テリトリー(6)

星野廉

2020/09/20 12:18 フォローする

 以前、心理学について誤解していたことがありました。精神医学とか精神分析と、ごっちゃにしていたのです。でも、ある時期に、仕事で、心理学を学んだり、教えていらっしゃる方々のお手伝いをする機会があり、自分が大きな勘違いをしていたのを知りました。


 簡単に申しますと、心理学のなかには、ほとんど理系と言っていいような分野があることを知ったのです。自分が苦手な統計なんかをつかうので、やたら数字が出てくるし、計算はあるし、理系的な手続きに沿った論文を書かなければならないのです。


 で、そういう理系みたいな論文やその要約を英訳したり、海外の文献の和訳をお手伝いする。そんなことを、アルバイトでやっていました。ただし、苦手な統計と数字には閉口して、こっちが「お客様」に質問ばかりして、あまり、お役に立てなくて申し訳ないやら恐縮するやらで、冷や汗のかきどおしでした。ほとんどの心理学科が文学部に置かれていたので、高をくくっていた罰が当たったのです。


     *


 大学生時代に、ミシェル・フーコー、ジル・ドゥルーズ、ジャック・ラカンといった、哲学や精神医学や精神分析を横断して活躍していた人たちの本や講義録を読んでいた割には、そうした分野・領域がどうからんでいるのかについて、自分が無頓着で無知だったことに、後になって気づいた。要するに、そんなお粗末な=恥ずかしい話です。


 ちなみに、日本の大学の心理学科は、実験を重視した学派と、臨床、つまり、カウンセリング的なスキルの養成を目的とした学派とに、分かれるみたいです。以前は、実験重視の学科のほうが多かった記憶があります。現在は、カウンセラーなど臨床心理関連の資格が複数設けられているため、臨床心理学のコースのある学科が増えているもようです。


 思い返してみると、かつて岸田秀(きしだしゅう)という人が、精神分析をテーマにした面白い本を立て続けに書いたり、訳したりしていました(※岸田秀氏と結びつけて語られることの多い「唯幻論」については「3人のゲンちゃん」という記事で、面白おかしく書いていますのでご一読ください)。岸田氏は文学部の心理学科出身であり、大学の心理学科の教員をしていた人だったので、日本の心理学科では、フロイトみたいに、ちょっとエッチで、ちょっと難しくて、ちょっといかがわしそうで、ちょっとわくわくするような研究やお話つくりをやっているのだろう、と決めつけていたのです。


 ところが、当時は、実際には、そうとは限らなかったというわけでした。その英訳・和訳のアルバイトで知り合った人たちから、次のような愚痴みたいな話をよく聞かされました。


 フロイトやユングの研究をしようと思って、心理学科に入ったのに、白衣を着てネズミの行動を観察したり、その行動を統計をつかって数値化するようなことばかりやってんだよね。岸田秀みたいな先生の授業を受けられると思ったのに、大間違い。だまされたなあ。あ、はは――。なんて調子でした。


 本当かどうかは知りませんが、むしろ、医学部のなかで精神医学を専門にしようとしている人たちのほうが、文学作品や哲学関連の著作を読んだり、実験とは無縁だったり、数字や、まして統計なんかほとんどつかわなかったりで、よほど文系的な勉強ばかりしている、なんて話も聞かされました。学問における領域=分野=テリトリーも、いろいろわけありで、ややこしいのですね。


     *


 このようにテリトリーとは、抽象的な意味でも用いられていますが、本来は


*土地


でした。したがって、当然のことながら、面積があります。


*面


ですから、


*内側、中心、外側、境


が存在します。中心あたりは、すごく


*居心地がいい


でしょうね。


 真ん中だとまわりを守られているという安心感もありますから、落ち着くでしょうね。なお、テリトリーを「他者」と出会う場として論じた「あう(6)」という記事を以前に書きましたので、ご興味のある方は、ご覧ください。


