げん・言 -7-
星野廉
2020/09/21 08:11
決まり文句や紋切り型という言葉を意識したり使用することなく、ヒトは、紋切り型の言葉遣いや物の考え方をしがちな状況にある。そんなふうに感じてきた人は多いようです。
アメリカ文学の話ですが、アメリカ社会で言葉が無意識のうちに統制されているのではないかという強迫観念みたいなものがあって、それが一連の文学作品のモチーフになっている。そうした内容の批評を、大学生時代に読んだ記憶があります。アメリカ文学の底に、そんな空気というか感情が流れているという話は、上述の批評を通してだけでなく、ほかの場でも聞いた覚えがあります。
日本においても、今述べた一種の被害妄想的な強迫観念とは、たぶん違った形で、紋切り型への反発というか抵抗があったし、現在でもあるような気がします。
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あたまにあるのは、明治という時代です。鎖国状態が解かれ、明治維新、文明開化という大波がこの国に起こったらしいことは、中学・高校時代に学校の歴史の授業で習いました。国語の授業でも、習いました。
大雑把なまとめ方をしますと、開国後、欧米に追いつくために、欧米の文化や技術をせっせと取り入れる過程で、言葉、つまり日本語を変えざるを得なかったということです。文化や技術は言葉とセットになっていると考えられます。
新しい国家のもととなる、法律をはじめとする諸制度、行政のノウハウ、産業に必要な知識・科学技術。こうしたものは、書物・書類や、いわゆるお雇外国人の口頭による伝授や指導という形で、この国に流入してきたにちがいありません。
当時、お雇外国人が日本人相手に使っていた教科書は、欧米で出版されたものだったそうです。授業もその欧米人の言語で行われたわけですから、その頃の日本のエリートはバイリンガルにならざるを得なかったそうです。
明治、大正、昭和と進むにつれて、バイリンガルエリートともいうべきヒトたちは少なくなり、日本人の外国語力は低下した。学ぶべき知識が、日本語で得られるようになったのですから、当然ですね。留学して帰ってきたバイリンガルエリートたちも減っていったみたいです。
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文化の流入に伴う言葉の変化について、思いつくままに並べてみます。
翻訳および翻訳語、古い言葉の借用・復活、造語・新語、言文一致運動、従来のスタイルにとらわれない話し言葉と書き言葉の創出。
こうした言葉の変化なしに、新しい文化を取り入れることは不可能だと考えられます。何が起こったのでしょうか。ここからは、今までに見聞きしたことの組み合わせによる、でまかせになることをお断りしておきます。素人の不正確な記述になるのは必至ですが、自分なりに思うところを書いてみます。
開国前は、かなり長い間にわたる広義の紋切り型が、広義の言語、言い換えると、話し言葉、書き言葉だけでなく、衣食住に関するしきたりや風習、政治経済的レベルでの掟、身分制度、社会生活をいとなむ上での約束事や決まり、つまり定型化したシステムが存続していたと考えられます。文化や価値観と呼ばれているものとも重なる部分があるでしょう。
これに匹敵する規模の大きな変化は、よく言われるように、敗戦後のこの国が、米国の占領下でこうむった変革でしょう。これは多分に思想および言論統制的な色彩が濃かったものと想像されます。
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明治時代に提唱された、写生文という言葉を思い出しました。それと連想して、つづり方という言葉もあたまに浮かびました。詳しいことは知りませんが、次のようにイメージしています。
決まりきった文章の書き方があった。それは、描写や、自分の思いを表現するというより、これまでに蓄積された膨大なサンプルから、自分が描こうとする物・事・現象・状態を表すためにお膳立てされたパーツを引用して、組み立てるという作業に終始していた。
たとえば、明治維新以後も、手紙や公文書を書く場合には「候文(そうろうぶん)」とかいう形式があったらしいです。また、和歌や俳句の世界は、規則でがんじがらめみたいだったようです。
写生文から話を広げると、当時は次のような変動があったようです。
新しいものが欧米から次々と入ってくるのに、それを言い表す言葉がない。めまぐるしい変化の中で、ものを言おうとしても、その言い方にコンセンサスがない。過去からある漢語を無理に当てはめようとするヒトもいれば、何やら勝手に言葉を作っているヒトもいれば、やたら欧米の言葉を使うヒトもいる。英語びいき、仏語びいき、独語びいきなどがいて、わけがわからない。
