げん・言 -6-
星野廉
2020/09/21 08:02
あくまでも「仮に」つまり「仮定」・「もしも」の話です。自分が見聞きして覚えた言葉やフレーズがすべて「決まり文句」だったら、などと考えることがよくあります。
自分に意見とか考え、ことによると自由意志と呼べるものがないのではないか。何か、あらかじめ決められた仕組み、またはプログラムがあって、それに沿って思考し行動しているのでなないか。そういう意味です。
シナリオとは違います。シナリオというと、人生の筋書きみたいなものですから、運命や宿命みたいに自分の外の世界までが決定されていなければならない気がします。
そうではなくで、世界・宇宙とは関係なくというか、世界・宇宙・森羅万象の動きに応じて、自分の内部で生じる反応が決められているとか、パターンが限られていてそこから選び出しているという感じです。
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ヒトにとって、言語が先天的に備わった「回路」あるいは「システム」みたいなものだという考え方が、言語学にあるそうです。だから、ヒトという種という共通項があれば、いわゆる民族や人種に関係なく、どんな言語でも母語として習得できるというのです。
語弊のある言い方ですが、「出来レース」みたいに、言語を用いる「仕掛け」が、生まれつき「仕組まれている」という意味にも取れます。そんなものなのでしょうか。そういうふうに、ヒトはできているのでしょうか。もしそうなら、不思議です。考えると、気が遠くなりそうに感じられます。
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ヒトという種には、共通する身体的の器官と機能が備わっている。たとえば、循環器系とか呼吸器系とか消化器系とか、詳しいことは知りませんが、そういうシステムが先天的に備わっているという話は、小中高時代に習いました。
どうやら、そうらしいということは、からだの不調を覚えたり、病気になったり、手術を受けたりした経験から、体感できるような気がします。確かに各人固有の体質というものはあるようですが、病院に行けば、ある程度レディーメード化された治療を受けることになります。
身体のレベルでは、ヒトという種は大筋で「決まっている」し「共通している」みたいです。ただし、特異体質、身体および精神の障害、医学的意味でのいわゆる異常や奇形と呼ばれる身体上の状態があることを忘れてはならないことは言うまでもありません(※不快な気持ちをいだかれた関係者の方に、深くお詫び申し上げます)。
でも、言語というシステムが、先天的に備わっているという話は、体感しにくいです。こうやって言葉を使ってパソコンで文章を書いていても、ぴんときません。きっと鈍いのでしょう。
もしかすると、ヒトには知ることができないかもしれないとか、知ってはならないことだ、という感じもします。
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自分の生きている時代と社会が嫌でならない
ああ言われたら、こういう言葉を返す。それで人間関係がいちおう丸く収まったかのように思われる。ああいう場合には、こう言えば波風が立たない。でも、その段取りっぽさが嫌で、吐き気を催すほど苛立たしい。憂さ晴らしに、そういう言葉を集めてまとめて本にしてやろう。
そう思ったかどうかは知りませんが、そんなふうにも感じられる本を書いたフランスの作家が19世紀にいたという話があります。その本が残っていて、日本語にも翻訳されて、大学生の時に読んだ覚えがあるので、たぶん、本当だろうと思います。
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個人的な経験を述べますと、小説を読むのが苦手で、ストーリーも登場人物もなかなかあたまに入らないために、学生時代にずいぶん苦労しました。それなのに文学部の文学科に在籍していました。実は哲学を勉強したかったのですが、親の大反対にあったため、妥協みたいな形でそうなったのでした。
哲学なんか勉強をすると自殺をするか、卒業後に路頭に迷うだけだ。そのように、親は考えていたみたいです。仕方なく、哲学みたいなことも勉強できそうな外国文学科に入りました。
というわけで、その紋切型事典とかいう本は、学生時代に読んだ記憶はありますが、内容はほとんど覚えていません。痛烈な風刺文学だと言われていました。あれって小説だったのでしょうか、辞書みたいなものだったのでしょうか。調べれば分かると思いますが、億劫なので調べそびれています。
