言葉のフェティシストでありたい。

星野廉

2020/10/12 12:23


 言葉のフェティシストでありたい。


 語弊のある言い方だとは思いますが、そう願っています。フェティシズムとは、何かの機能や目的や役割ではなく、そのもの自体にこだわりをしめすことだと理解しています。その対象になるものをフェティッシュ、そうした傾向のあるヒトをフェティシストと、一般には呼んでいるみたいです。フェティッシュのコレクションに夢中になるタイプのヒトもいるようです。


 個人的には、辞書を読むのが好きです。かつてよく「読んだ」――というか、ほとんどの場合が斜め読みですから「見た」というべきかもしれませんが――小説や哲学書を読むよりも、今は好きです。


 辞書は言葉の意味を調べるものとされていますが、言葉の表情とか身ぶりとか目くばせを楽しむ場にもなるという気がします。少なくとも、自分の場合には、そうです。


 新聞や雑誌の活字を虫眼鏡で拡大して、書体ごとに異なる美しさを味わうのも、好きです。これは、一度やり始めると、1、2時間が過ぎてしまいます。ちょっと、後ろめたい思いがあり、それが官能性に結びついている気もします。


       *


 言葉の「意味するものやこと」ではなく、話し言葉なら音や声の大きさや質に、書き言葉であれば文字や活字の種類や形に敏感でありたいと願うと同時に、現にそうした言葉の側面に愛着をいだいている自分の性癖を感じます。


 その反面と言うか、そのせいかと言うか、「言葉の意味するものやこと」に注意を払わなければならない、言葉の操作が苦手です。具体的にいえば、論理的思考とか、筋道を立てて考える・話す・書くとか、話や文章に整合性を持たせるとかいう、一連の作業のことです。そうした行為に対する不信感は強いです。そうした行為を実践しなければならない場合には、苦痛を覚えます。


 学校に通っていた頃には、感想文などの「さくぶん」と言われるものは、嘘をだらだらと書くことで切り抜けてきましたが、レポート・小論文・学術論文となると、かなり苦労しました。そうした文章を書くためのマニュアルを参考にして書いていましたが、信じてもいないことを実行するわけですから、今でも思い出したくない心の傷になっています。


 言葉の物質性や、言葉の断片的あるいは表層的なレベルでの意味・イメージとたわむれているほうが遥かに快いです。圧倒的な偶然性に身を任せて、でまかせを並べているのが性に合っている気がします。


 毎日四六時中、「言葉の物質性に触れていたい」という意味ではありません。そうした極端な話をしてはいません。言葉の抽象性と深くかかわることなしに、ヒトが日常生活を送れないのは言うまでもありません。フェティシズムは、ささやかに、密かに楽しむものだと思っています。(「げん・言 -4-」より)



     〇



 フェティシストであることは、これまで何度かお話ししました。何を「フェティシズムの対象=フェティッシュ」にしているかと申しますと、言葉です。安上がりですし、あまり、他人様にご迷惑をかけることがないようなので、気も楽です。法に触れるまで逸脱する気配も、今のところはなさそうです。


 言葉のフェティシストにも、いろいろあるようです。ある特定の言葉、たとえば人名を収集し、その由来や成り立ちに詳しい方も、一種の言葉のフェティシストでしょう。製品・商品の名前などの専門家、やたらいろいろな種類の辞書を集めている方、何カ国語も勉強して相当なレベルにまで熟達されている方、言葉遣いに非常にやかましい方も、含めてよろしいかと思います。


 自分の場合には、言葉の物質的な側面、つまり音声=発声=発音と、文字=表記=活字に興味があるだけでなく、言葉の抽象的な側面、つまり意味やニュアンスを始め、「言葉」というよりも「言語」の仕組み=働きにこだわりを抱いています。前者は、ダジャレ=オヤジギャグという形であらわれることもあり、後者は、だいたいが屁理屈だと他人様にとられるものになります。