忘れてならないのは、国家が学校教育を制度化したという大事業です。寺子屋の国営化みたいなものでしょうか。もちろん、私学もあったようですが、規模では国にかないません。頂点には、帝国大学があり、各種の分野にわたってエリートを養成するという急務があったのです。
単なる思い付きですが、「学校令」が発せされ、定着し始めたあたりから、「共通語」や近代における「つづり方」という考え方が出てきたのではないでしょうか。
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戦前は、軍部主導の全体主義による統制が、言論だけでなく、生活の隅々にまで染みこんでいたと聞きます。英語は敵性語だから使えない。他人と変わったことを言ったり書いたりすると、共産主義者や、売国奴というレッテルを貼られ、特高(※特別高等警察)と呼ばれる、恐ろしい官権の一組織によって半殺しの目に遭う。検閲は当たり前。国民みんなが互いに監視し告発し合うシステムが出来上がっていた。
それがひっくり返った。外圧により、さまざまな領域で、古い体制がぶち壊された。驚くほど、抵抗は少なかったと聞いています。
明治維新後と敗戦直後をいっしょくたにして、いかにも素人らしい粗雑な話の展開をしていますが、勉強不足なので、それくらいしかイメージできません。
とにかく、時代が変わりつつあった。言葉が時代に追いつかなくなってきた。話し言葉も、書き言葉も、それまでの決まり文句では表現しづらくなってきた。そんな感じではなかったかと想像しています。
従来の言葉遣いや、文章のつづり方は、封建的で民主的ではないし、個性を尊重するものでもない。定型を破ろう。決まりきったやり方に反抗しよう。伝統に従い、しがらみに縛られるのではなく、新しいものを作ろう。
かなり大雑把で杜撰(ずさん)なまとめ方だと思いますが、個人的には、そんな感じで、明治と敗戦直後に起こった大きな転換と、「話し方と書き方の変容」をひっくるめて受け止めています。
「話し方と書き方の改革」では、「書き方の改革」のほうに大きな力点が置かれていたものと想像されます。何と言っても、文書の力は強いです。保存がきくし、忠実な複製が可能です。伝達という意味では、話し言葉より書き言葉のほうが、はるかに優れた手段だろうと考えられます。
明治の場合には、大変動の時代を経て、現在使われている日本語に近いものができた。戦後の場合には、ある程度完成していた、つまりそのまま使っても大丈夫な方法を少し変えるという形で、一種の「置き換え」が行われた。そのような大まかな構図をあたまに描いています。もっともらしく、うさんくさい話です。
外圧によって「やむを得ず」行われた変革らしいという共通点が、興味深いです。
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かつて小説家を志したことがありました。その時に、心がけたことがありますので挙げてみます。
なるべく紋切り型の表現を使わない。比喩(※直喩という意味です)を極力使わない。視点を固定させる。説明ではなく描写に努める。修飾語はできるだけ削る。接続詞は使わない。詩ではなく散文を。
確か、以上のようなことを紙に書いて、ときどき読んで、肝に銘じていました。もちろん、上のルールは地の文に関してのもので、会話の文に関する制限は設けていませんでした。
今振り返ると、恥ずかしいです。そんなことできっこない、と思います。でも、その時はそれなりに真剣だったのです。
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客観な描写など不可能だということぐらいは承知しているつもりでしたが、「描写」という言葉とイメージにはこだわっていました。曖昧なイメージです。
作家を志したとき、当時のある新進作家の文体をお手本にしていました。美大を中退したヒトでした。デッサンなどを勉強した経験があるためか、文章の書き方も視覚的で、しかも正確に思え、描写がうまい書き手だという印象をいだいていました。
その作家に一足遅れるかたちで、デビューした作家がいます。2人はたまたま苗字が同じで年齢も近いために、よく比較されます。2人のうちでは、自分は先にデビューした作家の文章のほうが好きです。
「○○のようだ」「○○みたいに」といった直喩のうまさが、流行っていた時期でしたが、個人的には、そういう書き方には興味はありませんでした。できれば、そうした表現を避けて描写したいという気持ちのほうが強かったです。
