げん・言 -5-

星野廉

2020/09/21 07:54


「わけがわからない」は「訳が分からない」と現在ではふつう表記されますが、語源を考慮すると「分けが分からない」と書いてもかまわないと思われます。また、慣用や語源を無視して、「我毛が分からない」や「WAKEがわからない」でもいいと思います。


「わける・わかる・わかれる・わけ」に当てることができそうな漢字には、「分・判・解・別・訳」などがあります。ひらがなと漢字を見比べてみると、ぼんやりとしたイメージのようなものが浮かんでくるというか、感じられます。


 そのあいまいな感じを、「わける・わかる・わかれる・わけ」を漢字という手段によって「わけた」と言えるような気もしますが、言葉は何とでも言えるみたいなので、とりあえず、「わけない」状態と呼んでみましょう。


 いかがわしく、うさんくさい話ですが、それはヒトのなすことすべてに言える属性ですから、あまり気にしなくてもいいし、全面的に受け入れて居直ってもかまわないというふうに、ちょっと柔軟に考えてみませんか。


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「わけない」状態は、「わける」状態と大差ないとも言えるような気がします。「わける」と「わけない」はほぼ同義であるとも言えそうです。このように、言葉のうえで矛盾した言い方になると、眉をしかめるヒトが必ずいるみたいです。


 矛盾恐怖症とでも言ったらいいのでしょうか。「理屈に合わない」、「話の筋道が立っていない」、「論理的に破綻(はたん)している」、「つじつまが合わない」、「両立しない」といったフレーズが示す「言葉とイメージのありよう」に不安感や嫌悪感を覚えるみたいです。


 個人的には、矛盾というのは、言葉というシステムを使う以上、避けられない状況だと考えています。


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 言葉・言語は、ヒトが「つくる」ものなのか、ヒトという種に「備わっている」ものなのか、「つくる」と「備わっている」の二面性で語るべきものなのか。ある程度の必然性や整合性や合理性があるものなのか、恣意(しい)的で偶然性やヒトを取りまく環境・状況に左右されるものなのか。


 そうした問題については、知りません。いわゆる学問の世界でどんな議論が行われているかに関しても知りません。


 言葉・言語が、何らかの仕組みが働いている体系という意味でのシステムだという気はします。ただし、「ヒトが使う」もののようでありながら、「ヒトに主導権がある」とは考えられません。ヒトに主導権があるとするなら、ヒトはこれほど極端な形で、言葉・言語に振りまわされてはいないでしょう。


 誤解・曲解・伝達の失敗・思考上の誤謬らしきもの・再現の不可能性など、深刻な問題が日常的に、さまざまなレベルで発生しているようです。言葉・言語は、ヒトの期待を裏切る程度の欠陥品ではないか、とさえ思われます。


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「わけない」状態、言い換えると、言葉を用いても世界・宇宙・森羅万象は「わけられない・わからない」状態を受け入れるわけにはいかない分野があります。


 代表的な例を挙げると、自然科学と言えるでしょう。たとえば、ヒトを大気圏外の宇宙空間に送り込むためには、物理学、数学、天文学、化学、医学、工学をはじめとする、ありとあらゆる自然科学の諸分野の知識と技術が必要になると考えられます。


 ヒトの代理のチャンピョンみたいな存在と化した、いわゆるコンピューターと、それによって制御されている多数の機械の集合であるシステムが、中心的な役割を果たしていることは言うまでもありません。かつて、ヒトは、仲間を月面に送りこみ歩かせるという計画を立て、実現したことがありました。この出来事によってヒトが得た満足感と誇りと自信は、大きなものだと思われます。


 月面着陸と宇宙空間での居住という、上述の2つの大きな出来事を達成するためには、「わけない」状態、つまり言葉・言語を使用することによって矛盾が生じる状態を受け入れるわけにはいきません。有効性と信頼性に欠けるからです。


「わける・わかる」状態が不可欠です。「割り切れない」状態ではなく、「割り切れる」状態が求められると言ってもよさそうです。簡単な言い方をすれば、「1+1=2」が常に成立する状態でなければならないという意味です。ときどき、「1+1=3」が成立する状態では困るのです。


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「わける・わかる・割り切れる」状態が求められるのは、主にヒトがつくった機械やシステムが働いている場であると言えそうです。ヒトが、ある目的のために、「わける・わかる・割り切れる」という矛盾の生じない仕組みをつくっているわけですから、その機械やシステムに矛盾が起きないのは当然だとも言えます。


