かりにこれが仮の姿であり仮のからだであれば、人はここで借り物である言葉をもちいて、かりの世界を思い浮かべ、からの言葉をつむいでいくしかない。

星野廉

2020/10/17 08:27


 このところと言っても、この数年間ずっと読んでいるのは、蓮實重彦の『批評 あるいは仮死の祭典』と古井由吉の『仮往生伝試文』です。最近はこの二冊ばかり読んでいると言っても言いすぎではないと思います。手にしていないときにも、この二冊のことを考えていることがあります。


 とりとめのないことを考えているのですが、今気になって仕方がないのは、たとえば「仮」です。この文字が呼び寄せてくれるさまざまな言葉やイメージをあたまのなかで追うのが心地よくてたまりません。辞書の助けを借りるとエスカレートします。走り書きしてみましょう。まとめようとはしません。あくまでもメモです。


 かり、借りる、借る。

 貸し借り、rent、賃貸、賃借、貸し、貸す、化す。

 かりる・かえす・かす。

 あたえる、もらう、てにいれる、うばう、ぬすむ、もつ、いだく、ためる。

 かわり、かわる、つかう、つかえる、もちいる、やくだてる、やく、つとめ、しもべ、しも、かみ。

 借りる、借問(しゃもん)、仮借(かしゃく・かしゃ)、借家、借屋、借宅。

 仮、仮借(かしゃく・かしゃ)。

 貸、代、代理、代表、代行、代議員、代議制、代理人、代理店、代行者、agent、representative、representation、représentation。

 仮、か、け、化。

 仮、け、仮有(けう)、俗有、実有、仮諦(けたい)。

 かる、借る、狩る、猟る、駆る、刈る、苅る、枯る、涸る、嗄る、上る、離る。

 枯れる、涸れる、から、殻、空。

 仮、仮面、仮性、仮名、仮字。

 解字、白川静。

 坂部恵、『仮面の解釈学』。

 かり、仮、假、叚、おおう、ざらざら、仮面、暇、霞、葭、蝦、瑕、瑕疵、かし。

 真、偽、本、顔、素顔、真性、本性、真名、真字、本名、偽名。

 かりそめ・仮初、仮定、仮想、仮装、仮葬。

 仮死、(詐死)、(作死)、死にまね、空死に(そらしに)・虚死(そらじに)、擬死、冬眠、臨死、瀕死、危篤、虫の息、死に際、臨終、いまわ、最期、末期、断末魔、今際の際、往生際、冬眠、半死半生、死に体、なしくずしの死。

 心肺停止、心停止、呼吸停止、脳死、遷延性意識障害・植物状態・ベジ。

 昏睡、昏倒、気絶、失神、「間断なき失神」、「壮大な仮死の祭典」、心神喪失、人事不省、無意識、夢うつつ、譫妄。

『早すぎた埋葬』(エドガー・アラン・ポー作)、『第四解剖室』(スティーヴン・キング作)、『コーマ』(ロビン・クック原作)、「諸行有穢の響きあり」における「虚死(そらじに)」。

 仮病、つくりやまい、詐病、作病、虚病、半仮病、虚偽性障害、仮眠、仮寝、かりぶし、旅寝、草枕、野垂れ死に、行き倒れ、斃死、作話、作文、偽の記憶、記憶障害、メタ記憶、虚言、妄想、幻覚、幻想。

 仮往生、(近往生)、(臨界往生)、(臨往生)、(前往生)、(生前往生)。

 往生、往く・化生する、往生伝、往生の物語、O嬢の物語、立ち往生、無理往生、圧状。

 仮定、仮想、仮想現実、架空、(仮空)、空想、夢、夢想、疑似世界、シミュレーション、シミュラークル。

 ニーチェ、クロソウスキー、ドゥルーズ。

 仮象、表象、現象、事象、物象。

 日、月、白、明、見、目、耳、自。

 「」、『』、「、」、「。」、「、(ルビとして縦書きの文字の右に打たれる読点)」

 渡部直己、芳川泰久(十、+)、ジャン・リカルドゥー、ジェラール・ジュネット、アラン・ロブ=グリエ(8、∞)。

 仮屋、本屋、仮谷、刈谷、狩屋、狩谷、狩矢、借家、苅谷、雁屋、仮屋崎、假屋崎、上仮屋、内雁屋。

 仮令、たとい、たとえ、かりに、よしんば、もし、およそ、たまたま。

 仮の姿、かりに、とりあえず、さしあたって、もしも、たとえば、たとえ、たとえる、比喩、隠喩、暗喩、明喩、直喩、換喩。

 メタファ、メタモルフォーゼ、メタフィクション、メタ哲学、メタメタ。

『フーコーそして / あるいはドゥルーズ』、『仮往生伝試文』そして/あるいは『批評 あるいは仮死の祭典』。


     *


 飽きません。こういう文字・言葉の連なりを目にしていると、わくわくぞくぞくします。あれよあれよといううちに時が経ちます。三十分や一時間なんてすぐに過ぎます。言ってはいけないことなのでしょうが、このまま逝ってもかまいません。この種の快感には依存性があるので要注意です。


 あいだに読点を置いて、二文字を並べるだけでも、また違った妙味が楽しめます。たとえば、これです。


 仮、借。

 

 いいですねえ。手持ちの辞書のなかだと隣り合った文字なんです。これだけでも十五分は楽しめそうです。十五分って意外に長いですよ。


 仮、瑕。


「仮往生」の「仮・かり」から「かし・瑕疵・仮死」にいっちゃいますね。だじゃれと見なしてもいいような漢字の感じ・感字。思わず、笑ってしまいました。


 次は、二文字のペアです。


 仮名、偽名。


 そっくりでかわいいペアですね。きょうだいなのかな。かたちで見ると、反と為の部分が違うだけですよ。あとはいっしょ。その意味に思いをめぐらすと、ぞくぞくしてきました。漢和辞典で見た解字の知識が邪魔になります。何だか深いところまで降りることができそうです。次は、ひらがなからなる言葉のペア。


