なる(8)

げんすけ

2020/08/02 08:03


「唯○論」という言い方があります。ある特定のものごとや現象や特質みたいなものを用いて、森羅万象をひっくるめて面倒みよう、といった場合に用いるネーミングの産物、あるいはブランドのことです。グーグルなどで検索するさいに、半角の「*」を使うことがありますね。試しに "唯*論" で検索してみたところ、あるはあるは、そのヒット数の多さにびっくりしました。まず、以前に見聞きしたことのあるものを列挙します。


 唯幻論=唯心論=唯物論=唯臓論=唯言論=唯我論=唯脳論=唯神論=唯金論……


 次に、初めて見たものの中で、特に印象的だった使用例を並べます。


 唯ゲーム論=唯エネルギー論=唯情報論=唯退屈論=唯創論=唯遺伝子論……


 この言葉の羅列を見て感じるのは、


*「唯○論」というのは、メタな立場=「これですべてが解決=説明=解明できるぞ。大したものだろ」という視座に立ちたいという欲望である。


と言えそうです。でも、これまで見聞したところでは、メタな位置に立とうとするとメタメタ=めちゃくちゃになることは確かです。だから、わざと上の言葉を全部「=」で結びました。ちなみに、「=」は一種の感字であり感覚的なものです。「すべての面倒をみる」というメタな心意気があれば、ほかの「唯○論」と「=」で結んでもいいことになります。


 なにしろ「何でも面倒をみよう! まかせとき!」というのですから。ということは、「=」は権威のあるお墨付きの印(しるし)であり、5つ星とか勲章みたいな「栄誉」のシンボルということになりませんか? つまり、


幻=心=物=臓=言=我=脳=神=金=ゲーム=エネルギー=情報=退屈=創=遺伝子……


という「存在の偉大なる連鎖」が形作られると言えます。やっぱり、「ぜんぶ、わたしに、まかせなさい!」状態です。


     *


 それにしても、すごく貪欲というか野心的な考え方ですね。思わず、占いを連想してしまいました。星、タロット、トロッコ、水晶、ミラーボール、姓名、生年月日、茶柱、貝柱、おみくじ、恋するフォーチュンくっきー!、動物、植物、ミジンコ、鉱物、風水、噴水、筆跡、指紋、声紋、鼻紋、DNA、ハンコ、電子サイン、印鑑、きんかん、印章、印象、髪型、寝癖、歯型、黒子(ほくろ)、白子、明太子、色、エロ、亀の甲羅、ナオこーら、おかゆ、オートミール、夢、霊感、性感、手相、人相、顔芸、骨相、家相、仮装、女装、鏡、りゅうじ、ひげ、はげ、まげ、鼻糞の色と質、朝一番のおしっこの色と透明度、しいたけ、さるのこしかけ、オーラ、おらしんのすけ……。「何でもあり」が「何でも占っちゃう」。


 それは脇に置いて、上記のような列挙作業をしたのには、理由があります。このブログでやっていることが、


*「唯○論」という「まぼろし」を形成する作業に似ている


からです。そういうわけで、このブログにはそんな野心は毛ほどもありません、と断っておきたいのです。


*このブログでいろいろやっていることは、ぜんぶ「お遊び」


なんです。「本気のお遊び」と言ったほうが適切かもしれません。本気でテキトーなことをする。そんなことができるのか、という疑問を抱いている方もいらっしゃると思います。でも、できるんです。というか、たぶん、やっているのです。少なくとも、やっているつもりなんです。


 ちなみに、「テキトー=適当」や「いい加減」は、たぶんポジティブな意味がネガティブな意味を産んで=生んでしまったのではないか、と推測しています。辞書では両方の意味が、語義として別個の項に記載されています。つまり、並列=併記されています。したがって、


*ヒトは言葉を使用することによって、自らが知覚している森羅万象=世界=宇宙=まぼろしに、一時的に、あるいは部分的に「なる・なりきる」。


というフレーズは、


*「ポジティブであり、かつネガティブ」であるという両義的な意味で「テキトーに」、「森羅万象=世界=宇宙=まぼろし」と「言葉」を「本気で」関係づけている。


のだ、という意思表示なのです。「絶対にこうだ」とか「これしかない」なんて、主張してはいないのです。そんなことは自分にはできないし、そんなことを言う度胸もありません。単に、「こんなふうにも考え=受けとり=感じ=とらえることができますよ」、「ここで書いていることは、正解とか真理とかとは無縁ですよ」と言っているに過ぎません。お山の大将の気分はとは、ほど遠いです。ただし、言葉はきわめてやっかいなものですよ、とは強く言っておきたいです。


