あらわれる・あらわす(6)
星野廉
2020/09/19 13:26 フォローする
前回は坂田利夫さんについて書きましたので、今回は、高倉健さんと、忌野清志郎さんのことを書いてみたいです。このお三方に共通するのは、自分が大好きだという点だけです。誤解のないようにお願い申し上げます。
同時に、タレントや有名人と呼ばれる人たちが、どのような役割を果たし、いかなる仕組みで社会において受けとめられているか、本人はどう自分自身を見ているのかについても、考えてみたいです。
以前、タレントは「トリトメのない記号=まぼろし」として、消費され、いつかは消えていくという意味のことを書きました。
簡単に申しますと、タレントさんにはまことに失礼な言い方になりますが、タレントという存在は、スーパーに売られている商品に似ているということなのです。つまり、大量生産された、そっくりなものがずらりと並んでいる。それを人がお金と引換に入手し=購入し、使用=消費し、あるいは、保存し、いつか不要になった時点で、廃棄 or 処分する、というイメージです。大臣も含む国会議員も同じような存在です。どれも大差なく取り換え可能だ、とも言えます。
そうした特徴をもつものを、「トリトメのない記号=まぼろし」と、このブログでは呼んでいます。
森羅万象が、「トリトメのない記号=まぼろし」になり得ます。ヨーグルト、パソコン、ケータイ、クルマ、ノートやペン、クルマ、キュウリやナスなど……もそうです。このブログを書いているアホも含めて、ヒトである限り誰もが「トリトメのない記号=まぼろし」になり得ます。ただし、そういうふうにみなすことも可能だ、くらいの軽い意味で取ってくださいね。
そんな「トリトメのない記号=まぼろし」にも、晴れの舞台や脚光を浴びる時があります。コモディティ化=陳腐化に逆らって、差別化や特化をすればいいのです。
すると、廃棄 or 処分までのあいだが長くなります。珍重され、活躍の期間が延長されるわけです。次々と「出て or 現れて」「消えていく」ミュージシャン、タレント、俳優のなかで、忌野清志郎さん、高倉健さんは目覚ましい活躍をされていました。坂田利夫さんは、目覚ましい活躍をされています。
*
前回は坂田利夫さんが「アホ」を、
*演じて
いらっしゃることについて触れました。
さて、高倉健さんを映画作品で見ていて、いつも感じるのは、個性が非常に強いということです。映画の登場人物と高倉健という俳優とがかぶる=重なる=ダブるという意味です。いろいろな役柄を演じ分けることができる、
*器用な
役者さんというより、
*ぶきっちょ=不器用な
ところが魅力である役者さんだったと思います。その意味では、往年の名優の笠智衆(りゅうちしゅう)さんに通じる魅力を備えているように感じます。
忌野清志郎さんも、ほかのミュージシャンとは取り換えのできない存在感がありました。自分は中学生の頃、いわゆる和製のグループサウンズに熱中しましたが、GS時代が終わった以降の海外のロックや和製のロックの隆盛には興味がなく過ごしてきました。
それなのに、RCサクセションというより、忌野清志郎という存在に、なぜか興味を引かれていました。テレビでその歌っている姿を見ると、どういうわけか見入っていたという感じです。享年を聞き、びっくりしました。忌野清志郎さんも、
*器用な
ミュージシャンというより、
*ぶきっちょ=不器用な
魅力を持っていた方だと個人的に感じております。
その意味では、「差別化」「特化」していた、と言えるのではないでしょうか。清志郎さんが亡くなったとき、日常生活では、いい意味で「常識人」だったと聞きましたが、単なる死者への儀礼の言葉とは受け取れませんでした。
*
坂田利夫さんも、アホを演じることで、「差別化」「特化」に成功しているお笑いタレント・ナンバーワンだと思います。
*「アホ」
とか
*「アホの」
とか口にした場合、この国で生まれ育った人の70%以上の方が(※関西では90%以上ではないでしょうか)、その言葉を聞いて、すかさず、