 かりに、たとえ。


「かりに……」とか「たとえ……」なんて口にしてみると、「うんうん、何?」という具合に自分の声なのについつい身を乗り出してしまいます。言葉は動きを誘い出すということですね。「かりに」と「たとえ」はどう違うのでしょう。こういうことを考えるのが好きです。似ているけど、ふたつあるということは、違うのでしょうね。使い方が異なるのかなあ。めまいが来そうです。正解を求めていたり、ましてお勉強をして物知りになりたいわけではないので、すぐに辞書を引くなんて真似はしません。「何だろう」を引き延ばします。どこか遠くに行けそうな気分になってきました。


     *

 

 最近、短歌や俳句に興味があって、その方面の本やサイトや note の記事を覗いているのですけど、俳句で「切れ・切れ字」という言葉とその考え方についての説明を読んでぞくそくしました。連句と連歌についての解説もおもしろく読みました。今、上の言葉の羅列やペアを眺めていて既視感を覚えたので、なんだっけと考えているうちに、切れや連句や連歌を思い出したのです。


 言葉と言葉との、あいだ、あわい、差異、すきま、ま、あいま、切れ間、さかい、くぎり、きわ、わかれめ、きれめ、といった連想が出てきて、とまらなくなりました。こういう話というかイメージが好きでたまりません。きれめで連想し、はて、かぎり、はしっこ、はし、ふち……とずれていく感じも心地よいです。切りがないので、とめておきますね。


 上記の言葉・文字の羅列に話をもどします。あの言葉・文字の連なりを眺め、とりとめのない思いに身をまかせて、わくわくしているわけですが、それをあえて言葉にすると、たとえば次のようになります。長くなりそうなので、前後に*を打って、テーマ別に書き並べます。これも、あくまでも書きなぐったメモです。なお、文体を「だ・である調」にします。


     *


 自分を仮の姿と考えてみる。仮だから一時的なもの。次々と移りゆくのかもしれない。仮のままに終わるのかもしれない。かりに真の姿に至るまで殻を何度も脱ぎ捨てなければならないとするなら、それは苦行に似ている。仮のままでいい。移り変わりたくもない。


     *


 言葉は誰にとっても借りものである。自分の一部のようで自分ではない。既に誰かの口から出たものであり、誰かが文字として綴ったものである。それを借りてつかう。代々受け継がれてきたものであり、今もどこかで誰かがもちいている共有物でもある。次の人にバトンタッチしたい気持ちはある。そのためには、つながらないといけない。窮屈だ。


 誰もがまわりの人たちを真似ながら言葉を身につける。生まれたときには既にある制度でありしきたりだから、自分ひとりでどうこうできるたぐのものではない。他人がいて言葉がある。自分が口から発したり文字にする言葉は他人との関係で揺れる。自分から出た瞬間に、もう素知らぬ顔で他人に媚びを売っているかのような不実な面をそなえている。憎らしい。でもかわいい。


     *


 借りるは返すと貸すを想定している。するとされるは、一つの絵におさまるという意味で同義。追われる夢のなかでは、追うという視線と視座が夢の主語として眺めている。人は夢の主語なのか。夢自体が主語なのか。


 動物にえさをやる幼児のうれしそうな表情。乳や食べ物を与えられる側にいつづけたおさなごは、食べ物を与える行為のなかで「される」側の居心地の悪さから切り離された自分を感じる。解放の喜び。するとされるを一つの絵として見ることは、フィクションの芽生えかもしれない。


 自他の区別ではなく、むしろ自他の並置。される側の自分とする側の他。距離、相対化、虚構化。視点という抽象。


     *


 貸し借り、かりる・かえす・かす、交換、贈与、婚姻、供物、祝儀、ギフト、文化人類学、経済学、心理学、文学、法学、政治学、記号論、哲学。


 カネ・貨幣は仮値。おそらく本値はないだろう。そもそも貸し借りできないものは人には見えない。というか、人は目に見えないもの(知覚できないもの)を交換の対象にしない。必ず目に見えるもの(知覚できるもの)に交換して、さらにその代理を交換するという手続きを踏む。人にとって見えないものはないのと同じだからだ。「現金な」とは、まさにこのこと。


     *


 仮の名と偽りの名は異なるのだろうか。ことなし、ことあり、ことなる。仮と偽とのあいだには何があるのか。どうずれているのか。仮免と本免があるように、仮名は本名にいたるまでの一時的なもので、確信犯じみた偽名とは別物と考えるべきなのか。仮は変化を前提とし、偽には居座り続けるふてぶてしさがある。仮は出る、お化けや幽霊のように。偽は現われる、神や霊のように。いや、仮であることを次々と重ねていくのなら、これまたふてぶてしいし狡猾とも言える。


     *


 かな・仮名・仮字とまな・真名・真字という分け方が以前から気になっている。差別のにおいがするのだ。真偽、正誤、善悪、上下(じょうげ・かみしも)、左右(左大臣・右大臣、左きき・右きき)……。本物と偽物という分け方に代表される、あらゆる二項対立つまり事わけ・言わけに、うさんくささと欺瞞を感じる。仮から本へと移ったところで、昇格したわけではないだろうに。移り変わりを上下や真偽、ましてや善悪の比喩で色づけする作業には辟易するほかない。


     *


 仮面とはマスクのこと。デスマスクもマスクです。今年は春には花粉対策兼疫病対策にマスク、さらには真夏にもマスクをしていた。秋、冬とマスク生活は続きそうな気配。これが仮の姿であってほしい。


