たとえる(7)

げんすけ

2020/07/31 07:58


「たとえば……だとすれば」とか「たとえ……だとしても」とか言いますね。英語でいえば、それぞれ「 if ……」とか「 even if ……」となります。ということは、「たとえる・たとえ」は「もしも……なら」の「仮定」とつながっていると言えそうです。


 よく考えれば、そうですね。「Aの代わりにBを用いる」は「Aであるが、Bとして考えてみる」とほぼ同じで、さらに「本当はAであるが、もしもBであれば」と言っても、それほど大きな違いはなさそうです。


*「たとえる・たとえ」と「もしも」は、つながっている。


らしい。いや、ほぼ確実にそうだと言える。「たとえる・たとえ」を「たとえる・たとえ」してみたら、「もしも」になった。


*「比喩」が「比喩」によって、「仮定」になっちゃった。


*「ひゅーひゅー」 × 「ひゅーひゅー」 = 「もしも」


というわけです。面白いですね。不思議ですね。でも、こうなってしまったからには、きっと当たり前なんでしょうね。不思議と思う、こっちの頭が悪いだけなのでしょう。それとも、以上の「議論=前提」自体がおかしいのでしょう。


     *


 とにかく、話を進めましょう。


「思いは実現する」「夢はかなう」「自分が変われば世界が変わる」……。この種のタイトルの本や、この種のキャッチフレーズを針小棒大にふくらませた本が、書店にいっぱい並んでいます。この大不況のもとでは、出版界もまた景気がそうとう悪いですが、自己啓発や発想法・思考法関連の本は割と売れているみたいです。


 そうでしょうね。現実がネガティブであれば、頭の中くらいはポジティブにしていないと、やっていられません。テーマが肥大化しそうなので、「仮定」のメカニズムを「たとえる・たとえ」という観点から考えることに的を絞ります。関係ありそうな言葉の意味を、文字通りにとっていきましょう。


*仮定 : 仮に定める。

*仮想 : 仮に想う。

*仮想現実 : 仮に想う現実。

*架空=仮空(※感字です) : 仮に空想する。

*空想 : 空っぽのものを想う。空(うつお)を思考する。


 以上のように並べてみると、イメージがつかめてきませんか?


*Aの代わりにBだと定める

=Aの代わりにBを想像する

=Aの代わりということは、Aにはもう用はないのだから、Aを省略して、Bだけを考える

=Bが、ヒトの頭の中でひとり歩きをする

=Bのひとり歩き

=Bとは夢・空想・仮想現実・擬似世界・シミュレーション


 という具合に「たとえる・たとえ」がひとり歩きし始めました。あれよあれよ、という感じです。この場合のAとBを、一個のもの・こと・さま・現象ではなく、それぞれ無限大だと仮定してみましょう。つまり、Aを「森羅万象A(※無限大)」に、そしてBを「森羅万象B(※無限大)」と記述するのです。


*「森羅万象A(※無限大)」の代わりに「森羅万象B(※無限大)」だと定める

=「森羅万象A(※無限大)」の代わりに「森羅万象B(※無限大)」を想像する

=「森羅万象A(※無限大)」の代わりということは、「森羅万象A(※無限大)」にはもう用はないのだから、「森羅万象A(※無限大)」を省略して、「森羅万象B(※無限大)」だけを考える

=「森羅万象B(※無限大)」が、ヒトの頭の中でひとり歩きをする

=「森羅万象B(※無限大)」のひとり歩き

=「森羅万象B(※無限大)」とは夢・空想・仮想現実・擬似世界・シミュレーション


 以上のようにすると、迫力が出てきませんか? 一気に話が大きくなってしまいました。なにしろ、せっかく森羅万象と無限大をもってきたのですから、大きくなってくれなければ、困ります。


     *


 さて、ひとり歩きし始めた「森羅万象B(※無限大)」ですが、危なっかしくありませんか? もう、「森羅万象A(※無限大)」なんて、「用はない」「関係ない」って感じになってきましたよ。大丈夫なんでしょうか。


♪ 歩き始めたみーちゃんが、赤い鼻緒のじょじょ履いて、おんもへ出たいと待っている~


状態ですよ。「おんも」=「おもて」=「家の外」へ出してもいいのでしょうか? そんな心配をしていて、はっと気づきました。頭に浮かんだのは、らっきょう、キャベツ、マトリョーシカです。そもそも、


*A自体が「たとえ」だったのだ!!