 機械はその目的を首尾よく達成するように作られている、ということでしょう。正確に言えば、そういう具合に働くようにヒトが作っているわけです。きわめて高い精度を備えた、矛盾のない状態や、必然性の支配する状態、整合性の機能する状態は、人為的な状態、つまりヒトが作った状態だという気がします。


 一方で、世界・宇宙・森羅万象は圧倒的な偶然性に満ちているという気がします。ヒトが手製の機械の一種である計器を使って観測した場合には、世界・宇宙・森羅万象に必然性と整合性が「見える」こともあるでしょうが、「まばらな」必然性・整合性という感じがつきまといます。もちろん、あくまでも個人的な感想です。


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「まばら」。興味引かれるイメージを喚起してくれる言葉です。「ま」「ばら」でしょうか。「ま・ ma 」が気にかかります。


 あーん、あーむ、まー、むあー、あーむ


「 m ・ん・む」と「 a ・あ」が出逢(=であ)った「ま」を目にすると、そわそわします。


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 気になったので「まばら・疎ら」を広辞苑で引いてみました。語源の解説らしき記述として、「間疎(=まあら)」の意」とありました。「ま・間・あいだ・あい・あわい」という、大好きな言葉が出てきたので、うれしかったです。


 辞書を読むのが数少ない趣味の1つなので、家にあるいちばん大きな国語辞典である広辞苑をよく読みますと言うか、よく見ます。「正しい」対「正しくない」にこだわるとか、権威にすがるとかいう気持ちはありません。言葉に遊んでもらう。たわむれてもらう。それが楽しい。それくらいの感じです。念のために、申し添えておきます。


 ついでに「間疎(=まあら)」の「あら」の親戚らしい、「あら・荒・粗」も調べてみました。「あれはてた」「荒々しい」「こまやかでない」「くわしくない」「まばらな」「人工をくわえぬ」「かたい」という言葉が見えます。反対語として、「にき・和」が紹介されていたので、さっそく会(=あ)いに行ってみました。


「にき・和・熟」の項には、「おだやかな」「やわらかな」「こまかい」「成熟した」という言葉が顔を合(=あ)わせていました。「にこ・和・柔」が紹介されていて、「にこげ・和毛」と「にっこり」にまで遇(=あ)うことができました。


 まさに、「わ・和・輪・環・羽・把・話」ですね。


「あう・合う・会う・遇う・逢う・遭う」と「わける・わかれる・分・判・解・別・訳」は、やっぱりつながっているらしいことが分(=わ)かりました。ま違ったところをうろうろしていたための錯覚かもし礼ま世んが、加ま以ません。


 言葉にも、機械にも、システムにも、ヒトの行動にも、ヒトの脳や諸器官・諸機能にも、誤作動は付きものみたいです。


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「わける・割り切れる」状態を仕組みとしてつくるという作業は、精緻をきわめるだろうと考えられます。誤りつまりエラーは許されないという意味です。許されるとしても、確率的にかなり低いものでなければならないでしょう。


 とはいうものの、ノイズや、エラー、誤作動、原因不明の故障やトラブルを100パーセントなくすことは不可能なようです。不測の事態とか、天災と呼ばれているものも、ときとして起こります。


 ヒトがつくる機械やシステムは、石器や土器の延長、つまり広義の道具の進化したものだと言っても良さそうです。石器や土器と機械やシステムとの違いは、複雑さと精密さだと思われます。


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 広義の道具の特性として、「非人称的で匿名的でニュートラル」が挙げられます。ヒトに深くかかわりながら、ヒトがコントロールできない自立した状態にあるという意味です。


 ナイフとしての機能を持つ石器を例に取りましょう。この石器を使えば、動植物を切ったり、裂いたり、刺したり、皮を剥いだり、刻むといった、ヒトの手や歯だけはできない作業が可能になります。


 ここで大切なことは、道具とヒトとの関係は、ヒトが主で道具が従であるとは言い切れない点です。ある機能を備えた道具を手にしたとき、ヒトはその道具に依存するとも言えそうです。いったんその道具を使うことを覚えると、その分だけヒトは、器用あるいは有能になると同時に、不器用あるいは無能になるとも見なすことができるように思います。


 その道具があり、その道具を使用する限りにおいて、ヒトは器用さと有能さを身につけたという意味です。逆に言うと、その道具なしでは、ヒトは拡大した器用さと有能さを発揮できないのです。ヒトは、その状況を何かを「失った」と感じるだろうと思います。がっかりするということです。


