げん・幻 -9-
げんすけ
2020/08/04 08:01
太古に、ある尻尾のないおサルさんの脳内で何かが起きた。ずれたらしい。その結果として、本能が壊れ、広義の言語が生まれ、その尻尾のないおサルさんがヒトとなった。そんな物語および神話があります。
さまざまなバリエーションがありますが、そのどれもが、あらゆる物語および神話が免れることができない、いかがわしさと、うさんくささを備えています。
ここでは広義の言語を、広義の交換・代行・流通・消費(or 利用)という仕組みに支えられた、ヒトにとって知覚可能な、森羅万象の一部と考えてみましょう。根拠の乏しい、いかがわしい話であることを、あらかじめお断りしておきます。
具体的には、話し言葉、書き言葉、手話、表情、仕草、合図、めくばせ、動作、声、音、ヒトがつくったものや仕組み(※たとえば、衣食住に関する道具や掟など)、ヒトがつくったのではないものや仕組み(※特に、衣食住に利用可能な自然物や、引力などの物理現象・燃焼などの化学反応など)が挙げられそうです。
広義の言語には、絵、図、像、物の配置、数字、記号、点字、イコン、アナログ信号、デジタル信号、アイコン、遺伝子情報と呼ばれるものも含めていいかと思われます。「発する」、「受け取る」、「伝える・伝わる」、「あわらす」、「読む」といった言葉と親和性があるようです。
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ヒトにおいては、知覚器官と脳とのあいだの各所で、情報あるいは信号が伝達および処理されていて、それがヒトにおける知覚および意識である。
ヒトは、「何か」の代わりに、「その「何か」ではないもの」を用いている。
今述べた二つのフレーズを前提にすると、広義の言語とは、ヒトが知覚および意識する「代理」であると言えそうです。ヒトは、その「代理」を交換し合ったり、さらにまた何かの「代理」として、伝えたり移動させたり消費したり利用したりする、と考えることができそうです。
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「まぼろし」とは「代理」であるという考え方は、どんなに強調してもしすぎることはないと思います。この考え方ほど、ヒトという種にとって、忘れられがちであり、意識されたとしても、便宜的に意識の外に置かれるものはないからだと言えます。
ヒトが意識したがらないというのは、要するに、ヒトにとっては窮屈で、邪魔な考え方だからだ、とも言えそうです。ヒトにとって都合のいい、つまり受け入れやすい、あるいは使い勝手のいい考え方は、ヒトは自分が森羅万象の一部の「代理」ではなく、森羅万象の一部「そのもの」を常に相手にしているというもののようです。これは、錯覚および幻想だと思われます。
知覚器官と脳とのあいだの各所で、情報あるいは信号が伝達および処理されているという考え方と、その考え方から導かれる、自分の知覚と意識が一種の錯覚および幻想であるいう状況を、ヒトは受け入れたくない習性があると言えそうです。プライドが許さないのでしょうか。
一方、自分の知覚と意識が「錯覚および幻想」ではなく「現実」であるという、「錯覚および幻想」をぜひとも信じたい習性があるようです。この考え方のほうが、すっきりしています。ややこしくありません。ヒトのプライドも許してくれそうです。
ヒトは、代理つまりまぼろしを相手にしてはいない。そう信じているヒトが、この惑星に多数いても、驚くにはあたりません。たとえば、複数の宗教観においては、こうした「まぼろし」とか「錯覚および幻想」という考え方が入り込む余地はまったくないみたいです。「代理」という発想自体がないようです。
そうした宗教が権力と同等の地位を持っている地域においては、「まぼろし」や「代理」という考え方は異端あるいは邪教というラベルを貼られ、運が悪ければ、処刑の対象にされるでしょう。
恐ろしいですが、その種の宗教を信じるヒトびとが、「まぼろし」や「代理」という考え方を恐れる気持ちも、わかるような気がします。自分の居心地の良さを脅かすものに対しては、不寛容になり攻撃的になるのも、ヒトの習性であり、容易には避けられない心理みたいです。
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「まぼろし」つまり「代理」とは、必ず「何かに似ている」ものでなければなないと考えられます(※この場合の「何か」には「そのもの自体」も含まれます)。言い換えると、ヒトの知覚および意識の対象は、ヒトの知覚器官および脳が、情報あるいは信号として受信することが可能なものでなければならない、ということになりそうです。
