代理としての世界 -5-

星野廉

2020/09/26 08:36


 のっけから、ぶしつけな質問をさせていただきます。


 あなたは、あなたに対して主導権を握っていますか?


 唐突な質問ですが、よく考えてみてくださいませんか。この場合の「あなた」というのは、いわゆる「体と心」の両方を指します。ややこしくて、答えにくいですか? 質問の仕方を変えてみます。


 あなたは、自分の体や心に対して違和感を覚えることがありませんか? たとえば、体のある部分が思うように動いてくれないとか、内臓がうまく機能してくれないということがありませんか? または、気分がすぐれないとか、思うように気持ちが何かに向いてくれないという、もどかしさを覚えることがありませんか?


 少々長い質問になりましたが、どうでしょう? 今の質問は、個人的な実感から述べたものです。自分の場合には、一日のうちで、自分が自分の体や心に対して主導権を握っていると感じない時のほうが長い気がします。やばいのでしょうか? 実際、複数の医院に定期的通い、診察を受け、薬の処方してもらっています。通院先は、身体および心の病を専門とする医院です。


 体や心が言うことを聞いてくれない。そうした言い方があります。よく分かる気がします。朝、目が覚めて、いちばん先に思うことは、「きょうのご機嫌はいかがかな」です。何のご機嫌なのかと申しますと、「気分」なのです。気分のご機嫌。言葉の遊びみたいに響くかもしれませんが、切実な問題なのです。いわゆるうつを患っているために、自分の気分がどういう状態にあるかという問題に常に付きまとわれます。うつを「気分障害」の一種だと呼ぶ場合があります。その語感もよく分かる気がします。


 自分の場合には、気分のご機嫌に聴覚のご機嫌が加わります。中途難聴が年々悪化していまして、身体障害者手帳の交付を受けております。人によって違うとは思いますが、自分の難聴は耳鳴りも伴ううえに、「聞こえ=聞こえにくさ」も、その日によって、さらには同日でも変化します。予測のつかない気分と聴覚と付き合って毎日を過ごしている。そんな感じです。ご想像いただけるでしょうか。


 うつという診断を受けていない人たちや、聴覚に著しい障害のない人たちと交わしたさまざまな会話を思い返すと、こちらの抱えている諸問題をなかなか分かってもらえないという気がします。一方で、自分にはない障害や病に苦しんでいらっしゃる人たちとお話をした時のことを思い出すと、そうした方々が日々経験している不都合を理解どころか、想像もできない自分に気づいたりもします。


 ただ、これは言えるではないかと思うのは、ヒトは自分に対して主導権を握っていない、ということです。冒頭の無礼な質問は、そういう思いから出たものなのです。さきほど述べた言い回しを使って、「あなたは、体や心が言うことを聞いてくれないという気持ちを経験することはありませんか?」と、尋ねれば良かったのだろうとも思います。もっとも、「主導権」という場違いな印象を与えるだろう言葉を用いたのは、前回の「代理としての世界 -4-」で書いた次のフレーズが頭にあったからです。


>「話が通じているようで通じていない」というトホホ状態は、話をする側および聞く側の人のせいではありません。話し言葉という「道具」(※念を押しておきますが、比喩です)に対して、ヒトが主導権や支配権を持っていないというか、持つことが不可能だからです。


     *


 今回は、ヒトが抱えている「もどかしさ=不自由さ=悔しさ=あきらめ」について書いてみたいと思います。この話はかなり広いものにもなり得るし、狭く絞ることもできます。どちらにしようかと、今、迷っているところです。出まかせ=出たとこ勝負=アドリブで、記事を書く癖があるので(※いかにも「気分障害」らしいと言われそうです)、こんなふうに、うろうろ、おろおろ、うじうじ、ちんたらしています。ごめんなさい。そうだ。どれくらい広い、あるいは狭い話になるのかを、大雑把に説明してみます。別に急ぐ必要はないのですから、見取り図だけでも示しておくことにします。


 まず、ヒトが抱えている「もどかしさ=不自由さ=悔しさ=あきらめ」を広く見渡してみます。


 ヒトは自覚という行為をすることができない。なぜなら、知覚・認識・意識という過程において、「何かの代わりに何かではないものを用いる」という仕組みが働いているからだ。つまり、いわゆる「自分」も、「世界(or身のまわりor宇宙)」と呼ばれているものも、「知覚・認識・意識する」という言葉が指すとされている行為も、どうやら「代わり=代理=仮のもの=借りもの」らしいからだ。


 以上の前提に立つなら、ヒトが「自分」だと思っているものは、「自分以外」と呼んでもおかしくないほど、「自分」という言葉が指し示すと広く考えられているものと隔たっているのではないか。こういう場合には、「枠」という言葉とイメージを採用して「話をする=話を作る=話をでっち上げる=こじつけて語る(=騙る)」とおもしろそうだ。「自分という枠」を仮定する=捏造するのである。


「自分という枠」を構成するものは、「自分の代わり=代理」と「自分とは無関係と思われる『何か』」だと考えてみる。両者に共通するのは、「自分」という言葉とイメージが含まれているだけ。その「自分」が、各種の辞書や事典での語義・定義という名の「説=フィクション」としての「自分」や、ヒトという種で大多数を占める人たちが「自分」という名で漠然とイメージしている「自分」に含まれているだけ。


