テリトリー(5)
星野廉
2020/09/20 11:48 フォローする
物心がついた頃から、親やまわりの人たちから、よく注意されていたことがありました。自分を一人称で呼べなかったのです。「○○ちゃん」という具合に、自分の名を略して「ちゃん」をつけた愛称で、自分を指していたのです。「野原しんのすけ」なら、自分を「しんちゃん」と呼ぶようなものです。「おら」と言えなかったのです。
いつの間にか、自分を一人称で呼ぶようにはなりましたが、どうして当時、あのような言行をしていたのか、今振り返ってみると、何となく分かる部分があるので、はっとします。つまり、あの性癖の根っこにある気持ちが、現在、
*「分からない」のではなく、むしろ「分かる」気がする。
のですが、それは、たぶん、
*「分かる」というより、「共感できる」
に近い気がします。今、そう考えて、
*はっとする=緊張感を覚える=ビビる
のは、おそらく、
*今もそうしたい願望=欲求が自分のなかに潜んでいる
からではないか、と思うからです。こんな年になって、自分のことを「○○ちゃん」なんて呼びたい気持ちがこころの奥にあるとしたら、ちょっと「恥ずかしい」です。他人様から見れば、きっと「気味が悪い」でしょうね。
そうした屈折した思いがあるからなのか、よく分からないのですが、書き言葉、特に、私的な書き物、たとえば、日記、身辺雑記、ブログなどでは、一人称を省いた文章を書いています。これは意識的な行動です。このブログでも、せいぜい、
*自分 or こちら
という言葉をつかっています。この2つは、「広義の一人称」だという見方もできるでしょう。「自分」や「こちら」のほかに、
*……しているこのアホ or このブログの開設者
みたいに三人称っぽく、自分自身を指す場合もあります。
*私、わたし、わし、ワシ、おれ、あたし、あたい、ぼく
が出てくるとしたら、記事に出てくる登場人物の発言の中か、かつて、「架空書評」を書いてくださっていた詩人の孟宗竹真(もうそうだけまこと)氏のブックレビューにおいて、でしょう。「でまかせしゅぎじっこうちゅう」では、確か、「ワシ」か「わし」をつかっていたと思いますが、あれは、自分の分身というより、記事に登場させたキャラクターのセリフみたいなものです。
絶対とは言い切れませんが、ブログのなかで、自分自身のことを、上で挙げた「私、わたし……」という一人称を用いて指したことはないと思います。けっこう、毎日、そのことには気をつかっているのです。
なぜかは、分かりませんが、そうしています。もっとも、メールや手紙や、そのほか他人様に当てた文章では、いわゆる一人称を用いて書いています。そうしなければ、やりにくくて生活できません。もちろん、話し言葉では、頻繁に一人称をつかっています。
*
人称にかぎらず、言葉に対するこうしたこだわりは、何らかの形で、みなさん、お持ちではないでしょうか? 自分はこの言葉は絶対につかわない。この漢字はつかわない。これは漢字でなくひらがなで書く。これはひらがなではなくカタカナで書く。あのような言葉遣いは決してしない。という具合に、です。意識してそうしている場合も、無意識でしている場合もあるでしょう。こうしたこだわりが、エスカレートすると、
*□□さんらしい言葉遣い or 文章 or 文体
なんて言われたりするのではないでしょうか。
別に、プロアマの別を問わない話です。他人様のブログを拝読すると、そうした思いを強くします。なかには、すごく個性的だなあ、と感心する文章にめぐりあうことがあります。ある年代、または、ある種の趣味や傾向を共有する人たちに特有なものらしい言葉遣いも見られます。その意味では、
*ネット上の掲示板やブログは、文章表現上の自由度がきわめて高い「媒体=伝達の手段」だ。
と言えそうです。
このブログでも、かなり好き放題な書き方をしています。また、メールとブログという手段が登場したことにより、定期的に文章を書く人たちが飛躍的に増えたという気もします。個人的には、好ましい現象だと思っています。だから、ケータイやネットの利用に対する、一部の現象を理由にした国家による規制には反対です。詳しくは、「なぜ、ケータイが」をご一読願います。
手紙を利用した犯罪が置きたから、手紙の利用を規制する。道路でトラブルが起きたから、道路の利用を規制(※検問の大幅な増加、関所の設置、道路の頻繁な封鎖・使用禁止という意味です)する。今、そんなことを国家がはじめたら、国民の猛反対にあうことでしょう。
手紙の検閲は、明治・大正・昭和には、対象を絞って行われていました。第2次世界大戦中は常時ありました。道路の規制は、戒厳令、夜間外出禁止令という形でありましたし、江戸時代には関所なんてありましたね。