 マスクの親戚であるマスカレードつまり仮面舞踏会という言葉をタイトルにしたり、歌詞に取り入れた楽曲が多いのには驚かされる。それだけ人は仮面に魅力を覚えてひき付けられるということか。恋愛と仮面を絡めると話がおもしろくも、ややこしくもなりそうだ。人生は仮面をかぶった人間たちが踊り明かす舞踏会だとも言える。陳腐なたとえ。ひとりまたひとりと姿を消し、舞踏会もいつかは終わる。地球もある意味で仮面舞踏会なのかもしれない。いや、そうにちがいない。そうでないはずがない。


 仮面の反対は何だろう。本面というのはお能の能面関連の言葉らしいが、何なのかは知らない。真面と書いて「まとも」とか「まほ」があるらしい。まともは真面目のことだからわかりやすい。辞書を脇に置いて考えよう。仮面の反対は、すっぴんではないか。お化粧も一種の仮面と言えないことはない。素顔でもいいかも。


 仮面を比喩つまりたとえと考えると、その反対は本性や本心とも言えそうな気がする。本性や本心を隠して仮面をかぶるという比喩。仮面夫婦なんてまさにそんな感じかもしれない。すっぴんでもできるのが顔芸。顔芸最強。おもしろくて話がそれていく。


     *


 かりにこれが仮の姿であり仮のからだであれば、人はここで借り物である言葉をもちいて、かりの世界を思い浮かべ、からの言葉をつむいでいくしかない。それがフィクションであり、騙り・語りであり、比喩あるいは言葉の綾であり、ファンタジーであろう。仮に借り物をもちいるしかない記述は、既述であり奇術すれすれのまがいにすぎないのかもしれない。


 言葉に限らず、人のあらゆる創作行為は、かりの世界を仮設することだと言えるのではないか。言語芸術だけにとどまらず、絵も音楽も踊りも写真も映画も、仮・借をめぐり、仮・借をもちいて、つくる行為ではないか。真や本をもちいることはできないから、借りて模倣するしかない。模倣するとは、借りることにほかならない。今ここにはないものを仮で仮につくる。その仮が新たな世界となる。仮はひとり歩きする。


     *


 辞書を読んでいて「借る」に「代用する」の意味があって、どきどきした。代用については、十年前のブログ記事をnoteで再投稿するというかたちでけりをつけたつもりだったが、そうもいかないらしい。「何かの代わりに何かではないものを用いる」とはまさに「代用する」という仕組みのことなのだ。ここでもまた出てきた金太郎飴。また出た幽霊・お化け。


 代理だけの世界。代理としての世界。言葉も知覚も認識も、すべて何かの代わりつまり代理、何でも代行します。代理のひとり歩きに手を焼く人間。言葉のひとり歩きは日常茶飯事。それだけではない。国民の代表つまり代理が我が物顔でひとり歩きどころか暴走しているのは、この国だけではない。


 代議制そのものがあらゆる国と地域で破綻している。代表に権利を委譲すると言えば聞こえはいいが、代理人に権力をかすめ取られているのが実情ではないか。安定した議会での多数に支えられた与党が、権力の後ろ盾なしにはとうてい通らない荒唐無稽な強弁を通している。なしくずしに独裁への道が広がる。ネット上の政権応援団が愉快犯から親衛隊へと昇格する日も近いだろう。


 きな臭い話になってきた。体調が悪化しそう。気持ちのいい話にもどそう。


【※以上の走り書きは後日別の記事として膨らませるつもりです。】


     *


 さて、『批評 あるいは仮死の祭典』と『仮往生伝試文』でしたね。


 共通する「仮」という文字が気になります。わくわくして気持ちがいいのです。暗示にかかりやすいだけでなく、符合や偶然に過剰に反応する人間なので、共通してある「仮」にこだわるのかもしれません。性格とか気質の問題でしょうか。それならそれでいいと思っています。「気持ちがいい」は大切です。


 ふたつの作品に共通する「ねえ、まだなの?」がずっとつづくような文章が、気持ちよさの一因だと思います。「どこにつれていってくれるのだろう?」という不安をともなう心地よさもあります。きちんと文章を読むことがきわめて苦手なので、文字を追いながらとりとめのないことを考えるのが常です。具体的には、上記の言葉と文字の羅列やそれらをめぐっての思い(「だ・である調」で書いた部分です)があたまのなかを駆けるのですが、読む対象はどんな本や文章でもいいわけではありません。今のところ、『批評 あるいは仮死の祭典』と『仮往生伝試文』が上のようなことを考えながら読むのに最も適した「乗り物」だと言えそうです。


 それでは、二冊の本を個別に見ていきましょう。<『仮往生伝試文』論>とか、<『批評 あるいは仮死の祭典』を読む>なんていう肩に力の入ったものではありません。そんなたいそうなものを書く柄ではないことはよくわかっているつもりです。かつて流行った言い回しを借りると、「〇〇の余白に」書くという感じかもしれません。


     *


 まず、『仮往生伝試文』なのですけど、とにもかくにも死にそうなのです。


「私、もう駄目かも」の永遠化です。持続する死にかけ状態は、ここでは幸福の絶頂に似ています。異質のテキストがパッチワークになっているさまは、末期を控えた人のあたまに浮かぶだろう夢想・断片のようです。繰り返される仮往生と往生の記録・伝。仮往生と本往生をめぐる物語の変奏と反復。


 仮往生本往生仮往生本往生仮往生本往生仮往生……。


 なかなかいかせてくれません。「私、もう駄目かも」が延々と続きます。試文はあくまでも試文(序文・注解・付録)であり続け、本文(ほんぶん・ほんもん・正文・原典)へとはたどりつない。ひょっとすると試文は死文なのかもしれません。作品全体に漂うなかなか死なない死にかけぶりのしぶとさは、ヘルマン・ブロッホの「ウェルギリウスの死」を思わせます。


