あう(7)
げんすけ
2020/08/08 07:59
浚渫(しゅんせつ)という言葉を、見聞きなさったことがあるでしょうか。頻繁に使われる言葉ではありませんね。「浚渫船」なら、見覚えや聞き覚えがあるかもしれません。正確ではないかもしれませんが、「泥さらい」みたいに、水底から土砂をさらうことですね。
*「読者を浚渫しなければならない」
というセンテンスが、ある本に書かれていたとしたら、どんな意味、あるいは光景を想像なさいますか? 一字一句そのように書かれていたかどうかは、覚えていませんが、そんなセンテンスを読んだことがあるのです。
昔のことです。大学生のころでした。場所は、大学の構内にある古びた建物の一室。大学院生と学部学生の両方が受けられる講義が行われていました。フランス語で書かれた本の一節を、非常勤講師と学生たちが一緒に読んでいました。
その原書が講義のテキストだったので、各学生の目の前にフランスの書籍特有の、荒っぽい or ちゃちな作りの原書が置かれていました。その原書の訳書も持ち込み可だったので、訳書を原書と並べている学生たちもいました。訳書の装丁のほうが、しっかりしていました。自分も、二冊並べていた二人です。「読者を浚渫しなければならない」という意味のセンテンスは、もちろん、訳書の一節です。その個所の原文では、
*draguer (※「ドラゲ」みたいに発音します)
という動詞が用いられていました。その「ドラゲ」をめぐって、学生たちが考え込んでいました。講師が、原文と邦訳書の訳文を比べて、どう思うか? と質問したのです。
*「読者を浚渫(=ドラゲ=土砂のようにさらう)しなければならない」
とは、どういうことなのか? 辞書を引いたらどうか、とも講師は言いました。さっそく、手持ちの辞書で「ドラゲ」を引いてみましたが、あまり役に立ちそうではありませんでした。
ところで、当時、この講師は、新鋭の文芸批評家、および映画評論家として活躍していました。改行を少なくして息の長いセンテンスを書くという、読みにくい文体でも知られていました。読む人により好き嫌いがはっきりと分かれるタイプの書き手でした。
ある種のカリスマ性もあり、親衛隊みたいにその人のあらゆる講義や授業に参加するという学生たちが、数人付きまとっていました。複数の大学で授業をしている人だったので、「親衛隊」は、いわばもぐりで他大の授業に出席することもあったわけです。
*
その講義でも、「親衛隊」の姿が見られました。そう言えば、その講師の別の授業で、次のようなこともありました。英語で言えば why と because にあたるフランス語を、日本語にどう置き換えるかが問題になっていました。たぶん、文学というより、語学の授業だったかもしれません。because にあたるフランス語を「なぜならば」と訳した学生に、「その日本語、不自然ではありませんか」みたいなことを、その講師が言ったのです。「もっと、自然な、普段あなたが使っている日本語になりませんか? これは会話ですよ」と講師が付け加えて言ったような記憶があります。
前々回、つまり「あう(5)」という記事の冒頭近くで、「どうやら「本当であってもおかしくない嘘」を、未だに引きずっている人生だ、と言えそうです」などと、ぬけぬけと書いた者が、この文章を書いているのです。まして四半世紀ほど前の記憶をたどっているのですから、多分に脚色がまじっているにちがいありません。当の本人も、そう思います。ですから、今、お話しているのは、作り話だと思ってお読みになっても構いません。そのほうが、こちらも気楽です。
さて、みなさんなら、why と尋ねられ、because で答えるような場面で、それが日本語での会話だったら、何と返事をなさいますか? 「というのは」「その理由は」「そのわけは」ですか? 教室内の学生たちが、沈黙していると、講師は「どうして、『なぜならば』って訳したのですか?」と、さきほどの学生に再び質問しました。問い詰めるような口調をする人ではありません。鼻にかかった低音のやさしい声で尋ねました。
「だって、辞書にそう書いてあるんです」
確か、その学生は、そう答えたと記憶しています。
「それですよ。『だって』です。それが、会話での普通の言い方です」
学生たちは、狐につままれたように、ぽかんとしていました。その中に、この話を思い出している自分も含まれていたことは、言うまでもありません。
