なる(6)
げんすけ
2020/07/29 07:48
「なりきる」という言い方があります。
「なる」+「きる」=「なりきる」、ということです。辞書を引けば書いてありますが、「きる」には「切断する=中断する=オフ状態にする」という意味=イメージのほかに、「使いきる」「困りきる」みたいに、限界まで徹底的にその動作をし尽くすという、意味=イメージもあります。
「なりきり」状態の人とは、たとえば、カラオケなんかでその歌の世界に入りこんでしまって、なかなかマイクを手放さない人、あるいは、その歌を歌っている歌手になったつもりになって「酔っ払った」=「夢を見ている」ような状態になっている人を思い浮かべるといいでしょう。俳優なんかが、舞台の上や、テレビや映画でその役柄になりきったような演技を見せてくれる場合もありますね。いわば、「迫真の演技」状態です。あれも、「なりきり」状態のいい例だと思います。
歌っている人であれ、演じている人であれ、「なりきった」人というのは、ちょっと危ういというか怖いですね(※あんたも十分あやうくてこわいよって、今誰か、おっしゃいませんでしたか?)。「おい、大丈夫か?」なんて言いながら、肩をゆすってみたり、それでも「目覚めない」場合には、ほっぺたを軽くひっぱたいてみたりする。
ようやく目覚めたものの、しばらく、ぼーっと、あるいは、ぽけーっとしている。まだ覚めていなくてその余韻にひたっているのか、あるいは、自我忘失=もぬけのカラ状態=「ここはどこ? わたしはだれ?」状態みたいになっている。そんな人を見た経験はありませんか?
*
以上は極端な例でしたが、多かれ少なかれ、
*言葉を話すことは、自分以外のものに「なる or なりきる」ことである。
と以前から思っています。「自分以外のもの」って何でしょう? 「何でもあり」だとイメージしてください。「自分」以外なら「何でもあり」。では、その「自分」って何でしょうか? 分かりません。
*分からないようにできている
のです。というか、
*分からないような仕組みになっている
あるいは、
*分からないように仕組まれている
とも言えそうです。なぜなら、
*Aの代わりにAでないものを用いる。
という、言葉の仕組みの大前提があるからです。
なお、
*ヒトは、「〇△X」という言葉を作り、その次に「〇△Xとは何か?」と問い、思い悩む生物なのである
という、言い方もできますが(ここでは「〇△X」が「自分・あたし・おいら・わい」に該当します)、このあまりにも身も蓋もない言い方を採用すると、ヒトのお馬鹿さんぶりおよびお茶目ぶりが露呈して、話が終わってしまう恐れがあるので、ここでは扱いません。
さて、人類というレベルでのヒトという種が、物心がついたころからずっと「自分って何」と考えてきた。それこそ数えきれないたくさんのヒトたちが、この惑星のあちこちで「私って何」と考えてきたに違いありません。それなのに、究極的な結論が出たという話は見聞きしたことがありません。というか、物好きな人たちがそれぞれ勝手に結論を出してきたというのが、正確な言い方かもしれません。いずれにせよ、「決定打=コンセンサスを得られるだけの結論」は出なかった。だから、「自分とは何か?」という問いは保留するしかありません。
「自分とは何か」を保留するのですから、「自分以外のもの」=「何でもあり」=「森羅万象」=「世界」=「宇宙」とは何かも、きっと保留するしかないでしょう。個人的な意見を述べるなら、「自分」も「自分以外のもの=何でもあり」も、「まぼろし」なのではないか、と考えています。つまり、
*すべては、まぼろしである。言葉自体も、言葉が「指し示している=意味している」とされるものごとや現象も、すべてがまぼろしである。かもね。
という感じです。これは、このブログでよく述べている、
*Aの代わりにAでないものを用いる。
という、言葉の仕組みの大前提と深くかかわっています。
*
ところで、「まぼろし」と聞いて、あなたはどんなイメージを抱きますか? 「ないのに、あるように感じられるもの」とか、たとえば「影絵みたいなもの」とか、影絵が発達してできた「映画みたいなもの」とか、映画の延長上にある「テレビやパソコンのモニターに映った画像みたいなもの」とでも言えばいいでしょうか。
本当は、もっと「極端な=究極的な」ことを言いたいのです。このさい、言っちゃいますね。ヒトが見ているものって、確か、目という知覚器官がとらえた映像を脳で処理したものですよね。聞いているものって、確か、耳という聴覚器官がとらえた音声を脳で処理したものですよね。ということは、
*まぼろしとは、ヒトが知覚している森羅万象=世界=宇宙である。
ということになっちゃうんですけど、言いすぎですか? たまに見聞きする言い方=考え方ですよね。いずれにせよ、それを言っちゃおしまいですか? 心の隅ではちょっとだけそんな気がします。
でも、ぶっちゃけた話、心の大部分では、本気で「まぼろしとは、ヒトが知覚している森羅万象=世界=宇宙である」と個人的には考えているのです。似たようなことを考えている人たちが、ほかにもいるらしい。似たようなことが書いてある本もあるらしい。そんなふうに薄々感じているのですが、本を読んだり、人の話を聞いたりすることや、お勉強が根っから嫌いなので、詳しいことは知りません。
でも、こういう類のことを考えたり、書いたりすることは好きです。大好きと言ってもいいでしょう。だから、毎日、こんなブログを書いているのです。しかも、一日に何回か分けて更新しているのです。暇だということもあります。うつなのと、無職なのが重なって、時間だけはあるのです。お金はありませんけど。というか、預貯金がどんどん減ってきていますけど……。それはそれでいいとして、とにかく、いろいろ考えてメモをとったり、ブログに書いたりする。それだけが、生きている証しなのです。
*
話を戻します。
*言葉を話すということは、ヒトが一時的に、あるいは部分的に自分以外のものに「なる or なりきる」ことである。
さきほどのフレーズを少し変えてみました。このように、言葉を加えていくと、より正確になるような気がします。いわば独り相撲をとっているのですから、正確もへったくれもないのですが、とにかくそんな気がするのです。一方で、言葉を加えると、よりややこしくなることも事実です。このややこしくなったフレーズを、今後説明していく予定です。
*言葉は重ねるごとに、言おうとしていることをややこしくしていく。言葉は、ヒトを裏切る。
*言おうとしていることを簡単にしようすると、言おうとしていることがどんどんとこぼれ落ちて消えて、やせ細っていく。言葉はヒトを裏切る。
*言葉は、ヒトにとって極めてやっかいなものである。ヒトは極めてやっかいなものを身につけてしまった。
以上の三つは、愚痴=ぼやき、ですね。失礼しました。では、次回まで。
※この文章は、かつてのブログ記事に加筆したものです。https://puboo.jp/users/renhoshino77
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