かく・かける(7)

げんすけ

2020/09/08 07:57


 ブルガリというブランドがありますね。BVLGARIと表記されますが、どうしてだろう、と思われる方がいらっしゃっても不思議はありません。米国の玩具量販店「トイザらス」のロゴ「TOYSЯUS」も、遊び心があって面白いです。


 日本のブランドや商品名でも、風変わりな表記を使ったものがあります。アンフィニという自動車のシリーズ名みたいなものがありますが、以前は英和辞典なんかで見かける、発音記号もどきの表記が用いられていた記憶があります。ちょっと話はちがいますが、「あ」に濁点「 " 」をつけるなんて表記も、最近、頻繁に目にします。


 今、挙げた例は、それぞれ性格が違いますが、「変わっている」とか「人目を引く」という点では似た働きがあります。日本語の変わった表記については、個人的には「大賛成」派です。一方で、新語や、言葉遣い、表記に限らず、異形(いぎょう)=「今までとは違う」=「よそのものだ」=「変だ」=「あやしい」と感じられる存在や現象に遭遇するたびに、ビビって目くじらを立てる人たちがいます。


 また、「人権」や「○○主義」という言葉を聞くなり、現象のコンテクストや対象の個別性を無視し、思考停止状態になり、パブロフのワンちゃんみたいに、その道のプロ=それでご飯を食べている人たちの言葉の受け売りである、ステレオタイプ化した罵倒や悪態を口にする人たちもいます。こうした人たちに共通するのは、考える、思う、感じる、想像する、という基本的ないとなみを一時的に放棄していることです。


 思いやりのこころを一時的とはいえ、失う人は憐れです。ある程度の年齢に達した人であれば、だらしないです。ただ「うざい」と済ますこともできるでしょうが、個人的には残念です。「新しいもの or よそのもの」に媚びろと言っているのでは、ありません。人にとって、「新しいもの or よそのもの」なんてありません。


 人の知覚は、すべてが出来レースみたいなものなのです(※このことについては、後述します)。異形(いぎょう)と感じられる存在や現象に対し、条件反射的にこころを閉ざす、という行為もそうです。悲しいです。ステレオタイプ化した行為をいったんやめて、思いやるこころを持ちたい。そう思っています。思いやったあと、どう判断し、どう行動するかは、その人次第です。ただ、短絡はやめましょうという意味です。


     *


 世間話は、ここまでにし、今回の本題に入ります。このブログでは、前回の「かく・かける(6)」、そして前々回の「かく・かける(5)」と、俳句について書いてきました。同時に、


*「かく・かける・書く・賭ける・掛ける」とは、「宙ぶらりん」である。


らしい。


*「宙ぶらりん」を、少し格好をつけて言うならば、「偶然性」とも言える。


のではないか、などと考えていました。


 ところで、「偶然」という言葉に自分はかなり違和感を覚えます。「偶然性」にはしっくりしたものを感じます。「必然」と「必然性」との差には、あまりこだわりません。どうしてだろう? と考えていたのですが、「偶然」というと何か、物質性を感じてしまうのです。自分にとって、「偶然」という「もの(=物)」はなくて、「偶然性」という「まぼろし=ほぼこと=(ほぼ事)」はある。言葉にすると、そんな感じです。


*世界は偶然に満ちている。


などというフレーズに出合ったりすると、なぜか、強い拒否反応を起してしまいます。


 隠喩で使われているとしても、です。というより、隠喩として、いわば「確信犯的に」そう言っているのなら、なぜか、なおさら強い拒否反応を覚えます。さらに、「偶然」の対として用いられる「必然」について言えば、偶然の反対が必然だという気がぜんぜんしないのです。


*世界には、「偶然性」だけが屹立(きつりつ)している。


という感じなのです。もちろん、きわめて個人的な感想=愚見=妄言です。こんなふうに強く感じるのは、


*「必然」とは、「ヒトのもの」=「ヒトの幻想」である。


という思い込みが強いのではないか、と自己分析しています。というわけで、「偶然vs.必然」「偶然性vs.必然性」という図式に沿って文章を書くこともありますが、内心では、上で述べたような思いが非常に強いです。俳句についての記事を書きながら、常にあたまの大部分を占めていたのは、


*偶然性(※やはり、「屹立する偶然性」と言うべきだと感じます)


であり、話のついでにつづった「偶然」、「必然」、「必然性」という言葉たちは形式的に並べたようなものです。「偶然性」は、


*宙ぶらりん


と同じで、自分のなかでは、非常に大きな位置を占める気掛かり=気懸かりな言葉です。


 で、家事や親の介護の合間にいろいろ考えていて、はっと気づいたことがあります。デジャ・ヴュのようにも思えるので、以前にもあたまに浮かんだ、あるいは、何かで読んだか、どこかで聞いた話なのかもしれませんが、いちおう書いておきます。


