げん・言 -8-

星野廉

2020/09/21 08:37


 あくまでも「仮に」つまり「仮定」「もしも」の話です。自分の「学んだ・真似た」言葉やフレーズやイメージや考え方のすべてに、有効性と信頼性という点で著しい欠陥があったなら、などとよく考えることがあります。


 こんなことをトリトメもなく考えている時に、決まって思い出すのが、ある2人の「筆耕(ひっこう)」のお話というか、内容はよく覚えていないので、イメージです。


「筆耕」というのは、文字を書き写すのを職業とするヒトや、文筆業のヒトを指すと辞書に書いてあります。今、話そうとしているのは、19世紀にフランスにいたという小説家が書こうとしていて途中で亡くなったという、いわくのある小説の主要人物なのです。たぶん、文字を書き写すほうの筆耕だったと思います。


 学生時代に斜め読みしただけで、ぼんやりとした記憶しかない小説なので、よく覚えてはいないのですが、次のようなストーリーだった気がします。


 何かの事情があって筆耕を生業にしなくても生活できるようになった2人の男性が、何かの事業をしようとする。そのたびに、その事業に関する書物を買い求め、その内容に従って周到に準備をする。それにもかかわらず、事業は失敗する。それを何度も繰り返す。


 たぶん、そんな調子の話だったと記憶しています。間違っていたら、この話は、ここででっちあげた馬鹿話だと思ってください。ごめんなさい。


       〇


 ある文学史の本に、この未完の小説は人類に対する、あるいは言語に対する痛烈な風刺だと書いてあったので、風刺のたぐいが嫌いではない自分は、どんな作品なのか気になって読んだのだろうと、今になって思います。大学の授業のテキストでなかったことは確かです。


 でも、どこが風刺なんでしょう。当時はぴんと来なかったのですが、今になって思うと、何となく分かるような気もします。というのは、自分の人生にそっくりだからです。


 これまで、いろいろな分野の指南書、マニュアル、手引き、実用書、教本、入門書、専門書、ハウツー本のたぐいを何冊、拾い読み、または斜め読みしたことでしょう。なかには、わりと真剣に読んだものもありました。生き方の指針として小説を読んだこともあります。


 でも、なに1つ、役に立ったという実感も記憶もないのです。単に、自分が無能だったからだとも思いますが、やっぱり自分はかわいいものです。なにか別の理由があったのではないかと考えたくなるのが人情でしょうか。


 いずれにせよ、現在の自分の境遇を思うかぎり、あれらの本というか、あれらの本のなかに入っていたにちがいない知識は、ぜんぜん役に立ちませんでした。いや、「ぜんぜん」は言いすぎかもしれません。「ほぼぜんぜん」くらいに考えておきます。


 その意味では、人類あるいは言語に対する風刺だというあの未完の小説を、自分に対する風刺だと、個人的レベルで勝手に受け取っているとも言えます。とにかく、あの小説のストーリーが他人事だとは、とうてい感じられないのは確かです。


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 知り合いに、自己啓発・発想法・問題解決といったジャンルの本のマニアがいます。なにしろ、その手の「話題の新刊」が出るたびに買うのです。そのヒトが自己啓発されて成功したり、幸せになったり、問題を解決しているのかというと、はなはだ疑問です。陰口になりそうなので、これ以上は書きません。


 健康法・スピリチュアリティ・癒やし・宗教・カルト・オカルトなどのはしごをしているヒトたちも、よく見かけます。これも、陰口になりそうなので、これ以上は書きません。


 そんなことを考えていると、例の本が、個人のレベルを超えて、人類に対する、あるいは言語に対する風刺だという話がリアリティをもって感じられてきます。


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 もしも、自分の「学んだ・真似た」言葉やフレーズやイメージや考え方のすべてに、有効性と信頼性という点で著しい欠陥があったなら、と考えた場合、自分の才能というか無能さは棚上げされることになります。


 失敗の責任を、言葉・言語、あるいは「知」というシステムに、いわば押し付けるわけです。


 その意味では潔くない行為ですが、「仮に」の話ということで、続けさせてください。その上で、うさんくさくて、いかがわしい、いわゆる「一般論」をさせてください。


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 もしも言葉・言語に重大な欠陥や不備があったとしても、ヒトは気付かないでしょう。気付くような視座に置かれていないからだと思われます。「不自由対自由」、「異常対正常」、「狂気対正気」、「正しい対正しくない」、「欠陥対無謬」といった対立したペアは程度の問題であり、別個のものではなく、連続しつながっている、またはからみ合っているものだと個人的には思っています。


 基準や境い目は曖昧です。そのときのヒトの都合で、どうにでも線引きされそうです。その意味で、上述の2項対立は、いかがわしくうさんくさいとも言えます。


 恐ろしいのは、その一定しない恣意(しい)的な基準によって、レッテルが貼られることです。ヒトが思考する過程での官僚的で事務的な手続き上不可欠だと考えることもできますが、それが固定化されたり、権威のお墨付きみたいに絶対化されるのが怖いです。


