あう(6)

げんすけ

2020/08/03 07:59


 おそらく誰にでも、「居心地のいい場所」と呼べる「空間」があると思います。「 」でくくったのは、実際にそれが具体的な、つまり物理的意味での「場所」=「空間」とは限らないからです。たとえば、会社という組織や、何かのサークル活動や、ネット社会の一角や、仲間同士の結びつきや、宗教団体や、政党である場合もあるでしょう。


 これに時間的要素を加えると、回想になります。「ああ、あの頃はよかった」とか、「あのクラスにいた一年間が一番幸せだった」という具合です。そうなると、「空間」というより「時空」という広い言葉を使ったほうが適切かもしれません。


 あなたにとって、「居心地のいい場所 or 空間 or 時空」は、どこですか、なんですか、いつだったのですか?


 個人的には、「自分の布団の中」です。そこでなら、慣れ親しんだお布団がありますし、横になれるし、目をつぶれば、夢とか空想という「幻想」の世界に浸ることができます。ある特定の時期の回想に耽ることもできます。


「お風呂」という答えも返ってきそうです。お風呂で思い出しましたが、浴槽がお墓に似ている、と書いた作家は、誰だったか? それとも、風呂桶がお棺に似ている、だったか? いずれにせよ、素晴らしいたとえだと思った記憶がありますが、肝心の作家の名前を忘れてしまいました。あの比喩はなかなか言えているなあ、と今も感じます。


     *


 ひょっとして、


*居心地のいい空間とは、他者がいない空間ではないか?


 このごろ、よくそう思います。もっと詳しく説明させてください。自分と他者――その他者には森羅万象が含まれますから、自分と宇宙と言ってもいいでしょう――が溶けあって、自と他とか、内と外とかいう「分ける」というヒトの性(さが)の産物が意味をなくしてしまう。本来は実体のないはずの「分ける」という行為と作業が意識にのぼらない、ほんわかとした心境。そんな心持ちでいられたら、どんなに快いでしょう。


 しかし、現実はそうではありません。「分ける」だらけです。「分かる」=「理解する」=「知覚する」=「認識する」――このようにも「分ける」ことのできる「仕組み=仕掛け=メカニズム」が、ヒトという存在にへばりついている。離れることができない。外すことができない。逃れることができない。以上の「できない」が「できる」になった時、ヒトはヒトでなくなるのでしょうか。


 まさか。ヒトがヒトでなくなる? ヒトでなし。そんな「冗談=言葉の遊び」でしかありません。という具合に、ヒトには、どうしても逃れられない「分かる」という仕組みが「ある」=「備わっている」らしい。その仕組みを「意識」と呼んでもいいでしょう。


     *


*「ある」と「ない」とが、どうやら「あるらしい」。


 きわめて曖昧で、いい加減です。もしかすると、幻想、錯覚、嘘、虚構ではないでしょうか。その一方で、


*幻想=錯覚=嘘=虚構って、なんて気持ちがいいのだろう。


とも思います。


*虚と実の間(あわい)。


という言葉も、謎めいていて好きです。「繰り返し=言い換え」になりますが、


*ありもしないものをあると錯覚する。


ということは、ヒトの存在の根底にある習性ではないでしょうか。


 いや、ヒトだけではなく、きっとすべての生き物の存在の根底にある習性なのではないかと想像します。すべての生き物には、何らかの知覚器官が備わっています。


*「近くにない=分からないもの」を、「近くにする=知覚する=分かる」と感じる。


というメカニズムなしに、生き物は生き延びることはできません。食べ物を得るためにも、天敵から逃れるためにも、生殖活動をするためにも、「近くにする=知覚する=分かる」ことが不可欠になります。