ということは、「森羅万象A(※無限大)」は「かりそめ(=仮初め)」の姿で、実際には、そもそもが「森羅万象B(※無限大)」みたいに「何かの代わり」であった。その「何か」もまた「何かの代わり」、つまり剥いても剥いても、また出てくる。これって、やっぱり、らっきょう、キャベツ、マトリョーシカです。


     *


*「森羅万象○(※無限大)」の「○」は常に「何かの代わり」である。少なくとも、知覚という枠の中に閉じ込められているヒトにとっては、そうである。


 以上のような感じではないでしょうか。その「何か」と「何かの代わり」を何と呼ぼうと事態は同じです。「象徴=シンボル=表象=代理=代行」、「記号=シーニュ=まぼろし」、「アレゴリー=寓喩=とたえのエスカレート」、「信号=データ=情報=デジタル化されたデータ=デジタル化された情報」、「らっきょうの皮」、「広義の言葉」……何とでも呼んでください。


「たとえ」であるからには、「仮面」と同じ。ただし、「外す」「剥(は)ぐ」「めくる」という作業を何度繰り返しても、終わりはない。「実体」「真実」「現実」……。何とでも呼んでください。そんなものには到達できない。できたとしたら、単なる「錯覚=勘違い平行棒」か、「ヒトでないヒト=人でなし」。


     *


 次のように「たとえる」こともできます。部屋に閉じこもってテレビの画面、あるいはパソコンのモニターばかりを見ているヒトと同じです。「画面 or モニターに映し出されているもの=画像である「実物」(※そんなものは実際にはあり得ませんが、一応、そう呼んでおきます)」に手を触れたり、その匂いをかいだり、それを素手で叩くなり、ものを投げつけるなり、直接働きかけることは不可能。そんなふうにも言えます。


「身も蓋もない」ですか? 以上も、当然のことながら「たとえ」なわけで、もっと違った言い方=たとえ方、つまり「身も蓋もある」言い方=たとえ方をして、「身も蓋もある」気分になることもできるかもしれません。たとえば、さきほど挙げた「思いは実現する」「夢はかなう」「自分が変われば世界が変わる」……という「たとえ」です。巧妙にできていますが、やっぱり「たとえ」です。ころりとだまされる人たちがたくさんいても、責めることはできません。次元が違うからです。


*「思いは実現する」「夢はかなう」「自分が変われば世界が変わる」……では、「たとえ」はタブーであるか、意識しない約束になっているか、そもそも問題にされていない。「忘れている」「知らない」「分からない」「とぼけている」のいずれかであると考えられるが、「たとえ」であることを問題にしない点では同じである。


 次元が違うというのは、


*「思いは実現する」「夢はかなう」「自分が変われば世界が変わる」……では、言葉やその大前提である「Aの代わりにBを用いる」は問題とされない。「ポジティブである」、「元気が出る」、「生きる勇気がわく」、「何でもできる気持ちになる」……ことが金科玉条=絵に描いた餅=砂上の楼閣なのである。


という意味です。


 たとえて言えば、天動説信奉者と地動説信奉者くらい違うのです。あなたは、どっちのほうですか? 「たとえ」派( or 教)ですか? 「たとえ? 何、それ?」派( or 教)ですか? 後者のほうが、ハッピーになれます。お金持ちにもなれる可能性が高いです。前者だと、アンハッピーになるでしょうね。


 ここに、うつで無職でいい年をして親の年金にたかっている者がいます。ご多分に漏れず、前者です。「思いは実現する」「夢はかなう」「自分が変われば世界が変わる」……系の本を読もうとしても、馬鹿馬鹿しくて読めないのです。このご時勢に困ったものです。


 実は、「思いは実現する」「夢はかなう」「自分が変われば世界が変わる」……って、言えているのです。かなり有効性や実効性があるのです。改宗しようかと思っているくらいなのです。


 というわけで、みなさまには「思いは実現する」「夢はかなう」「自分が変われば世界が変わる」……を、強くお薦めいたします。



※この文章は、かつてのブログ記事に加筆したものです。https://puboo.jp/users/renhoshino77


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