*「坂田」
と声に出して言うか、あるいは、その固有名詞なり顔なり仕草をあたまに浮かべるのではないでしょうか。これって、すごいことです。このブログを書いているアホ以外に全国に多数いるはずのアホのなかで、巨星のようにきらめいているのです。アホの独り占めです。独禁法違反ですよ。
で、何を言いたいのかと申しますと、実は、前回の話の蒸し返しなんです。前回の記事の核心部分をコピペさせてください。
*
★で、例の、
*「テーマ=筋書き=理屈」(※抽象的)を、「テーマに登場する言葉たちの身ぶり=表情=運動」(※具体的)に演じさせる。
を、今回のシリーズに当てはめると、次のようになります。
A)あう・であう ⇒ みる・ちかくする ⇒ あらわれる・でる
B)合う・出合う・出遭う ⇒ 見る・知覚する・近くする ⇒ 現われる・洗われる・あら、割れる・出る
A)とB)は、基本的に同じです。違いは、上が「ひらがな」ばかりで、下は「漢字=感字+ひらがな=送り仮名」で書かれていることだけです。A)もB)も、今、このシリーズでやっていること、つまり、「テーマ=筋書き=理屈」(※抽象的)であると同時に、シリーズで扱っている「テーマに登場する言葉たちの身ぶり=表情=運動」(※具体的)でもあるのです。もっと短く、次のようにも言えます。
*「A)とB)」をつかって、「A)とB)」を演じている。
こんだけーです(※本当は、「こんだけー」じゃなくて、もっと「もっともらしい=格好をつけた」説明の仕方もありますが、きょうは恥ずかしいので、やめておきます)。
*
★から以上までが、引用部分です。
で、最後に書いてある
*「もっともらしい=格好をつけた」説明の仕方
というのを、きょう、やってみたいのです。アホが格好をつけても、格好をつけたアホでしかありませんが、やらせてください。
個性の強い、つまり、「差別化」「特化」に成功しているタレントというのは、
*意図的に=意識して=故意に=わざと=自ら or 所属事務所の方針で、
そうなっている場合もあれば、
*期せずして=なりゆきで=どういうわけか=自然に=無作為に or 作為的なのが普通になっちゃって、
そうなっているケースもあるように思えませんか?
いずれのケースでも、結果的に、そうなって、そこそこ成功しているのであれば、引き返すことはできないというか、たいていは、後戻りや路線変更やイメチェンはしません。ファンを裏切ることになるからです。また、収入が激減するリスクがあるからです。言い換えると、
*いったん、出来てしまった=現れてしまった=出てしまった自分自身のイメージ
とそのタレント自身とは、付き合って=折り合って=手なずけて=手なずけられて=共生・共存していかなければなりません。これって、ひょっとすると、しんどいことなのではないでしょうか。
かなり前のことですが、いつだったか、誰かがテレビで、
*アイドルは、うんこもおしっこもしません
なんて意味のことを言っていました。それを聞いて、アイドルって職業も、大変だなあ、と思ったことをはっきりと覚えています。だって、そうじゃありません? 渋谷なんかをプライベート=お忍びで歩いていたら、突然、
*キャーという黄色い声や、
*ウォーなんていう、だみ声が、
飛んでくるかもしれない身なんですよ。
そんな人が、こっそり、デパートのトイレなんかに入れますか? または、「そっと」だとしても、公衆のなかで、おならなんてできますか? そう思うと、しんどいとしか感じられません。ご同情申し上げたくなります。いろいろ大変ですねー、なんて。
つまり、
*いったん、出来てしまった=現れてしまった=出てしまった自分自身のイメージ
というのは、諸刃(もろは)の剣(つるぎ)みたいなものです。公私共に行動には、慎重にならざるを得ません。ひとつ間違うと、大スキャンダルです。酒、クルマ、おクスリ=ドラッグ、恋愛、家族、お金、交友関係……何もかもがリスキーな存在=要因になり得ます。