     *


*生きる=知覚する。


と言ってもいいくらいです。で、この「知覚する」という仕組みについて、これまで、


(1)表象=「Aの代わりに「Aでないもの」を用いる」、


(2)トリトメのない記号=まぼろし、


(3)脳内で起こったズレ → 「ぐちゃぐちゃ」=「ごちゃごちゃ」=「言葉・言語」、


という言葉や図式を使って説明したり、こじつけたりしてきました。


 まるで金太郎飴のように、何度も何度も書き続けてきました。まさに、ワンパターンです。そのような事態に陥るのは、自分の「テリトリー」の中で安住しているからにほかなりません。これは自分自身の問題でもある=ブーメランブーメラン。反省すべき点だと思います。


 それはさておき(※こんな言葉でお茶を濁し逃げちゃいました)、「知覚する」という「錯覚」は、実に快いです。「自然体」でいられるから、「快い」のかもしれません。でも(or だから)、その「錯覚」を「錯覚」だと「言葉」で「意識」したとたんに、「不快」が始まります。居心地が悪くなるのです。むしゃくしゃする。くるおしい気分になる。そんな感じです。ここで、矛盾にお気づきになったことと思います。


*居心地のいい空間とは、他者がいない空間ではないか?


と、さきほど書いたのに、


*「知覚する」という「錯覚」は、実に快い。


と書き、今度は、


*「錯覚」を「錯覚」だと「言葉」で「意識」したとたんに、「不快」が始まる。


と書いています。


「矛盾しているというより、ややこしいではないか? 何が言いたいのだ」と、お思いの方がいらっしゃるかもしれません。言葉不足でした。謝ります。言葉にしにくいことを、話題にしているというのは、体(てい)のいい言い訳でしかありません。こういう場合には、比喩に頼るか、不正確になるのを覚悟して思い切り単純化するしか、ないようです。


 そこで、単純化を選びます。


*「分かる」=「他者がいる」とは、「不快な」ことである。ただし、それが「錯覚」であると「意識」されているならば、「快い」ことである。


 では、どうでしょうか?


「直感=直観」や「勘=でまかせ」に頼りがちで、「論理的思考」や「筋道を立てる」のが苦手なので、たぶん論理的に破綻した文章をつづっているに違いありません。とりあえずは、上のフレーズでご容赦願います。


 なぜ、こんなことをくだくだと書いているのかと申しますと、上述の(1)(2)(3)に「加えて=代えて」、


(4)「信号」


という、自分にとっては新しい「考え方=金太郎飴」を、今後使ってみようと思っているからなのです。比喩に頼って言うなら、


*コンビニでの、「新商品登場!」


みたいなものです。


「信号」という「新商品」が有効なのかどうか、つまり、「売れるのかどうか」=「ブログを読んでいただいている方々に分かってもらえるかどうか」不安なのです。「だれも、あんたに何も期待なんかしていないよ。好きなようにやれば~」と、みなさんがお思いになっていることは感じております。


 だから、自分にそう言い聞かせれば、気が楽になるだろうとは思います。とはいえ、自分の場合には、これでも真剣というか、割と本気でブログを書いているので、そう簡単に割り切れない部分もあるのです。しょせん、ひとり相撲なのに、ついつい肩に力が入ってしまうのです。と、自己批判と反省をしたところで、


*「だれも、あんたに何も期待なんかしていないよ。好きなようにやれば~」


と、つぶやいてみます。


     *


 つぶやいてみたら、元気が出ました。現金ですね。で、前々回の「あう(4)」という記事の中で、あるおとぎ話をしました。そのなかで「テリトリー」(=縄張り)という言葉が出てきました。


*テリトリーとは、「うち=内」と「そと=外」の線引きである。


と言えそうです。この線引き行動は、以前にも書きましたが、ヒトや他の生き物に共通する習性のようです。冒頭で書いた、「居心地のいい場所 or 空間 or 時空」とは、まさにテリトリーだと思います。


 誰もが、自分の慣れ親しんだ場所や空間や時間(=時期)に執着するのは、当然で=自然なことです。だからこそ、自分とは異なる、あるいは新しい物事や現象に遭遇すると、戸惑ったり、怒りを覚えたり、批判的になったり、不安になったり、攻撃的になったりします。


