たとえる(9)
げんすけ
2020/08/06 08:10
ある言葉(※単語・語句・フレーズ・センテンス)の、物質性=音声 or 文字(※漢字・ひらなが・カタカナ・ローマ字)の響きや形に注目すると同時に、その言葉の抽象性=意味(※語義)=イメージにも注目して、「たとえる」=「こじつける」を行うのは、できそうで、なかなかできない技です。
知的なアクロバットみたいなものです。簡単な例を挙げましょう。クロード・レヴィ=ストロース(1908-2009)というフランスの文化人類学者が La pensée sauvage というタイトルの本を書きました。フランス語です。
pensée を仏和辞書で引くと分かりますが、別項扱いで二つの意味があります。名詞で、「思考、考え方」と「三色スミレ、パンジー」です。「パンセ」みたいに発音します。パスカルの『パンセ』という本がありますが、レヴィ=ストロースは、その『パンセ』の愛読者だったようです。
一方、sauvage には、形容詞として「野生の、未開の、自然のままの」の意味があり、名詞だと「未開人、原始人」という意味になります。「ソヴァージュ」みたいに発音します。「ソバージュ」というヘアスタイルは、ここから来ています。確かに「野性味」がある髪型ですね。
すると、この本のタイトルは、二通りに訳せることになります。一つは、邦訳で採用されている「野生の思考」、もう一つは「野生の三色スミレ」です。だじゃれ=オヤジギャグといえば、それまでなのですが、言葉の音声=発音や、文字=スペリングの類似だけでなく、その言葉の意味・語義やイメージの類似にまでかかわっているのが、特徴的です。
*
古い例で恐縮ですが、「僕さあ……、ボクサー」なんていう、ガッツ石松氏のギャグとは一線を画します。いわゆる「深読み」ができそうです。たとえば、
*「野生の思考とは、ヨーロッパ的二元論=二項対立にしばられた思考法ではなく、三つ目の思考も含む豊かで柔軟な世界観である」(※「野生」と「思考」と「三」が出てきていますね)
という感じの深読みです。「感じ」と書いたのは、この本を読んだことがないので、勝手に想像しているという意味です。したがって、この想像は当たっていないかもしれません。厳密にはそうでなくても、そんな「感じ」だとして話を進めると、要するに、
*「○か△か」という選択と排除の論理
ではなく、
*「○でもあり△でもある」、あるいは「○でなく△でもある」、あるいは「○でもあり△でもあると言えるし、○でもなく△でもないとも言える」みたいなぐちゃぐちゃした考え方
になりそうです。
どういうわけか、太古に言語を獲得してしまったヒトは、必死で「○か△か」という「分ける」作業を繰り返し、「分かる」という、いわば「知の快感」を覚え、「1か0」という究極的に「分かりやすい」仕組みを基本とするコンピューターを作り、今日に至っているわけです。つまり、
*「ぐちゃぐちゃ」から、「○か△か」=「1か0」へ
というイメージです。白黒を決めて、「すっきり」させちゃったということですね。便利と言えば便利、単純明快と言えば単純明快。杜撰(ずさん)と言えば、杜撰、大雑把と言えば、大雑把。
このブログでは、
*テキトーと言えば、テキトー
と考えています。「テキトー=適当」は「いい加減」と同じで、ポジティブとネガティブの両方のニュアンスがあるからです。
たとえば、「1か0」という「単純明快」な作業を、「疲れることを知らない」機械(※お察しの通り、コンピューターのことです)に無限大に近く何度も何度もさせると、「きわめて複雑」なことができます。実際、そういう作業を機械に任せながら、ヒトはこの惑星で「君臨した気持ち」を味わっているのです。大したものです。
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話を、La pensée sauvage までに、戻します。言葉の音声面だけでなく、その意味=イメージまでに踏みこんだ「たとえる」=「こじつける」の名手を、自分の知っている範囲で挙げます。
ステファヌ・マラルメ、ジャック・デリダ、ジャック・ラカン、高山宏なんか、すごく上手です。ほかにもいるはずですが、知りません。カタカナの三人はフランス人ですが、その作品や講義録や論文の多くは翻訳不可能です。
したがって、翻訳書の出版は、無理を承知の「悪徳商法」に近いものになります。解説書の出版がもっとも読者にとって誠実な態度であり、また実際に読者にとって分かりやすいものとなります。
ジャック・デリダについての解説では、豊崎光一という人が、大変いい仕事をしていました。哲学書と呼ばれるであろうテクストを、文学作品を読むときと同様の手法で丹念かつ精緻に読んでいたのです。その手際は斬新で、目を開かれる思いがしました。残念ながら、故人です。本も、今では入手しにくいと思います。豊崎氏は、ミシェル・フーコーの解説書でも、優れた業績を残しています。
*
さて、「たとえる・たとえ」=「こじつける・こじつけ」という、作業=仕組み=メカニズム=運動=操作は、「AをBにすり替える=置き換える」行為にほかなりません。そのさいに、
(1)Aが消えてBが前面に出る、
(2)Aが後ろに控えBが一歩前に進み出る、
(3)AとBが重なる、