週刊誌やテレビの芸能ニュースやネット関連の目が、常に光っているのです。虎視眈眈(こしたんたん)と狙う目がどこにあるのか、分かったものじゃありません。へたをすれば、さっそく、掲示板に書き込まれますよ。「証拠写真はこちらをクリック⇒×××」なんて具合に。他人様のこととはいえ、想像しただけで、ぞっとします。1人で受けて立つ「監視社会」みたいなものです。
*
で、高倉健さんなんかの映画での演技と、映画以外の映像とを見比べていての印象=感想なのですが、両者のイメージにあまり差がないように感じられませんか? もっとも、私生活での健さんは、わりとおしゃべりになる方だと、ちらりと聞いた覚えがありますが、映像で見る限りは、朴訥(ぼくとつ)で寡黙な印象でしたよね。
*健さんは、人前でも常に健さんを演じていた。
と言えば、健さんに失礼でしょうか。個人的には、驚嘆しているというか、称賛しているつもりなのです。健さん、格好いい! なんて。一方で、健さんにしてみれば、多少窮屈な思いもされているように想像=妄想してしまいます。
*
で、当ブログ恒例の、こじつけ=でまかせ=アホ芸に入ります。タレントさんや有名人の、
*いったん、出来てしまった=現れてしまった=出てしまった自分自身のイメージ
は、まさに、
A)あう・であう ⇒ みる・ちかくする ⇒ あらわれる・でる
B)合う・出合う・出遭う ⇒ 見る・知覚する・近くする ⇒ 現われる・洗われる・あら、割れる・出る
ではないでしょうか。
どういうことかと申しますと、故意であれ、なりゆき上であれ、自分自身のイメージというのは、
1)「あう・であう・合う・出合う・出遭う」 : 自分自身ではコントロール=制御できない状況で、出来上がる。たとえば、ある映画作品で演じた役にはまってしまう。ファンが、役と役者を同一視してしまう。
2)「みる・ちかくする・見る・知覚する・近くする」 : 上での作品で出来上がったイメージを、本人が「あれって、誰? ひょっとして、わたし? なかなか決まっているじゃん」と知覚し、身近なもの=ほぼ自分自身として受け入れる態勢が整いはじめる。
3)「あらわれる・でる・現われる・洗われる・あら、割れる・出る」 : ファンや社会が、「そのヒト=そのイメージ」を認知=消費し、流通=普及させ、定着=浸透=深化=長期化させる。本人および事務所が「しめた!」「よし、これでいこう」と決意したり、「ありゃりゃ」「ま、いっか」と半ばテキトーに、ファンと社会主導の流れ=波=勢いに乗ってしまう。スター出現。昔だったら、映画館の看板に水をかけて、先輩スターの姿=イメージが「洗い」落とされ、新人のスターがペンキで新たに描かれる。打ち上げパーティーで祝い酒の樽が「割られ」、出席者に枡酒がふるまわれる。ついに「出た」ぞ、大型新人。パチパチ(※拍手)。
という感じです。
めっちゃくちゃこじつけました。でも、言えてません? 言えてるって、言ってくださいよー。とアホの泣き落とし。
肝心なところは、
*いったん現れてしまう=出てしまうと、なかなか引っ込みが付かなくなる。
点です。その「現れ」「出」が鮮烈で長続きしそうなものであればあるほど、その傾向は強まります。「熱い! やばい! 間違いない!」です(※再度、この文句を使用しましてすみません。なお、不快な思いをいだかれた元関係者の方々に、お詫び申し上げます)。
*
さて、タレントおよび有名人という具体例で検証をしたのちに、
A)あう・であう ⇒ みる・ちかくする ⇒ あらわれる・でる
B)合う・出合う・出遭う ⇒ 見る・知覚する・近くする ⇒ 現われる・洗われる・あら、割れる・出る
について、上でコピペをした部分のうち、
A)もB)も、今、このシリーズでやっていること、つまり、「テーマ=筋書き=理屈」(※抽象的)であると同時に、シリーズで扱っている「テーマに登場する言葉たちの身ぶり=表情=運動」(※具体的)でもあるのです。もっと短く、次のようにも言えます。
*「A)とB)」をつかって、「A)とB)」を演じている。