さて、「ドラゲ」ですけど、大学院生・学部学生共通講義に、各学生が持ちこんでいた仏和辞典はほぼ二種類ありました。そのうちの一方に、「浚渫する」とは別項扱いで、「(※同性あるいは異性を)引っ掛ける、ナンパする、誘う」みたいな意味も記してありました。この辺の記憶も曖昧なのですが、確かその講師は、二種類の辞書にある定義=訳語を、学生たちに声を出して読むように指示したのです。
別項扱いの訳語を読んだ学生はいませんでした。「本当に、それだけしか、載っていませんか?」という講師の声にうながされて、誰かが恥ずかしそうに、別項の訳語を読み上げました。
「ここでの意味は、それだと思います。この本は、『いかがわしい』本なのです――」
と、身長180センチを超える、その年齢の人としては「大男」である講師は、煙草の吸殻をテーブルの上で始末しながら言いました。その原著の邦訳名は『テクストの快楽』でした。「快楽」が日本語でも性的なニュアンスで用いられるように、フランス語の plaisir (※英語の pleasure にあたります)も、肉体的な快楽や快感や放縦や淫欲といった意味になり得ます。確かに、いかがわしい比喩が散見される本だったのです。
*
きのうの記事を書き終え、「信号」についていろいろ考えごとをしているさなかに、以上述べた記憶が断片的によみがえってきたのです。で、思いました。
*「信号」は、ヒトをナンパする。=「信号」は、ヒトを誘惑し引っ掛ける。
のではないだろうか。
相手が異性であれ、同性であれ、性的な意味で「ナンパする=引っ掛ける」ためには、ヒトはどうしますか? 企むはずです。行き当たりばったりな性格のヒトもいるでしょう。でも、それは程度の問題であり、それまでの経験や見聞からそのヒトなりに練り上げた、シナリオ=筋書きを頭の中に描き、然るべき準備をし、実行に備えるはずです。
*「信号」は、企む=仕掛ける。
とも言えそうです。「いかがわしい」と言えば、確かに「いかがわしい」行為です。
失礼な質問をして恐縮ですが、あなたは、これまでに異性からであれ、同性からであれ、ナンパされたり、ナンパされかけた経験がありますか? あるいは、そうした場面をテレビドラマや映画で見たり、小説で読んだことがありますか?
ひょっとして、ナンパって、「ああ、されそうだ」「くるぞ、くるぞ」「あいつ、魂胆がありそう」「あやしいなあ」という具合に、予感したり、気配を察するものではありませんか? ぼんやりとしている間に、ナンパされちゃった。で、やっちゃった。というケースも、きっとあるでしょう。失礼いたしました。
以上は、おふざけではありません。「信号」に備わっていると思われる、ある種の属性を、思い出話とからめて比喩的に説明しようと試みただけです。あまり、深く取らないでください。きのうから「信号」についていろいろ考えるという、一人ブレーンストーミングという、頭の中の「泥さらい」=「浚渫」をしていて、偶然にダイヤモンドや金の指輪を発見したのではなく、「ナンパ」に出合ってしまったという、落語みたいな落ちの話でした。でも、自分にとって、その
*「ナンパ」
を思い出したことは、ダイヤモンドや金の指輪以上に、大切な発見であり、めぐり合いでした。
余談ですが、邦訳である『テクストの快楽』を、例の講義の数年後に、書店で偶然見つけました(※自分が持っていた本は、上記の講義が終わるとすぐに売ってしまいました)。興味があったので「ドラゲ」の部分を調べてみると、訳文が「いかがわしい」ものに訂正されていました。指摘を受けたのかもしれませんね。
ちなみに、『テクストの快楽』を書いたフランス人の著作が新訳されています。どれも、とても高価なので、今の自分には手が届きそうもありません。たとえ、手に届いても、たぶん、もう読む気力はないでしょう。いずれにせよ、新訳の登場は再評価につながると思いますし、このフランス人を卒論に選んだという因縁もありますので、素直に喜んでいます。
*
このフランス人は、批評の対象をとっかえひっかえする「変移」の人でした。飽きっぽいのです。すぐに退屈して、テリトリーを転々と変えるのです。この人が自ら編さんした著書の邦訳で『彼自身によるロラン・バルト』という本がありますが、その中に、この人が演壇で退屈そうな顔をして、横を向いている写真が収録されています。
場所は、日本だということです。写真には映っていない、その視線の先には、この人の講演を日本語へと通訳している人がいたのだと聞いた記憶があります。同時通訳ではなく、逐次通訳で、自分の発言が外国語に置き換えられるのをじっと待つのは、確かに退屈な体験に違いありません。