という3つのパターンが考えられます。
(1)は、話を完全にすり替えるわけですから、要注意です。
(2)は、やや要注意ですが、まだAとBの両者が意識できる分だけ、ましです。
(3)は、AとBの両方の存在を同時に意識できるので、面白い知的な遊びができそうです。ただし、難易度が高いです。個人的には、(3)がスリリングで好きです。よくできた(3)の場合には、名うての職人の芸に似た趣を覚えます。
さきほど、La pensée sauvage の意味の仕組みを説明したさいに、「○」と「△」を用いました。あれを「A」と「B」で説明してもよかったのですが、話がややこしくなりそうだったので、やめました。でも、以上、いろいろ書いてきましたので、この辺で「○」と「△」を、それぞれ「A」と「B」に、「たとえる」=「こじつける」という作業をしても、よさそうに思います。少しややこしいですが、お読み願います。
*
太古に言語を獲得したヒトという種が、言語活動を徐々に洗練化し、同時に思考法=発想法を徐々に洗練化していったと考えてみましょう。実際、そうであったかどうかは知りません。諸説があるということだけは、知っています。そもそも、ヒトが「言語を用いて思考をする」のかどうかについても、議論が絶えません。個人的には、言語を、
*話し言葉、書き言葉、表情や仕草や身ぶり手ぶりを含む身体言語=ボディランゲージ、手話、ホームサイン(※家庭だけで通じる断片的な手話)、指点字、映像、図像、さまざまな標識や記号など
くらいに広くとれば、ヒトは言語を用いて思考すると考えても、いいのではないかと感じています。
ただし、そのプロセスは、きっと「ぐちゃぐちゃ」でしょう。でも、そのプロセスを経た結果、広義の言語として出来上がった作品 or 論文 or 製品 or 「ものや、ことや、現象」は、「すっきり」したものに仕上がっているのが普通です。「ぐちゃぐちゃ」から「すっきり」に至るまでに、どのような仕組みが働いたのかを、「図式的」=テキトーに言い表すと、次のようになります。
広義の言語を前提として考えた場合には、さきほど書いた、
*「○か△か」という選択と排除の論理
は、
*「AかBか」という選択と排除の論理
となり、そして、
*「○でもあり△でもある」、あるいは「○でなく△でもある」、あるいは「○でもあり△でもあると言えるし、○でもなく△でもないとも言える」みたいなぐちゃぐちゃした考え方
は、
*「AでもありBでもある」、あるいは「AでなくBでもある」、あるいは「AでもありBでもあると言えるし、AでもなくBでもないとも言える」みたいなぐちゃぐちゃした考え方
と書き換えることができます。何を言いたいのかと申しますと、
*ヒトの思考プロセスは、「たとえ=比喩=こじつけ」という仕組みが基本になっている。
のではないか、ということです。この仕組みが大前提としてあって、ヒト全体(=人類)の「知」が「発展」=「進化」=「進歩」してきたのではないか。また、個人のレベルでのヒトが、一人で、あるいは複数のヒトたちと一緒に、思考し議論する場合にも、同じ仕組みが用いられているのではないか。
以上のように、イメージしています。
*
ものすごく単純化した説明をすると、次のようになります。
(例1)「1+1=2」という「ぐちゃぐちゃした」思考=発想=イメージがあった。
↓
自分の指(or 目の前にある石ころ or 遠くに見える山)を1つ、2つと並べて=数えてみた。 : (「たとえる」=「こじつける」という仕組みが脳内で働いた)
↓
「1+1=2」という「すっきりした」思考=発想=イメージが獲得された。 : (「たとえる」=「こじつける」という仕組みが脳内で働いた)
(例2)「わかる・わける」という「ぐちゃぐちゃした」思考=発想=イメージがあった。
↓
自分の親指、人差し指、中指……(or 目の前にある石ころ a、b、c…… or 遠くに見える山 a、b、c ……)を、それぞれ別個の a、b、c ……と認識した。 : (「たとえる」=「こじつける」という仕組みが脳内で働いた)
↓
「親指、人差し指、中指……」 or 「ものごと・現象 a、b、c……」が( or を)「分かる・分ける」という「すっきりした」思考=発想=イメージが獲得された。 : (「たとえる」=「こじつける」という仕組みが脳内で働いた)
つまり、「たとえる・たとえ=こじつける・こじつけ」を、「思考する=発想する=イメージする」さいに、「たとえる・たとえ=こじつける・こじつけ」をしてみたのです。蛇足ながら、以上は、あくまでも言葉の「お遊び」であることを申し添えておきます。「たとえる=こじつける」に対し( or に際し)、そうした「お遊び」以上のことなどができるでしょうか?
【注: かつてこの記事を書いたときに、抑うつ、体調不良、そして言語の仕組みと働きにこだわることへの懐疑の三つが重なって、心身ともに最悪の状態になりました。「たとえる」シリーズの完結編である「たとえる(10)」は、九日後に持ち越しになりました。】
※この文章は、かつてのブログ記事に加筆したものです。https://puboo.jp/users/renhoshino77
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