 たとえば、


「最近、○○という言葉遣いをよく耳にするが、あれは間違っている」、「コドモのケータイ使用は禁止すべきだ」、「ネット空間は諸悪の巣くう魔窟(まくつ)だ」、「ケータイ小説なんてクズも同然だ」、「近頃の若い者は根性がない」、「あの種の事件は、わたしたちの若い頃にはぜんぜん起きなかった」、「ベストセラーだと言うから買ったが、この本に書いてあることは間違っている」、「△△を復活すべきだ」、「あの国の人たちは、わたしたちの国の人たちとは根本的に違っている。だから、信用できない」、「あの人と、わたしの間に理解は不可能」、「わたしたちには、内から湧き出てくる、真の本来の○があるではないか」、「これが正しいことは歴史(or 自分の経験)が証明している」、「やっぱり、これしかない」……


といった発言に似た言葉を、日ごろよく見聞きしませんか?


 以上のような発言を、感情語とでも言うべき言葉=言語に翻訳すると、


「なんだ、これ」、「なんだ、こいつ」、「分からない」、「信じられない」、「こんちくしょう」、「むしゃくしゃする」、「イライラする」、「自分 or 自分たちだけが正しい=まともだ」、「くたばってしまえ=二葉亭四迷」


みたいになります。つまり、


*「他者」=「異物」=「異形(いぎょう)のもの」に出会って=出合ってしまった


のです。言い換えると、


*「他者」=「異物」=「異形(いぎょう)のもの」の存在を「知覚して」=「分かって」しまった


のです。


「してしまった」という完了形の言い方のもつ、「失望感」と「嘆き」と「半ばあきらめの気持ち」を感じ取ってください。存在を知ってしまった以上、後戻りも、逆襲も、せん滅もできないと直感的に悟っているのです。


「あーあ」という感じです。だから、「悪態=罵倒」でしかない「感情語」をさまざまな「決まり文句」を用いて「批判もどき」に加工するのです。ちょっと言い過ぎたようです。そこまで、ネガティブに言わなくてもいいのではないか。そんな気もします。


 今、考えているのは、


*「信号」の「他者性=異物性」


とでもいうべき、特徴=属性なのです。


 前回の記事の最後のほうで、「信号」を定義しようとしました。なるべく筋道を立てて説明しようとしましたが、やはり、比喩に頼った表現になりました。ここで、再度、定義を試みてみます。


*「信号」とは、ヒトの「想像界」=「想像の産物である森羅万象から成る世界(※想像だから実体はありません)」において、何かと何かが「であう」ことによって、熱(※比喩です)が生じた結果として起こる炎(ほのお)(※比喩です)、あるいは、これから先に何かと何かが「であう」合図としての烽火(のろし)(※比喩)である。


となりましたが、「熱」と「炎」と「烽火」のところで、思い切り隠喩=暗喩を使ってしまいました。これは、これで、とりあえず、OKとしておきましょう。


 とはいうものの、やっぱり、自分もまた、「居心地のいい場所」=テリトリーからは逃れないのを痛感します。「筋道」ではなく「比喩」に逃げていますね。易(やす)きに付く、というやつです。


     *


 ところで、「あう(4)」で触れたように、そもそも「信号」について考えるきっかけとなったのは、病院という場所でした。そこでの「信号」は、たった今、上述した*付きの定義もどきのフレーズが喚起するイメージとは、かけ離れたものだという気がします。


 上記の「信号」は、自分のテリトリーだと思い込んでいる文芸批評という場で、自作の稚拙なおとぎ話を扱ったさいの産物だからです。つまり、情報理論といった自分の苦手とする領域=場を意識的に避けて、「信号」を考えた結果として、あのような定義もどきのものになったのです。


