げん・言 -9-

星野廉

2020/09/21 08:49


 言霊という言葉とその言葉が喚起するイメージが苦手です。できることなら、言葉にしたくないという気持ちがあって、この言霊について言葉をつづるのを控えてきました。


 なぜなのか。考えてみました。


 怖いのです。


       〇


 小学校に上がる前、神社のそばに住んでいたことがありました。振り返ってみると、お寺には縁がなく育ち、仏式のお葬式にも出たことがありません。家庭の事情と、個人的な交際の薄さから、冠婚葬祭とは無縁な人生を送ってきました。


 お墓参りは年に一度します。里山の中腹の一画に設けられた小規模な墓地に、墓石があります。正直言って、自分にとって墓参は形式的なものです。


 住まいには仏壇はありません。親が、自分の両親やきょうだいの遺影を切り貼りしたものがあり、それが額に入れられて飾ってあります。コップ八文目ほどの水と花を供えているだけです。


       〇


 うちでは、お線香は立てません。親はあげたいみたいですが、問題があるのです。


 自分は煙が苦手なのです。お線香、お香、点火すると匂いを放つロウソク、たき火、煙草など、全部駄目です。煙が鼻に入ると、猛烈な吐き気を催し、実際嘔吐します。香水や化粧品や洗剤でも、強い香料を使用してあるものは避けます。


 ドクターに言わせると、アレルギーというより、たぶんに心理的なものらしいです。


 親には悪いと思っています。でも、ちょっと匂いを嗅いだだけで、食べたものを戻してしまうので、どうしようもありません。


       〇


 神仏や霊や妖精のたぐいは信じていません。


 でも、イメージというか体感というか、自分でも整理できない感覚はあります。


 お寺を訪ねたり、墓地に行ったり、仏像や御地蔵様を目にすると、からだが火照るのを感じます。いい気持ちです。落ち着きます。


 神社の境内に足を踏み入れると、ひんやりとした気配を覚えます。そわそわして落ち着かない気分になります。


 怖いのです。


       〇


 幼い頃、神社の境内や、神殿の床下でよく遊びました。こどもだからできたことです。神を祀ったやしろの床下にもぐり込むなんて、大それたことをしたものです。


 お坊さんの読経には、特に感じるものはありませんが、神主さんの唱える祝詞には、からだが反応します。肌が粟立つのを感じます。気が遠くなりそうな気配も覚えます。


 怖いのです。


       〇


 言霊という言葉を見聞きしたさいにいだく、個人的なイメージは、「こわいもの」、「わからないもの」、「ひんやりとしたもの」です。今、「もの」という言葉を使いましたが、言霊とは、「かたち」ではないかという気もします。


「わからなくて、こわくて、ひんやりとした、かたち」と書いてみましたが、言葉になるはずがないものであると思うと同時に、今書いている言葉の「かたち」というか「すがた」に立ちあらわれているという気もします。


 文字。


 声。


 文字はいいとして、声と「かたち・すがた」は矛盾しません。少なくとも、自分のなかでは矛盾しません。「ありよう」という言葉と置き換えてみるまでもありません。


       〇


 分節化という言葉があります。専門用語としての定義は、このさい、どうでもいいです。要するに、言葉を「発する」ことによって生じる「わかる・わかる」という、こころの「働き」だとも言えそうです。


 言霊をわけると、「こと・事・言・げん」と「たま・たましい・魂・こん・霊・れい」となりそうです。


       〇


「こと・事・言」と「もの・物・者」を辞書で調べてみると、重なる部分と、意味のうえで相反する部分とかあります。両者の「あいだ・間・ま・あわい」は「あわい・淡い・泡い」という気がします。


「あわいがあわい」というのは、両者のあいだにある「差異・際」を決する線が「薄い」という意味です。ややこしい言い方ですが、気に入っているので、よく使っています。


 言霊も言葉ですから(※「言葉を装っていると言え」と言霊が言っているような気がしますけど、いちおうこう書いておきます)、何とでも言えそうです。


 個人的には、言霊とは「ありよう」の「よう・様・溶・容・妖・杳・揺・遥」だと解しています。


       〇


 理屈をこねてみましょう。


 言霊とは、抽象的な「こと・事・言」の「ありよう」であると同時に、具体的な「もの・物・者」の「ありよう」でもある。手で触ることができるし、形を見ることもできるし、音として聞くこともできるが、言葉にすることはできない。言葉を装うことならできそうです。


 言霊とは、言葉を成立させる可能性であり、ちからであり、仕組みの「よう」なものだとも、とりあえずは言えそうです。


 言霊は、「こと・事・言」を知覚し意識したヒトに「はたらきかける」。その「はたらきかけ」という「ようたい・様態」だとも、とりあえずは言えそうです。


 言霊は、言葉を「装う」ことはあっても、本来は言葉ではないため、意味を持たないという感じがします。


 言霊は、名詞を装った動詞だとも言えそうな気がします。動詞という言葉にある「詞」がお気に召さないような印象も受けます。「はたらき」という言葉を使うことで勘弁してもらえないでしょうか。


