あう(5)

げんすけ

2020/07/28 08:18


 嘘をつくのが好きな子でした。自分のことです。特に、得意だったのは、「本当であってもおかしくない嘘」です。得意だと自分で思い込んでいて、実は嘘であることが周りにはバレバレだったなんてことも、よくありました。でも、自分では、「本当であってもおかしくない嘘」をつくことは悪いことではない、と信じていました。確信犯であり、常習犯でした。


 本を読むことや、お勉強は苦手です。でも、好きな本や興味が持てることだと話は別です。それこそ寝食を忘れて熱中します。これは、小学生のころから続いている性癖です。他人の話をよく聞くことも苦手だったし、今も苦手です。一方で、読んでもいない本の内容について話すことや、耳を傾けて聞いたわけでもない話の内容を他の人に聞かせることが好きでした。


 恥ずかしながら、今も、時々やっています。でも、このブログでは、自粛しています。このブログを愛しているからです。またこのブログを読んでくださっている人たちを大切にしたいからです。だから、歯切れの悪い、あやふやな書き方になるのです。


 たまに書いている小説となると、また話は別になります。小説は「嘘=フィクション=語り=騙(かた)り」なしでは成立しません。小説を書く時には、嘘をつきまくります。


 いずれにせよ、さきほど述べた「本当であってもおかしくない嘘」を、未だに引きずっている人生を送っている、と言えそうです。


 要するに、嘘つきなのです。


     *


*「わたしは嘘つきだ」


というセンテンスを命題とし、その真偽をめぐって、哲学者や論理学者とか呼ばれる人たちが、唾を飛ばしながら、議論してきたらしいです。「わたしが嘘つき」であれば、その「わたしは嘘つきだ」という発言は「真実」になるのか「嘘」になるのか? といった議論です。個人的には、こうした「言葉=言語の抽象的な部分」=「意味=メッセージ」のレベルをいじること、つまり思考の対象とするのが、すごく苦手です。


 でも、ちょっと言わせてもらうなら、「わたしは嘘つきだ」を命題として考えるのは変だと思います。「わたし」は刻々変化する存在なのだし、「わたし」と名乗る存在も多種多様なのだし、「嘘つきだ」も状況=コンテクストに左右されるわけだし、「嘘」も多義的なものだし、このセンテンス自体が各種あるレトリックの一つでもあり得るのですから。


 もっとも、今述べた私見も一つの意見=感想=考え方でしかありません。いずれにせよ、ある種の哲学者や論理学者は、「わたしは嘘つきだ」をまともに受け取るのです。きっと、生真面目なのでしょうね。


 哲学にもいろいろあり、哲学者や哲学学者にもいろいろいます。形式的な「論理=筋道=理屈」を重視して、真か偽かに、こだわるタイプ。矛盾を、そのまま矛盾として「肯定する=受けとめる=排斥しない=排除しない」タイプ。大きく、この二種類に分けられるような気がします。


 自分は、後者が好きです。断片的な文章を書き散らし、自由奔放に思いついたことを書くので、あちこちで書いたものをつき合わせてみると矛盾している部分が多々ある。そんな哲学、哲学者、哲学学者のあり方に、引かれます。


 だから、ニーチェの書いた文章や、ニーチェの言ったことらしいことを集めた文章を断片的に読むことが好きです。『善悪の彼岸』なんて矛盾に満ちていて、サイコーです。要するに、自分はテキトーな性格なのです。そんなわけで、ぐだぐだしていて自己満足的で駄洒落に満ちた文章を、ついつい書いてしまいます。


     *


 そういえば、やたら、このブログでは「思い出した」だの、「かつて……したことがある」だの、「……みたいな話を見聞きしたことがある」だのと、書いていますね。それは、上で述べたテキトーな性格の反映でもあるようですし、冒頭で述べたように、「本当であってもおかしくない嘘」の自粛の結果でもあるようです。


 また、現在の自分は新しいデータや情報を頭に詰め込む状況にないからだ、という気もします。つまり、新しい知識を「仕入れる=インプットする」だけの、心の余裕も、金銭的余裕もないという意味です。