 もしも言葉・言語がとんでもない欠陥品だったらという仮定の話を、一般論として広げて扱っているうちに、何だかとんでもない方向に話がいきそうになってきました。


 これは、言葉・言語の欠陥によるものというより、書き手の杜撰(ずさん)さと迂闊(うかつ)さが招いた事態のようです。


       〇


 ヒトにおいては、知覚器官と脳のあいだの随所で、情報あるいは信号が伝達および処理されていて、それがヒトにおける知覚および意識である。


 ヒトは、「何か」の代わりに、「その「何か」ではないもの」を用いている。


 いつも、以上の2つのいかがわしいフレーズに、話が落ち着いてしまいます。芸がなくて、申し訳ないと思いつつ、つい引用して「一件落着」状態にしてしまいます。悪い癖です。


「それを言ったらおしまい」状態を、「出発点」にするべきなのです。言葉は何とでも言えそうなので、ぜひ、そうしたいと考えています。


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 言葉・言語が代理であるという仕組みを基本とする、知・文化・文明・進歩・発展・繁栄という一連の考え方への懐疑と諦念をいだくヒトたちがいます。圧倒的少数者だと言えそうです。


 そうしたヒトたちの矛先は、主に、話し言葉・書き言葉という狭義の言葉・言語に向けられていると思われます。一部のヒトは、音楽・舞踊・視覚芸術・スポーツなど、狭義の言葉・言語ではく、広義の言葉・言語が主要な表現手段とされる分野へと、ヒトびとの注意を喚起しようとしているようです。


 園芸、近所の散策、趣味としてのお絵描き、草木や野生の小動物の観察、軽い体操といった、大げさではない、「ものとの触れ合い」でもいいわけです。ものと触れ合うさいにも、ヒトは広義の言葉・言語、つまり表象という広義の道具・代理を通して触れ合わなければならないみたいです。


 森羅万象に対し直接触れることも見ることも、ヒトにはできないようです。そのさいに使わざるを得ない「代理」・「道具」が欠陥品であるかどうかは、おそらく程度の問題であり、ヒトがその「おそらく」を観測も判断もできるたぐいの話でもないとしても、それは致し方ないことでしょう。それ以上を望む必要はないのではないかと、個人的には考えています。


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 どうやら、言界は限界らしいのです。


 でも、せめて、言界を「幻界・幻の世」だと考えて、「まぼろし・幻」の親戚だという「まほろば・まほらば・まほらま・まほら」で、「まやかし」でもいいから、「まもの・真物」でも「まもの・魔物」のいずれでもいいから、「何か」に「まもられ・守られ・目守られ」ていたい。


 だから、しかたなく、言にたより、すがる。


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 何をやってもうまくいかない。うまくいくと書いてある本を読む。うまくいくと言うヒトの話を聞く。そのとおりに試してみる。でも、うまくいかない。


 書いてあることや言われている話が間違っているのか。そもそも、書くとか、言うとか、読むとか、聞くとか、伝えるとかいうやり方・システムが、どこか変なのか。


 うまくいかないのは、やろうとするヒトの能力に問題があるのか。そのヒトを取り巻く環境に問題があるのか。運とか定めとか言われているもののせいなのか。


 その全部なのか。そのどれかの組み合わせなのか。


 そうしたことを観測し判断する方法は、間接的な「代理」という仕組みを通すしかなさそうに思えます。


 一方で、代理なんかに頼らずに、直接的な形で「さとる」とか、「啓示を受ける」とか、「何かが教えてくれる」とか、そんなことを自信ありげに言い切るヒトたちがいます。


 でも、そのヒトたち自身が、何かの「代理」様だと称して、どうみても「代理」だとしか思えない、言葉だったり、紙切れだったり、木切れだったり、石のかけらだったり、金属片だったり、壷だったりを、お金という「代理」と「引き換え」に授けてくれることがある。


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 宗教、信仰、癒やし、スピリチュアリティ、スポーツ、音楽、イベント、芸、道、芸術、成功法、エンパワーメント、療法、美容、幸せになる方法、美しくなる方法、人間関係を円滑にする方法、お金持ちになる方法、良きリーダーになる方法、組織をうまく動かす方法。


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 代理というシステムの利用の仕方はさまざまです。現在は、貨幣という代理が、言語という代理よりも優遇され、優先され、重視されているみたいです。


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 数ある代理のなかの王様は誰でしょう。狭義の言葉でしょうか。


 言葉は何でも言えるし、何でもつなぐ頼もしい代理。それは確かなような気がします。でも、もっと頼もしい代理がありそうです。


 お金・貨幣という代理が、王座に居すわっているように思えてなりません。たいてい、というかほぼすべてのものが、お金に置き換えられるみたいです。


 愛情はお金にかえられない。命はお金に換算できない。残念ながら、そんな抽象的な気休めのお話をしているのではありません。


 言葉を弄(ろう)して、口当たりのいいフレーズを生み出すことはできます。美辞麗句で世界は満ちています。言葉で、一時的に癒やされた気持ちになることもできるみたいです。


