かく・かける(5)
げんすけ
2020/09/06 07:40
英語やフランス語が、26の表音文字で表記されている、と考えると不思議な気持ちがします。たったこれだけで、あれだけのことが書けるのか、という不思議さです。日本語が、漢字+ひらがな+カタカナ+ローマ字で表記されているのも、摩訶不思議です。日々、体験しているはずなのに、よく考えるとどうなっているのか、さっぱり分からない。
前者も後者も、言葉や理屈では分かった気になっても、それでは分かったと言えない、という感じがします。たとえば、英語やフランス語を母語とする人たちが、漢字+ひらがな+カタカナ+ローマ字で表記される日本語を想像するのは、至難の業(わざ)だと思います。
その逆の場合も、そうでしょう。実際に、ある水準まで習得しないかぎり、「分かる」に近い感触を得るのは難しいのではないでしょうか。その「分かる」にも、いろいろなレベル=段階、あるいは側面があると考えられます。
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複雑な文字変換を、PCという機械とワープロソフトという仕組みに代用してもらいながら、今、この記事を書いている自分の場合でも、
*漢字+ひらがな+カタカナ+ローマ字で表記される日本語
とは、どういうものなのかと問われると、言葉に詰まってしまいます。
どう説明したらいいのか、見当もつきません。日本語をぜんぜん知らない人に、分かるように説明する自信がない、という意味です。ところで、日本語は、どれくらいの数の人たちによって使われているのでしょう?
「使う」という広い言葉を用いると、いろいろなケースが想定されます。「読み、書き、話す」という動作=行動で分けてみると、その3種類の動作=行動がすべてできる人もいれば、事情があって2種類だけ、または1種類だけという人もいるでしょう。
また、母語か、母語ではない、という分け方も可能です。バイリンガルや、トライリンガルや、それ以上の言語を、ほぼ同等に使える人たちも実際にいます。逆に、そういう人たちにまじりながら複数の言語のどれもが満足に使えない人もいます(※ちなみに、これは深刻な問題です)。
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いつもの悪い癖で、話が広がりすぎました。話題を絞ります。ぎゅっとしぼって、きょうは「書く」こと、そのなかでも韻文=定型詩を書くことに話を限定します。マラルメというフランスの詩人の
*詩作=思索=試作
について、考えていることを書きたい思いがありますが、まだ煮詰まっていません。26の表音文字を用いて、さまざまな規則に沿って詩を書くという、英詩やフランスの詩について不案内である。これが最大の問題点なのですが、別にヨーロッパの言語の詩について専門的な研究をするつもりも能力もぜんぜんないわけで、
*ある制約のもとに何かについて書く
という行為のメカニズムを探ってみたいという、強い好奇心があるだけなのです。そのメカニズムについて深く考えをめぐらしたらしい、マラルメという人というより、
*マラルメという固有名詞=言葉=信号を、媒介=シャーマン=巫女(みこ)として、自分のあたまとからだという磁場において、匿名的な言葉=ニュートラルな信号と戯れてみたい。
と願っているのです。困難な作業であるという強い予感があります。でも、やってみたいです。以前から、気になって仕方がないからです。
この作業に近いことは、「カジノ人間主義」という記事で、1度試みました。記事のタイトルから想像がつくかもしれませんが、そこでも「賭ける」=ギャンブルと「書ける・書く」という言葉が、重要な役割を果たしました。必然と偶然についても触れています。
あの問題を、もっと深く掘り下げてみたいです。でも、まだ、煮詰まっていません。というより、まだ、機が熟していないというか、マラルメというシャーマンが近くに感じられないのです。オカルトめいた言い方になりましたが、そんな感じです。
きのうは、一時的ですが近くに、その気配を感じました。この「かく・かける」シリーズでは、「かく・かける(3)」と「かく・かける(4)」という具合に続けて、「書ける・賭ける」について、ちょっとややこしい記事を2本続けて書きました。お読みになった方は、そのダジャレ=こじつけの多さにうんざりなさったことでしょう。申し訳ありません。
あのようにしか、あのテーマを書く方法を思いつかなかったのです。その結果「書けた」=「賭けた」のが、前回の記事です。書いた後は、ぐったりしていました。