「待つ人は、誰しも女性的に見える」という意味のことを、このフランス人が何かに書いていた記憶があります。それにしても、この人ほど「退屈」という言葉が似合う人はあまりいません。その写真には映っていなかった、退屈のもとである通訳を務めた人と、上で述べた思い出話に出てきて、
「この本は、『いかがわしい』本なのです」
と言った講師は同一人物です(※この記事を書いたころのアホはもったいぶっていますが、この人は蓮實重彦氏です)。退屈が似合うあるフランス人(※もちろん、ロラン・バルトです)の視線が、このブログの中で、「言葉として」あの「大男」の講師と時空を隔てて「出合った」のです。
*
では、「信号」について、まとめをします。今回で、このシリーズはおしまいにする予定です。ラッキー7で締めくくるなんて、言霊を畏怖している自分には、嬉しい限りです。「7=七」は数字ですが、広義の言葉ですので、幸運の印(しるし)だと勝手に喜んでいます。さて、まとめに入ります。
*「信号」は、二種類に分けることができる。
*(1)日常生活において、ヒト or 生物は「信号」の存在を常に意識していて、「信号」が合図を送ってくるのを予期している。「信号」から合図を受け取ったとき、ヒト or 生物は、何らかの予定されている行動をとる。なお、「信号」には、ノイズが伴う場合があり、その程度次第では、予定されていた行動への障害が生じ得る。
*(2)機械同士 or 機械のパーツ同士や、生物の器官 or 細胞同士などでの「信号」のやりとりにおいては、「信号」はあらかじめ決められた経路を通る。この場合の「信号」のやりとりによって、複数の機械 or パーツ、および複数の器官 or 細胞は、あらかじめ設定された動作=操作を行う。なお、「信号」には、ノイズが伴う場合があり、その程度次第では、設定された動作=操作への障害が生じる可能性がある。
*(上記の二種類の)「信号」が合図を送るさいには、熱を伴う。「信号」を受け取った側においても、熱が生じる。これを詳述すると、次のようになる。「信号」が発信された時点、および、経路を通じて運ばれる過程、そして、「信号」が受信された時点、および、「信号」を受け取った側で行動 or 動作=操作が実行される時には、熱が生じる。この熱は、「信号」の役目を遂行するために不可欠である一方で、ノイズを生じさせ、「信号」の役目の遂行の障害となる可能性もある。
以上の四つの*で始まる文章が、「信号」についての、自分としては最も簡潔な説明です。
*
「信号」は「情報理論」と呼ばれる、自分にとってはまったく未知の分野でも、用いられている語なので、それを意識してしまい、上記の説明はいささか、ぎこちない表現になりました。とはいえ、言葉だけでしか知らない「情報理論」および、その領域で使用されている「信号」と、このブログで用いている「信号」とが、まったく関係のないものであることを、ここであらためてお断りしておきます。「デジタル信号」と呼ばれるものとも、おそらく無縁の話です。
その証拠に、このブログの「信号」は、さきほどご紹介したように、ある種の言葉を使って、ちょっとエッチな=エロい説明をすることさえできるのです。こんなこと、学問の=アカデミックな「用語=ジャーゴン」では、できませんよね。ですので、たぶん、まったくの別物です。比喩としてなら、かなり面白そうなことが、いろいろできそうですけど、今のところは自粛し、後の楽しみに残しておきます。
*
たった今、上の四つの*で始まる文章を読み返しましたが、何て官僚的=事務的な言葉を連ねているのでしょう。恥ずかしくて、消したくなりました。でも、言霊が怖いので削除はしません。心残りなので、「信号」について別の説明を、最後に書かせてください。
*「信号」とは、ナンパを目的とした「めくばせ」である。ナンパされる対象は、いつかナンパされることを意識しながら待機している。ナンパする側も、される側も、双方がどきどきして機会=合図を待っている。
いかがわしいですね。でも、これでいいのだと思います。当ブログは「ゲイ・サイエンス」=「愉快なお勉強ごっこ」を目的としている、いわばネット上の小さなテーマパーク、あるいはゲーセン or ひとりでやっている寄席、私はそこにいつもいるピン芸人です。よろしければ、また、お遊びに来てください。お待ちしております。