比喩的に言うと、知覚器官および脳という「網」あるいは「篩(ふるい)」にかからないものは、知覚も認識もできないという意味です。フィルターに「かかる・かける・かけ」と言葉を転がすと、「賭け」という言葉が出てきました。圧倒的な偶然性のゆきわたっている宇宙においては、ヒトは「賭ける」しかない気がします。
「賭け」が当たったかに「見える」とき、ヒトは「真理」「実体」に「触れた」と「錯覚」するのではないでしょうか。「錯覚」とは「代理」という考え方を前提にしての、うさんくさい話であることを承知のうえで続けますと、「賭け」はある限度を持つ「有効性」に支えられていて、「確率」や「有意性」といういかがわしい考え方で「数値化」できるみたいです。「数値に変える」わけですから、この作業も、「代理」の仕組みを基本としているように思われます。
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ヒトに備わった知覚および意識という「仕組み」、言い換えると「システム」が受信できないものは、知覚も意識もされないとも言える気がします。今のフレーズも、「仕組み」および「システム」という比喩を用いた言い方でしたが、生物学的に考えると、どうなのでしょう。
たとえば、イヌには知覚できる匂い、コウモリには知覚できる音、キツネザルには知覚できる味、イヌワシには知覚できる光景、トカゲには知覚できる皮膚感覚、あるいはコビトカバには知覚できるいわゆる「第六感」みたいなものがあって、そうした情報がヒトには知覚できないということは大いにあり得ると考えられます。
種(しゅ)が異なるのですから、当たり前と言えば当たり前と感じられる一方で、不思議と言えば不思議に思われます。
ところで、種を「分ける」という作業はヒト特有の行為みたいですが、意味はあるのでしょうか。あるとしたら、ヒトだけにある意味なのでしょうか。分かりません。不思議です。
もしかすると、そもそも「種という考え方」も、「種を分けるという作業の意味」も、「まぼろし」かもしれません。「まぼろし」について、突き詰めると、こうした袋小路に迷い込むことになります。こうした迷いは、不毛とも言えます。この種の不毛はきわめて毛深くじゃなくて根深く、不毛の二毛作、三毛作、多毛作になってしまいます。
「まぼろし」に「不毛」は「つきもの・付きもの・憑物」だと居直る、あるいは諦めるスタンスも可能かと思われます。
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「何かに似ている」まぼろし。たとえば、映画やテレビやパソコンの映像、印刷物としての小説、新聞のニュース記事、司法の場で使われている事件の調書、目の前にあるパソコンという機械。
「そのもの自体に似ているそっくり」状態にあるまぼろし。たとえば、映画やテレビやパソコンの映像、印刷物としての小説、新聞のニュース記事、司法の場で使われている事件の調書、目の前にあるパソコンという機械。
今挙げた二種類の「まぼろし」は、「同じ」と言えるし、「同じ」だと考えられます。でも、どこか違っているようにも感じられます。見方が違うみたいです。「同じ」ものでも、「再現」という言葉とイメージを重視すると、「何かに似ている」まぼろしであるという気がする一方で、「コピーのコピーのコピー……」「複製の複製の複製………」という言葉とイメージにこだわると、「そのものに似ているそっくり」状態にあるまぼろしであるという気がする。そんな感じです。
あくまでも、「気がする」とか「感じ」です。こうした言葉の遊びは、不毛とも言えます。「不毛」とは、「実用性」がほとんどなく、いわゆる社会の進歩への「貢献度」がきわめて低く、「有効性」が著しく乏しいという意味にとれるだろう、と考えられます。
「不毛」は「いかがわしい」や「うさんくさい」と通底しているようにも思えます。そうであれば、「いかがわしい」や「うさんくさい」には、ヒトを鼓舞するものと、気を滅入らせるものの二種類があると言えるかもしれません。いわゆる世の中が、前者の「いかがわしい」や「うさんくさい」に満ちていることは言うまでもないようです。
もっとも、たった今書いたことは、言葉の綾だとも言えます。正確には、ヒトを鼓舞する「いかがわしい」や「うさんくさい」と、気を滅入らせる「いかがわしい」や「うさんくさい」とは、別個のものではなく、見方の相違である、つまり観測者側の問題であると言ったほうが妥当かと思われます。
このように前言をあっさりと翻したり、否定したり、ずらしたりするのが、まぼろしの特性に配慮した付き合い方だと言えそうです。まぼろしは、断定や結論や真偽や客観性とは、親和性がきわめて希薄である、あるいは、まったくないという意味です。希薄なのか、皆無なのかも、決定できない点が、まぼろしのまぼろしたるゆえんだという気もします。