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今回は、日本における韻文=「定型詩・短歌・俳句」に話を限定しようと思います。前回に書いたことを、日本の韻文に当てはめて、なるべく具体的に、分かりやすく書こうと努力しますので、どうかお付き合いを願います。きのうは、話を広げすぎたと反省しています。そこで話を絞ろうとしているのですが、
*詩作=思索=試作
という点では、日本語とフランス語との違いを超えて、共通する部分について考えることもできそうな気がします。
というわけで、韻文です。韻文の反対は、散文と呼ばれていますね。あまり使われていない言葉です。散文とは、要するに普通の文。たとえば、このブログの記事も、散文のはしくれです。
一方の、韻文とは、さきほど述べたように、「定型詩・短歌・俳句」を指します。まず、短い俳句なんかを例にとれば、分かりやすいのではないかと思います。俳句にも、流派みたいなものがあり、比較的自由なものもあれば、厳密さを要するものもあります。ここでは、
*5・7・5の音=音節(=拍=モーラ)から成る短い詩
くらいのゆるやかな定義をし、季語、切れなどは考慮に入れないことにします。これだけでも、立派な定型です。定型とは、約束事=規則=「おきて」=ルールです。
*規則とは、自由ではない
という意味にも取れます。「何でもあり」の定型詩なんて、あるわけがありません。
*規則で縛ることにより、ある種の緊張感と規律を保ち、同時に余韻や響きを持たせる
わけです。
*
ここで、前回までの記事で盛んに用いていた言葉を持ち出します。
*宙ぶらりん
です。
*「ち・ゅ・う・ぶ・ら・り・ん」
かろうじて7音になりそうですが、そうではなく、次のような細かい規則があります。
「ちゃ・ちゅ・ちょ」といった拗音(ようおん)は、それで1音と数え、「はっぱ」の「はっ」といった促音(そくおん)は2音、つまり「はっぱ」は3音と数える。また、「ノート」であれば、長音の「ー」は1音と数えますから、全部で3音となり、「ん」という撥音(はつおん)も1音に数えるらしいです。
こういう音節の扱い方は、「モーラ」というそうです。これで、だいたいのところは網羅(もうら)されたと思います。以上は、まさに規則です。したがって、
*「ちゅ・う・ぶ・ら・り・ん」(6音)
宙ぶらりんが、1音足りずに宙ぶらりんになってしまいますが、「てにをは」を付ければ、「宙ぶらりん」も俳句のなかで何とか詠めそうです。一句浮かびました。
*マラルメと ちゅうぶらりんで がちんこか
という具合です。なんのこっちゃ? とても、読めたものじゃありませんけど、とにかく詠めました。
*
こうやって、ある規則のもとに、言葉を組み合わせて、意味のあるフレーズを作っていく作業が定型詩=韻文なわけです。この作業=動作=身ぶり=運動を見たり、実際に体験してみると、
*偶然
というものに支配されている自分を感じます。偶然とは、
*必然
と対を成して使われることが多い言葉です。
*偶然性・必然性
と手を加えると、また違った趣(おもむき)を感じませんか? 個人的な感想を申しますと、ちょっと、気取ったような感じがします。こういう細部が、言葉では大切です。特に、俳句のような短い詩では、1音、あるいは1語を変えたり、ずらしたりすることで、趣ががらりと変わることがよくありますね。
*偶然性と必然性とに支えられて、匿名的であるはずの言葉の、意味と無意味とが立ち現れる。
さて、たった今、上のセンテンスを書きましたが、実は、いわば
*「でまかせ」
で言葉をつづりました。「でまかせ」というと「テキトー」「いい加減」「でたらめ」「たわごと」「支離滅裂」「めちゃくちゃ」などの親戚ですから、響きは悪いです。ネガティブなイメージがある言葉です。
でも、正直申しまして、自分が他人様に対し、何かを「話す」なり「書く」さいには、多分に「でまかせ」で話し書いていますと、ここで白状いたします。「でまかせ」とは、文字通り、
*「出るに任せる」
ことです。自分は「でまかせ」を悪い意味で取ってはいません。この言葉を使うことに抵抗は感じません。ただ、他人様には聞こえが悪いだろうな、という気持ちはあります。両義的=アンビバレントな感情というやつです。ここまで、話したので、さらに白状いたしますと、特に自分が書く場合には、「でまかせ」に「こじつけ」が加わります。その結果として、
*ダジャレ=オヤジギャグだらけの文章
をよく書くことになります。