 そこで、「信号」をもう少し、守備範囲の広いものにしてみたいと思います。一般論と呼ばれるものに、もっと近いものにしようという意味です。そのための方法として、一人ブレーンストーミングみたいなことをやってみます。


 ブレーンストーミングというのは、聞こえはいいですが、ぶっちゃけた話が「でまかせしゅぎじっこうちゅう」です。要するに、何でもいいから、ブレーン=脳味噌からしぼり出す、という感じのきわめてテキトーな方法なのです。テキトーさにテキトーに賭けるという、テキトーなやり方です。


 というわけで、このシリーズ用に走り書きしたメモから、テキトーにみつくろって箇条書きにしたいと思います。


*信号とは、本当は誰もが予期しているもの。予期しているくせに、予期していない振りをする場合が多い。例 : 信号が、赤に変わる。非常ベル。警報機の音 or ライトの点滅)。赤ちゃんの泣き声。雨雲。雨。台風。地球温暖化。インフルエンザのエピデミック or パンデミック。不況。火事。妊娠。宝くじの当選。褒章。臨時ボーナス。株価の上昇。為替相場。奥さん or 旦那さん or 子どもの、ヒステリー or かんしゃく or 逆ギレ。


*何かの合図を待つ時の心理。ドキドキしながら待つ。ドキドキを顔に出さずに待つ。合図が出たら、本当は焦っているのに、決められた行動におもむろに移る。


*小説を読む。特に、推理小説をはらはらどきどきしながら、ページをめくるのももどかしく読み進む。/テレビドラマ(or 映画)を見る。ストーリーの展開に引き込まれながら、食い入るような目つきで、画面(or スクリーン)を見つめる。/ゲームを楽しむ。ゲームの展開に引き込まれた状態で、コントローラーやキーボードを操作する。/スポーツの試合を観戦する。先が見えるようで見えない。これもまた、はらはらどきどき。/サスペンスの根底には「やらせ」があるのではないか?


*「偶然」に見えて、実は「出来レース」=「八百長」=「やらせ」。結果は、「ある程度」見えている=分かっている。


*信号との出合い=出会いは、予想外と予想内の狭間で起こるのではないか? それが、表象や記号や「ぐちゃぐちゃ」との違いではないか?


*「予想外の or 予期せぬ出合い=出会い」=「遭遇」なのか?


*情報理論における信号との遭遇=出合い=出会いは、出来レースのようなものではないか? ヒトが日常生活で経験する信号との遭遇=出合い=出会いは、「出来レース」ではなく、「予想内の予想外」とでもいうべきものではないか? 前者は真剣勝負であり、後者はお遊び=娯楽なのではないか?


*情報理論的レベルでの信号同士、あるいは、デジタル信号同士の遭遇=出合い=出会いは、出来レースである。なぜなら、既に「回路」「導線 or 電線」「ニューロン」が敷設されている、あるいは出来上がっている。信号同士の「めくばせ」(※ここでヒトを出しにした比喩に頼っていいのだろうか?)だけに注目するなら、ヒトの心理が介在することはない。一方、ヒトが日常生活で経験する信号との遭遇=出合い=出会いでは、ヒトの心理が介在するために、期待や「娯楽=サスペンス」的要素が存在する。両者の決定的な違いは、そこにある。/とはいうものの、すべてが人為でしかないと考えれば、両者を「分ける」のはまやかしであり、「分かった」とするのは錯覚にすぎないのではないか。


     *


 以上は走り書きしたメモを清書したものです。読み直してみると、


*情報理論的レベルと、日常生活レベルでの信号との遭遇を区別すること


がきわめて重要であるように思えます(※すべてが人為であるという見方を無視した場合です)。そこで、「論理の鬼」で書いた文章の一部を「自己輸血」=自己引用するのが手っ取り早いのではないか、などと横着な考えが頭に浮かびましたので、さっそく実行してみます。これも、引用するさいに、少し加筆・変更して、箇条書き形式に書き直してみます。