何か新しいものができると、規制しようとする、または仕切ろうとする。それが国家です。または、社会=共同体です。現在は、ケータイやインターネットが過渡期にありますから、国家の標的にされがちです。
いろいろな規制が提案されています。一部、実行されてもいます。でも、近いうちには、その規制も笑い話になるかもしれません。あくまでも、「かもしれない」ですけど。歩行者天国みたいに、いったん規制されたら、もうアウトみたいなものも、きっとあるでしょう。
*
話を一人称にもどしますが、日本語では、会話も地の文も含め、一人称をまったく用いないで、小説を書くことが可能です。顕著な例を挙げると翻訳です。故人ですが、田中小実昌(たなかこみまさ)という作家、エッセイスト、映画評論家、哲学者で、翻訳家としてもよく知られた人がいました。昔、「11PM」という名の夜のバラエティ番組で、なぜかレギュラーのように出ていたこともありました。
*「なぜか出ている」
そんな存在感をかもし出す、希有な個性の持ち主でした。翻訳家としては、抜群に自然な日本語を書く人でした。小説も、とぼけた文体で深いことをさらりと書く、そんな人でした。タイトルは忘れましたが、田中氏が、英語の原文では一人称で語られている小説を、一人称を用いずに翻訳したものがあるというのは、翻訳家の世界では有名な話だそうです。
小鷹信光(こたかのぶみつ)という現役というかベテランの翻訳家・作家がいらっしゃいますが、その方がロス・マクドナルド原作の一人称で書かれた短編を、一人称を使用せずに訳したというのも、その業界ではよく知られた話だということです。日本語では、そういうことができるんですね。これが翻訳となると、名人芸です。
*
ところで、冒頭で書いた、
*自分を一人称で呼べなかった
幼い頃の自分の心理を分析したくなりました。図式化すると、次のような感じです。
*恥ずかしい =/or 嫌だ and/or 分かんない ≒ こんなんでいいのかなあ
という具合です。
要するに、気持ちが整理できなくて、
*ぐちゃぐちゃ、ごちゃごちゃ
って感じですね。
で、ふと思ったのですが、もしも「○○ちゃん」と自分を呼ぶことを禁止されたとしたら、
*こわい
という気持ちも強かったような気もするのです。禁止されたと想像しただけで、その「こわい」という思いが、今でもリアルに全身を貫きます。
以前にも、書いたことがありますが、自分 or この記事を書いているアホは、公衆トイレなどで他人がそばにいると、おしっこができません。すごく緊張するのです。意識しはじめたのは小学校の高学年くらいでしょうか。
これって、とても困るんです。かなり不自由します。自分がここまで生きてきたうちで、行動範囲が極端に狭かったり、人付き合いがきわめて苦手なのは、この傾向=性癖=ひょとして病気? が大きく影響しているからではないか、と思うほどです。一時は、そうとう真剣に悩んだものです。
小説家を志していた頃の複数の習作に、そうした性癖の登場人物が出てきます。主要なキャラクターでも、ちょい役でも、出てきます。つい書いちゃうんです。で、いろいろな不自由や都合の悪いことがあって、悩んでいた頃、TIMEという米国の雑誌で「Fear(恐怖症)」とかタイトルの特集があり、そのなかで、ずばり自分と同じ悩みを持つ人たちがいると書かれていたのを読み、ずいぶん勇気づけられたし、励みになったことを覚えています。
*
「○○恐怖症」という言葉があります。グーグルなんかで検索すると、びっくりするほどの数のサイトがヒットし、また、びっくりするほどの多種多様な「恐怖症」をかかえている人たちがいるらしいことが、分かります。詳細については、痛々しい部分がたくさんあるので触れません。興味のある方は、ぜひ、ググるなり、ヤフってください。自分と似た人たちがいるかもしれませんよ。
「恐怖症」についてのサイトを覗いてみて、自分なりに感じたことを書いてみます。具体的に、2つだけ例を挙げます。
*xenophobia=外国人(or 未知の人や物)に対する恐怖・憎しみ・嫌悪、ゼノフォービア ; xenophobe=外国人(or 未知の人や物)嫌いの人、外国人恐怖者、外国嫌いの人、ゼノフォーブ
*homophobia=同性愛恐怖、同性愛嫌悪 ; homophobe=同性愛嫌悪者、同性愛恐怖者、同性愛恐怖症の人、同性愛に恐怖心(or 嫌悪感)をいだく人
なぜ英語から紹介してあるのかと申しますと、以上の傾向や傾向を示す人が、この国にも数多くいるにもかかわらず、それが名詞として話し言葉や書き言葉に登場する頻度が、たとえば、英米に比べてとても低いからです。上の日本語訳をご覧ください。あまり聞いたり読んだりした覚えがないのはありませんか?