 さて、テリトリーには居心地のいい内部がある一方で、居心地がいいどころか、気を緩めることのできない、


*境=辺境=フロンティア


もあります。


 ちなみに、生物のマーキング行動=縄張り行動における「印= mark 」という英語の語源は、「境界・境界の印・国境地方」だとのことです。境界とは、外部との接点ですから、


*他者=よそ者=外敵


が、いつ自分 or 自分たちのテリトリーに侵入してくるか分かりません。常に、外に目を向けて、警戒をしなければならない場所です。


*「自分のテリトリー=専門(or 専門分野)を侵された」


という意味の言い方があります。学問・学者・研究者の世界、官僚・役人・族議員の世界、職業 or 職能集団、宗教組織 or 組織内の派閥、ある共通項を持った人たちが、漠然と成している領域 or 業界 or 世界 or ほぼ集団……で、自分たちのテリトリーが侵されたと、よく言いますね。


*しる=汁=おしっこをかけて、その場所を「知る」ことにより、自分の縄張り=テリトリーとする、マーキング行動。


は、ワンちゃんやネコちゃんや他の生き物たちの行動だけでなく、ヒトにもある、というより、


*ヒトがいちばんエスカレートした大規模なマーキング行動を行っている


と言えそうです。


*ヒトは、名付けることにより、「しる=知る=知(ち)=知識」を得て、おびただしい量の「血(ち)」を流すことにより、「テラ=地(ち)=大地=地球」をいわば「テラ取り」して、テリトリーを拡大してきた。


と言えそうです。ヒトの場合には、「しる=知る=知(ち)=知識」がありますから、話は非常にややこしくなります。この惑星の


*土地の独占=地の独占


という物理的なレベルにとどまらず、


*知識の独占=知の独占


も成し遂げた、という錯覚に陥っているようなのです。その錯覚の根底にあるのは、


*名付ける ⇒ 言葉をつくる ⇒ 言葉を「事・物・現象=森羅万象」に与える ⇒ 言葉で森羅万象を詳細に分ける=分類する ⇒ 森羅万象が分かった=理解したという錯覚に陥る ⇒ 森羅万象を支配=征服したと思いたがる or 思い込む


という、おとぎ話めいた図式化もできるのではないかと思います。


 以上の図式を前提とするなら、そうしたプロセスが、この惑星に生息するヒトのさまざまなグループによって実行されてきたということになります。すごいと言えばすごい。怖ろしいと言えば怖ろしい。大したものだと言えば大したものだ。邪悪なことだと言えば邪悪なことである。


 このように、


*名付け、つまり、言葉を用いれば何とでも言える。


 そこが、言葉のもっとも重要な特性です。すると、当たり前のことが起きます。


*いろいろなヒトが、いろいろな名付け=言葉をつかうようになる。


です。


「シーニュ? いや、記号」「表象? いや、象徴」「意識? いや、自我」「同性愛? いや、ゲイ」「聾? いや、ろう」「神々? いや、神」「妖精? いや、霊」「しんのすけ? いや、おら」「オーラ? いや、引き寄せ」「気づき? いや、まなび」「詐欺? いや、投資」「ばくち? いや、投機」「波? いや、波動」「悦ばしき学問? いや、悦ばしき知識」「Haruki Murakami? いや、Murakami Haruki」「税金? いや、血税」


「公僕? いや、公務員」「給付金? いや、税金」「国債? いや、借金」「国民? いや、庶民」「数十万人? いや、数千人」「もうたくとう? いや、マオ・ツォートン」「虐待? いや、しつけ」「強制? いや、自主的」「加害者? いや、被害者」「異常? いや、正常」「患者? いや、健康体」「ヒト? いや、ニンゲン様」「文科省管轄? いや、厚労省管轄」「毒? いや、薬」「毒饅頭? いや、デリバティブ」……。


     *


 もめるのは当然でしょうね。


*ヒトは言葉に命をかけている


のが、ふつうですから、やすやすと相手に譲る or 妥協する or 中をとる、なんてことはしないと思われます。徹底抗戦=仁義なき戦いをするでしょう。ワンちゃんやネコちゃんやスズメちゃんやヒラメちゃんたちのテリトリー争いとは、規模もマジ度も違います。