【以下は、この「あう」という連載の最終回に付けた「おまけ」です。童話ですので、コドモになったつもりでお読みいただければ嬉しいです。最後に、一言、「読者をナンパしなければならない」。とは言え、深読みをなさる必要はありません。なお、「あう(4)」で取り上げた自作のおとぎ話を、「あう(5)」で試みたような、テクニカルな手法の分析がしやすいようにも書いてある童話ですので、お時間のある方は試してみてください。】
★童話 :『ねえ、傘、貸して』
あいちゃんは、8歳で小学校の2年生。長女で、その下に、まいちゃん5歳、みいちゃん4歳の2人の妹がいます。
あいちゃんのお父さんは、大工さんをしています。体がとても大きくて、授業参観日に教室のうしろで、クラスメートのお母さんやお父さんたちと並ぶと、目立ちます。
「あい、まい、みい、まいん」
お父さんは、夕ご飯のあとで、よくそんなふうに大声で歌うように叫びます。お酒に酔っているのです。
「よーし、もう1人、妹が来るようにすっからな」
酔ったお父さんが、3人の娘に言います。すると、お母さんが、
「もう、いいですよ」
と、必ず言い返します。そんなときの、お父さんとお母さんは、うれしそうです。だから、あいちゃん、まいちゃん、みいちゃんも、ほほ笑み、家の中が明るくなります。
「あい、まい、みい、まいん」
いつの間にか、お母さんを除くみんなで、節をつけて叫ぶようになりました。お母さんは、照れくさそうにして、にこにこしているだけです。
「まいんちゃんが、今度来る妹なの?」
あるとき、あいちゃんは、お父さんにたずねました。
「そうだなあ。そのつもりなんだけど、弟かもしれないよ。それでも、まいんはまいんだ」
「どうして?」
あいちゃんが、そう聞いても、お父さんはにこにこしているだけです。お父さんの言うことは、あいちゃんには、わかるようで、わからないことが多いです。
*
あいちゃんのクラスに、愛(めぐむ)さんという男の子がいます。学校では、先生たちは児童たちを、男女の区別なく、さん付けしています。愛さんは、よくからかわれます。名前が「あい」と読めるからです。あいちゃんには、自分の名前と同じ読み方ができる漢字の名前の男の子がいて、その子が「めぐむ」さんなのが、不思議でたまりません。
どうして?
愛さんには、お父さんがいません。亡くなったわけではないそうです。その今は家にいないお父さんが、愛さんに愛という名前をつけてくれた。そんな話を、あいちゃんのお母さんと、愛さんのお母さんが話しているのを、あいちゃんは聞いたことがあります。
愛さんのお父さんは、学校の先生らしいです。今は、あいちゃんと愛さんが住んでいる町にはいません。遠くに住んでいるようです。1か月に2度だけ、愛さんは、お父さんと会います。お父さんが、愛さんの家まで車でむかえに来てくれて、ドライブに連れて行ってくれるのです。
その話を聞いたとき、あいちゃんは、うらやましいのと、悲しいのと、いっしょになったような気持ちがしました。あいちゃんは、毎日、お父さんと会えます。愛さんは、1か月に2度しか、お父さんに会えません。
どうして?
愛さんは、どんな気持ちでお父さんと会う日を待っているのだろう。あいちゃんは、よくそんなことを考えます。愛さんのことが気になるのです。でも、学校では、あいちゃんは愛さんのそばに行くことはありません。名前のことで、からかうクラスメートたちがいるからです。
*
あいちゃんと愛さんは、小学校に入学したときから、同じクラスです。初めて、クラスのみんなと顔を合わせた日のことを、あいちゃんはよく覚えています。
先生が、男子女子に関係なく、あいうえお順で、苗字と名前を合わせて、さんづけにして呼んでいきました。苗字と名前を呼ばれて、「はい」と元気に返事をして、起立します。そして、「はじめまして」とおじぎをしながら言ったあと、時計の針と同じ向きにまわりながら、教室の中を見わたすのです。みんなに名前と顔を覚えてもらうためです。
そのときです。先生が言いました。
「恵(めぐみ)あいさんと、相田愛(あいだめぐむ)さんって、何となく似ていない?」
2人の名前は、先生の持っている名簿では離れています。愛さんの名前は、いちばん最初に呼ばれました。あいちゃんの名前が呼ばれたのは、だいぶたってからです。それなのに、「何となく似ている」と先生が言ったことが、あいちゃんには不思議でたまりませんでした。
どうして?