 でも、お金の圧倒的な「交換性」には太刀打ちできそうもありません。最強だと思われていた言葉の「交換性」、つまり「万物をつなげる力」の陰に隠れた「まもの・魔物・真物・間物」がいたようなのです。


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「代理」という仕組みのすごいところは、「置き換える」という働き・機能です。置き換えの対象は、森羅万象、無限とも言えそうです。


 言葉にも「置き換える」力はあります。でも、言葉だけでは、食べていけないし、服も買えないし、住むところも見つかりそうもありません。


 なぜでしょう。


 言界でのできごと、つまり「こと・言・事」の世界での「こと」であって、「もの・物・者」の世界の「もの」ではないからかもしれません。


「こと」ではなく「もの」が重視される世界を、現界と呼んでみましょう。


 現界では、「もの」に「かえる」ことができる「もの」が尊いと考えられているようです。


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 かえる・変える・代える・買える・換える・替える・飼える・帰る・返る・還る・孵る


 今挙げた「かえる」のうち、何がいちばん欲しいですか。


 持ち運びに便利な「かえる」がいちばん使い勝手がよさそうです。数字にでも化けることができる「かえる」なら、ITとかいう技術を使って、別に持ち運ばなくても遠くにまで持っていけそうです。


 名前は忘れましたが何とかいう機械、つまり代理・道具さえあれば、ピッピッピと指でボタンを押すだけです。そうすれば、お金・マネーが手に入る。


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 話はそれだけにとどまりません。電子マネーとか、キャッシュレスとかいう「もの」です。「もの」というより「状況」でしょうか。すると、「こと」ということでしょうか。何しろ、「ないのにある」状態なのです。


 お金は、そうした「こと」対「もの」の2項対立を「物ともせず」、世界をかけめぐっているみたいです。


「価値」という小ざかしげな言葉やイメージで説明できそうな気もしますが、そういう言葉遊びをしたところで、お金の強さの前では「たわごと」扱いされるのがオチかもしれません。言葉をいとしいと思う者にとっては、悲しいです。


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 ふと「実体経済」という、「ありそうでなさそうな」うさんくさい用語とイメージを思い出しましたが、その反対であるはずの「ちゃんとある」状態を専門家は何と呼んでいるのでしょう。経済学が苦手なので知りませんが、ちょっと気になります。


 とはいえ、それも「ありそうでなさそうな」状態を単に「言挙げ」しただけのように思えます。


「実体経済」の反対のものとされる、「もの」か「こと」かよく分からないものも、どうやら「ないのにある」みたいだという意味で、結局は「実体経済」と呼ばれている「もの」か「こと」かよく分からないものに「似ている」感じもします。


 ややこしいです。こういう苦手な分野の言葉・イメージを比喩にするのは、やめておきます。


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「ないのにある」状態・状況に、ヒトは働きかけられ、動かされているようです。それで、大騒ぎしているわけですから、その「働きかけ」はかなりパワフルみたいです。単なる物語・神話で片付けられない、尋常ではない事態のようです。


「そのもの自体に似ている」状態、つまり「そっくり」状態にも似ている気がします。スーパーや量販店やコンビニに並んでいる大量生産された製品のイメージです。でも、あれはあくまでも「あるからある」状態みたいです。


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「ないのにある」状態。


 代理というシステムの基本には、「何かの代理」、つまり「何かに似ている」あるいは「何かの真似」という仕組みがあったはずです。そういう考え方・イメージが揺らいできているのでしょうか。


「何か」という曖昧な「暗黙の了解」みたいなものさえが揺らいできている、という意味です。もしそうなら、気の遠くなりそうな話です。


 森羅万象には、物だけでなく、事や現象や状態や状況も含まれるみたいですから、「何かの代理」とか「何かに似ている」という場合の、「何か」が「ない」でもいいという気がします。すると、ごく当たり前のことが起こっているようにも思えてくるから不思議です。


 いずれにせよ、「「ない」のに「ある」代理」とは「究極の代理」という気がします。


 ヒトは、何だか分からないとんでもない「代理」を手にしている。うまくいっているようで、うまくいっていないのは、それのせいではないか。そんなふうに思えてなりません。


       〇


 19世紀のフランスで「未完に終わった」という、2人の「筆耕」がてんてこ舞いする小説。


 ひょっとすると、あの作品は、「ないのにある」状態とか、「「ない」のに「ある」代理」をめぐって「書かれ損なった」のではないか、という気がしてきました。


 おそらく単に結果として、つまり不可抗力によって、そうなったのでしょうが、「書かれ損なった」ことに、興味を覚えます。結局、書かれなかったと思われる部分、比喩的に言えば「余白」に、何かを読むことは慎まなければならないと信じています。


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 ひとだけか ないのにあると おおさわぎ


 ひとだけか かえろかえろと おおげんか


 ないはある おなじことかも あるはない



※この文章は、かつてのブログ記事に加筆したものです。https://puboo.jp/users/renhoshino77



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