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本を読むのが苦手なので、タイトルや目次を読んで、内容を想像してでっちあげるという作業を、学生時代によくしていました。今でも、その傾向が続いています。というか、本をじっくり読まずに、または斜め読みし、全体の内容を勝手にまとめて想像するという作業は好きです。性に合っているのか、楽しいです。
ただ、小説のある箇所を、辞書を引くみたいに部分的に読む。そこだけを、丹念に舐めるようにして何回か読む。そういうことは、ずっとやっています。全体より部分というか細部が好きです。断片であってもかまいません。まとまりは求めていません。
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全貌をつかみたいという思いは希薄です。ひょっとするとないのかもしれません。というよりも、経験上、自分には全体がつかめそうもないので諦めているのかもしれません。
新聞の紙面の下にある、書籍の広告を見るのも好きです。書名に、短い説明というか宣伝文句が添えられていますね。タイトルと解説を見比べながら、あれこれ妄想するのです。書評は好きではありません。詳しすぎるのです。タイトルとキャッチフレーズだけで、けっこう楽しめます。
辞書を読むのも好きです。断片的なものが好きなのでしょうか。思い出しましたが、映画も苦手です。長すぎるのです。ただ映画の予告編は大好きです。短くて迫力があって、わくわくします。ストーリーを追ったり、登場人物の人間関係にあたまを悩ます必要はありません。そこが好きです。
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もしもヒトにとって、自分が見聞きして覚えた言葉やフレーズがすべて「決まり文句」だったら。
広告にそんな言葉が添えられている本があったと仮定してみます。タイトルは、「紋切型としての世界」という感じでしょうか。その本には、たとえば、次のような言葉がたくさん集めてあるのではないかと想像します。
一般に決まり文句とかステレオタイプ化された言い回しとされている、「頭をかかえる」・「目が点になる」・「口を出す」・「○○を血や肉とする」・「身を粉(こ)にして働く」・「もう、死にそう」・「健康第一」・「環境にやさしい」・「血税」・「清き一票」・「カラスの足跡」・「○○を見ると(聞くと)癒やされるよね」・「○○って天才だよね」・「――(笑)。」「――汗」・「~と思われる」・「~と言えそうです」
言葉だけで知っていて、うまく説明できそうもない、「先進国首脳会議」・「○○民主主義人民共和国」・「QOL(※生活の質)」・「グローバル化」・「見える化」・「カリスマ性」・「スピリチュアル」・「男」・「女」・「こども」・「おとな」・「成熟」・「IT」・「自虐史観」・「エコ」・「ロハス」・「地球温暖化」・「義理」・「親友」・「幸せ」・「人権」・「平和」・「ニート」・「お金」
よく考えると決まり文句かなという気もする、「頑張る」・「お腹がぺこぺこになる」・「元気を出す」・「お元気ですか」・「おめでとうございます」・「ありがとうございます」・「さようなら」・「うっそー」・「よかったね」・「いただきます」・「ごちそうさま」・「お名前は?」・「わかった、了解」・「お願いします」・「かわいいお子さんですね」・「お手洗い拝借してもよろしいですか」・「いつも大変お世話になっております」
今挙げた例は、人によっては異論もあるでしょうが、たとえば、英会話を習う時などには、こうした言い回しが「決まり文句」とか「会話によく出てくる単語」とか「一口○○語会話」みたいに扱われているさまを見ると、ほかに言い方が思いつかないから、「条件反射的に使っている」という意味で「決まり文句」の一種と見なせるような気が個人的にはします。
以上の考え方を拡大すると、「ああ、喉が渇いた」・「うちの犬は、よくほえる」・「あなたのことが好きだ」・「ちょっとケータイ貸して」・「職業は会社員です」・「うるせーなあ」・「おれ、今から会社」・「大関の名に恥じないよう」・「ビッグマック2個ください」・「あっ、雨だ」・「お腹が痛いの」・「これからも、○○校の卒業生であることを忘れず、今後も一生懸命に人生を歩んでいくことを誓います」・「暑いなあ」・「気持ちいい」などまでが、決まり文句に感じられてくるのは、自分だけでしょうか。
話は、それだけにとどまりません。「1×0=0」・「地球は太陽の周りをまわる」・「1日はほぼ24時間である」・「日本の人口は約1億2千7百万人だ」・「日本の首都は東京だ」・「1603年、徳川家康が江戸幕府を開いた」・「水素を燃焼させると酸素と化合して水が生じる」・「トロントはカナダの中部にある」・「光は波動と粒子の二面性をもつ量子である」「きょうは水曜日だ」というのも決まり文句ということになりそうです。