 で、動物行動学=エソロジーなど知らない素人の浅知恵として、勝手に勘で決めつけて考えていることなのですが、


*ヒト以外の生物のマーキング行動=縄張り行動は、「『ここまで』が、わたしのテリトリーだ」という印をつける行為であるのに対し、ヒトの場合には「『ここから』あるいは『ここを中心に』まわり全部が、わたしのテリトリーだ」と主張している。


ように感じられるのです。うちのネコ(※うちの猫の名前です)やほかのネコちゃんたちの行動や、近所で見かけるワンちゃんのおしっこをする仕草を見ていると、「ここまで」という印象をいだきます。


*「ここまで」という線=境界を引いている


という感じです。でも、ヒトはどうでしょう? 


*「ここから」「ここを中心に」あたり全部という「面=面積」を示している


ような気がしてなりません。自分もヒトのはしくれですが、自分の言動を反省しても、そう思います。他人様の言行を拝見しても、そう思えます。言い換えると、


*ヒトのマーキング行動=縄張り行動の特徴は、「ここ=名付けた地点」が中心で、これから先拡大していく、という印をつけることである。


というイメージが強いのです。イメージですから、きわめて個人的な見解ですけど……。


     *


 で、いったんつくった=出来上がったヒトのテリトリーが正方形なのか、長方形なのか、円形なのか、楕円形なのか、すごくいびつな形なのか知りませんが、とにかく


*中心にあったものを、縁(へり)=辺境=境近くにまで移動させると、安定している=有効であると思い込んでいたものが、きわめて不安定で=有効性が疑われるものになる。


という事態が発生します。なぜなら、


*「辺境=境」とは、「他者=よそ者」と「出会う=遭遇する=触れ合う=衝突する」可能性が強い場である。


からです。


*「辺境=境」とは、「他者=よそ者」による「名付け=言葉」と接触する場である。


とも言えるでしょう。結局、話は


*言葉の問題=言葉という問題


になってしまいます。言葉である以上、当たり前なのですが、思い込み=錯覚ほど処置に困るものはありません。というか、


*言葉を使用すること自体が、そもそも「何かの代わりに「その何かではないもの」を用いる」という錯覚を利用した約束事=ルール=お遊び=遊戯=ゲームである。


という当たり前のことを、ヒトはすっかり忘れてしまうのです。理屈や屁理屈で言って聞かせても、聞きません=効きません=利きません。


*言葉は対象にまたがる=かぶる=ダブる=ああでもありこうでもあることもある & ああでもないしこうでもないこともある


なんて言っても、聞く耳を持ちません。


*「わたしがこう決めたら(=名付けたら)、こうなの。それ以外は、でたらめ」。


という感じです。もうお手上げです。勝手にしてください、としか言うべき言葉はありません。


     *


 きのうの記事でご紹介したヒトラーの心理の図式、および、その変種の図式を、上の場合に適用すると以下のようになり、根底にある心理が見えやすく=見える化されます。


*このテーマに関しては、わたしこそがいちばんよく知っている権威=オーソリティー=当事者=識者=スペシャリスト=エキスパートだ(=勘違い・思い込み・独占欲)。  ⇒  最近、このテーマについて他の者が、わたしのお伺いもなしに他の言葉をつかってくだくだ言っているが、けしからん(=嫉妬・不安・動揺)。  ⇒  ちょっと何かを言って脅してやろう(=憎悪・敵対・攻撃)。  ⇒  なかなか手強い相手だから論理も実証もへったくれもない、悪態と罵倒で言い負かせる以外に方法はない(=居直り・ヒステリー・爆発・とちくるい)。


 このように単純な図式で表すことも可能です。こうなると対話でも討論でも論戦でも議論でもなくなります。


*喧嘩です。


 喧嘩の当事者以外=第三者=局外者の目からは、単なる同ジャンル内での内輪もめ=内ゲバ=痴話喧嘩にしか見えません。このように、ヒトには、自分の十八番=それしか得意ではないもの=おかぶを取られると、攻撃的になるという習性があります。この苦しみ=悔しさは、本人=当事者たちだけにしか分かりません。