 古井のエッセイ集『日常の"変身"』に「ヘルマン・ブロッホ「ウェルギリウスの死」――象徴と夢について」という論考があるのですが、この長編小説からの引用もあり、古井由吉先生による大学での独文学の講義に臨んでいるような気分になります。とても勉強になります。いや、勉強になるだけでなく、これもまた理解なんてそっちのけで、あれよあれよと読み進められます。もちろん心地よいです。古井由吉自身による『仮往生伝試文』論として読めないこともないような気がします。『ウェルギリウスの死』についてはあまりにも難しそうなので、古井訳で読みたかったなどという気持ちはさらさら起きませんけど。


 ちなみに、古井由吉はブロッホによる未完の小説『誘惑者』の訳者です。『日常の"変身"』には「ブロッホと「誘惑者」」というエッセイも収められているのですが、古井は自分の小説について書いているのではないかと錯覚する箇所が複数あり興味深い文章です。一つ例を挙げると、最後のほうでブロッホのこの小説の文体に触れた部分があります。古井自身の文体について述べているような刺激的な文章で、これまた読んでいてあれよあれよと夢想に駆られます。


 古井由吉による邦訳ではムージル作『愛の完成・静かなヴェロニカの誘惑』(岩波文庫)を持っています。記憶が曖昧なのでタイトルを書き取るために、二階から持ってきたのですが、薄っぺらいにもかかわらず、長ーい作品に思えてなりません。何度か挑戦して結局は斜め読みもできなかった小説です。たぶん、恋愛や夫婦および家族をふくむ人間関係が濃密に描かれた作品が苦手だから読めないのだという気がします(たとえば『杳子』や『槿』は読んでいて苦痛で、ぜんぜん快くありません)。たった今、この本の真ん中あたりを開いて文字を目で追いましたが、無理です。気持よくさせてくれそうもないので、残念ですが、あとで二階へ返しに行きます。


     *


 さきほど上で述べたようにうわの空で本を読むのが常態化しているのは事実ですが、それも程度と頻度の問題であり(しょっちゅうそんな具合なら重篤な症状ではないでしょうか)、ときには文字を追って読んでいることももちろんあります。さまざまな異質なテキストから成っている、いわばパッチワークのような作りの『仮往生伝試文』では、あるテキストから別のテキストに移ったさいの踏み外しというか転調がきっかけになって文章にすっと入っていくことがあります。そうなると文字を追っての熟読ができて、いろいろな発見があり楽しいです。


 修辞学的あるいは小説の技巧のうえでの高度なテクニックがもちいられていて、読む者は翻弄されるだろうと想像する部分が多々あります。ある箇所に差しかかって、あれっ、どういうことなんだろうと思って読み返すと、ちゃんと辻褄が合うようなかたちで、読み手をだましているのです。こういう術にはまるともう駄目です。人称、時制、場面転換、描写といった語りの要素を駆使したテキストを律儀に読んでいる自分がいます。


 一例を挙げると、「物に立たれて」という章の日記体の出だしが好きで、何度もだまされて喜んでいる自分がいます。「客」「運転手」「客」「運転手」と人を指す言葉が出てきて(ここは単なる反復ではなく変奏でしょう)、日記ですから書き手である「私」が素知らぬ顔で語り・騙りを進めていくのですが、途中であれっとなります。その瞬間に、後部座席にいる「客」の膝の上にある鞄からすっと空気が漏れるのですが(筋から逸脱したような描写なのでよけいにリアルです。鞄は古井のエッセイ風の作品によく出てきます。分身か飼い猫のように、あたかも生きた存在みたいにふっと姿を現します。たとえば『聖なるものを訪ねて』所収の「あさきゆめみし」という小品のラストに小動物じみた鞄が出てきますが、尋常ではない表象感を漂わせています)、澄ました表情をした古井先生のおならのように思えてなりません。これは実際にお読みいただくしかないでしょう。「私」を省いた文章の面白さが味わえます。


 古井はこうした書き方を多用し、たとえば全体が「私」をもちいた、あるいは省いた一人称で書かれている文章のなかで、それが回想であれば「私」と書いてもいいところで「子供」とか「息子」と書いて、読む者をかたりに引きこみます(『魂の日』所収の「知らない者は、知らない」が好例)。読みにくさ、場合によっては混乱につながることは確かなのですが、個人的にはかたられるほうを取ります。


 かつての日本語で書かれた古典の文章では、句読点も段落もかぎ括弧も濁点もなかったそうです(古文が苦手できちんと読んだことがないので、こんな書き方しかできません)。主語の省略も多かったみたいですね。便利な表記法に慣れた今の人たちには、「よく考えて補う」という読み方が不可欠になるということでしょうか。それとは次元が違うとは思いますが、古井由吉や野坂昭如の一連の小説、村上龍だと『コインロッカー・ベイビーズ』といった作品でも、「思いはかったり補う」作業がことのほか必要だと感じます。だからこそ、ひかれるのかもしれません。「苦しいけど気持ちいい」感と「どこに連れていってくれるのだろう」感を強く覚えて、なにしろスリリングかつ快なのです。


『仮往生伝試文』は確かに難解なのですが、理解なんて無粋なものは求めていない気がします。読めば読むほどそんな気がしてなりません。そんなわけで、お経と同じで意味なんか知らなくてもいいと決めこんで読んでいます。そもそも往生なんて小難しいものであるはずがありません。往生(本往生と言うべきかもしれません)の直前まではいろいろあるでしょうが、誰もが最期のきわにはすっとなくなるのはないでしょうか。難しいものであれば、簡単に死ねない人だらけという理屈になります。


     *


 この作品がブログのように思えてならないので、なぜか考えたことがあります。理由は拍子抜けするほど簡単で、各章に出てくる日記体のせいだと思いあたったのですけど(ブログと日記に日付は付きものですね、ただそれだけ)、その部分がそれぞれの章でアクセントになっているように感じられます。河出書房新社刊の単行本にある奥付の前のページには「初出掲載「文藝」一九八六年春季号~一九八九年夏季号」とあるので、この作品は約三年間にわたる連作だったわけです。