 インプットするとすれば、せいぜい新聞記事やネット上のデータくらいで、本を読むことはほとんどないです。新聞記事やネット上のデータについても読み流す程度ですから、頭にちゃんと入ったかどうか=インプットされたかどうかは、きわめて怪しいです。「知識」に対して、無精な態度で接する癖がついてしまっているとも言えそうです。


 とはいえ、頭の中に残っている「知識」だか「イメージ」だか知りませんが、「ぐちゃぐちゃ=ごちゃごちゃしたもの」を自分なりに整理しようとして、必死で紙切れに書き留めています。それをもとにして、みなさんが今お読みになっているような長めの文章を書いています。かなり本気で書いています。


「でまかせしゅぎじっこうちゅう」というブログタイトルで記事を書いたことがありました。あのネーミングは、自分の現状 or これまでの人生 and これからの人生をよく表していると思います。頭の中が「ぐちゃぐちゃ=ごちゃごちゃ」であるために、書くという形で、出してみないことには、何が脳味噌に詰まっているのか分からない。だから、


*出るに任せている  ⇒ でまかせを実行している最中 = でまかせしゅぎじっこうちゅう


なのです。もっとも、ちょっと格好をつけるなら、


*「言葉が書ける=言葉を書く」ということは「賭ける=賭く」ということである。


という、ステファヌ・マラルメというフランスの人が言ったと自分が信じ込んでいるフレーズで、「でまかせしゅぎじっこうちゅう」を言い換えることができるかもしれません。その意味では、繰り返しになりますが、本気で書いています。それも、賭け=ギャンブルに夢中になっている人が、本気なのと同じではないかと思っております。


     *


 そんなわけで、考えたり、その考えをメモしたり、そのメモを頼りに文章を書く、しかも本気になって書く、つまりアウトプットは好きなのです。結果として、このブログでは、他の人の書いた文章からの引用がきわめて少ないです。辞書から、言葉や単語を写すのは別としての話です。


 何かの文章を参照しながら、書き写したというのは、『土佐日記』の出だしくらいでしょうか【※『土佐日記』については、「要するに、まなかな、なのだ」(※安心してください。過去の記事を読まなくても分かるように書きますので)に書きました】。


 日本語であれ外国語であれ、古典とか、「偉い」と言われている人の書いた文章をそのまま写して、その原文に添えられていた訳文や解説をまるまる写す。あるいは、それにちょっと手を加えて誤魔化す。または、引用文にちゃんと自分なりの意見か解説を加える。そして、ブログの記事とする。


 そういうのは、少なくとも自分のやり方ではありません。その代わり、「自己輸血」、つまり自分の過去の記事からの引用はよくやります。一時、これはやりすぎだと反省し、自粛したこともあります。でも、ついやってしまいます。


 ここで、お断りしておきたいのは、オリジナリティ=「これは、わたしが書いた独創的な=オリジナルな文章だ」というような大嘘は信じていない、ということです。


*すべての言葉、つまり、話し言葉も書き言葉も、既に過去に誰かが話したり書いたことである。


と信じています。


*オリジナリティなんて、あるわけがない。意図するにせよ、しないにせよ、すべてが引用なのだ。


と思います。


 著作権、知的財産権を否定しているわけでもありません。あれは、何かを書いたり、製作した人が、お金を確保するために是非とも必要な、お金儲けの仕組みです。さもなければ、飢え死にしたり、路頭に迷う人たちが、おおぜい出てきます。金銭的な保証=保障は、ものを書くのを生業にしている人や、何かを製作をしてご飯を食べている人には、絶対に必要です。


     *


 話を嘘に戻します。きのうの記事で、あるおとぎ話をしましたが、あれも嘘=フィクションです。嘘であると同時に、これまで自分が見聞きしてきたことの「引用の産物」でもあります。『引用の織物』という美しい言葉が口から出かけましたが、その言葉をタイトルにする書物を書いて亡くなった宮川淳(みやがわあつし)という、ものすごく詩的で理知的な文章の書き手だった人に失礼なので、やめておきます。