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自分で確かめたことがない、あるいは観測や知覚することができない物・事・現象は、言葉として知っているだけですから、決まり文句だと言われると説得力を感じてしまいます。
そう思うと、自分の話していることや書いていることの90%以上(※この数字は個人的な印象でしかありません)が、「言葉として知っているだけの決まり文句」だという感じがします。屁理屈だと言う気がしても、その屁理屈を否定する自信はまったくありません。
ひょっとして、いわゆる屁理屈とは、ヒトが論破できない理屈に対する悪態とか罵倒なのではないかという気がしてきました。心もとないです。
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「あの本、読んだ?」「うん、痛烈な風刺文学だね」
紋切型事典が風刺だというのは、ひょっとして、こういう意味なのではないでしょうか。たとえば、ある本を読んでもいないヒト同士のあいだに、そんな感じの会話が成立してしまうことに、今、ふと気付きました。
「きのうの夜10時からやってた「○○」見た?」「見た、見た。涙、涙って感じだったよね」
「地球温暖化だって」「何とかしなくちゃね」「うん、環境にやさしくしよう」「同感」
内容はよく覚えていないのですが、19世紀にフランスの作家が書いたという、紋切型事典。それは、以上のような思考停止状態に等しい決まりきった会話に対する風刺だとも、取れそうです。
そう考えると、すごい風刺ですね。
こんな具合に、その作家の風刺の対象にやすやすとなってしまいました。まさに「してやられた」という紋切型の状況です。
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決まり文句は、人間関係を円滑にする側面も持っているように思われます。
「いい天気だね」「そうですね」
こうした会話には、文字通りの意味はなく、相手と言葉をかわすことで緊張感をやわらげる、話のきっかけを作る、当たり障りのない言葉のやり取りで「同意」という友好関係維持のための儀式のリハーサルを行う、といった働き・機能がある。そうしたたぐいの話は、人間関係をテーマにしたいろいろな本に書かれています。
「雨だ」「嫌だね」
これもよく交わされる会話ですが、農業に従事しているヒト同士だと、雨続きの場合に限られ、日照り続きの状況では、違ったものになるはずです。
「雨だ」「よかった」
こんな感じではないでしょうか。
いずれにせよ、ある言葉やフレーズが発せられると、それに対する決まった言葉やフレーズを返すという約束事、大げさに言うと掟(おきて)めいたものがあるようです。
その約束事や掟に外れた言葉を返すと、白い目で見られたり、偏屈だと思われたり、仲間はずれにされたり、敵とみなされたり、シカトやいじめの対象にされてしまう。そんな状況を経験したり、見聞きすることは数知れないと思います。
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日常生活を送っていると、決まり文句はどんどん固定化されていくような気がします。ルールに外れた言葉を発したり、返したりすることを、自粛するようになる感じもします。自主的な言論統制と言えば、言いすぎでしょうか。
いわゆる社会生活において、そうした自粛が広がれば、これはやっぱり、自主的な言論統制であり、言論弾圧だと言ってもいいような気がします。政治・経済・宗教・信条・時事問題について、自分の思うことが自由に言えない状況なのですから、そう言わざるを得ません。
その意味では、決まり文句は、恐ろしい側面があり、ファシズムや全体主義への芽でもあると言えそうです。
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赤ちゃんの場合を考えてみましょう。「赤ちゃん」から「幼児」と呼ばれる時期には、ヒトは驚くべき速さで言語を習得していくと言われています。習得することを、「まなぶ」と言い、「まなぶ・学ぶ」は「まねぶ」つまり「まねる・真似る」と語源がいっしょだという話は、よく知れているようです。つまり、紋切型です。
赤ちゃんが言葉・言語を発明するわけはなく、「真似る」つまり「学ぶ」。こういう話は、比較的容易に理解できると思われます。そうした「真似る・学ぶ」は一生かけて続くと言えるような気がします。