紋切り型の言い回しや、直喩という通じやすいイメージに頼る書き方に抵抗を感じていました。あの頃、何を考えていたのか、よくは覚えていませんが、「散文」という言葉を意識していた記憶もあります。辞書的な、韻文に対する散文という意味ではなく、定型に頼らないというか、定型にはまらない書き方を模索していたさいに使っていた言葉のようです。
描写を突き詰めて考え、それを実践しようとすることには、そうとうな困難が伴うようです。
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21世紀に入り10年が経とうとしています。現在も、かなり大きな変動の時代にさしかかっているような気がします。インターネット、ケータイの出現により、書き方、話し方というレベルで、変化が起こりつつあることは確かでしょう。
今、その変化の真っ只中にいるわけですが、その中にいるために、かえって見えなかったり感じ取れなかったりすることが、たくさんあるのではないかと思われます。
流行語、若者語、主にパソコンを使用してのメール独特の表記や記号の使用や言葉遣い、ケータイに特徴的な言葉遣いやメールの利用の仕方、広義のネット社会で特に用いられている表現法。こうしたものは、新しい「決まり文句」・「定型」・「紋切り型」の登場だとも言えるし、めまぐるしく変わりつつある動態の過程のさなかにあるとも言えるような気もします。
自分が偏愛する、つまり自分にとって居心地のいい、あるいは、そうしないと仲間はずれにされる恐れのある表現形式がある。一方で、「我が道を行く」式の人もいるでしょうし、また、何かの共通項でむすばれたさまざまな集団があり、その集団独自の表現形式がある。そうした多種多様な表現形式が共存している時代が、現在であるとも言えそうです。
もしそうであれば、「自分にとって快いもの」と「自分にとって不快なもの」と「どうでもいいもの」が無数にあって、それがにらみ合ったり、無視し合ったり、争い合ったり、一方的にどれかがどれかを攻撃したり、どれかが自然消滅したり、どれかが抹殺されることもある。そんな混沌とした状況なのかもしれません。
以上は、あくまでも、個人的な印象であり、妄想とも言えるものです。
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決まり文句・紋切り型に対する反発として「異化」があるのではないかと思っています。「異化」はさまざまな領域で、いろいろなヒトが、いろんなことを言っています。そうした語義は、辞典や事典にお任せするとして、この言葉に関する個人的なイメージで話を進めてみます。
「異化」とは、ある定型、つまり紋切り型に対して、たとえば「揺さぶる・誤用する・文脈をずらす・源や過去の形にもどってみる」といった方法で臨む姿勢および働きかけである。そんなふうに考えています。
「異化」は、場合よっては、驚き、恐怖、怒り、笑い、悲しみなどをもたらします。ある物・事・現象・状態に見られた常態が、変わるわけですから、当然のことながら、ヒトに何らかの感情を引き起こします。
姿勢や働きかけのほかに、仕組みやシステムであるとも言えそうです。
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見慣れたものが見たことのないもの、あるいは異形(いぎょう)のものに見えてくる。
そんな説明の仕方も、「異化」の定義としてあるみたいです。その説明で連想するのは、顔です。
難聴者であるせいか(※先天性の難聴ではなく、中途難聴です)、人の顔というか、表情を読もうとする傾向が強いみたいです。言葉を話し言葉・書き言葉だけに限らず、広義の言葉・言語にまで広げて考える傾向があるのも、そうした事情が影響しているかもしれません。ですから、表情も広義の言葉として受け取っています。
たとえば、「顔色をうかがう」・「顔色を見る」・「顔色を読む」というほぼ同じ意味の決まり文句がありますね。個人的には、とてもよくわかる慣用句です。
顔色をうかがおうとしても、化粧が濃すぎて読めない。これじゃあ、顔色(がんしょく)なし。
つまらない駄洒落を書きましたが、これも一種の「異化」でしょうか。いや、「異化」以下ですね。ま、いっか。
こんな感じで、以前のブログはやたらくだらない駄洒落を飛ばしていました。今は抑えています。ふと思ったのですが、駄洒落というのは、「異化」の一種だと言えそうな気がします。いかがなものでしょうか。