「自分」という「言葉=語=名詞=名前」と、その言葉が指し示すとされている「ことorものorありよう」との関係性は、検証できない。単なる「作り話=フィクション」である。ただし、ヒトが個人レベルでいだいている「自分」をめぐる「作り話=フィクション」と、学問の世界で「学説」や「理論」と呼ばれている「作り話=フィクション」との隔たりは、「自分」という曖昧模糊としたものをテーマとしている限りにおいて、優劣や正誤や真偽という言葉とイメージでは「はかる」ことはできない。つまり、「フィクション=言語構築物」としてみなす限りにおいて、後者を特権的なものと考える根拠は乏しいのではないか。


 今述べたような「ことわり=事割り=言割り=断り=理=言葉で分けて分かろうとする行為」とは関係なく、ヒトは、「体や心が言うことを聞いてくれない」、「自分の体や心に対して違和感を覚える」、「体のある部分が思うように動いてくれない」、「内臓がうまく機能してくれない」というフレーズやイメージで、「自分という枠」にいることの「もどかしさ=不自由さ=悔しさ=あきらめ」を感じる。


 以上です。


     *


 次に、ヒトが抱えている「もどかしさ=不自由さ=悔しさ=あきらめ」をある程度、絞り込んで考えてみましょう。


 なるべく多くの人に、「自分のこと」として受けとめていただきたいので、ここで「障害」という言葉とイメージを広く取ってみます。みなさんは、「障害」あるいは「障害者」という言葉を見て、具体的にどんな状態や、周りにいる特定の人を思い浮かべますか? 個人的には、「障害」を「心身のありとあらゆる不調」くらいにまで広げてイメージしています。たとえば、以下のような場合を想定しています。


「きょうは、少しだけど頭痛がする」、「なぜかちょっとしたことでいらつく」、「けさから生理が始まった」、「きのう、テニスをしたせいか、肘と膝に鈍い痛みを感じる」、「下痢気味だ」、「さっき眼鏡を床に落として、フレームが壊れてしまったので眼鏡を外しているが、見にくいし不安感を覚える」、「今、妊娠して7カ月の身だ」、「12年間飼っていたミドリガメが死んで3週間が過ぎたが、以前のような元気が出ない気がする」、「帰国子女で海外の日本人学校以外で教育を受けたため、日本語は話せるが漢字の読み書きに苦労している。電車が不通となって駅で足止めを食っているが、目の前にある貼り紙に何て書いてあるのかが分からない。容姿が外国人ぽくないために、周りの人に尋ねる勇気がない。以前こんな時に他人に話し掛けると、気味悪がられて逃げられたことがある」……。


 個人的には、上述の状態を全部「障害」に含めてもいいと思っています。「障害」を心身、身体の部分、継続的か一時的かといった言葉とイメージなどで「分ける」のではなく、「濃淡=グラデーション=緩やかな移り変わり」としてとらえるのです。ですから、お役所や官僚や医師や医療分野の研究者とは異なる受けとめ方をしています。財政・効率・利害・権限といった、「障害」そのものをそっちのけにした事情を基準にしていません。「もどかしさ=不自由さ=悔しさ=あきらめ」を覚えるかどうか、それだけが基準になります。


 それだけ緩やかな基準を設けると、「今、財布に50円しかなくて、いつも利用している電車に乗って帰宅できない」場合まで、「障害」ということになるではないか。なんて言われそうですが、確かにそのとおりで、そうした状況も「障害」に含めていいと考えています。


     *


 絞り込んで考えてみましょう、なんて書きながら、ずいぶん、話が広がってしまったじゃないか。そんなお叱りの言葉が聞こえてくる気がしますので、言い訳をさせてください。いろいろな例を挙げましたが、さまざまな状況下にある各人が経験すると考えられる、その時々に応じた個々の問題として「障害」をとらえてみてはどうか、という意味なのです。混乱なさった方には、お詫び申し上げます。


 この世はままならぬ。そんな言葉を思い出しました。めちゃくちゃこじつけて、出まかせを言わせてもらうなら、「自分という枠」の中にいるヒトは、身体(※健康状態や容姿や性別や年齢や人種・民族を含むと考えてください)、心(※精神や意識や気分と考えてもかまいません)、境遇(※現時点で住んでいるor滞在している国、国籍or無国籍状態、住んでいる地域、人種・民族、宗教、信条、家族、生まれ、生い立ち、財政的状況、趣味、人間関係、職業or無職状態、学校or学校に通っていない状態、受けた教育、他人から貼られたラベル=レッテルなど)という「しがらみ=かせ=備わった条件・属性」の中に、いわば放り込まれているのです。


 そうした「枠」の中で生きていることを一括りにして、幸福・不幸、満足・不満足、快・不快という2項対立な尺度ではかるのは無理だという気がします。多面的=多層的であり、常に移り変わりつつあるのが、ヒトのありようではないかと思います。では、最後に1つ質問をさせてください。


 あなたは、あなたに対して主導権を握っていますか?



※この記事は、かつてのブログ記事に加筆したものです。https://puboo.jp/users/renhoshino77



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