これまでの自分と現在の自分の状況を考えると、よけいにそう感じられます。毎日どころか、一刻一刻が「学ぶ」の連続だと言っても誇張ではありません。
たとえば、今、こうやってさくぶんをしているわけですが、考えているようでもあり、これまで見聞きした語、語句、フレーズ、言い回し、センテンス、文章、イメージ、考え方、話の筋の運び方、言葉遣い、文体、漢字の使い方、漢字とひらがなの量的なバランス、段落の分け方など、すべてにおいて、「思い出して、借りている」という気がします。「借文」という言い方もありますね。
たとえて言えば、パッチワークというのでしょうか。個人的な感想なのかもしれませんが、そう感じています。
実は、ヒトの言語活動をはじめとする、ありとあらゆる行動が、パッチワークであるという比喩は、何かで読んだ記憶をもとに書いた「真似」です。「個人的な感想」ではありません。嘘をついて、ごめんなさい。万事が、こんな感じなのです。
独創性、つまりオリジナリティなんてかけらもありません。少なくとも、自分に関してですが、そう思います。これも、以前に読んだか聞いたことの受け売りであることは言うまでもありません。
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「引用」、つまり「真似・受け売り」、そして「比喩・たとえ」、つまり「こじつけ・話のすり替え・代理の使用」をしないで、ヒトは生きていくことはできないようです。
論文や文章の書き方のハウツー本で、「事実と意見を分けよ」とか、「伝聞は、出典を明記せよ」とか、「ありのままに書く」とか、「描写に徹する」などと書いてありますが、厳密には無理だという気がします。「そこそこ」やりなさい、というふうに暗黙の了解みたいなものがあるのでしょうか。そのように受け取るべきなのかもしれません。
あの種の本に詰まっている、威勢のいい数々のフレーズも、やっぱり、たぶん何かからの受け売りだったのであり、いわば思考停止状態で書いたわけなので、深く受け止める必要はないという気もしてきました。本気にするのはやめます。
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ヒトは、ある時点までに「真似る・学ぶ」という形で蓄積した言葉の断片や、言葉の使い方のパターンを、あたまという倉庫(※比喩です)から取り出しながら、組み合わせたり、そのまま用いたり、変形させたりしながら、狭義の言語および広義の言語を使用していると言えば、言いすぎでしょうか。
大雑把で飛躍した言い方かもしれませんが、次のようにも考えられる気がします。
ヒトは、同じ言語を使用する、ほぼ同年齢で、ほぼ同じような環境で生きてきた他のヒトたちと同じような言葉の使い方や考え方をする。もちろん、変形や逸脱もある。
あるヒトが、考えたり、イメージしたり、妄想したり、話したり、書いたことは、既に、および、どこかでほぼ同時に、他のヒトたちによって、考えたり、イメージしたり、妄想したり、話したり、書いたりされたか、されつつある。
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発明や進歩や発見は、偶然性の産物だという気がします。たとえば、物理学や化学のいわゆる「新理論」が、世界にニュースとして広まった場合には、然るべきヒトが然るべき時に然るべき状況の下で、その考えを「組み合わせた」あるいは「加工した」からだと言えないでしょうか。
「然るべき」とは、「偶然」と「幸運」をミックスしたような言い回しだと思います。「必然」と近いようで、隔たっている気がします。そもそも必然とか必然性は、偶然とか偶然性が先にあって、その後に慌ててヒトが付け足したという印象を強くいだいています。
いずれにせよ、「然るべき」は、きわめていい加減な響きを持った言葉に感じられなくもありません。お役人や官僚や政治家が好んで使っているのも、よく分かる気がします。
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オリジナリティが疑いのないものとされている領域があるらしいことは感じています。
ある小説や曲や学説や教祖の教えを例に挙げて、これとそっくりな、あるいはよく似たものがあるのかと問われれば、2つの意味で困ってしまいます。
1つは、それを調べる方法や手段を個人的に持っていないという点で、首を横に振るしかありません。降参したという意味です。ちなみに、議論は苦手なので、すぐに降参するようにしています。