*論理というものは、案外、熱いものなのかもしれない。


*哲学や論理学だけでなく、数学や物理学を含む自然科学でもいいが、そうした学問を学ぼうとか、研究しようとするヒトは、しばしば強い情熱(※感情、情動といったほうが正確かもしれない)を心に秘めている。


*コンピューターは以前には電子計算機と呼ばれていた。つまり、機械である。最先端のもの、そして未来のものは、従来とは違った素材が主体になるというが、現在の主流のコンピューターは金属や鉱物が素材である。機械やコンピューターというと、冷たいイメージを連想されがちだが、実際に機械やコンピューターを扱っている人にとって、一番の悩みは熱をどう下げるかだという。機械は作動、つまり動く。動くからには熱を発する。熱は機械そのものの素材を変形あるいは変化させる。すると誤作動が起きる。したがって、「熱を下げること」がきわめて重要な課題になる。


*コンピューターも、医療用のカメラやメスも、どんどん小型化されてきている。機械や器材は、「動く」のが仕事である。動くためには熱を発しなければならない。熱くなると動きに狂いが生じる。コンピューターに話を絞ると、コンピューターは、1か0の二進法で情報を処理する。1か0という仕組みを実現するためには、どんなにあがいても、何らかの移動、変化、反応という形態をとらざるをえない。分子、原子、電子、というナノの世界であっても、熱から逃れることはできない。


*数学者も、論理学者も、哲学者も汗をかく。禅僧も、修道士も、修道女も、教祖も、聖人と呼ばれるヒトも、みんな汗をかく。囲碁の名人も、チェスの達人も、汗をかく。コンピューターも、あっちっち。ナノテクも、それなりに、あっちっち。バイオテクノロジーもDNAも、それなりに、あっちっち。理論物理学も粒子も素粒子も、それなりに、あっちっち。ノーベル賞も、きわめて、あっちっち。


*脳でも、事態は同じらしい。ヒトは生きている限り、熱を発する。食物を摂取し排泄をする存在である以上、必然である。沈思黙考、冷徹な思考などとは、嘘だったのだ。


*プリズムは、勝手にきらきら輝くのではない。そんな魔法なんてない。見る者が、動く、あるいは熱くなるからきらめくのだ。


*コンピューターはもちろんのこと、「運動」(※つまり、移動、変化、反応)するものは、常に熱を発せざるを得ない。冷たいようで、実は熱い。死んだようで、実は生きている。比喩を用いれば、蓮實重彦氏の著作のタイトル『批評 あるいは仮死の祭典』にある「仮死の祭典」と言える。死んだふりをしても、熱い。死を装っても、うごめいている。仮に死んだとすれば、腐敗という形で熱を発する。


     *



 久しぶりにコピペをしまくりました。「コピーのコピー」でもある「トリトメのない記号=まぼろし」について、連続してブログ記事を書いていたころに、過去の記事から過度の「自己輸血」=自己引用をし、いわば「自家中毒」(※この言葉を読み、不快に思われた関係者の方にお詫び申し上げます)に陥りました。それを思い出します。ネット検索をしながら、レポートを作成するという、一部の大学生みたいですね。無精なさまをお見せしてしまいました。


 以上の、箇条書きされたメモたちと、さらにそれに加わった、コピペされた上にいじくられた断片たちを眺めながら、「信号」についてしばらく考えてみます。


(1)「信号」を、二種類に「分ける」べきではないか?

(2)二種類の「信号」に共通するのは、「あう・であう」という言葉の身ぶりと「熱 or 火」ではないか?


 きょうは、これから、この二つの疑問について、ああでも「ない」こうでも「ない」、ああでも「あり」こうでも「ある」、という具合に、メモでも取りながらじっくりと考えてみたいと思います。


 では、また。



※この文章は、かつてのブログ記事に加筆したものです。

https://puboo.jp/users/renhoshino77


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