 自分の十八番を取られたくない。自分の


*生甲斐であるテリトリーを侵され=犯されたくない。


そんな心理=危機感です。傍(はた)からみると「馬鹿みたい」でしかありません。


     *


 ところで、みなさん、


*改名


という言葉がありますが、ご自身、あるいは身近の方で、改名を経験された人がいらっしゃいますか? 改名という行為をつかさどるテリトリー、つまり、最終的決定とペーパーワークをするのは、家庭裁判所らしいです。なぜ、改名をするのかには、いろいろな理由があるようですね。ググれば、そういた各種の理由についてはすぐに分かりますが、ここでは、


*名前を変える=いったん行った名付けを無効にする=新しく名付ける


という現象=行動だけに絞って考えてみましょう。


     *


 名前を変えるとは、「名前=思想=行動=分身=生き方」みたいに思い込んでいるヒトという種(しゅ)にとっては、一大事です。考え方や、行動様式をがらりと変える必要が生じる場合もあるでしょう。


*名前を変えるとは、生まれ変わることである。


と言っても大げさではないと思います。


 というか、改名をしたい人の多くは、たとえば、運勢を変えるみたいに、「自分を変えよう=生まれ変わろう」としているのではないかと「想像=妄想」しております。改名にさいしては、姓名判断の類の専門家に相談するのではないでしょうか。「印鑑=ハンコ」で「人生=運勢」をいい方向にもっていこうと考える人もいますね。


 ハンコには、その人の名前が印し=記し=標してあるわけですから、象徴的な儀式と言えます。


*名前を変える or 名前(文字・活字)をいじる


という行動は、テリトリーの線引きをいったん白紙にもどして、線を引き直す、あるいは、線引きを若干修正する=手直しすることだ、という見方もできそうです。良し悪しを問題にしているのではありません。


*ヒトは、自分の名前という言葉に願いや祈りを託す。


という習性が、興味深いと思っているだけですので、誤解なさらないようにお願い申し上げます。


 また、改名に限らず、変身願望=イメチェンのために、お化粧やかつらといったお飾り=スキル=ツール、美容整形やエステやジムといった物理的手段の利用もあります。あるいは、自己啓発=自己改善 or 宗教 or スピリチュアリティといった、セミナーやコーチングや活動や組織や書籍といった、心理的 or メンタルなアプローチの利用もあります。もっとも、後者は多分に言語依存的です。


     *


 で、話を改名にもどします。改名は、自分の名前だけはありません。企業が、社名、ブランド、商品名・製品名、ロゴ(※ハンコの変種とみることができそうです)を変えることがあるのも、「願いや祈りを託す」行為ではないでしょうか。


*固有名詞=名前という言葉の断片は、断片(=短いもの=小さなもの)であるがゆえに、コンパクトで、口に出しやすいし、文字や図形にしやすいし、ポータブル=持ち運びやすい。そのため、パワーを凝縮させる=濃密なものにすることが可能だ、というイメージが備わっている。


と言えるように思います。


 そのことを実感するのは、スポーツというイベント=儀式です。テレビ画面に映し出されるスポーツの試合・演技の最中、そして、直後 or 直前の選手へのインタビューでは、必ず、ロゴや、ブランド・社名・製品名の入った看板が登場します。


 あれは、


*名前同士の接触=衝突=ラブシーン=ある意味でガチンコ


にほかなりません。つまり、


*選手というきわめてメッセージ力の高い信号=記号と、ロゴ or ブランド or 社名 or 製品名とが、つがっている。


のです。なお、「つがう・番う」をネガティブな意味でとらないでくださいね。辞書をお引きになれば分かりますが、たとえば、広辞苑では、「交尾する」以外に、「組み合う・対(つい)になる」の語義が記してあります。また、「注ぎ合う」という言葉も見えます。いいイメージではありませんか。


 これは、


*愛を交わす行為


と同義です。


 もっとも、政党という名前=ブランド=言葉が、有名人やタレントという名前=ブランド=言葉を、ただ「有名だ」という特性だけを利用し、選挙に出馬させるという場合には、名前=ブランド=言葉同士の「野合」という、下品な言葉を使用したくなります。