 自分の場合ですと、「引用の産物」というより「引用のごった煮」でしょうか。で、きのう書いたおとぎ話は、北アメリカの先住民をイメージして書きましたが、ある程度「事実」を踏まえています。各部族間で共通語として、ある種の「手話」が用いられていたというのも、「本当」らしいです。ちゃんと記録が残っているというのです。


 とはいえ、あのおとぎ話は大筋においてフィクション=大嘘なのですが、じっくり丁寧に読んでほしい文章でもあるのです。さて、上で述べたことと矛盾することを書きます。こんなせっかちな性格の自分ですが、時には、じっくり読むこともあるのです。


 じっくり読むことが苦手な自分に、「じっくり読むことの素晴らしさ」を教えてくれた人がいました。当ブログの過去の記事である「あえて、その名は挙げない」、「遠い所、遠い国」、「横たわる漱石」で、その経緯については詳しく書いたのですが、別に参照なさらなくてもかまいません。蓮實重彦という人です。


 たとえていうなら、カタツムリ(※ナメクジでもいいのですけど)のように、粘液の分泌の跡を残しながら、書かれた言葉の上をゆっくりと這っていく。そんな読み方の「官能性」を教えてくれた人です。自分にとっては、その人との出会いと、その人の文章との出合いが、とても重要な意味を持っています。


 長い間、おそらく今もなお、その人の文章の影響下にあるのを感じます。じっくり読むとは、言葉の物質的側面、つまり、書き言葉であれば、活字、表記、言葉の配置、言葉の流れ、言葉同士の目配せにも似た身ぶり、言葉の表情、言葉の運動に、徹底的に寄り添い、「とりあえず」全面的に肯定しながら、読むことです。


 これ以上、抽象的な言葉を重ねても、意味はありません。というか、たった今説明しようとした「じっくり読むこと」を裏切ることにしかなりませんので、蓮實重彦氏の初期の文章を読んでくださいと言う以外、何も言えません。


 それでは愛想がないので、前回に自分の書いたおとぎ話について語ることで、それなりの「けじめをつけて=説明責任を果たして」おきたいと思います。自分の書いた文章の解説をするなんて、テキトーを超えてサイテーな行為なのですが、あえて試みてみます。


     *


 前回に書いた「★ ★ ★」の次から始まるおとぎ話の文章を「よく読む」というより、「よく見る」と分かりますが、頻繁に用いられている語があります。以下に、キーワードを添えてリストアップしてみました。



*部部部部部部部部部部部部部部部部部部部部部部部部部部部部部部・散(※わける・わかる)


*族族族族族族族族族族族族族族族族族族族族族族族族族族族族族族族族・連連連連連連・集集集・間間間間間間間間間間間間間間・関関関・交交交交・合合合合合合合合合合合合合合合合合合合合・会会会会・遭遭遭・混・憐(※あう・あつまる・あい・あいだ)


*人人人人人人人人人人人人人人人・火火火火火火火火火火火火火火火火・災災災災・炎炎炎炎・灯灯灯・煙煙・燥・燃・焼・焚(※あう・ひ・どうぐ)


*△△△△△△△・烽烽烽烽・逢・愛(※ほのお・あう・あい)


*身身身身身・手手手手手手・打打打・抱・聞・顔(※どうぐ・からだ・どうさ)


*石石・結結結・破破・知知・絡・骨・草草・薬・笛笛笛・幕幕幕・皮皮・木木木木・棒棒・器器・鼓鼓鼓・金・具(※どうぐ・もの)


*言言言言言言言言言言・話話話話話話話話話話話話話話話・語語・認認・許・議・論・知知・叫・唇・音音音・鳴鳴・吹吹・息・声(※どうぐ・からだ・くち・ことば)


*明明・日日日・暗・映・時・光(※たいよう・ひ・ひかり)



 以上は、きのうのおとぎ話の「テーマ=ストーリー」に関係のありそうな、言葉の物質的側面と意味的側面に注目して、目についた漢字を集めたものです。漢字は、音も表しますが、表意文字だと言われています。