 そんなことに思いをめぐらせながら、この長い作品をぱらぱらめくっていると「月、日」(日付だけでなく空の月と太陽も含まれます)という文字がやたら目につき気になり出しました。圧巻は「いま暫くは人間に」という章の終盤で、この部分は「明月記」という藤原定家の日記からの引用から成り立っていますから、当然のことながら「月、日」がたくさん出てくるわけです。何の不思議もありません。周到な読み手であることが求められる文庫版の解説者による解説において、やはり「明月記」からの引用が指摘され、「月、日」が頻出するのは自然の成り行きでしょう。でも、気になるのです。当然だと思いながらも、気になると不思議に思えます。気になって不思議でたまりません。当然と不思議は同義なのかもしれません。


「いま暫くは人間に」というタイトルをよーくご覧ください。「日」というかたちが四つ見えませんか。文字とは言いません。かたちです。こういうことが気になると、ほかのことも気になるものです。書棚にある古井由吉の本をいくつか引っ張り出してきて、あちこち見ました。別の作家の本とも見比べました。結論から言いますと、「日、月、白、明」、さらには「見、目、耳、自」というかたちに満ちているように見えてなりません。とくに『仮往生伝試文』という本のなかの文章に尋常ではないほど目立つのです。とはいえ、この本のタイトルにはないですね。いや、強いて言えば「試」に見られる「言」ですか。でも、かなり苦しいだじゃれみたいで、ここまでくるとみっともないので、「言」は引っこめます。


 それにしても気になります。面倒なのでいちいち数えはしませんけど、「日、月、白、明」、そして「見、目、耳、自」が目につきます。ぱらぱらページをくくっているうちに、何だか気持よくなってきました。よくあることなのです。字面を眺めていると意識が遠のくのです。試してみませんか。別に古井由吉の文章でなくてもかまいません。どんな文にでも意外とあるものです。上の漢字やつくりやへんや部分的なかたちに注目して、読んでみるのです。もちろん別の漢字でもかまいません。自分が気になる漢字であることが大切なのです。文章観なんて言うと大げさですが、文章の見方が変化したら楽しいと思いませんか。どうです、やってみませんか? あなたのなかの何かが変わるかも。駄目ですよね――。宗教の勧誘じゃあるまいし、誘っちゃいけません。ごめんなさい。ふざけているわけではないことは理解してください。


 何だかでれーっとしてきたので、しゃきっとするために、意識的に文庫版の後ろのほうにある「著者目録」を調べてみました。円陣を組む女たち、杳子・妻隠、櫛の火、聖、哀原、夜の香り、椋鳥、親、山躁賦、グリム幻想、明けの赤馬、眉雨、「私」という白道、フェティッシュな時代、日や月や、ムージル 観念のエロス、長い町の眠り、楽天記、魂の日、半日寂寞、陽気な夜まわり、白髪の唄、山に彷徨う心、夜明けの家、聖耳、ひととせの 東京の声と音、聖なるものを訪ねて、白暗淵、半自叙伝。


 書名だという約束事である邪魔な二重かぎ括弧をはずして文字たちのかたち(顔と言ってもいいです)を眺めていると、幸せな気分になります。ああ、まただ――。「わかった」とか「発見した」という知的な興奮ではないことは断言できます。そんな高尚なものであろうはずがありません。何しろ、「正しい」か「正しくない」なんて問題にしていないのですから。かたちを見留めて気づいたところで、物知りになったり賢くなるといったたぐいの話ではぜんぜんないのです。


 漢字の物質的な側面である字面やかたちの特徴については、漢字や漢字のつくりを学びはじめた小学生や、日本語を母語としない学習者の方々のほうが、めざとく目がいくのではないかという気がします。知識や教養はかえって邪魔になるのではないでしょうか。とはいっても、この種の「まなざし」が文芸批評の一手法としてもちいられないわけではなく、その点については、「あう(5)」という記事で自作の物語を対象に分析するというお遊びをしていますので、ざっと目を通していただければうれしいです。ああやっているやっているという具合にすぐにお気づきになると思います。上のメモに名前のある芳川泰久氏の方法についても触れています。


 ちなみに、『批評 あるいは仮死の祭典』にある言葉と文章を眺めていて気になって仕方がないのは、漢字やかなではなく、「」、『』、「、(読点)」、「。(句点)」、「、(ルビとして縦書きの文字の右に打たれる読点)※専門的には何と呼ぶのか知らないので、ややこしい言い方になりましたが、これがすごく目立つしとても気になります」、そしてルビです。


仮、

死、

の、

祭、

典、


 古文と呼ばれる日本語の文章にはなかったものばかりです。約物とは読みやすくするためにつくられた一種の約束事であり制度とも言えるでしょう。『批評 あるいは仮死の祭典』では、ときにはタマネギをむき続けるようなもどかしを覚えながら、まだまだかとつぶやいていると「、」が来ます。一息入れて次の「、」あるいは「。」が来るまで読み進みます。「」でくくられた文字で立ちどまり、『』でくくられた文字に思いを馳せ、「、(ルビとして縦書きの文字の右に打たれる読点)」が施された文字を凝視する。読みやすさを促すはずの約物が、その役目とは隔たった異物に見えてきます。


     *


 蛇足ながら書き添えますが、この種のたわむれは、他の作家やテキストと比較してどうのこうのという、いかにも詮索好きな、知的とも言えなくもない話ではなく、目の前にあるテキストをただ眺めるという単純作業に終始します。「正しい」か「正しくない」かの問題ではないのです。楽しむことが大切だとも言えます。


 読むと書くは遠いようで近い作業です。別に「用字用語集」や「編集ルールブック」のたぐいを参照したり、こうした本でお勉強をなくても、新聞・雑誌や本などで日々他人の文章を読むことによって自分の書く行為が変化することがあります。たとえば、「きょう(あす)」と書くか、「今日(明日)」とするか。「太陽が昇る」とするところを、あえて「日が昇る」と書く。「長い月日」か「長い日々」か。「月曜」なのか、それとも「月曜日」なのか。「暫く」か「しばらく」か。以上の例は、個人的な迷いなのですが、他人の文章を読むことによって、「ああ、こう書くのか」くらいの気持ちで揺らぐことがあります。一般論を言えば、こうした揺れは、誰もが意識的にあるいは無意識のうちにおこなっている選択でありその結果なのでしょう。もちろん揺らがない人がいても驚きません。あなたの場合には、どうですか? 表記の揺らぎを経験することがありますか? それとも安定していますか?