 このように、テリトリーの印(しるし)である名前同士が愛を交わす現象がある一方で、テリトリーをめぐっての争いが後を絶たないという現実があります。さきほど述べた、


*言葉は対象にまたがる=かぶる=ダブる=ああでもありこうでもあることもある&ああでもないしこうでもないこともある


という、言葉に備わった特性があるからです。


 冒頭に挙げた心理学と精神医学と精神分析という3つのテリトリーは、かなりかぶり=ダブる部分がありそうです。ある現象があって、それを3つのテリトリーが別々の名で呼んでいる。別々の説明(※名前の延長)を当てている。3つのテリトリーのなかに、さらにまたテリトリーが複数存在する。そんなことも十分考えられます。


     *


 こんなテリトリー問題をかかえているのは、おそらく、この惑星ではヒトだけです。自然界では


*本能にしたがって、つつましく=身の程をわきまえて行動している生き物が、それなりのテリトリー問題をかかえながらも、調和して=ルールに沿って生息している。


とのことです。


*自然界のルール=掟=約束事=摂理を破ったのは、本能の壊れたヒトだけ


ではないでしょうか? 成るべくしてこうなったのか? 


 そんなことは、ヒトがどんなに賢くても=ずる賢くても、分からないでしょう。というより、


*本能が壊れて、言葉という代理品を実物と勘違いして使用する癖がついたヒトは、自然界のルール=掟=約束事=摂理が、見えない=知覚できない=分からない=認識できない事態に陥ってしまっている。


のではないでしょうか。


*せっかく優秀な知覚器官を用いて知覚した情報=データを、優秀なシナプスを通して脳に伝達しているにもかかわらず、脳での情報=データの処理あたりで、ほかの生物には見られない逸脱=誤作動=ズレ=とちくるいが生じるのが常態化している。そのために、ヒトは脳で処理された情報=データを、とてつもない歪んだ形で意識というスクリーンに映し出している。しかも、そのスクリーンには、本来脳へと伝達されていない映像=イメージまでが映し出されていることがある。


という感じがしないでもありません。


 今述べた点は、「イメージ」という言葉にこだわりながら、「あらわれる・あらわす(7)」と「あらわれる・あらわす(8)」で、詳しく論じていますので、ご興味のある方だけ、ご一読願います。ややこしそうだとお感じの方は、パスしていただいて、いっこうにかまいません。


 本シリーズでは、「イメージ」というきわめていかがわしく=テキトーなものを、「テリトリー」という切り口で考え直しているだけです。で、このシリーズで、ぜひとも訴えたいことは、


*イメージとテリトリーに共通するのは、言葉=名付けであり、言葉=名付けが、ヒトを自然の摂理に沿った行動から逸脱させている。


ということと、


*ヒトは、言葉=名付けに慣れた環境=テリトリーを、居心地のいい場所として、受け入れているために、後戻りは不可能になっている。


のではないかという危惧です。


 きわめて悲観的でネガティブな見解であると非難される向きもあることは、十分承知しております。でも、これが、このアホにとって、


*書くべきことだ


と信じています。


 自分を棚に上げることも、脇に置くこともしません、自分をコロシアム=殺し編む=コロセウム=殺せ産む=闘技場のど真ん中に据えて、土下座させて、訴えさせてください。


*ヒトは変じゃありませんか? その変がエスカレートしてきていませんか? 自分の変を真正面に据えて、訴えたいです。


 不快な気持ちをいだかれた方には、お詫び申し上げます。ごめんなさい。でも、もしも、この行まで読んでいただけたなら、それだけで嬉しいです。


 ここまでお付き合いくださったことに、感謝いたします。どうもありがとうございました。このブログでは、このところ、こんなことばかりを書いています。よろしければ、あす、また、訪ねてきてください。お待ちしております。


 石畳 ちの跡をふむ コロシアム



※この文章は、かつてのブログ記事に加筆したものです。https://puboo.jp/users/renhoshino77



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