 漢和辞典では、「解字」といって、その漢字の形=成り立ちを併記して説明してあるものが多いです。このシリーズでも触れた白川静という人は、その「解字」で大きな業績を残しました。大和言葉の「語源の解説」に似て、「解字」には、多分に曖昧な部分があったり、こじつけとも取れる解釈があったり、辞典によって説明がまちまちであったりします。


 それでいいのだと思います。各研究者は、それなりに遺跡や古い文書や文献にあたって、それぞれの結論=意見を発表しているだけです。タイムマシーンがない以上、正解は分からないでしょう。


     *


 このブログのスタンスは、


*「正しい」「正しくない」なんてどうでもいい。=「正しい」「正しくない」なんて「ない」。


みたいな考え方に立っていますから、「解字」に「正しい」なんて求めていません。むしろ「楽しい」を求めています。そのことを確認したうえで、もう一度、上のリストを眺めてください。


*声に出してみると「音声」という、「言葉の具体的=物質的な側面」に「であう」。


ことができます。


*じっと目を凝らすと、「形」という具体的=物質的な側面」に「であう」。


ことができます。


*言葉の意味を考えずに、声に出したり、目を凝らすということは、実際には無理。


なので、当然のことながら


*「言葉の抽象的な側面」である「意味」や「ストーリー展開」も意識にのぼってくる。


と言えます。


*「具体=物質」と「抽象=意味」が絡み「あう」。


とも言えるでしょう。上のような、語のリスト作りは、アカデミックな文学研究や文芸批評でも、よく行われているものです。ただ、普通に「じっくりと」文章や文芸作品を読むさいには、頭の中で、たぶんリスト作りに似た作業が無意識に生じています。


 みなさんが「じっくりと」読書なさるさいにも、きっと似たような作業が、頭の中で行われているはずです。「読み飛ばす」「斜め読み」する場合には、疑問ですけど。いや、案外、キーワードを拾うという作業は、語のリスト作りに近いかもしれません。「速読」は、いつか、「じっくりと」考えてみたいテーマです。ここではパスします。


     *


 大学時代に主に外国語で書かれた文学作品を、まるで解剖するような形で「じっくりと」読む作業というか訓練をさせられました。その中で、記憶に残っている固有名詞を挙げます。ジャン・リカルドゥという人の批評は、笑い転げたくなるほど、奇抜で面白かったです。「ものすごいこじつけ」をするのですが、それが「なかなか言えていて」、絶句してしまい、その直後に笑いがこみ上げてくる。そんな感じでした。


 ガストン・バシュラールという理系なのか文系なのかよく分からない人の文芸批評も、いろいろなツールを駆使して楽しませてくれました。


 日本人では、芳川泰久という人が、確か(※うろ覚えで恐縮ですが)有島武郎のある小説を「十」(※十字架の形です)に注目しながら、キリスト教とからめて分析した痛快な批評を書きました。芳川氏は、夏目漱石(そうせき)の作品を「僧籍(そうせき)、送籍(そうせき)、双籍(そうせき)」をキーワードにして、漱石が一時期養子に出されたこと、兵役を逃れるために北海道に戸籍を移したことなどとからめて、これまた興味深い論文を発表しました。


 以上は、昔の話です。今は、こうした批評は流行らないのでしょうか。そうそう、渡部直己という人も忘れてはなりません。なかなか遊び心のある批評活動を展開していらっしゃいます。こうした批評の方法に関心をお持ちになった方は、今挙げた、フランス人二人、日本人二人、そして、さきほど触れた蓮實重彦=蓮実重彦氏の名前を、グーグルやヤフーなどで検索することをお勧めします。


     *


 さて前回に、小学生くらいのコドモになったつもりで、じっくり読んでほしいと書いたのは、以上述べたようなことなのです。


 コドモであれば、上記のリストにあるように、たとえば「人」と「火」と「炎」と「災」が似ていることを目ざとく感じ取ります。そうしたコドモの感覚に対し、


「人と火が似てるだって? 『ひ』と『ひと』も似てるだって? でたらめじゃないか。やっぱり、コドモだなあ」


とか、


「そんなふうに思うなんて、無知な証拠だよ」


とか言う、オトナがいることは容易に予想できます。


 オトナの中には、上記のリストにあるように、「烽(=ほのお)」と「逢(=逢い引きのあい)」と「愛(=あい」との結びつきを感じ取る人もいるでしょう。これは、直感的な「ひらめき」であるとはいえ、抽象的な思考が働いているからです。そういう感想を述べたオトナに対し、


