代理としての世界 -6-
星野廉
2020/09/26 08:45
「自分」とは、ヒトが「でっち上げたもの」だという気がします。「捏造する」というちょっと気取った言い方もありますし、単に「作った」とか「作り上げた」くらいで済ませてもいいのですが、「でっち上げた」にはネガティブなイメージを喚起させる響きがありませんか。今回は、「自分」「他人・他者」「世界」「森羅万象」「宇宙」「真実・事実・現実」といったものは、すべてヒトが「でっち上げたもの」だということについて、うわごと=与太話をしてみたいと思います。
ヒトが「でっち上げたもの」だ、というフレーズについて説明します。いろいろな説明というか、言い換えが可能です。たとえば、「でっち上げたもの」=フィクション=虚構=作り話=言説=言語構築物=言葉の集まり、という感じです。いちばん単純な言い方は、「言葉」でしょうか。
「自分」とは「言葉」である。
このように書くと、ずいぶんすっきりしますね。でも、すっきりした分だけ、いろいろな大切な部分を切り捨てていることを忘れてはなりません。とは言うものの、大切なところをごちゃごちゃ書き足すと、ややこしくなりますから、できる限り「すっきり」路線で話を進めていきます。
今、ここで問題にしているのは、あくまでも「自分」という「言葉=語」であることをくれぐれもお忘れにならないようにお願いします。拡大解釈やないものねだり的に、ここで書いていないことまでに話を発展させないでくださいね。このうわごとをつづっているアホは、勉強家でも物知りでも、いわゆる論理的な思考に慣れた者でもありません。出まかせ・勘・アドリブに頼りながら、うろうろおろおろ、うじうじぐちゃぐちゃとした書き方しかできないのです。以下の図式は、このアホが考えていることをイメージ化したものです。
(A)「自分」という「言葉=語」 : ある程度知覚可能
↓(「対応・指し示す・意味する」という関係性をヒトは想定している)
(B)「自分」という「言葉=語」で呼ばれている「イメージ」 : 個人レベルでいだくものであり一定しないため、「言葉=語」を用いてお茶を濁すしかない
↓(「対応・指し示す・意味する」という関係性をヒトは想定している)
(C)「自分」という「言葉=語」で呼ばれている「何か」 : 知覚不能であるため、「言葉=語」を用いてお茶を濁すしかない
*
なお、上述の
「自分」とは「言葉」である。
というフレーズにある「言葉」は、広義の「言葉」です。「代理としての世界 -4-」で書いた文にちょっと手を加えて紹介させてください。
広義の「言葉」 : 話し言葉や書き言葉だけでなく、表情や仕草や身ぶり手ぶりを含む身体言語=ボディランゲージ、合図、手話、指点字、音声(発声)、音楽、映像、図像、標識、記号、数字、信号など。
このように何でもあり的なイメージで受け取っていただきたいと思います。表象、象徴、シンボル、代理、ルプレザンタシオンなどの語を見聞きなさった方は、そうした語が定義しているものにも少し似ているとお考えになってもかまいません。今挙げた語については、いろんな人がいろんな定義をしているようですから、どれでもお好きなものをイメージなさってください。ここでは、定義ごっこや定義争いとも無縁なうわごとをほざいているわけですから、「柔軟に=テキトーに」「受けとめて=受け流して」いただくのが、よろしいかと存じます。
どんな言葉=語を用いようと、どんな定義をしようと、それが言葉である限り、つまり、ヒトという枠の中のお話である限り、大騒ぎをするほどのことではない。ヒトは「大騒ぎすべきこと=ヒトの行動に起因するらしい、この星の行く先にかかわる大事」については本気で騒がず、「ささいなこと=ヒトという枠の中でしか通用しないこと」で大騒ぎをする。そんなふうに日々感じています。うろうろと話が逸れはじめたので、さきほどのフレーズに戻ります。
「自分」とは「言葉」である、でしたね。「自分」という言葉=語は、その言葉=語が指し示すはずの「何か」を「指し示している」わけではなく、その「何か」を「指し示していると思い込んでいるor決めた」というのが正確な言い方だと思われます。簡単な比喩を使うと、言葉=語は「ラベル」だとなります。ラベルですから、何にでも貼ることができます。ラベルとラベルを貼られたものとの間には、ヒトの思い込みor思惑or都合、あるいは、ヒトとは無関係で起きたアクシデント以外に「関係性=対応=写像(※比喩です)」と呼べるようなものは存在しない気がします。