 えっ? みんな、こうやってるからこう書いているんです。ぼくは会社で勧められた「用字用語集」を参考にしてるだけ。変換して出たとこ勝負かも。表記の揺らぎなんて意識したことないなあ。まちまち? その日の気分? わたし、学校で習ったのがこの書き方なんですよ、だから安定してます。意外に思われるでしょうが、俺の文章のすべては、向田邦子のエッセイを書き写すことから生まれたと言っても過言ではありません。おーまいがっ、規則? てか、これ以外の書き方なんてあったの? 小説を書くときとエッセイやメールを書くときで、書き分けています。よくぞ聞いてくれたね、あたし意外と神経質なんですよ、意識が高いと申しましょうか。えっ、わかんないよー、スマホに聞いて(笑) 深く考えたことはないっすね、なんとなくこう書いています。好き嫌いはありますね、ある程度安定しているとは思います。あなた、何か文句でもあるんですか? いつもつかっているワープロソフトのお節介な指示に従っていて、こうなったのかも。わたくしのお手本は芥川龍之介の文章ですけど、何か? あんたさあ、何を言いたいわけ?


 人それぞれでしょうね。どう書くのか、どの言葉をつかうか、漢字にするかひらがなにするか、どっちの漢字にするか、といったことを、程度の差はあっても気にしている人がいてもおかしくないと思われます。とくに作家やライターと呼ばれたり、自称作家あるいはライターである人に、表記上のこだわりがあるのは当然ではないかという気がします。


     *


 杳子・妻隠、夜の香り、親、山躁賦、グリム幻想、明けの赤馬、眉雨、「私」という白道、フェティッシュな時代、日や月や、ムージル 観念のエロス、長い町の眠り、楽天記、魂の日、半日寂寞、陽気な夜まわり、白髪の唄、山に彷徨う心、夜明けの家、ひととせの 東京の声と音、白暗淵。


 上の書名たちをPCの画面で見ながら、近くにあった紙のうえに書き写してみました。とりわけ「日」「月」「白」「目」というかたちをゆっくりとなぞるさいに、火照りを覚えて顔が上気してくるを感じることがありました。生前の古井由吉は何度も何度もそのかたちをペンであるいは鉛筆でなぞっていたはずです。こんなことを書くと、酔狂だとか単なる感傷だとか、あるいはちょっとここが変じゃないのと言われそうですが、それでもかまいません。ある種の供養だと思っています。


     *


 次に『批評 あるいは仮死の祭典』を見てみましょう。


 この本は徹底して死んだふりをしています(じつは生きているふりをしているものの死んだふりなのですけど)。横たわって死に顔をつくり、えへへとこころで笑っているかのようです。ある意味とても面倒くさいです。真性のかまってちゃんなのです。想像してみてください。生きているのに死にまねをしているのですよ。本当は生きているのをみんながわかってくれないから、ひっくり返って、ねえねえ死んでいるんだよとからだ全体で訴えているかまってちゃんなんです。相手をするのは疲れますよね。何が生きているのかというと、言葉なのですけど。


 じつはこういうかまってちゃんって、ドMなんです。


『マゾッホとサド』(ジル・ドゥルーズによるこの著作を蓮實重彦が訳したのが希有な符合つまり必然に思えてなりません)で指摘された、ずる賢くしたたかなMの資質を具現しているとも言えそうです。とてもじゃないですが、持久力も戦略も狡知も持ち合わせていないSには太刀打ちできません。そもそもSとMのあいだには相性など成立しないほど、両者は隔たっているし異質な存在同士なのです。「ねえねえ、死んでいるんだよ(じつは生きていることを主張しています、面倒くさいこときわまりありません)」と相手を根気よく飼い慣らしあやつり翻弄するM。その相手ができるのは、たとえMでなくてもMの世界の住人でなければなりません。


『批評 あるいは仮死の祭典』の言葉と文章たちは、読む者を根気よく教育します。詩的で抒情的な文体に見えるものの、論理的に組み立てられた文から成り立っています。とはいえ、センテンスがかなり長いために、プルーストの原文を律儀に日本語に置き換えた、井上究一郎訳の『失われた時を求めて』を読むのと同じくらいの忍耐が要るのではないでしょうか(この訳文の特徴については「まだ、まだなの?」という記事で「律儀」をキーワードに論じています)。


 合う合わないはおおいにあると思います。合わない読者には、この批評集はフローベールの小説のように退屈きわまりないにちがいありません。とはいえ、比喩ですが「教育者である」この書物は「生徒」を裏切りません。なかなかいかせてくれませんが、ちゃんとその教えに従えば然るべきところにいけるという意味です。ただし、どこかにたどり着くという到達や達成が大切なのではありません。たどり着くまでの過程こそがきわめて重要なのです。性急に結論を求める読み方では読めるものも「読めていない」ままで終わるとも言えそうです。要約やパラフレーズも有効な読み方ではないでしょう。比喩ですが、この書物はいわば動詞・動体であって名詞ではありません。