 たとえば、


*森羅万象は、おそらく、すべてがまぼろしであり、広義の言葉(=話し言葉、書き言葉、表情や仕草や身ぶり手ぶりを含む身体言語=ボディランゲージ、手話、ホームサイン(=家庭だけで通じる断片的な手話)、さまざまな標識や記号など)としてしか、ヒトは知覚できない。


と書いた場合には、そのフレーズ自体さえも、例外なく含んでの話だという理屈になります。少し飛躍すると、「わたしは嘘をつく」とかいうフレーズに、ちょっと似ていますね。正しいのか正しくないのか判断できない。こういう場合には、「正しい」「正しくない」という枠組み=仕組みを疑ったほうが、いいような気がします。


*正誤、真偽は言葉のあやである。


 以上のように書いても、あややという感じで、あやうくてあやしげで事態は好転しそうもありません。さきほど「……という理屈になります」と書きましたが、「理屈=物事のすじみち=論理というヒトの発想あるいはヒトの思考のパターン」自体に「問題点=欠陥=無理=テキトーさ=穴とすき間だらけ状態=まだら模様=むら」があるに違いありません。でも、それしか使用する選択肢が見当たらないので、それと付き合っていくしかない。きっと、そんな感じ=状態=状況なのではないでしょうか。


     *


*言葉とは、Aの代わりにAでないものを用いるこじつけである。言葉というこじつけが、ヒトをヒトとならしめている。


 このフレーズは、以前このブログで書いたものです。「こじつけ」という「作業=行為=いとなみ」で、「広義の言葉」の仕組みを説明する考え方です。この「Aの代わりにAでないものを用いるこじつけ」という仕組みは、「うまくいく」こともあれば、「うまくいかない」こともあります。たとえば、


(1)ヒトが仲間を月面に降り立たせたり、


(2)コンピューターやインターネットを作ったり、


(3)がんの治療において完全とは言えなくてもある程度の成果をあげている。


 これらは、言葉の使用がうまくいった例でしょう。一方、


(1)家族内でコミュニケーションを円滑に進められなかったり、


(2)言い間違いや失言や誤解をきっかけに争い(or 戦争)が起こったり、


(3)文書の解釈をめぐって利益(or 国益)が失われたりする。


 これらは、言葉の使用がうまくいかない例でしょう。今挙げた二種類の例について、さらに屁理屈を言うなら、前者のグループの三例がネガティブな結果を生む場合もあれば、後者のグループの三例がポジティブな結果を生む場合もあります。


     *


 たとえば、コンピューターの発明と普及は大したものです。でも、それがどれだけ地球温暖化を進め、また戦争でいかに大きな役割を果たしているか。一方、家族内のコミュニケーション上の問題がきっかけで一悶着あり、「雨降って地固まる」式に、かえってその後に深い和解が成立する。あるいは、文書の解釈で相手国に押し切られ一時的に損失が出たが、その損失に打ち勝つために国民が努力して長期的な高度成長を成し遂げる。


 今挙げた例に類したことは、ざらにありますね。ということは、「うまくいく」「うまくいかない」という「分ける作業」自体に、無理=限界=不具合があるのではないでしょうか。「うまくいく」「うまくいかない」とか、「正しい」「正しくない」は、表裏一体=見方の相違、極端に言えば、同じこと。あえて、区別する必要なし。何もかもがつながる。やっぱり、根本に「こじつけ」という仕組みがあるからだ、「らしい=かもね」。


 言いすぎでしょうか? 「人間様も、言語様も、もっと偉いんだぞー」ですか? でも、もしも言葉の大前提である「こじつける・こじつけ」がテキトー(※ポジティブ=ネガティブな意味です)ならば、その使用も「テキトーに(※ポジティブ=ネガティブな意味です)」を意識して行わないと、言葉に裏切られてがっかりしたり、それどころか、とんでもない事態に陥ることもあり得るのではないでしょうか? 要するに、言葉を過信するのは禁物。使用には十分注意しましょう。などという、製造物責任法=PL法の精神が必要なのではないかと思います。


 つまり、


*言葉は欠陥品である。


「らしい=かもね」。


 さて、蛇足的な弁解で、道草をしてしまいました。次回は、本題である「ヒトが言葉を使用することで「森羅万象=まぼろし」になりきる」という状況について説明する=駄文を弄する予定です。



※この文章は、かつてのブログ記事に加筆したものです。https://puboo.jp/users/renhoshino77



#エッセイ

#言葉


 

このブログの人気の投稿

あう(1)

かわる(8)

かわる(3)