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「異化」を意識的に用い、作品を書くさいの戦略としている書き手もいます。知っている例を2つ挙げてみます。
日本の職業作家にとって最大の名誉と言われる文学賞を学生時代に受賞し、20世紀の終わり頃に、世界で最大の名誉とされる文学賞まで手にしたヒトがいます。一般的には「読みにくい」と評される小説を書いていたヒトですが、あまりも日本国内の評論家の「読み」の水準が低いと感じたらしく、自らの作品を自ら批評するような本を出したことがあります。そのなかに「異化」という言葉が使われていた記憶があります。
もう1つの例は、これまた「読みにくい」とか「難解」というラベルを貼られがちな作品を書くヒトです。この書き手も、上で触れた日本の文学賞を取りました。そのヒトの作品のなかに、「イカ・異化」という言葉が直接的に出てくるものがあります。「ま、まいっか」とほぼ同じレベルで、言葉とたわむれていると、個人的には感じました。
ところで、今挙げた例では、作家とも呼ばれるヒトの名前が出ていません。数々の先入観や偏見や決まり文句に付きまとわれ、必要以上に強い意味とイメージを放つ性質を持った固有名詞は、なるべく使わない。そうした方法というか戦略があって、故意に名前は出さないようにしているからなのです。
固有名詞を用いないで、あえて言葉を積み重ねるという「描写」に似た書き方は、ある意味で「異化」と言えるような気がします。上記の書き手の氏名に心当たりのある方は、その氏名が使われた場合と、使われていない場合に受ける、印象・イメージの違いについて、比較なさってみるとおもしろいかもしれません。
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以前のブログでは、駄洒落に加えて、○○=△△=□□=××という具合に、言葉をやたら「=」でつなぐ書き方を、さかんにしていました。乱暴です。これは、意味の固定化と断定や、話が一方向に流れるのを避けるという戦略でもあったのですが、一種の「異化」とみなしてよさそうな気がします。独りよがりの不発ギャグとも言えます。
あるとき、読者の方からご指摘というか、読みにくいという趣旨のお叱りの言葉をメールで頂戴し、弁解めいた記事を書いたこともありました。お恥ずかしい限りです。
その文体は現ブログでは、自粛していますが、万が一興味をお持ちの方がいらっしゃいましたら、このブログの過去の記事をのぞいてみてください。過去に書いた言葉たちも喜んでくれると思います。
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言葉はいとしいです。
自分が書いた言葉であろうと、誰かが書いた言葉であろうと分け隔てはしません。「言う」と「書く」という行為において、「主語」は大切ではないと思います。「書く主体」という意味での「主語」です。
母語にあるどんな言葉であろうと、母語ではないどんな言葉であろうと、尊いと思います。
言葉は、なぜか「ある」のです。なぜか「出る」のです。不思議でいとしい存在です。
そう思います。そう思わない人の意見も尊重したいです。言葉をめぐって敵対するのは嫌です。だいいち、悲しいですもの。
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顔には表情というものがあります。これが、自分にとっては、とても大きな意味を持っています。耳が遠い分だけ、他のヒトの顔にあらわれると言われている感情や気持ちや気分といった微妙なものに、神経をとがらせる傾向があると、自分でも感じます。
他人様(ひとさま)の顔をじっと見ることは、不躾で失礼になりますから、ときには盗み見るような形にもなります。そんな自分に嫌悪感を覚えることもあります。
人の顔にあらわれる感情を察しようとすると、かなり緊張しますから、肩が凝り、ストレスにもなります。自分の場合には、常に耳鳴りがしているのですが、肩が凝ると決まって耳鳴りが強くなります。頭痛もしてきます。
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表情というのは、人により癖というかパターンがあるみたいで、よく知っている人の表情は読みやすいです。苦労するのは、初対面のヒトや、頻繁に会わない人を相手にする場合です。
でも、人の顔を観察するのは、おもしろいです。顔には、目、口、鼻、頬、額、髪、眉、耳、あご、顔の色や赤み、肌の艶、お化粧の具合、お化粧の乗りといったさまざまなパーツや要素があります。目だけでも、目くばせ、目つき、白目の充血ぐあいなど、奥は深いです。