 ややこしいことを書いて、ごめんなさい。あくまでも個人の感想です。蛇足ですが、付け加えます。『批評 あるいは仮死の祭典』を好んで読む人がいるとすれば、その方はSではないと断言できます。短絡して、Mでなければならないとは言いません。ただし、Mの世界の住人でなければ読めないのは確実だと思われます。繰り返しになりますが、この書物は動詞・動体です。読むさいにはMの世界の仮の住人、つまり旅人であってかまいません。死んだふりに付き合ったあとは「お疲れさま、バイバイ」というわけです。とはいえ、へとへとでしょうね。Mの相手をするのは疲れます。


     *


 総じてあれよあれよと読み進めることのできる『批評 あるいは仮死の祭典』なのですが、この書物にはジル・ドゥルーズ、アラン・ロブ=グリエ、ミシェル・フーコー、ロラン・バルト、ジャン=ピエール・リシャールという固有名詞が出てきて、それぞれの人名をめぐって章が分かれるという作りになっています。この本の目次を見るとわかりますが、学術論文のようにきちんとした構成になっています。


 個人的には、ドゥルーズとフーコーとバルトを扱った部分では「収斂(しゅうれん)」を感じて(意識が狭く限定されていくとも言えます)、「なるほど」と思う箇所が多々あります。一方、リシャールを論じた部分では「拡散」を感じ(意識がどんどん広がるとともに薄れてもいきます)、読んでいる自分が崩壊していくような危うい快感を覚えます。ロブ=グリエを扱った章は退屈で途中で読む気が失せ(仕組み巧まれた謎解きを感じてしらけるのです)、読み通したことはありません。


 大学の卒業論文ではロラン・バルトを扱いました。バルザックの中編小説『サラジーヌ』をバルトが批評した『S/Z』を批評するというかたちを取ったのですが、このときほど「お勉強」をしたことはありません。在籍していたフランス文学科では論文の書き方が厳格なのです。たとえば、引用した文章が邦訳である場合には、その原文を併記しなければなりませんでした。フランス語の原著を読みこなすだけの力はありませんから、邦訳のある文献と原著探しで数か月間忙殺されました。


『批評 あるいは仮死の祭典』にはロラン・バルトと蓮實氏との「対話」が収録されているので、そこからも引用するつもりでいました。大学では蓮實氏が非常勤講師として教えていらっしゃったので、原文を手に入れたいと同氏に申し出ました。対話を録音したテープならあるが、どこにあるかわからない。文字にはなっていない。そんな意味の返事だったと記憶しています(先生、間違いでしたら、ごめんなさい)。指導教官に事情を話し了承を得たので、その部分だけは原文を添えずに論文を提出しました。


 学部段階での卒論ですから、たいしたことを書いたわけではなりません。種本にしたのは、スティーヴン・ヒース(Stephen Heath)という、主に映画評論を手がけていた英国人による Vertige du déplacement (日本語にすれば「変移のめまい」つまり、「あちこち目移りして、とっかえひっかえしているうちに、目が回っちゃった」)という書物でした。「めまい」というのは、「めくばせ」とは違いますが、個人的にはとても気になる言葉です。


 バルトは、批評の対象をとっかえひっかえする「変移」の人でした。何しろ飽きっぽいのです。あちこちをクルージングするのですが(ここは意味深です)、すぐに退屈してテリトリー、つまり研究の対象である分野を転々と変えました。このバルトの身振りについては、『批評 あるいは仮死の祭典』所収のバルト論にある「対話」のなかでバルト自身が興味深い発言をしています。「ステレオタイプ化された言語に対する吐き気」という言い回しなのですが、おおいに共感したのを覚えています。


 あの卒業論文のコピーが押し入れのなかにあるはずです。久しぶりに読んでみようと今思ったのですが、お腹が急に痛くなってきたのでやめます。


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 十年ほど前に約一年間ほぼ毎日長文のブログ記事を投稿していたことがあります。noteにその記事を再投稿した経緯は、『文供養 2020/09/23-2020/10/03』のなかにある「ネット上に安全な墓などない。」という記事に書きました。再投稿をするにあたって、かつて書いた記事を読み直していたのですが、かつて出版されたばかりの『批評 あるいは仮死の祭典』を読んだころにはぴんとこなかったジル・ドゥルーズを意識したような記事を書いているのに驚きました。


 学生時代にはフーコーとバルトには並々ならぬ興味があったのに、今ではぴんとこないどころか、あたまのなかにほとんどないのです。その一方で、現在気になるとりとめのないさまざまなことは、ドゥルーズが問題にしていたような気がする(ドゥルーズの著作をほとんど読んでいないので「気がする」としか言えません)という思いがあります。飲みこみの悪い人間なので、考えるのに時間がかかっているみたいです。しつこいですね。では、どんなことが気になっているかと言うと、言葉と言葉との(概念と概念との、ではなく)関係性だと要約できるような感じがします。『批評 あるいは仮死の祭典』内のドゥルーズ論には、「と」(「AとB」というときの「と」です)についての考察があるのですが、それを未だに意識して勝手気ままに書いている記事が複数見られます。


 もし、この「と」についての記事にご興味がありましたら、重複する部分があって恐縮なのですが、「意味の論理楽(続・ふーこー・どぅるーず・でりだ)その3」と「わかるという枠」と「いみのいみ」という三本の記事をご一読ください。


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『批評 あるいは仮死の祭典』にある「Ⅰ現界体験と批評――現代フランスにおける<知>の相貌」に「Ⅴ現界体験と批評」という文章があります。そこでは最後のほうになって安岡章太郎と藤枝静男への言及があるのですが、学部生時代にここに刺激を受け、さっそく両作家の小説を読み漁りました。一九七四年刊の『批評 あるいは仮死の祭典』に続き『「私小説」を読む』(志賀直哉論・藤枝静男論・安岡章太郎論)が一九七九年に上梓されたさいには、対象になっている三人の作家を集中的に読んだものです。結果的には、安岡と志賀は読んでも楽しめないままに終り、藤枝はこの十年ほどのあいだに俄然おもしろくなり現在もときどき読んでいます。