トリトメがなく、がっかりするほかしかない。そんな感じです。すっきりして、明快で、割り切れる感じがしたとすれば、まぼろしをつかみそこなっているとも言えそうです。せっかちな性格のヒトには、付き合いきれない相手のようです。矛盾を宇宙の常態と感じられないヒトにも、不向きな対象だろうと思われます。
もちろん、以上は、あくまでも個人的な感想です。イメージと同様に、まぼろしを独り占めできるヒトは、たぶんいないでしょう。みんなものであり、同時にだれのものでもないという感じです。
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「まぼろし」は毒(※比喩です)であり、「まぼろし」にこだわり続けると、中毒症状(※比喩です)に陥り、気を滅入らせることなく生き延びるためには解毒(※比喩です)が必要になる。そんなふうにも言えそうです。
「まぼろし」という迷宮(※比喩です)にはまり込んだ場合には、比喩を用いて思考することで打開策を探るという方法がありそうです。この方法には、ある程度の有効性が認められるように思われます。
「まぼろし」病(※比喩です)に比喩が有効なのは、「薬は一種の毒である」という比喩的な言い方、つまり、「毒を以って毒を制す」というたとえが変奏されたフレーズに、ある程度の効き目があるからかもしれません。ヒトは、言葉やフレーズという「代理」に大きく左右される生き物みたいです。言語の効用という考え方でも説明できそうです。言葉はヒトを癒やすとか、逆に傷つけるとか、人間関係を良好にする、あるいは損なうという言い回しが、例として挙げられます。言葉はひとり歩きするという、ややこしいですが、看過できない比喩的状況もあります。
「まぼろし」つまり「代理」は、広義の「比喩」つまり「たとえ」だと言えそうです。「代理」「たとえ」には、「緩和(かんわ)」という働きがあるように思えます。がん治療の一つの方法である「緩和医療」という言葉もあたまに浮かびます(※この不用意な記述に対し、気分を害された関係者の方がいらっしゃいましたら、深くお詫び申し上げます)。
もちろん、これも比喩です。痛みや衝撃や苦しみをやわらげてくれるのなら、そんないいことはありません。しかし、「置き換える」「すり替える」という「代理」の仕組みが働いた結果であるという、「代償」を払っていることを忘れてはならないと思います。
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太陽を直視すると目に損傷を与え危険だと言われています。そのため、日食の観察などでは、間接的な方法で、つまり「代理」を用いて、日食を「見ます」。ただし、厳密に言うと、太陽を「直接的に見る」と、「間接的に見る」とのあいだには大差はないようです。前提に、知覚という「代理」つまり「間接的」があるからです。
まぼろしのまぼろしのまぼろし……。代理の代理の代理……。たとえのたとえのたとえ……。置き換えてそれを置き換えてそれをさらに置き換えて……。まさに、「そっくり」状態のまぼろしの「再現・再演」あるいは「変奏・ずらし」だという気がします。
いずれにせよ、二重であれ、三重であれ、多重であれ、間接的にしか、森羅万象と向き合ったり、触れたり、働きかけたりするしか、ヒトには方法はないと考えられます。そうした限界のなかで、「まぼろし」という「毒」「痛み」「不自由さ」「絶望」(※比喩です)に立ち向かうしかないヒトは、「たとえる」「置き換える」「あいだに別のものを置く」「ほのめかす」「黙示する」(※比喩です)という間接的な方法で、その苦しみを「忘れる」「意識しないようにつとめる」、あるいは、「やわらげる」しかない。そんな感じがします。
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ヒトはからだとの「付き合い方」(※比喩です)について、思いをめぐらし、健康法や医療という広義の道具(※比喩です)、つまりシステムを作ったり、利用してきたと言えそうです。そうであれば、比喩という仕組み、つまりシステムに対する「付き合い方」(※比喩です)を考え出したり、利用したりすることもあっていいと思います。それを「ヒトとして生きる知恵の一つ」(※比喩です)と名付けると、「救い」に似た感情を覚えます(※比喩です)。諦めと居直りと希望が混じり合ったような思いをいだきます(※比喩です)。
比喩という仕組みにこだわるあまり、気持ち良くない思いをするのは、ご免こうむりたいです。比喩という仕組みと心中(※比喩です)したくはありません。比喩は、風刺だけでなく、ユーモアや笑いにもなり得るみたいです。比喩しかないのなら、比喩を楽しみましょう。
いくぶん、不毛感がやわらいだでしょうか。
※この文章は、かつてのブログ記事に加筆したものです。https://puboo.jp/users/renhoshino77
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