顔だけでなく、仕草、動作、身ぶり、格好、服装、体を動かす速度、歩く速度も、いろいろな信号を送ってきます。「かもし出す雰囲気」という決まり文句がありますが、そうした言葉にしにくいものも確かに感じられます。
さきほどパターンという言葉を使いましたが、ヒトの全身にはパターンというより、「文法」という言葉にたとえてもいいような規則性みたいなものがあります。でも、これは一定したものではなく、「読みが外れる」ことはしょっちゅうあります。
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ヒトはロボットではありません。一定の法則で決めつけようとするのは無理なようです。
性懲りもなく、再び、「文法」という比喩を使うなら、文法にそって言葉を使っているヒトなどいません。同様に、「文法」にそって動いているヒトもいません。
ヒトが使っている多義的な複数の言葉や、ヒトが動きや姿という形で発している多義的な複数の信号(※この信号も広義の言葉・言語だと思っています)から、「文法」がまぼろしとして立ちあらわれるというのが、正確な言い方かもしれません。
まぼろしは、一定だったり一様だったりするものではありません。見るヒトによっても異なる。そんな感じではないでしょうか。
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文法というのは、まぼろしであるという意味で、うさんくさいものだと言えそうな気がします。幻想だからこそ、ヒトをとらえて離さないという面もある感じがします。
文法を権威が捏造する場合もあると思います。実際、ヨーロッパにはそれに近い形で、「文法が決められている」言語と国家が存在しているようです。中華思想という言葉と結び付けられることのよくある国です。
一方で、文法は、ヒトの思惑とは無関係にある(=存在する)。なぜか知らないけどある(=存在する)。そんな印象の言語や国家や地域がほとんどです。この国も、そのうちに含めてよさそうです。
文法というものがあるとするなら、それは「破る」ためにあるのではないかと思っています。仮に破っても、すぐに「回復する」性質があることも、忘れてはなりません。
「回復する」といっても、完全に原状にもどるのではなく、その時代や、その時その時の状況が要請する形態や様態に移り変わる、という感じです。平たく言うと、新しい時代にとって「使い勝手のいい」状態に変わっていくという意味です。きりがないとも言えます。それでいいのだと思います。
国語が乱れている。国語が乱れると、国の心が失われる。「それは正しい言い方ではない」。「それは間違った読み方だ」。美しい日本語。
そうした言葉やフレーズは、空疎なだけでなく、大切なことを忘れた、あるいは無視したヒトたちの言い方ではないでしょうか。
言葉はみんなのものだ。言葉を押しつけてはいけない。この2つのことが大切だと思います。
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「異化」が「紋切り型」に対する抵抗の1つの形であるとするなら、「異化」とは一時的なものでなければならない気がします。「異化」が続けば、「異化」でなくなり、せいぜい「新たな紋切り型」になり、ついにはただの「紋切り型」の1つになるのは避けられないと思われます。
「異化」とは、絶え間ない「更新」でなければならないということでしょうか。川の流れみたいにです。同じ水のように見えながら、池と違って、常に同じ水がそこにあるのではない。そんな感じです。
ファッションや流行みたいですね。きりがないです。
言葉のレベルで考えれば、「流行語」「新語」「若者語」と同じということですか。でも、ちょっと違うみたいです。
「異化」というのは、個人的には、ある決まった言い方を、そのままの形で、別のもののように感じさせるという「姿勢」・「仕組み」・「働きかけ」だと考えています。
たとえば、「環境にやさしい生き方をしよう」を「環境に悪い生き方をやめよう」みたいにほぼ同じ意味のフレーズに言い換えるのではなく、決まり文句の部分はそのままにして、文脈をずらし、「環境にやさしい死に方をしよう」とするみたいな感じでしょうか。
この場合だと、黒い笑い、つまりブラックユーモアとも受け取れそうです。
※この文章は、かつてのブログ記事に加筆したものです。https://puboo.jp/users/renhoshino77
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