と書かれた個所を、説明させてください。きのう、少しやりかけたのですが、時間がなかったのと、間借りしているブログサイトの文字数制限にひっかかりそうだったのでやめてしまったのです。
*「テーマ=筋書き=理屈」(※抽象的)を、「テーマに登場する言葉たちの身ぶり=表情=運動」(※具体的)をもちいて演じさせる。
とも言い換えられます。
これは、自分としては、ブログで記事を書きはじめて以来、一貫して心がけているスタンスなのです。「何がスタンスだ、このオタンコナス!」などと、あきれ返らないでください。本気なんですよー。
きのうは恥ずかしいというか、失礼になると考えて、書くのを控えたことを、書かせてください。
ある文学作品、あるいは文学というもの、哲学の著作、あるいは哲学というものをテーマにして、論じようとするとします。そのさいに、
*そのテーマについて=関して論じる方法
が一般的です。
Aというテーマがあれば、Aそのものを書けば、引用・複製・コピーしただけになります。したがって、Aの代わりにBやCやD……をもってきて、継ぎはぎしたり、ちょっと変えたりして、Aそっくりにならないように気をつけながら、Aを論じる=説明する=批評する=批判する or 賛同する、という作業をします。
学術論文であれば、自説と引用との区別をかなり厳密にし、引用した場合には出典を明記しないと、学会を追われる場合すらあります。本として売れればいいというスタンスで書くとなると、少しくらいテキトーでもかまいません。まして、素人が対象の啓蒙書(※もう、死語ですか?)やハウツー本の類であれば、きわめてテキトーでまかり通ります。しょせんビジネスですから、売れればいいのです。
*
一方、
*そのテーマを、そのテーマについて書くつもりの文章に登場する=用いる言葉たちの表情・めくばせ・身ぶり・運動に、演じさせる=模倣させる方法
を試みようとする場合もあり得ます。
具体例を挙げると、ノイズがテーマになれば、「と、いうわけです」でのように、言葉たちにノイズを演じさせます。すると、とうぜん、読みにくくなります。また、「書く・書けることは賭けることだ」がテーマの場合には、「書く・書ける(2)」のように書きます。正確に書こうとするあまり、文章がややこしくなっています。
さらに、自分の書いた文章の読み方を解説するという、まことにみっともない邪道をしている例が、「あう(4)」と「あう(5)」です。万が一、興味がおありでしたら、ご一読いただければ、嬉しいです。アホにはついていけないとお感じの方は、パスしちゃってください。
なぜ、こんな一種の言葉遊びをしているのかと申しますと、言葉は表象である。つまり、言葉は、言葉が指し示す「もの(=形や動き)」の代わりでしかないからです。諦めと言ってもいいです。ですので、この言葉遊びは、
*言葉たちが「ある形や動き(=実体=不可能性)を描いている『振りをしている』(=演技=ほぼ可能性)だけ」にしかすぎないのなら、その言葉たちが描いている形や動き(=実体=不可能性)を追求することは放棄して、その「振り」(=演技=ほぼ可能性)自体を、鏡に映すように、その言葉たちが描いている形や動きの「振り」(=演技=ほぼ可能性)自体を言葉たちに再演(=ほとんど可能性)させる。
ことを選ぼうという、方法=戦略とも言えるみたいなのです。
ただし、この方法=戦略は、このブログを書いているアホが勝手に思い込んでいる一人受けギャグである可能性が非常に高いのです。したがって、まことに失礼であると承知のうえで、あえて、そういう方法で書かれているのではないかと、勝手に想像=妄想している他人様の著作の名を挙げてみたいと存じます。
なお、その著作のタイトルをご紹介するにあたっては、著者名はあえて省かせていただきます。なぜなら、著者は関係ないからです。著者名も、しょせん、固有名詞=言葉ではあるといえ、生身の人間として実際にその著作を書いたのではないか。そう言われれば、はい、ごもっともです、と答えるしかないのですが、固有名詞のそなえているパワーというのは、とてつもなく強いのです。
