なる(9)
げんすけ
2020/08/10 07:57
ヒトは、ひとりひとりが一台のテレビ受像機(※意識や認識の比喩です)を持っている。たぶん、その受像機の画面一面を見るのだけで精一杯で、二面以上の画面には継続して集中できない。その一面の画面に映っている映像は静と動を繰り広げている。静の状態の時には、その映像を「ぼけーっ」と眺めているか、「いったい何だろう」とさまざまな解釈を試みている。一方、動の状態の時にも、その映像を「ぼけーっ」と眺めているか、「いったい何だろう」とさまざまな解釈を試みている。
以上のような形で、ヒトは「認識=知覚=意識」という作業に従事しながら、生きているのではないか。そんなふうに、以前から思っています。
*テレビ画面という「たとえ」=「Aの代わりにAでないものを用いる」=「こじつけ」を用いて考えて、ヒトの「認識=知覚=意識」を言葉という「たとえ」=「Aの代わりにAでないものを用いる」=「こじつけ」にしたものです。このように、ヒトは、広義の言葉の枠から出て、思考したり認識したりすることができません。
*「こじつけ」の外へは出られない
とも言えます。仮にその枠から出たら、そのヒトはヒトではなくなってしまいます。その他のヒトたちとコミュニケーションを成立させることができなくなってしまいます。
複数のヒトたちの脳内で、共通した新たな「変異・異変」が起こり、DNAレベルにおいてある程度の共通性のある資質を備えた集団ができれば、話は別です。別の新たな「こじつけ」の仕組みが生じるかもしれません。この場合は、ヒトは新たな「こじつけ」の枠の中で生きることになります。
あるいは、「こじつけ」とは異なる「認識=知覚」の仕組みを獲得するかもしれません。この場合には、ヒトは「こじつけ」の外に出ることになるでしょう。太古に、うだつのあがらない尻尾のないおサルさん(※ monkey ではなくて ape )の中のある種(しゅ)が、おそらく脳内でズレを起してしまって、「尻尾のないおサルさん +α 」=「ヒト」=「人間様」になったという説=お話=神話=「かもね」があるくらいですから、再び、ヒト、または、ほかの生き物の脳内で「変異=異変=ズレ」が起きることはあり得ると考えられます。
*
以上の話を前提に、
*ヒトが広義の言葉を使用するさいに、森羅万象になりきる。
もっと詳しく言えば、
*ヒトは広義の「言葉」(=「森羅万象」の代わり=まぼろし)を使用するさいに、その「森羅万象」になりきる。
さらにもっと詳しく言えば、
*ヒトは広義の「言葉」(=森羅万象の代わり=まぼろし)を使用するさいに、一時的に、あるいは部分的に、その「森羅万象」に「なる・なりきる」。
のではないか、ということについて、考えていることを「言葉という名のまぼろし」にしてみようと思います。ぶっちゃけて言えば、こじつけてみようと思います。
まず、広義の「言葉」(=森羅万象の代わり=まぼろし)を対象とした場合の、「かわる・かえる or 化ける or 演じる = 装う」と「なる・なりきる」の違いについての個人的な感想を述べます。
「かわる・かえる or 化ける or 演じる = 装う」には、不自然なことをするという意識が伴います。「自分はAなんだけど、Aでないものを演じるのだ」とか「そのうち、またAに「かえる」のだ」という感じです。
一方で「なる・なりきる」においては、そうした意識は希薄です。そもそも「なる」とは、自然=当然=当たり前な現象で、本来は意識的に行うことができないものなのです。たとえて言えば、草木が葉や枝や花を「成す」というイメージです。ヒトに性毛が「生える」というイメージです。言い換えれば、「成長」「生育」という感じですね。
でも、「なりきる」は、違います。まず、不自然なことをするという意識から出発します。しかし、その意識が薄れます。ほとんどなくなるところまでいきます。「思い込んでいる」からです。もっとも、「思い込み」には程度の差はあると思われますけど。
*「なりきる」とは、「かわる・かえる or 化ける or 演じる = 装う」という言い方の「代わり」に、「なる」という別の言い方を「当てる」=「こじつける」ことである。
という考え方もできそうです。ややこしくなるのを覚悟で、もっと詳しく言うと、
*「なりきる」とは、「かわる・かえる or 化ける or 演じる=装う」という言い方の「代わり」に、「なる」という別の言い方を意識的に「当てる」=「こじつける」と同時に、「なる ⇒ なった」という状態にほぼ無意識のうちに陥ることである。
とも言えそうな気がします。自己催眠、錯覚、酩酊、夢想、妄想、忘却などという言葉が頭に浮かびますが、そうしたラベル=レッテルは、ここではあまり重要ではないと思われるので、深入りするのはやめておきます。大切なのは、「なりきる」が「思い込む」から強くバックアップ=サポートされていることです。
*
ヒトは、広義の言葉(=話し言葉、書き言葉、表情や仕草や身ぶり手ぶりを含む身体言語=ボディランゲージ、手話、ホームサイン(=家庭だけで通じる断片的な手話)、さまざまな標識や記号など)を使用するとき、その言葉を「信じ」ます。
たとえば、「ハリー・ポッター」「ヤッターマン」「石鹸」「ケータイ」「愛・愛情」「平和」「戦争」「不景気」「お金」のうち、どれでもいいですから、一つだけを思い浮かべてください。
漠然としていませんか? 今挙げた言葉のどれも、頭に浮かべたとたんに、さまざまなイメージ+記憶+映像+感情が喚起されます。おそらく、脳が必死でその言葉から「生じる=喚起される」「情報=データ」を処理しようとしているのでしょう。
それが「信じる」ということです。「疑う」余裕などないのです。この「信じる」という段階で「なりきる」の前提である「思い込む」の下地ができました。無意識のうちに、そうした「作業=メカニズム」が、たぶん脳内で「生じます=機能します」。
*
次に、その言葉を使ったフレーズやセンテンスや話を見聞きしたり、独りでつぶやくなり他人に話すなり書いてみたり、その言葉が指すものを映像あるいは音声という形での情報として知覚したとしましょう。
たとえば、「ヤッターマンが近くの映画館で上映されているそうだ」と誰かが言った。/ある石鹸のCMがテレビで流れるのを目にした。/知り合いが会社から解雇された、と聞いた。/財布を開けて中身をチェックしてみた。
このように、具体的にある出来事と遭遇した瞬間、無意識のうちに「信じる」 ⇒ 「思い込む」 ⇒「なりきる」が「一瞬に=ほぼ同時的に=並行して」、おそらく脳内で起こります。
「脳内」というのは、さきほど書いた、ヒトひとりひとりが持っている、たった一台の「テレビ受像機」の、たった「一面の画面」のことです。「意識」と言ってもいいかとも思います。こうした脳内での情報処理のメカニズムを、
*ヒトは広義の「言葉」(=森羅万象の代わり=まぼろし)を使用するさいに、一時的に、あるいは部分的に、その「森羅万象」に「なる・なりきる」。
と、このブログでは表現しているのです。大切なのは
*「脳内で」「なりきる」
です。そのきっかけとなる
*「信じる」
も、きわめて重要だと思います。
では、この続きは次回に。
※この文章は、かつてのブログ記事に加筆したものです。https://puboo.jp/users/renhoshino77
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