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 ヒトは道具を「使う」対象、つまり従者・奴隷・家畜と同列に見なしていると考えられます。ここに、「使う」という言葉・イメージを共通項とした、「比喩の仕組み」が働いていると見ることも可能でしょう。


 ヒトには、同じヒトという種である仲間も含め、自分以外の森羅万象を「使う」ことができるという「比喩の仕組み」が備わっている、端的に言えば、そうした「思い込み」が刷り込まれているような気がします。


 でも、ヒトが「使う」対象に、「(ヒトによって)使われる」習性なり、仕組みなり、システムが備わっているかどうかは、ヒトには決定できないと考えられます。その対象とは、ヒトであったり、ヒト以外の生き物、自然物、人工物などすべてを指します。


 ヒトが仲間を月に送り込む計画とその計画を実現するためのさまざまな機械やシステム(※人工物です)を例に挙げると、ヒトは機械やシステムを「使う」と同時に、それらに「依存する」状況にあるとも考えられる気がします。


 機械やシステムは、「非人称的で匿名的でニュートラル」、つまり、ヒトに深くかかわりながら、ヒトがコントロールできない自立した状態にありますから、誤作動、故障、失敗と呼ばれる事態が起こる可能性をなくすことはできません。もちろん、精度と確率の問題と言えますが、その「精度」・「確率」という言葉とイメージでさえ、ヒトから自立した状態にあると考えられます。


 いずれにせよ、ヒトが「使う」対象に「依存する」という状況は、たとえて言えば、真っ裸のヒトが、富士山のふもとの樹林で長く生きられないだろうという意味で、かなり信頼性のある話ではないかと思われます。


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 ヒトは、どのような「広義の道具」(※「表象」とか「シンボル」と言ってもいいでしょう)を用いようとも、「狭義の言葉」である話し言葉と書き言葉という「道具」(※比喩であることに注意してください)を最優先させて、その「広義の道具」について語り、その「広義の道具」を記述する傾向が見られます。


 このさくぶんも、ささやかですが、そうした試みの1つを実践しているわけです。詳しいことは知りませんが、自然科学の領域では、数字や記号を使った「一種の広義の言語」も、「広義の言語一般」を論じたり、記述するのに用いられているようです。


「狭義の」であれ「広義の」であれ、「代理」でしかない言葉・言語を用いることで、「狭義の」および「広義の」言葉・言語について語り記述するのは可能なのでしょうか。


 ややこしいですが、「言葉・言語で言葉・言語を語り記述する」、つまり、「道具・代理で道具・代理を語り記述する」という話をしています。


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 仮に圧倒的な偶然性に支配された森羅万象がごちゃごちゃぐちゃぐちゃしているなら、森羅万象の写像(※比喩です)である言語もごちゃごちゃぐちゃぐちゃしているのではないか。そんな気がします。


 ただ、言語には、自らの「ごちゃごちゃぐちゃぐちゃ」を「すっきり」に置き換えようとする「働き」があるという気もします。その「働き」こそが、ヒトの「正気」を維持しているのではないでしょうか。そうだとするなら、「狂気」も、その反対だと考えられている「正気」も、ヒトにのみに当てはまる状態を指すとも言えるように思われます。


 単純化すると、「狂気」「正気」とは、ヒトにとって意味を持つ考え方だとも言えそうです。この2つの言葉・イメージが、どういう関係性の下にあるのかについては、ヒトは決定できないという気がします。反対の関係だという意見が優勢だと想像されますが、個人的には、相対的とか、連続しているとか、見る側によるとか、見る側の状況によってもその判断は揺れ動いているという、イメージを持っています。


 深入りすると危ういことになりそうなテーマだという気がします。


「危うさ」を回避するために、「わける・わかる・割り切れる」という言葉・イメージを使うのは中断し、「道具」・「代理」・「システム」・「有効性」・「記述」という言葉をキーワードに、「正気」「狂気」という考え方をつづってみましたが、結局、ごちゃごちゃぐちゃぐちゃで終わりました。


 これくらいで済んで良かったのかもしれません。


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 この惑星の他の生き物や、その存在がヒトによって認められていない、ヒト以外のいわゆる「知性」を備えた地球外生物にとって、「正気」というヒトの考え方が、ヒトがイメージしているだけの有効性を備えているかどうかを、観測したり確認したりする方法や手段が見当たらないことを、忘れるべきではないと思います。


 それが、自分を含む、ヒトにとっての、そしておそらくヒトにしかできない「身の程を知る」という、たしなみだと信じています。



※この文章は、かつてのブログ記事に加筆したものです。https://puboo.jp/users/renhoshino77




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