 言霊は、ものである。


 言葉によって「はたらき」かけられているヒトにとって、言霊は存在しない。言霊は「はたらき」であるため、「はたらき」の対象には、感知されないと言えそうです。


 以上の、フレーズを読み直してみると、理屈をこねているというより、理屈もどきをこねているという感じがします。言霊と理屈とは相性が良くないみたいです。


 ややこしいですね。


 言葉に身を任せて書いているだけなのですが、でまかせだと言われても仕方ないというか、そのとおりだとしか言えそうもありません。


       〇


 以下の文章は、詩みたいなものだと思って読んでください。隠喩、明喩、引喩、擬人法、誇張法、ほのめし、黙示などの、レトリックに満ちています。散文ではなく、詩に近い書き方をしてあるという意味です。言霊が嘲笑いそうなレトリックを使うことが、ヒトとして言霊について書くには、ふさわしい方法ではないかと、個人的には思っています。


 言霊は、言葉・言語の物質性である。


 言霊をめぐる言説はすべて混乱に陥る。混乱の原因は、ヒトの知覚・認識の側にも、言葉の仕組みの側にもない。言霊のありようにある。


 言霊は、かたちであり、おんである。


 言霊は、ヒトに働きかける。ヒトに働きかけるさいには、具体的な行為、物質としての声や文字として、立ちあらわれる。


 言霊は「唯物論」の立場に立ち、あらゆる「唯心論的」言説を嘲笑う。


 言霊は、呪わない。呪うヒトを嘲笑う。


 言霊は、祈らない。祈るヒトを嘲笑う。


 言霊は、統一を志向しない。言霊は、統一の名の下に命を落としたヒトたちを憐れむ。


 言霊は、拡散のなかにある。


 言霊は、自らをまつろうとするヒトを嘲笑う。


 言霊は、自らを利用しようとするヒトの前では口を閉ざす。


 言霊は、過去に生きない。いま、ここで息るヒトとともに生きる。


 言霊は、さかのぼるヒトを嘲笑う。何が不足かと嘲笑う。


 言霊は、矛盾を嘲笑う。矛盾にあたまをかかえるヒトを嘲笑う。


 言霊は、矛盾に満ちた言説を吐き散らす。その言説にとまどうヒトを嘲笑う。


 言霊にとって、矛盾はヒトの知るところであり、言霊にとって知るところではない。矛盾は、ことを信じるヒトが悩むもの。


 言霊は、もの。ものに矛盾はない。矛盾はことにあるのみ。


 言霊は、事割り・理を嘲笑う。整合性のどこが整合なのかと嘲笑う。


 言霊は、「分かる・分ける」を嘲笑う。分け・訳のどこが道理なのかと嘲笑う。


 言霊は、比喩を嘲笑う。安易なこじつけを嘲笑う。


 言霊は、絶対を嘲笑う。


 言霊は、自らをヒトがカミと混同するさまを嘲笑う。


 言霊は、うつくしさを嘲笑う。


 言霊は、ことという音と事という字に首をかしげるヒトを嘲笑い、たまという音と魂という字に畏怖するヒトを嘲笑う。


 言霊は、あらゆる抽象を嘲笑う。否定することはない。否定は抽象である。肯定は抽象ではない。この矛盾を、言霊は嘲笑う。言霊は、意味を嘲笑う。言霊はイメージを嘲笑う。


 言霊は、言霊の幸ふ(さきはう)国以外のヒトの前では口を閉ざす。


 言霊は、他国、世界、宇宙にまで口を出さない。


 言霊は、翻訳や国を越えた類推を嘲笑う。


 言霊は、侵略や支配や普遍とは無縁である。


 言霊は、民とともにある。知者や為政者や求道者には目を向けない。


 言霊は、眠る者と愚者と童にやさしい。


 あざける。


 わらう。


 いみをいむ。


 ことなる。


 たまあう。


 よむ。


 言霊は、言葉・言語の物質性である。


       〇


 言霊は、森羅万象であるとも、森羅万象に隠れている。森羅万象に宿っているのではない。「やどる・宿る・屋取る」。「かくれる・隠れる・かくのごとく暮れる・眩れる・暮る・眩る・暗い・昏い・冥い・暗し・昏し・冥し」。


 言霊は、かたちとしてすがたをあらわにしているが、かくれているため見えない。


 言霊は、ものとして、そこにあらわれているが、ヒトの目には見えない。ヒトの目のまえでかたちをあらわにしているにもかかわらず、見えないのは、ヒトの目のせいであり、言霊の知るところではない。


 ヒトは、言葉を僕(しもべ)としているつもりでいるが、それは言葉の知るところではない。


       〇


「こと・事・言・げん」だけでなく、「たま・たましい・魂・こん・霊・れい」にこだわってみましょう。


「たま・魂・魄・霊・玉・珠・球」というふうに、漢字を当てることができそうです。


「たま」を文字通り、球体という「かたち・すがた」をした「もの」ととらえてみましょう。分子、原子、粒子、素粒子、量子、光子といった言葉に、個人的には、「まるい」というイメージをいだいています。