正確に言えば、日本語では、「わたしは○○が、嫌いだ or 苦手だ」「○○なんてくそくらえ」みたいに言うのがふつうだと思います。でも、英語では、上の4つの単語を非常によく目にします。大切なことは、表現の仕方ではなく、とにかく、
*上記の傾向=現象が、この国でも少なからず見られる
ということです。
上記の2つの例を挙げた理由が、もう1つあります。「○○恐怖症」=「○○-phobia」を検索すると、さきほど述べましたように、たくさんの種類の「恐怖症」があると分かります。要するに
*「○○が怖い」
というヒトがたくさんいるということです。ただし、上の xenophobia と homophobia の2つには、ほかの「恐怖症」にはあまり見られない、きわだって目立つ特徴があるのです。それは、
*「怖い」「恐怖」といった言葉だけでなく、同時に「嫌い」「嫌悪・憎悪」という言葉も出てくる
という点です。とりわけ注目すべき点は、「憎悪=憎む」です。これは、「攻撃」にまで通じる心理です。
*「怖い」「恐怖」+「嫌い」「嫌悪・憎悪」は、ほかにあまり見当たらない。
とも言えそうなのです。上記の2例には、さらに特徴的な傾向が見られます。
*「怖い」「恐怖」といった言葉に加えて、「嫌い」「嫌悪・憎悪」という言葉だけでなく、「恥ずかしい」「羞恥心」という言葉もまた出てくる。
みたいなのです。言い換えると、
*「怖い」「恐怖」+「嫌い」「嫌悪・憎悪」+「恥ずかしい」「羞恥心」は、ほかにあまり見当たらない。
となります。
ここで、お断りしておきますが、以上は個人的な感想です。xenophobia (or xenophobe)と homophobia (or homophobe)という英語が出てくる英語のサイトや雑誌・新聞・書籍を読んでいると、前後関係から、そんな感じがする。そんなニュアンスがあるようだ。という意味です。
*
信じるに値する根拠があるのかどうかは、知らないのですが、次のよく知られた例を挙げると、分かりやすいと思います。
ヒトラーです。短絡的な言い方になり恐縮ですが、以下のようになります。
*自分にはユダヤ人の血が混じっているかもしれない。 or 自分にはユダヤ人の血が混じっているという噂がある。(=羞恥心・不安・動揺) ⇒ 自分のなかにあるかもしれない「内なるユダヤ人」が怖い。(=恐怖) ⇒ ユダヤ人一般は国家および社会にとって脅威である。(=恐怖・憎悪・敵対) ⇒ ユダヤ人を排除しよう。(=恐怖・憎悪・敵対・攻撃)
以上の図式を、外国人(or 未知の人や物)一般に対する、恐怖・憎しみ・嫌悪に当てはめてみると、そうした現象の構造=仕組み=メカニズム=動きが、よく分かると思われます。少し変えなければならないところもありますので、実際にやってみますね。
*自分も海外に出ればよそ者つまり外国人だし、島のまわりは全部外国だ。(=羞恥心・不安・動揺) ⇒ そんな立場に置かれた自分が怖い。(=恐怖) ⇒ この国を含めてどの国でも外国人は国家および社会にとって脅威である。(=恐怖・憎悪・敵対) ⇒ 外国人を排除しよう。(=恐怖・憎悪・敵対・攻撃)
こんな感じでしょうか。今度は、「未知の人や物」の変種である、変人で試してみましょう。