それからです。あいちゃんと愛さんが、みんなにからかわれるようになったのは。元気のいいあいちゃんは、みんなの人気者になりました。元気のない愛さんは、みんなからからかわれるようになりました。名前のことだけでなく、勉強のことや、運動のことや、いろんなことで、みんながからかうのです。あいちゃんには、それも不思議です。
どうして?
愛さんは、1年生のときの夏休みが終わってから、学校をよく休むようになりました。先生が愛さんの家までむかえに行っても、学校に来なかったり、来ても、保健室にいたりします。
どうして?
*
今、もうじき2年生になるあいちゃんは、たくさん漢字が読めるようになりました。学校の授業で習うというより、マンガを読んだり、ゲームをしていているうちに、自然に頭に入るのです。1つの漢字にいろいろな読み方があることも知りました。クラスメートの中には、とても画数の多い、ややこしい漢字の名前の人もいます。大人が正しく読めない漢字の名前の人も、何人かいます。
あいちゃんは、自分の名前が気に入っています。漢字の名前の人をうらやましいと思うこともありますが、ひらがなはやさしい感じがして好きです。漢字も、おもしろくて好きです。
2年生になりました。
「あいだめぐむさん」
始業式の日に、先生が名前を呼びましたが、返事はありませんでした。相田愛さんの席はあいちゃんの隣なのに、相田愛さんはいません。
どうして?
愛さんが座っているはずの隣の席を見ていると、胸が熱くなってきました。
どうして?
2年生になって1か月がたとうとしているのに、愛さんは、ぜんぜん学校に来ません。保健室にいるという話も聞きません。引っ越したという話も聞きません。
ある日、昼休みが終わって、午後の授業が始まろうとしているとき、あいちゃんは、誰もいない隣の席にふと目をやりました。机に落書きがしてありました。△と│を組み合わせた傘の絵が、描かれているのです。
│を挟んで、右に「あい」、左に「愛」と書いてあります。細い鉛筆で描いてあるので、消そうと思えば消せるのですが、あいちゃんは、そのままにしておきました。
どうして?
落書きは、そのままにしてあります。あいちゃんは、授業中に、退屈になると、その傘の絵に目をやります。毎日のお掃除のたびに、机の上をふくせいか、絵はだんだん薄くなってきています。
*
ゴールデンウィークになりました。
連休のあいだに、愛さんの家に行こう。愛さんに会いに行こう。ゴールデンウィークが終わったら、毎朝、愛さんをむかえに行って、いっしょに学校に行くのだ。隣の席に愛さんにいてほしい。あいちゃんは、そう思いました。
でも、どうして、愛さんにいてほしいんだろう?
5月3日。朝ご飯のあとに、歯をみがきながら、あいちゃんは、勇気を出して、きょうの午前中に、愛さんの家に行くことにしました。そう決心すると、体がほてってきました。
「お母さん、行って来まーす。まいんちゃん、行って来まーす」
お母さんのお腹の中にいる、妹か弟か、まだわからない赤ちゃんにも、あいさつをしました。
空はくもっています。あいちゃんは、知らず知らずに駆け足になっていました。汗が額から頬に流れてきます。とちゅうで、はっと気がつきました。愛さんに会って、何を話したらいいのか、ぜんぜん考えていないのです。お土産も、持ってきていません。
どうしよう?
そのうち、なぜ自分が走っているのか、どこへむかっているのかが、わからなくなってきました。とつぜん、ぱらぱらと小粒の雨が降ってきました。走りながら、声に出して言いました。
どうして?
※この文章は、かつてのブログ記事に加筆したものです。https://puboo.jp/users/renhoshino77
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