具体的には、「うつせみ・空蝉・現人」「あなた・彼方・貴方」「な・汝・己」「てまえ・手前」という言葉=語を、少し大きめの辞書で引いてみると、言葉=語というラベルが、さまざまな事情や、原因不明のアクシデントにより複数の語義を成しているさまを垣間見ることができるでしょう。そう思うと「うつせみのあなたに」なんて、何だかロマンチックなイメージも喚起するし、謎めいた響きもあるみたいですが、実のところは、多義的=多層的=テキトー=馬鹿みたいなネーミングですよね。「うつせみのうわごと」の前身としての資格を十分に備えているのではないでしょうか。
で、「自分」という言葉=語なのですが、その言葉=語が指し示すものは「何か=名づけ得ぬもの=ヒトという枠を超えたもの」であるように感じられます。でも、ヒトは「何かの代わりに何かではないものを用いる」という仕組みを基本として、「知覚する」とか「認識する」とか「意識する」といった、もっともらしい「言葉=語=ラベル=名前」を使って、「自分」という「言葉=語=ラベル=名前」をめぐって、「話を作る=でっち上げる」ことがあります。ここでも、やっていますね。「自分」とは「言葉」であるとは、それくらいの意味なのです。大したことでもなければ、ややこしいことでもありません。
ややこしいという印象は、たぶん、混乱・混同・誤認してしまうからでしょう。もう少し言葉を加えると、ある言葉=語と、その言葉=語が指し示すと考えられている「何か」を混乱・混同・誤認してしまうという意味です。ここで最も重要なのは、「何か」です。ヒトが観測できない「何か」です。ただし、ここでは観測できない「何か」には、これ以上触れません。日常会話で用いる「何か」であっても、事態は一向に変わりませんので。
混乱・混同・誤認する原因として考えられるものを挙げてみます。
(1)言葉=語=ラベル=名前は、何にでもくっつく。対象を選ばない面がある。ヒトが故意にくっつける場合もあれば、不注意でくっつく場合もあれば、原因意不明のアクシデントでくっついてしまう場合もある。その意味で、ヒトは言葉=語=ラベル=名前という、いわば道具に対して主導権を握っていない。逆にもてあそばれる側にある。
(2)ヒトは、個人レベルで、各言葉=各語=各ラベル=各名前を、その時々の気分で勝手気ままにとらえる=解釈する。たとえば、誰かと話しているうちに、その指し示すものを、話し相手との利害関係を考慮し途中で故意に変えてしまう。解釈・定義を変更してしまう。そのような「節操のなさ=機敏さ=臨機応変=当意即妙=賢さ」さえ持ち合わせている。困ったことに、ヒトは自分が解釈・定義を変更したことを忘れてしまい、その新しい解釈こそが「正しい定義」だと思い込んでしまうことが多い。都合の悪いことはすぐに忘れるということです。その意味でも、ヒトは言葉=語=ラベル=名前という、いわば道具に対して主導権を握っていない。逆にもてあそばれる側にある。
(3)言葉=語の使用が、「何かの代わりに何かではないものを用いる」という仕組みを、もっとも身近に「表す=現す=現出させる」行為であるにもかかわらず、ふつうヒトはそんな仕組みを意識しない。つまり、いわば「使用上の注意」を怠っている。ヒトに対して好意的な見方をすれば、ヒトは言葉=語が「欠陥品」であることを十分に理解していないとも言える。
(4)言葉=語は、その指し示すものとイコールである。ほぼそれくらいの認識で、ヒトは日常生活を送っているのに慣れきっている。また、そうした認識で日々を過ごしていながら、そうした認識に起因すると考えられなくもないさまざまな問題に直面し、てんてこ舞いつつも、何とか生きていけるという確信を、おそらく無意識にいだいている。言い換えると、「言葉=語は、その指し示すものとイコールではない」は、いわば圧倒的多数によって否決されている状況の中で、ヒトは生きている。