ダジャレはアートであり、芸(=げい・ゲイ)であるとさえ、思うことがあります。マジです。ゲイ・サイエンス=楽問=「楽しいお勉強ごっこ」があるなら、
*ゲイ・アート=楽術=「楽しい言葉の曲芸(=アクロバット)」
があってもいいのではないかと、考えたこともあります。
でも、しょせん、ダジャレは駄洒落です。とはいえ、ものは言いようでして、
*比喩を多用した文体
と書けば、いくぶん響きがよくなります。かつてジャズが好きな時期がありました。ジャズのどこがいいのかというと、
*即興性=アドリブ
です。
これも、広義の「でまかせ」「こじつけ」だと信じています。何か、こうしたものに惹かれるのは、「体系的・論理的・終始一貫・筋道を立てる」ということが大の苦手で「直観・直感・飛躍・勘」に頼って、考えるというか、思うというか、空想するというか、妄想するタイプだからかもしれません。
このブログを読んでいる方は、それを実感なさっていることと存じます。お恥ずかしい限りです。
で、俳句ですが、これは、「でまかせ」と「こじつけ」にはぴったりの韻文=定型詩ではないかと思うのです。なぜかと申しますと、俳句について調べていて、その起源が、
*連歌(れんが)
および
*俳諧(はいかい)
というものらしいと知ったからです。連歌と俳諧について調べていて、感じたのは、
*連歌と俳諧は、テキトー=でまかせ=こじつけ=いかがわしい=わけわかんない=ふかかい=みだら、だった。
らしいということです。なにしろ、かつて、
*連歌は、「付合(つけあい)」=「ほぼくっつけ合い」と称して、5・7・5や7・7を用いての、複数人物による乱行=乱交=オージー、および夜這い=野合であった(俳句のように、言葉を相手に、「宙ぶらりん」のヒト1人で「くっつけ合い」をするのも大変なのに、複数でやるなんて、すごすぎます)。
また、
*俳諧は、5・7・5・7・7の和歌の形式を用いた、おふざけ=お笑い=ジョーダン=ジャスト・ジョーク=「えへへ」=「うふふ」=「くすくす」=「あら、いやだあ」=「深夜はいかい・よばい・やばい・まちがいない」=「何だ、これ?」=「ん?」であった(※ここに、俳句に感じられる、シュール=不条理=ナンセンス=ノンセンスの萌芽があるのかもしれません)。
らしいのです。そう勝手に感じただけですので、あくまでも「らしい」としておきます。「らしい」にしても、それを知って嬉しかったです。さらに嬉しかったのは、前々回の「かく・かける(3)」で、マラルメ師を待つまでに、うじうじぐずぐずしていたときに「でまかせで出てきた」=「やらせで出した」、
*この符合=符号は、只事ではない。
と、
*「信号=符号」たちの「符合」は、仕組まれた「必然」= necessity =「必要性」なのか、奇しくも表れた=現れた=顕れた、「偶然」= accident =「事故」なのか?
というフレーズを、ついさきほどぼんやりと読み返していて、そのなかにあった「符合」という言葉を目にしてデジャ・ヴュを覚え、ありゃ、
*「符合(※ふごう)」と「付合(※つけあい)」は、激似である。
と感じたことです。こうなると、
*この符合(※ふごう)=符号(※ふごう)=付合(※つけあい)は、只事ではない。
と言うしかありません。やっぱり、マラルメ師が見守っていてくれているにちがいありません。
*
少々、うろたえています。きょうは、これから家事と親の介護をしながら、この
*符合(ふごう)=符号(ふごう)=付合(つけあい)
について、しばらく考えてみます。次回は、このあたりの不思議さについて、「不思議さを解明しよう」などという気持ちも意気込みも毛ほどもありませんが、いちおう、「こんなふうに不思議です」という感じで、不思議さを整理してみる予定です。
なお、素人が、本当のことを知ろうともせず、玄人の苦労を反故にするような形で、俳句や連歌について書きなぐりましたことに対し、玄人およびほぼ玄人、並びに、この道の通を自任なさっている方々にお詫び申し上げます。
事実誤認のご指摘は、馬の耳に念仏、いや、蛙の面に小便で、もったいなく存じますので、ご辞退申し上げます。上の空に秋の空。このブログは、正しい、正しくないごっことは無縁でございます。
ないないに ないものねだる ないないばぁ
失礼いたしました。
※この文章は、かつてのブログ記事に加筆したものです。https://puboo.jp/users/renhoshino77
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