*自分はまわりから変人だと思われているかもしれない。or 自分が変人だと思われている節がある。(=羞恥心・不安・動揺) ⇒ 自分のなかにあるかもしれない「変人」が怖い。(=恐怖) ⇒ 変人は国家および社会にとって脅威である。(=恐怖・憎悪・敵対) ⇒ 変人を排除しよう。(=恐怖・憎悪・敵対・攻撃)
さっき英語を読んでいると、前後関係から、ある種のニュアンスが感じられるという意味のことを書きましたが、その「ある種のニュアンス」という曖昧なものを、以上のような図式をつかうことにより、表す=「見える化」することができます。
こうした現象の背後=根底にある心理は、
*自分に似たもの(者・物)を感じ取る ⇒ その自分に似たもの(者・物)を恐れる=憎む=ビビる=パニクる
と単純化できると思われます。それが、閉所恐怖症、高所恐怖症、クモ恐怖症、先端恐怖症などポピュラーな恐怖症と大きく異なるところです。欧米の文献で homophobia について書かれているものを読むと、特にその点が強調されています。「自分が○○の傾向があるから、そうでないという証(あかし)に攻撃する」というわけです。
*恐怖と憎悪の対象に、自分に似たところ=共通点を見いだすことが原点
なのです。
*外国人(or 未知の人や物) or 異形(いぎょう)の者 or よそ者 or 変わり者 or 少数者or マイノリティー or 異端者 or 反体制派 or 新しい考えの持ち主などに対する、恐怖・憎しみ・嫌悪・敵対・攻撃・迫害
について言うなら、
*日本では、上述の単純化された図式は、「見える化」されていないため、「見にくい」。その見にくさが巧妙に隠されているからだと考えるならば「醜い」。
と言えそうです。要するに、
*この国は、個性的なもの(者・物)=目立つもの(者・物)=変わったもの(者・物)=新しいもの(者・物)=よそのもの(者・物)=出るくい=一時的な成功者=異質な現象に寛容ではない。
ということです。
*
いやー、きな臭いお話になってきましたね。きな臭い=生臭い=物騒だ=不穏だは、大の苦手なのです。抑うつ状態で、こういうことを書くことは、ぜんぜん良いことではないのは分かっています。でも、
*書かなければならない
という思いのほうが、強いので、このまま続けさせてください。
日本語で書かれた、
*「○○が怖い」=恐怖、「○○を排除すべきだ」=嫌悪・憎悪・敵対・攻撃・迫害
は、実際には、このように直接的には表現されません。
*見えにくい
のです。もちろん、直接的に言葉にする人たちもいます。でも、そうした言動は、はしたないとか、短絡的だとか、差別的だとか、言い過ぎだとか、やり過ぎだとか、「本音は隠せ」だとか、アホだとか、いろいろな罵倒を浴びせられます。そういう、
*直接的な言動を避けたがる社会 or 共同体 or 国家
なのでしょう。
なにしろ、以心伝心、阿吽の呼吸、沈黙は美徳、出るくいは打たれる、長い物には巻かれろ、なんていう、わけの分からなかったり、窮屈であったりする言葉が珍重される社会 or 共同体 or 国家なのです。奥ゆかしいと言えば奥ゆかしい、ずるいと言えばずるい、陰湿と言えば陰湿、みにくいと言えばみにくい、と言えそうです。
その背景には、この国が島国であることが大きく影響している、という説もあります。ただし、以上述べてきたようなことは、この社会 or 共同体 or 国家に対するイメージの問題ですから、
*人それぞれが違ったイメージをいだく
でしょう。
みなさんは、どうお感じになりますか?