     *


 古い話で恐縮ですが、「有楽町で逢いましょう」という歌謡曲が昭和32年頃にレコード化され、大ヒットしたらしいのです。当時は、歌の「賞味期限」が今よりずっと長かったので、多くの人たちによって、何年も愛唱されていたとのことです。


 自分はその歌の出だしだけをはっきりと覚えています。著作権に触れるので、全部引用できませんが、あなたを待っていると決まって雨が降るみたいなことを言い、あなたがびしょびしょに濡れて、


*「こぬかと、気にかかる」


という歌詞となります。ここが、どうやら掛詞(※かけことば)=しゃれ=言葉の遊びらしいのです(※あくまでも「らしい」です、勘違いである可能性が高いです)。


*「来ぬか=来ないか=来ぬか=こぬか雨」+「気にかかる=木にかかる」


という具合です。何かこれに似た、あるいは同じ掛詞を使った和歌が平安時代ごろにあったようなことを聞いた記憶もあります。また、ほかの歌謡曲でも、使われていた覚えもあります。「手垢の付いた」という手垢の付いた言い方がありますが、まさにあのしゃれは、手垢の付いた掛詞だったということです。


 そういえば、「♪ こぬか雨降る○○筋」という、大阪を舞台にした歌もありました。「来ぬか=来ないか=来ないかなあ ⇒ 待つ or しのぶ」というふうに、「こぬか雨が降る」=「人を待つ or しのぶ」という、ワンパターン=受け継がれたパクリ=定型が存在するわけですね。


 このブログでは、


*オリジナリティはどうでもいいというか、そんなものはない。


という立場を取っているので、パクる、パクリについては詮索しません。フランク永井という歌手がヒットさせた、あの歌の歌詞をわざわざ取り上げた理由は、


*あのコドモ時代に聞いた言葉が、「掛詞=だじゃれ」だったと、オジサンとなった今になって気づいた。


からなのです。言い換えると、


*言葉の偶然性の産物である「掛詞=ダジャレ」に、偶然性に左右されて、かなりの時を経て気づいた。


ということです。


 幼かったころの自分は、たぶん、あの歌詞の意味を理解していなかったと思います。その後、何度か、あの歌詞を聞いたり、自分でも口ずさむことがあったことは確かです。でも、ついきのうになって、はっと気づいたのです。さきほども申し上げましたように、デジャ・ヴュも感じますので、以前にも気づいた瞬間があるという気もします。それにしても、です。


*意味の知らない言葉の記憶が、何年も後になって、分かったり、それがしゃれであったりすることに気づく。


という現象が「気にかかった」のです。


     *


 で、話は、ブルガリに飛びます。


*なぜ、BULGARIではなく、BVLGARIなのでしょう?


 ブルガリが何語なのかは知りません。ヨーロッパの言語のうちの1つであることは確かでしょう。


*ABCDEFGHIJKLMNOPQRSTUVWXYZ


 これは、英語で使われているアルファベット26文字です。これって、何なんでしょう? というか、何のためにあり、どうしてこの順番で並んでいるのでしょう? これが、英語をつづる=書くためのパーツだという、よく知られたことは別にしての話です。


 偶然性の産物として、こういうふうに並んでいるのか? それとも、何かの規則なり理由があるのか? ネット検索をすれば、「正しい」答えが見つかる可能性は高いです。でも、このブログでは、あまりそうしたことはしません。書いている者が、無精だということもあります。偏屈だということもあります。とにかく、調べることはしません。


 なぜなら、今、「かく・かける」シリーズをやっているからです。宙ぶらりん、でいいのです。このブログを何回かお読みになっている方は、薄々感じていらっしゃるかもしれませんが、


*このブログで書かれている文章、つまり、言葉たちの特徴として、言葉の身ぶり=運動=動き=めくばせ=表情といったものを、このブログでは、非常にというか、いちばん大切にしています。書かれている言葉たちの意味や内容や指し示すものは、二の次なのです。刺身のつま、なのです。


 また、意味の固定化を嫌います。筋を通すことに、うさん臭さを覚えます。だから、やたら「=」が文章に混じります。あれは、


*言葉が一定の方向を向いたり、1つの意味づけに固着したりしないように、言葉の「向き」をできるかぎり「揺らし」たり、似通った、あるいは、ときには正反対と考えられている言葉を「=」でつなぐことにより、「意味」ができるかぎり「ずれる」ようにと、故意にしているのです。


 どうしてこんなことを書いているのかと申しますと、当ブログのプロフィールにあるメールアドレス宛に(※かつてのブログサイトの話です。今はありません)、ある読者の方から、このブログの文章の「読みにくさ」について、質問というか、クレームを頂戴したからなのです。


 その方宛に、「今は、あたまのなかが整理できておらず、即答ができないので、近いうちに、記事のなかで、なるべく分かりやすいように説明します」といった意味の返事を出しました。


 Tさん、メールをありがとうございました。こんな説明しかできませんでしたが、お分かりいただけたでしょうか? 



※この文章は、かつてのブログ記事に加筆したものです。https://puboo.jp/users/renhoshino77




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