「そんなの素人の思いつきだよ」


とか、


「単なる連想ゲームもどきのデタラメ」


と言い返すオトナがいることも、容易に想像できます。


 なお、「烽(=ほのお)」と「逢(=逢い引きのあい)」と「愛(=あい」の三語の列に△が入っているのは、ある漢和辞典に△を用いた「解字」があったからです。おとぎ話を書く時に△を使ったのは偶然です。こうした偶然は、ものを書いていると、なぜかよく起こります。


 オトナの中には、「『人間』という字は『ひとと、あいだ、から成り立っているのか』」とあらためて感心する人もいるでしょう。それを聞いて、


「馬鹿だなあ」


とか、


「単純な発想だなあ」


と言う人もいるでしょう。


 そうした人の思いが言葉になって、ああでもないこうでもないと、切りのない=トリトメのない会話が交わされることもあるでしょうし、ないこともあるでしょう。


 普通は、オトナはこういう「荒唐無稽な」感想を心に抱いても、たいてい黙っています。他人に対しては、もっと気のきいた感想を口にするものです。だからこそ、「大人げなくない=分別ある」オトナとして扱われるのです。


     *


*「漢字」は、一種の「信号」である。


と思います。または、


*「漢字」とは、何かと何かが「あう」ことによって、熱が生じて「火」(※比喩です)が起こった結果として生まれる「信号」である。


あるいは、


*漢字とは、これから先「あう=逢う」ことを期待しての烽火(=のろし)(※比喩です)、つまり一種の「信号」である。


ではないでしょうか。「何かと何かが「あう」」さいの、「何か」は森羅万象くらいに広い意味でとってください。「ヒトが作ったもの=ヒトが知覚したもの=ヒトの頭の中で生じたもの」だけでなく、「つくったもの=創造者=想像者」としてのヒトも「何か=森羅万象」に含まれます。


 そうであれば、


*「信号」とは、創造者=ヒト=想像者が、頭の中で想像=創造したものである「森羅万象」の明滅である。


と、比喩的に言うこともできるかもしれません。


 たった今述べたことが、おとぎ話を「じっくり読む」ことで、「以心伝心」とか「阿吽の呼吸」みたいに(※もちろん比喩です)、もしもあなたに通じたとすれば、ものすごく嬉しいです。いや、それこそ夢物語=おとぎ話ですね。かなわぬ夢でしょう。


     *


 今回は、漢字ばかり見てきましたが、きのうの記事で扱った例のおとぎ話には、ひらがな・カタカナ・数字・記号(※たとえば、○)・符号(※「 」)・句読点が用いられています。もちろん、ストーリー展開も重要な要素です。


 そうした、読解のための要素=パーツを全部、味わいながら、ヒトは「じっくりと読む」ことができる。そのことを、きょうはみなさんに思い出してほしいと思っています。そうした「読み」は、幼いころに、読み聞かせをしてもらいながら、あるいは、文字を覚えたてのころの読書のさいに、実践していたはずです。言葉のつらなりを文として読むことは、見えるのに見えないという錯覚と見えるものを見ないという惰性に支えられた制度なのです。分別(ふんべつ・ぶんべつ)なしには成立しない行為とも言えるでしょう。だから、ヒトはヒトなのですけど。


 いずれにせよ、上のリスト=漢字の羅列で挙げた言葉の切れ端は、あのおとぎ話の中に「ある」のです。「存在している」のです。比喩的に言うなら、「生きている」のです。ヒトが書いた「もの」でありながら、「ある」「存在している」「生きている」のです。それを感じ取ることが、「じっくり読む」ことなのです。



※この文章は、かつてのブログ記事に加筆したものです。https://puboo.jp/users/renhoshino77




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