*
さきほどのヒトラーの図式とその応用例の図式は、かなり使い勝手のいいツールになり得ます。外国人や外国の物だけでなく、同性愛、政治、宗教、信条、好み、グループ、派閥という具合に、いろいろなものに当てはめてみると、そうした
*言葉をめぐるさまざまなトラブルや問題の仕組み=メカニズム
がよく理解できるのではないでしょうか。できれば、みなさん、試してみてください。
ここで、ヒトラーの図式の、別の「変種=ちょっと違うけど似てるバージョン」を紹介します。
*自分は王様=絶対的支配者になりたいけど(=願望・野心・下心・「こんちくしょう」)、ヤバいから直接的に言葉で表すわけにはいかない(=都合・不自由・「こんちくしょう」)。 ⇒ 近くに、自分がなりたい王様=絶対的支配者と激似のやつがいるが(=羨望・憧れ・「こんちくしょう」)、気になって仕方がない(愛憎相半ば・「こんちくしょう」)。 ⇒ 危険きわまりないあいつとあいつの手下どもをこのままのさぼらせておくわけにはいかない(=恐怖・憎悪・敵対・「こんちくしょう」)。 ⇒ ここには意気地のない頼りないやつらばかりいるけど(=動揺・不安・欲求不満・「こんちくしょう」)、こっちの命令だけは聞くようにしつけておいてXデーにそなえよう(=憎悪・敵対・攻撃・「こんちくしょう」)。
以上は、ヒトラーになり損ねている者の図式とでも申しましょうか。
お分かりになったと存じますが、簡単に申しますと
*「近親憎悪」
が根底にあります。自分に似ている相手を見つけ出し、徹底的に憎みます。その相手は、
*「仮想敵国」
と申しますが、この言葉はめったに口にされません。一種の禁句=タブーです。禁句を口にすると、上の図式の最初のセンテンスに隠れている、「願望・野心・下心・『こんちくしょう』」がばれちゃうので、言わないのです。
この「近親憎悪」と「仮想敵国」をこころにいだく根底=背景には、さきほど述べた
*自分に似たもの(者・物)を感じ取る ⇒ その自分に似たもの(者・物)を恐れる=憎む=ビビる=パニクる
*恐怖と憎悪の対象に、自分に似たところ=共通点を見いだすことが原点
という心理=病理が働いていることは言うまでもありません。でも、残念なことに、
*選挙という儀式=セレモニー=現在ではほぼイメージ戦=本来は権限委譲(※「移譲」ではありませんよ)・委託・請負
を経ることによって、
*「小さなものから大きなものまで」、さまざまなレベルの権力を握った人
のなかに、非常に多く見られます。
特徴は、威張っている、1人では何もできない、まわりから甘やかされて育ってきている、群れる、やたら強制する、命令に逆らう者は手下にそっと命じて罰する、意に沿うような行動を手下が自らするように刷り込む、選挙になると猫をかぶるのがうまい、親族を核にした世襲制王朝をつくりはじめる、などなど、です。
要するに、要注意ということです。ひょこひょことついていくと、たいてい、
*いちばんつらい仕事を押し付けられます。
ごく一部の人だけが、いい思いをすることができそうです。要注意だという以外、言うべき言葉はありません。
*
きょう、述べてきたことは、ぜんぶ、テリトリーと関係があります。
名前、言葉、一人称、□□さんらしい言葉遣い or 文章 or 文体、ブログ、ネット上の掲示板、インターネット、メール、ケータイ、手紙、○○恐怖症、怖い、嫌い、恥ずかしい、見えにくい、イメージ、ヒトラー、よそもの、変わったもの、異質なもの、近親憎悪、選挙、権限委譲、要注意、これらはすべてが、テリトリーとつながっています。
当然と言えば、当然です。みんな言葉なんですから。テリトリーをつくることは、
*名前(=言葉)を付けて、自分のものだと言い張る
ことからはじまります。そして、名づけた
*言葉でヒトを動かす
のです。ヒトを動かす言葉には、
*「□□、万歳!」
もあれば、
*「□□をやっつけろ!」
もあります。
やっぱり、
*言葉はあなどれない
と落ち着いたところで、きょうは、ここまでにしておきます。
きな臭いお話を読んでくださった方に、お礼を申し上げます。どうも、ありがとうございました。また、あす、このサイトでお待ちしております。
※この文章は、かつてのブログ記事に加筆したものです。https://puboo.jp/users/renhoshino77
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