 それと、ここで問題にしている「たま」をつなぐのは、安易な比喩以外の何ものでもないと思われます。でも、ヒトである以上、比喩を用いて言霊の嘲笑いの的になるしかなす術はなさそうです。


 量子が、さまざまなたとえの対象とされつつある、昨今の流行を見ると、同様な動作と仕草を言葉たちに演じさせようとし、同様な表情や目くばせを言葉たちにまとわせようとしている自分を意識し、そうした行いを恥じ入りたい気持ちになります。


       〇


 言霊の「たましい・たま」に、ヒトの「たましい・たま」をつなぐのは、やめたいと思います。


 ことでもあり、ものでもあること、つまり、言葉としてしか、ヒトが知覚・認識できないもの。


 今書いたフレーズの最後にある「もの」のありよう、つまり使い方が、ことにおけるもの、ものにおけることの限界性を「立ちあらわせている」ように感じられます。言霊が限界性を「嘲笑っている」とも言えそうです。


 言葉が、ヒトの期待に応えない程度の欠陥品であるらしいことを思い出しましょう。


 言霊の「こと」について言葉で語ることはゆるしてくれても、「たま」について語ることを、言霊はゆるしてくれそうもありません。


 もちろん、ここで書きつらねていることは、単なる個人的な感想であり、妄想の記述の域にある言葉であることは、言うまでもありません。


       〇


 ことのはに たまをみつけし ちのはてで


 うそならべ ことわりかたる ひとたえず


 このくにに きそうかみなし かたもなし


 ものはある ことわりなしに こともある


       〇


 神仏や霊や妖精のたぐいを信じておらず、いわゆる超常現象やスピリチュアル体験をしたという自覚のない者としては、言霊に思い切り嘲笑ってもらうというスタンスもあるかと思われます。


 試してみます。


 ヒトが広義の言葉・言語、つまり表象で、世界・宇宙・森羅万象を、知覚・認識し、狭義の言葉・言語、つまり話し言葉と書き言葉または手話で、時間的経過を通じ、および空間的広がりを通して、仲間に「つたえる」という行為をしていると想定してみましょう。


 広義および狭義の言葉・言語は、あくまでも、具体的な「もの・物質・物体」として、時空を「つたわる」と想定してみましょう。つまり、テレパシー、以心伝心、預言、予言、交霊、交感は想定しないという意味です。


 そのさいには、具体的な「もの・物質・物体」である広義および狭義の言葉・言語は「かたち・すがた・ありよう」としてしか、ヒトによって知覚・認識されないと思われます。


「つたわる」あるいは「つたえあう」という行為は、発信・受信・伝達という言葉とイメージで便宜的に処理されるものと想定しましょう。


 また、とりあえず、発信・受信・伝達という言葉とイメージを「代理」として「使う」ことで、さらに「システム」あるいは「仕組み」という言葉とイメージを「代理」として「使う」状況を想定しましょう。


 さらに、ヒトが乗り込める機械という意味でのタイムマシーンは存在せず、量子コンピューターは実現していなく、多世界解釈は比喩およびレトリックの粋を出ないものとして広く解釈されており、ヒトの身体のレベルでのテレポーションは観測されていないと想定しましょう。


 そうした前提の下では、言霊とは、発信・受信・伝達という言葉とイメージを「代理」として「使う」システムおよび代理としてしか、ヒトには知覚・意識されないと言ってもいいような気がします。


 以上の、物語が、「言霊」の「働きかけ」をめぐっての物語の「引用のずれ」、「再演のしそこない」、あるいは「変奏」であることは言うまでもありません。いかがわしく、うさんくさい話です。


       〇


 19世紀後半に、ヨーロッパの西に位置するほぼ五角形をした国で、日本の中学校に相当する学校で英語教師を務めながら、詩作と思索と試作に耽っていたヒトがいました。


 仮に、そのヒトが言葉・言語の仕組みについて、自らの書く言葉に演じさせた、サイコロ賭博師を思わせる身ぶりと、言霊をめぐる個人的な感想を書きつづるさいにあたまに浮かべたイメージを、ここで重ね合わせたとすれば、言霊は嘲笑うでしょうか。


 きっと嘲笑うでしょう。ヨーロッパを持ち出して、言霊に対して「理・事割り」めいた、言葉の身ぶりを示すことは、言霊の居場所を否定する行為に他ならない気がします。


「理・事割り」は翻訳できそうですが、言霊は翻訳とは無縁のようです。何ものにも置き換えられそうもありません。


 ところで、「言霊の幸ふ(さきはう)国」というフレーズがあり、日本を指しているとのことです。さきほど、言霊の「はたらきかけ」とヨーロッパのサイコロ賭博師の身ぶりとを重ねたことを、きっと言霊は嘲笑うでしょう。


 と言ってみたものの、そんなふうに、高をくくっていいものでしょうか。


 怖いのです。



※この文章は、かつてのブログ記事に加筆したものです。https://puboo.jp/users/renhoshino77



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