以上のような気がします。気がするだけです。なにしろ、たった今述べたような、いかがわしい属性を備えた、わけの分からない存在である言葉=語と呼ばれているものを用いて、このうわごとをつづっているのです。欠陥品を使って欠陥品の説明をしているのです。ですので、「気がします」「気がするだけです」と控えめに書いても、心もとない気分は一向に去りません。実は、「思います」「思われます」「考えています」「考えられます」「感じがします」「感じられます」……のうちで、どれを使おうかなあ、なんて20秒ほど迷っていました。確信が持てないことを、どの言い回しで締めくくろうかとくよくよ思い悩んでいたわけです。
で、「ま、いっか」の乗りで、選ばれたのが「気がします」です。このブログでは、上に挙げたような語尾は、いつもそんな感じのうじうじとした態度をベースに、語尾の単調さや連続をなるべく避けようくらいの魂胆=文章作法でつづられていることを白状しておきます。
ここで、ちょっとややこしい話に移ります。上述の広義の「言葉」についての、くだくだした文に、もう一度目を通していただけませんか。話を単純にするために、これから述べる話では、「言葉=語」という言葉を使いますが、本当は「広義の『言葉』」を頭に置いているからです。
さて、結論から書きます。
「自分」という言葉=語で指し示すと考えられている「何か」は、「代わり=代理=仮のもの=借りもの」である。特に、「借りもの」だという点に的を絞って出まかせを言うと、その「何か」は「引用されたものの断片=真似たものの断片=何かor誰かに成りきったものの断片=何かor誰かの言動を手本として演じたものの断片=何かor誰かを装ったものの断片=どこかから借りてきたor盗んできたもの断片」ではないか。今挙げたものを、単純化して「借りてきたものの断片」とひっくるめて呼んでみよう。「借りてくる」行為には、誤差やノイズが伴うと思われる。その誤差やノイズも小さなものから大きなものがあるだろう。
いずれにせよ、「借りてくる」という行為に誤差やノイズがあるということは、「変わる」とも言える。しかも、その「借りてきたもの」は断片であり、おびただしい数のそうした断片が集まって「自分」と呼ばれているものを構成しているとも言えそうだ。そうした視点を強調すれば、
「自分」という言葉=語で指し示すと考えられている「何か」は、「代わり=代理=仮のもの=借りもの」である
と同時に、
「自分」という言葉=語で指し示すと考えられている「何か」は、「作られたもの」、あるいは「借りてくる間に変わったものの寄せ集めorごった煮orパッチワーク」である
という比喩的な言い方もできるのではないか。
以上のような気がします。というか、そんな感じがします。
あなたは、「自分」と呼ばれているものが、これまで「自分」が見聞きしてきた雑多な広義の言葉やイメージの寄せ集めだという気がしませんか? 自分の言動のある部分の出どころみたいなものを意識することはありませんか? あっ、今私がやっていることは、□□さんに成りきっているみたいだとか、よく考えると▽▽さんをイメージしている、なんて具合に。
自分とは「借りもの」だ。という考え方の説明として、思いつくままに、例をでっち上げてみます。
「今、口にした言い回しはこの間本で読んだものだ」「このたとえは、去年の夏ころに○○が言っていたのを拝借して、これまで何度も使っているものなのだが、なかなか説得力のある言葉だと思う」「今の表情と仕草は、何年か前に見たテレビドラマの登場人物が、あるシーンで演じた時のものをイメージしているんだけど、それが自分の癖になっている気がする」「わたしは、娘or息子と接するとき、無意識に母or父を思い浮かべて、そのイメージに沿って行動をしているように思えてならない」
「この挨拶の仕方は母親譲り。自分でも意識してる」「こいつのこういう癖を、直させなければならない。そうだ、今朝の連ドラで、似たようなシチュエーションがあって、何とかいう俳優が父親役でいいこと言っていた、あれを真似よう」「この人に対しては、女優の△△をイメージして下唇をちょっと噛んで、すねた顔を作って目だけで甘える。あの手を試してみよう。きっとうまくいくわ」
「このレポートの書き方は、あの本に書いてあった方法を下敷きにして、例のブログに書いてあったことをちょっと変えたものだけど、コピペしたわけじゃないから、まあ、いっか」「わたしは××を尊敬している。憧れている。××の生き方だけでなく、話し方、表情、服装、趣味まで、意識的に真似ている。××のようになる。それがわたしの夢だ」「自分らしく生きる。これは◎◎の言葉だ。私は◎◎の本は全部読んでいる。◎◎のように、自分らしく生きたい」
