たとえる(8)

げんすけ

2020/08/05 06:23


 世の中には、「本当に、頭がいいなあ」とつくづく感心してしまう人たちがいます。二種類に分けられそうです。情報処理能力に長けた人たちと、特化された分野に秀でた人たちです。


 まず、後者ですが、ボビー・フィッシャー(1943-2008)なんかをイメージしています。日常生活においては変人・奇人のたぐいにみなされていましたが、チェスプレーヤーとしては天才と呼ばれた人です。


 ほかの例を挙げると、発達障害という枠でくくられている方々の中に、驚くべき特殊な能力を持った人たちがいます。たとえば、一、二分見ただけの都市の風景写真を、細部にわたるまで克明に絵として再現できる人たち、西暦○年△月□日は何曜日か、と尋ねると即座に正解を口にする人たちなどが好例です。自分のような凡人には不可能な能力=脳力を備えています。


 遅れましたが、前者としては、たとえばいわゆる偏差値の高い大学などに進学するような人たちをイメージしています。人並み以上の努力をした結果、そうなる方々もいらっしゃるようです。一方で、よく「あの人は勉強しないけど成績がいい」と言われるような人たちがいますね。あのような方々は「勉強しない」のではなく、「一度だけ勉強する」ことで、多くの情報を脳にインプットできるたぐいの能力=脳力を持っているというのが、正確な言い方かもしれません。


 経験的に言って、今挙げた


*情報処理能力に長けた人たちに共通するのは、類まれな記憶力に加えて、「たとえる・たとえ」=「こじつける・こじつけ」の才能にも秀でていることだ、


と思います。過去に、何度もこの種の人たちと接する機会がありましたが、ほんとうにすごいです。まさに「頭の回転が速い」という印象を抱きます。


     *


 さて、この世=ヒトの世=うつせみ=ヒトの知覚している世界は、森羅万象の「たとえ」で構成されている仮想世界です。


*Aの代わりにBを用いる


くらいでは、迫力がないので、


*「森羅万象A(※無限大)」の代わりに「森羅万象B(※無限大)」を用いる。


と言ったほうがいい状態にあります。


 そうした代理の「仕組み=メカニズム」の「イメージ=モデル」が、「身も蓋もない」=「それを言ったらおしまいだ」、つまりネガティブで、非生産的=非建設的で、元気も出ないし、生きる勇気もわかないし、何にもする気にならなくさせるものであれば、「百害あって一利なし」ということになります。


 実際、そうだと思います。異端審問の直後に「それでも地球は回る(=それでも地面は動く)」とガリレオがつぶやいた、とかいう話=伝説がありますが、地動説は後に科学上の成果をもたらしたみたいです。


 一方で、


*「それでも、世界はたとえにすぎない」


と何度つぶやいてみたところで、この先、何一ついいことはないに違いありません。たぶん、科学上の成果になどには、つながらないでしょう(※あくまでも、たぶんですよ)。もしそうであれば、いっそのこと「改宗」して、


*「世界は「たとえ=仮想現実」なんかじゃない」


と叫んで、みんな=圧倒的多数派と同調し、ポジティブに元気よく生産的=建設的で前向きに、生きていく決意をすればいいのです。要するに、居直るのです。いや、「居直る」なんて根性=発想では駄目ですね。「なりきりそこねる」教を引きずっているのが見え見えで駄目です。「改宗」するからには、徹底的に自己洗脳をしなければなりません。


     *


 ところで、「たとえる・たとえ」=「こじつける・こじつけ」には、二種類あります。この区別をしっかりつけておきましょう。情報処理は、狭義の言葉(=話し言葉と書き言葉)で行われることが多いですから、広義の言葉(=話し言葉、書き言葉、表情や仕草や身ぶり手ぶりを含む身体言語=ボディランゲージ、手話、ホームサイン(=家庭だけで通じる断片的な手話)、指点字、映像、図像、さまざまな標識や記号)があることは、いったん忘れましょう。


 では、二種類の「たとえる・たとえ」=「こじつける・こじつけ」について、以下に書きます。


(1)言葉の物質性=音声=文字(※漢字・ひらなが・カタカナ・ローマ字)の形(※運動・身ぶり・表情)に注目する。


(2)言葉の抽象性=意味(※語義)=イメージ(※運動・身ぶり・表情)に注目する。


 なお、(※運動=身ぶり=表情)という(  )でくくられた部分があるのは、言葉の物質性と抽象性の両方に備わっている「両面性 or 共通性」があるからです。ここではその詳細な説明は関係がないので割愛します。できるだけ単純に説明します。


(1)言葉の物質性のうち、特に音声にこだわって「たとえる」=「こじつける」と、いわゆる、だじゃれ、オヤジギャグ、地口といった言葉遊びになります。例の「空、[雲]、傘、雨」とかいうよく知られたギャグ、失礼、モデルを使えば、「そら見たことか、蜘蛛がぞろぞろ出てくるのを、重なりあって皆が眺めているうちに、飴玉をアリに持っていかれてしまった」なんていう、きわめてイカレてナンセンスなだじゃれが作れます。まったくの無意味、使用価値なし、センスなしというやつです。


(2)言葉の意味(※語義)=イメージにこだわって「たとえる」=「こじつける」と、思考のプロセス(※たとえです)とか、フレームワーク(※たとえです)とかいう、今流行りのお洒落なモデル(※たとえです)になります。「空を見て、雲が広がってきているのを見て、雨天を予想し、傘をもって出かけたら、雨が降って役に立った」という、理路整然とした、ご立派なお話になります。こういうプロセスを、論理と呼ぼうと、事実に基づいた予測と呼ぼうと、言葉の意味(※語義)が喚起するイメージを用いて、「たとえる」=「こじつける」を行ったという点は否定できません。


 今挙げた(2)の作業=操作が得意なヒトたちが、さきほど取り上げた情報処理に長けたすごく「頭のいい」ヒトたちなのです。とはいえ、(1)とは全然関係ないということはなく、いわば「余技」として「だじゃれ」を使いこなす名手も、驚くほどたくさんいます。器用なんですね。


     *


 さて、ここで提案したいのは、


*「論理的である」とは、「たとえる・たとえ」=「こじつける・こじつけ」に優れているということである。


らしいという説です。ただし、上述の(2)の場合であることを、再度お断りしておきます。(1)はノー・グッドです。今、「らしい」とか「説」という言葉を用いたのは、自分が(2)の作業=操作がきわめて苦手だからです。ですので、身の程をわきまえて「らしい」と「説」を使って、しおらしく表現しておきます。


 以上が、「(1)言葉の物質性」と「(2)言葉の抽象性」という2つの要素に注目した「たとえる」=「こじつける」という、2種類の作業=操作についての簡略化された説明です。実は、このブログでは、それよりもっとややこしい説明をしたいのです。そちらのほうが興味深いからです。まず、見通しだけを立てておきます。


(a)同一の狭義の言葉(※話し言葉と書き言葉です)を使って(1)と(2)の「作業=操作」を同時に行う、すごい人たちがいる。


(b)(2)はさらに2種類に分れ、(A)自己変革派と、(B)思考・発想法派の人たちがいる。


 以上のようになります。


 この続きは次回に書きますね。では、また。



※この文章は、かつてのブログ記事に加筆したものです。https://puboo.jp/users/renhoshino77




#エッセイ

#言葉


 

このブログの人気の投稿

あう(1)

かわる(8)

かわる(3)