 それはさておき、『「私小説」を読む』でも感じることなのですが、蓮實重彦はフロベールの言葉を対象にした批評の言葉と方法を獲得するために、フランスの思想家や作家や批評家を論じ、さらには日本の作家を論じたという気がしてなりません。誰について論じても、それはフローベールを語るための余技であり、他の書き手を出しにして実際にはフローベールの言葉を論じているとも言えそうです。


『批評 あるいは仮死の祭典』でいちばん好きなのは、フローベールという文字(これは固有名詞であり言葉なのですがあえて文字とします)が出てきたときの、文章の醸しだす色気です。「フローベール」と書かれたとたんにその周辺の言葉がなまめかしい仕草と表情を見せるのは、いったいどういうことなのでしょう。「フローベール」は蓮實氏にとって特権的な文字だとしか言いようがありません。


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 言葉が言葉に対してどんな仕草をし、どんな表情をまとうのかを文章というかたちで示す。概念にさからいながら、そして意味の固定化にあらがいながら。その文章は、言葉が生きていることを言葉の死にまねというかたちで、しつように読む者に訴える身振りを取る。ねえ、見て。ねえ、かまって、と。


 哲学や文学に付きものの概念や、作者の人生や思想という抽象と、哲学用語や文学理論でもちいられる語のいかがわしさに向けて、徹頭徹尾流し目を送りながらも、決して同調しない。ねえ、死んでいるのよ(=生きているのよ)、それでもいいの(=きてきて)? この挑発に乗ってくる者がいれば、根気よく調教する。生きていることに頑迷なまでに目を向けようとしない愚鈍な相手には、それしか方法がないかのように、愚鈍なまでに粘り強く頑迷に。


 あるいは、次のようにも言えるかもしれません。


 じつは生きている「ふり」をしているものが死んでいる「ふり」をするという言葉に起きている事態を言葉が語る以上、その言葉は読む者が性急に求める概念化や意味の固定化にさからわざるを得ず、要約やパラフレーズを無効にするための修辞と表記をもちいて、根気よく読む者を導こうとするほかない。つづられる言葉はどうすればいいか。徹底して「ふり」を装うしかない。まねるとか演じると言ってもいい。たとえば、『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』での各論考の冒頭に見える、論文の文章と言うよりも小説や詩に似た文章のように、「とりあえず」と。「かりに」こうだったらとか、「たとえば」こうも言えるのよというふうに、ひたすら「ふるまう」つまり「ふり」を装う。周到かつ執拗に断定は避けつつ。いずれにせよ、「ふり」を装う身「振り」が読む者にとってある種の読みにくさ(タマネギをむき続けるようなもどかしさ)につながるのは言うまでもない。


『批評 あるいは仮死の祭典』で起きていることを、あえてたとえるとすれば、そんな感じではないかと思われます。


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 次のペアをご覧ください。


『批評 あるいは仮死の祭典』

『仮往生伝試文』


 邪魔なので二重かぎ括弧をはずしましょう。


 批評 あるいは仮死の祭典

 仮往生伝試文


 こうやって並べてみると、批評のあとの一字空けが巧まれた切れ目のようにも見えてきます(この種のことには、蓮實重彦は敏感なはずです)。仮往生伝のあとは意味的に切れますね。一方が和歌か俳句の句、もう一方が漢詩の句のようにも見えると言ったら、笑われるでしょうね。それでもいいです。今は「個人の感想」どころか、もっと荒唐無稽でテキトーな「意味」や「ニュアンス」や「イメージ」の話をしているのですから。さらにほうけましょう。


 両者が韻を踏んでいるようにも見えます。音(おん)ではなく、イメージあるいは意味の韻というか……。あくまでも比喩ですけど、符合(ふごう)と付合(つけあい)の気配を感じます。お叱りの声が聞こえるようですが、さらにボケます。これも比喩ですが、連句や連歌の趣すら覚えます。


 音(おん)にも注目しましょうか。かなとラテン文字をつかいます。結局は音といよりも文字の字面に目を配ることになりますが。


 ひひょう あるいわかしのさいてん

 かりおうじょうでんしぶん


 ヒヒョウ アルイワカシノサイテン

 カリオウジョウデンシブン


 hihyo aruiwa kashi no saiten 

 kari ojo den shibun


    io auiaaioaie

    aiooeiu


 うーむ。こうやって眺めてみると、やはり音の韻よりも字面や意味の連想から生じるイメージの韻を強く感じます(進行している難聴も関係あるのかしら)。特に「かし・kashi・ai」と「かり・kari・ai」の放つオーラは強烈です。


 長いあの文芸批評と小説がそれぞれのタイトルに集約あるいは凝縮されているなどという抽象は言いません。今ここにある言葉と文字という具象・かたちとたわむれているだけです。


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『批評 あるいは仮死の祭典』そして / あるいは『仮往生伝試文』

『仮往生伝試文』そして / あるいは『批評 あるいは仮死の祭典』


 あくまでも個人的な思いなのですが、『批評 あるいは仮死の祭典』で『仮往生伝試文』を読むことも、『仮往生伝試文』で『批評 あるいは仮死の祭典』を読むことも十分に可能だと思います。文字を追いながら、読んでいるのとは別のことを考えるという読み方が身についているので、無意識のうちにそうした読みをしている気もします。


 このところ、そんな読書をしているためなのか、この記事を書きました。


 勝手気ままに読むのはじつに気持ちいいものです。眠くなってきました。疲れも感じます。しばらく横になります。仮死あるいは仮往生の夢でも見ることができればいいのですけど……。では、今日はこの辺で、失礼します。




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