか、おふざけなのか、決断(けつだん)に苦しむほどのお尻への執着がありますね。キリスト教の影響や、狩猟民族・騎馬民族の血を引く中央ヨーロッパの風土が関係しているのでしょうか? それとも、ユニバーサルなものなのでしょうか? それだけでなく、何かフロイト自身の幼児期のトラウマみたいなものも感じませんか?
おふざけで、以上のようなことを書いているわけではありません。その点についても、ご理解くだされば、幸いです。
さて、あすは、きのうの記事で「漢字+ひらがな」に「分光」(※この言葉が気に入ってしまいました)=変換させた、
*「あらわれる・あらわれ・あらわす・あらわ・ある・あり」「でる・いづ・いずる」「いる」「おる」
に当てる漢字たちについて、少しお勉強をしてみたいです。たとえば、「表」と「現」と「顕」ってどう違うのでしょう。家事の合間に漢和辞典で調べて、せっせとメモつくりをしてみます。
みなさんに、良きお通じが訪れますように。では。
※この文章は、かつてのブログ記事に加筆したものです。https://puboo.jp/users/renhoshino77
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