2つめに、小説にしろ、曲にしろ、映画にしろ、学説にしろ、教えにしろ、いわゆるメジャーで、社会や世界の数多くのヒトに知られているものは、氷山の一角に過ぎず、いわゆるプロではないヒトたちの口にしたお話や言葉の断片やフレーズや口ずさんだ旋律というレベルでの、過去から現在にいたるすべての「小説」「曲」「映画」「説」「教義」まで検証することは不可能だと思われるからです。誰にも確かめられないという意味です。
ただ、たとえば小説の場合は、言葉で書かれていますから、どんなに長くても「分ける」ことができます。語、語句、センテンス、使用されている言い回し・熟語・比喩、仮名遣い、表記という具合に区切ると、「同じ」、「ほぼ同じ」、「似ている」部分が、あちこちに見つかるはずです。たった今書いた「です」「はず」「見つかる」「あちこちに」だけでも、今朝配達された新聞のなかで何回か使われていると推測できます。
あとは、そうしたパーツの組み合わせと、どの程度の長さを単位とするかの問題でしょうか。こんな感じの文学作品の分析について書かれた本を学生時代に読んだ記憶があります。同様の分析は、映画や音楽でもできるみたいです。詳しいことは忘れました。
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音楽の世界では、よく「パクリ」だ「いや、そうじゃない」といった議論が聞かれますね。言葉も、よく考えるとあんな感じです。でも、あんまり、ヒトは言いません。
盗作問題までに発展しないレベルでの、日常的な「似ている」「そっくり」「まったく同じ」という言葉やフレーズや文章の話です。いわゆる「コピペ」がやりやすくなった環境も、大きく影響している気がします。
「物語(説話)の構造分析」や「(芸術作品における)引用」、「ロシア・フォルマリズム」、「ブリコラージュ」という考え方を、大学生だった頃に見聞きした覚えがありますが、その辺の言葉やイメージや話に詳しい人であれば、おそらく、もっと気の利いた説明ができるでしょう。
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確か物理学者、それも理論物理学と言われる分野の学者だったような記憶がありますが、最先端と言われる理論か学説を唱えていた人が、インド哲学か仏教の経典のなかに、自分の考え方とそっくりなものを見つけたとかいう話を思い出しました。
うろ覚えなので、正確なことは書けないのですが、そういう話があるとするなら、ヒトの考えることには、「経路」というか「線路・回路」みたいなものがあるような気がします。
決まり文句といい、決まった筋のある話・説や、決まったパターンのあるイメージといい、ヒトは一種の出来レースをやっているという感じがしてなりません。発明とか、発見とか、独創性とか、本物とか、「わたしが先」、「わたしだけのもの」という発想は、もしかすると幻想かもしれないように思えます。
でも、それが幻想かどうかを確かめる方法も手段も、ヒトにないことは確かだと言えそうです。今のところはタイムマシーンも発明されていないし、無文字社会も含めてありとあらゆる国、地域、共同体に属しているヒトたちの、広義の言語を記録したものも、存在していないみたいだからです。「検索」は不可能みたいです。
オリジナリティなどという、欲張った考え方をするのは、やめませんか。
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ヒトは、あらかじめ決められている、つまり、お膳立てされている、またはプログラムされているものしか知覚したり意識することができない。
ヒトは、知覚器官やシナプスや脳が情報として受信・伝達・処理できるものしか、知覚したり意識することができない。
もし、今の述べた2つのフレーズがシステムとして、ヒトに備わっているとすれば、自分が見聞きして覚えた言葉やフレーズがすべて「決まり文句」であると言えるような気がします。
ヒトにとって、広義の言語は、すべてが「決まり文句」(※比喩です)、あるいは定型化されたもの、または「既製服」(※比喩です)である。
ここまで言ったら、やっぱり言いすぎですよね。一歩譲って、「仮に」つまり「もしも」の話ならと言っても、言いすぎだという気もしないわけではありません。
ところで、たった今書いたフレーズは、何に書いてあったのでしょう。記憶をたどってみます。
大切なことを忘れていました。ヒトは、すごく忘れっぽい生き物なのです。すっかり忘れていました。
※この文章は、かつてのブログ記事に加筆したものです。https://puboo.jp/users/renhoshino77
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