この点については、初期のブログ記事「あえて、その名は挙げない」、「遠い所、遠い国」、「横たわる漱石」で書きました。まだ、とちくるい文体に染まっていく前の文章なので、比較的読みやすいと思います。お時間があれば、どうか、ご一読願います。
では、ご本を紹介いたします。
『批評 あるいは仮死の祭典』、『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』、『泉鏡花論―幻影の杼機』、『谷崎潤一郎―擬態の誘惑』、『余白とその余白または幹のない接木』、『砂の顔』、『引用の織物』、『紙片と眼差のあいだに』
です。
残念なことに、現在、これらの本は手元にありません。でも、ある意味では、そのほうが自分には幸せなのです。夢のなかでしか出あうことができないからです。今は、読むことより書くことに専念しています。夢は、個人的な秘密=謎=空間=イメージの詰まった箱です。書くという作業は、自分にとって、その夢を見ることと大差はないのです。さらに、妄言を申しますと、書くことは読むことと大差はないのです。
上記の本たちと再会できないのには、経済的余裕がないとか、図書館や古本屋に行こうとしても、家事と親の介護で長時間の外出ができないという、事情もあります。でも、そんな事情より、インプットはもういい、アウトプットするだけで精一杯だし、それで満足だ、という現在の心境のほうが強く働いています。だから、別に悔いはありません。
書くという作業は、事を書くと同時に事欠くこと、つまり、不自由さを実感する行為でもあります。きりがないです。息がこと切れるまで、「書く=欠く=読む=詠む」ことができれば、自分にとってそれ以上の幸せはありません。
*
で、ご紹介した本たちに話をもどしますが、なかには大きな図書館でなければ、もう閲覧できない本があるかもしれません。比較的入手しやすいものもありそうです。検索をしたり、実際に本を手に取れば、著者名は目に入りますが、できれば、
*その本に書かれた言葉たちの表情・めくばせ・身ぶり・運動に身を任せて、じっくり読んでみる。
という作業を実践してほしいなあ、と思っております。
ところで、坂田利夫さん、高倉健さん、故・忌野清志郎さんは、自分自身という生身の存在として、有名人としての自分のイメージと、どうやって折り合っていらっしゃる(or いらっしゃった)のでしょう? でも、有名人に限らず、ヒトは誰もが、同じように、
*自分自身と、自分のイメージとの「間(=ま・あいだ・あわい)=際(=さい・きわ)」で宙ぶらりんで、ぷかぷかと、揺れ動いている。
のではないでしょうか。
だいいち、自分自身=自我とであれ、自分のイメージとであれ、本当に、
A)あう・であう ⇒ みる・ちかくする ⇒ あらわれる・でる
B)合う・出合う・出遭う ⇒ 見る・知覚する・近くする ⇒ 現われる・洗われる・あら、割れる・出る
できているのか、と自問してみるなら、でてくる、
*答えそのものが、宙ぶらりんで、ぷかぷかと、揺れ動いている。
つまり、問いそのものを、
*模倣する=真似る=鏡に映った自分にまなざしを送るだけ
と、とりあえず and/or せいぜい、言葉にしてみるしかないのです。
あとは、
*全身で知覚する=運動する=生きる=息るのみ
という状況を、素直に身に引き受ける。そんだけー、ではないかと思います。ややこしいことを書きましたかもしれませんが、どうしても、書きたかったことなので、ご容赦いただければ、幸いです。
次回は、「あらわれる・あらわす・出る」につきまとう、幽霊のような、「イメージ」という言葉について、書いてみたいです。ぜひ、遊びに来てください。
清志郎 歌は祈りと 夢で言い
アホひとり 言葉は言葉 夢で書き
※この文章は、かつてのブログ記事に加筆したものです。https://puboo.jp/users/renhoshino77
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