どうでしょうか。今、挙げた例と似たような感じで「自分」は「出来ている」という気がしませんか? 言葉=語だけでなく、話し方、話の内容、表情、仕草、身ぶり、声の出し方、行動などありとあらゆるものが、誰かor何かから部分的に「借りてきたもの」だという意味です。
個人的にはそうした思いが強いです。友達がいないので、こうしたことについて、誰かと話し合ったり、意見を求めたことはありません。ただ、ほかの人たちの言動を観察していたり、書いたものを読んでいて、この人たちも自分が感じているのと同じように、複数の「他人」の断片から「出来ている=成り立っている」のではないか。そんなふうに思ったことが、数えきれないほどあります。
整理しましょう。
(1)「自分」というものはない。「自分」とは、ヒトが口にしたり、書き記す言葉=語である。その「自分」が指し示すものは「何か」としか言えないものだ。「自分」とは、対応物を欠いた空虚な言葉だとも言える。何しろ、ヒトは△〇×という言葉をつくり、次に「△〇×とは何か?」と問い思い悩む生物である。そのように考えると、ヒトは言葉を「つくる」というより、「でっち上げる=ねつ造する」と言うほうが適切であろう。
(2)各人のレベルで言えば、「自分」と呼ばれている「何か」は、おびただしい数の誰かor何かから部分的に「借りてきた」言葉=語、話し方、話の内容、表情、仕草、身ぶり、声の出し方、行動などから「出来ている」。なお、「自分」と呼ばれている「何か」を構成する、「100%借りてきたもの」だと言える「何か」の断片は存在しないと思われる。むしろ、「借りてきたものにさまざま程度で何らかの変更が加えられた」おびただしい数の「何かの断片」が集まっているのではないか。また、「借りてきたもの」ではない、つまり、オリジナルな「何かの断片」は存在しないのではないか。言い換えると「自分のオリジナルな部分」はないということになる。一方で、「借りてきたもの=生後に学習したもの」「生得的に備わっているもの=本能」という分け方も可能であろう。その場合に、後者を「自分のオリジナルな部分」と呼ぶ人たちがいても不思議はないだろう。だが、個人的には、本能を「オリジナルなもの」と呼ぶことには抵抗を覚える。
(3)ヒト各人は、「自分」を認識することも、意識することも、おそらくできない。「借りもの」としての「自分」という情報=データが膨大なものだからである。ヒトが「認識・意識」していると自覚している情報は、ヒトが期待しているor思い込んでいるよりはるかに小さいのではないか。ヒトは「自分」は言うまでもなく、周りの世界を、空間的広がりとしても時間的経過としても、いわば「まだら状」にしか「知覚・認識・意識」できない。そのさまをやさしく言い直せば、濃い霧の中でかなり狭い視野の目で眺めている重度の健忘症の人をイメージすると近いのではないか。
(4)上の(1)でも触れたが、「自分」とは「作りもの=フィクション=でっち上げられたもの」だ。フィクションとは、ヒトという枠の中での「話」である。いわゆる「実体」はない。また、言葉=語という媒介を通してのみ、ヒト各人が表出し、各人の間で交わされる以上、「自分」は常に解釈=誤解の対象となり、その解釈=誤解は時の経過とともに常に揺れ動く。
(5)上の(1)から(4)を前提にすると、ヒトが「自分」=「借りもの」=「何か」に対して主導権を握っていないばかりか、「自分」=「借りもの」=「何か」にもてあそばれている=振り回されている可能性がきわめて高く、またそうした状況は常態化していると思われる。したがって、「自意識」「自覚」「知覚」「認識」「意識」という、ヒトがでっち上げた言葉=語は、かなりいかがわしいものと言わざるを得ない。ひいては、そうした言葉=語の産物とも言える「真実」「事実」「現実」という言葉=語もまた、かなりいかがわしいものと言わざるを得ない。
そんなふうに感じられます。
未完(※おそらく、この続きは書けないと思います。あくまでも、おそらく、ですけど)
※この記事は、かつてのブログ記事に加筆したものです。https://puboo.jp/users/renhoshino77
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