 前者は、楽しいもの=自己満足で済みますが、後者は、時に「いちゃもんをつけている」とか「喧嘩を売っている」とか「罵倒している」とか「当てこすりをしている」という具合に、受けとられることがあります。(「あう(3)」より)



     〇



 上の羅列の最後の一行を、再び引用します。


*合=会=遭=和=間=相=愛=哀=憐


 漢字です。もとは中国語の文字です。白川静という、言葉のフェティシストのはしくれとしては、実にうらやましい人生を送った人を思い出しました。漢字の物質的な側面と抽象的な側面との絡み「合い」に命をささげ、すばらしい業績を残された方です。いつだったか、NHKのドキュメンタリー番組で、存命中のお仕事ぶりを見たことがありますが、映像にうっとりと見入ってしましました。その番組を見ながら、漢字に、いい意味でエロティックな=官能的なイメージを抱きました。


 さて、その漢字ですが、この国では漢字が初めて流入した時期には、主に公文書を記すのに用いられてきた「漢文=真名文(まなぶみ)」だけあって、生理的にではなく、頭に訴えてくるものがあります。情よりも理に訴えてくる、とも言えそうです。これは、あくまでも個人的な感想です。


 かつて中国語をかじったころに、漢文も学校の授業で習っていたのですが、両者の共通性をまったく感じなかったのは、どういうことでしょうか? 鈍感だったのでしょうね。おかげで、漢文は今においても、全然読めません。これからも無理でしょう。古文も同じです。読めません。今後も、無理みたいです。そもそもお勉強が大の苦手な無精な身には、もうこの年になると、手習いは無理だとあきらめております。


     *


 それはともかく、上に挙げた九つの漢字が用いられている言葉の中で、特に気になるものを集めてみる必要性を感じましたので、列挙してみます。


*合 : 合弁、合札、合成、合同、合図、合体、合判、合併、合点、合奏、合流、合致、合唱、合理、合掌、合意、合鍵、合議、化合、付合、会合、投合、併合、和合、架合(=かかりあい)、配合、混合、接合、符合、(符号)、組合、頃合、都合、場合、集合、統合、複合、総合、適合、調合、請合(=うけあい)、暗合、(=暗号)、話合(=はなしあい)、縫合、融合、顔合(=かおあわせ)、意気投合


*会 : 会心、会合、会同、会見、会席、会悟、会得、会釈、会話、会談、再会、社会、参会、協会、面会、宴会、都会、密会、集会、照会


*遭 : 遭遇、遭逢、遭難


*和 : 和平、和合、和気、和気藹々、和声、和睦、和解、和親、和韻、和議、不和、日和、日和見、中和、付和、付和雷同、平和、共和、協和、柔和、唱和、穏和、温和、調和、緩和、融和、講和


*間 : 間人、間者、間使、間諜、間接、間道、間隙、間疎、間隔、間歇、間欠、人間、山間(=さんかん・やまあい)、仏間、広間、合間、中間、手間、世間、谷間(=たにま・たにあい)、林間、雨間、空間、夜間、昼間、峡間(=きょうかん・はざま)、期間、時間、晴間、雲間、幕間、瞬間、隙間


*相 : 相互、相生、相同、相当、相好、相似、相応、相伴、相対、相乗、相思、相克、相殺、相術、相場、相棒、相違、相続、相聞、相貌、相談、相撲、人相、悪相、形相、手相、世相、皮相、死相、色相、面相、骨相、家相、実相、真相、様相、滅相、瑞相


*愛 : 愛人、愛好、愛用、愛惜、愛情、愛欲、愛着、愛想、愛憎、愛撫、愛護、仁愛、友愛、恋愛、情愛、偏愛、割愛、最愛、博愛、溺愛、慈愛、熱愛、親愛、寵愛、同性愛、異性愛、父性愛、母性愛


*哀 : 哀心、哀史、哀哭、哀情、哀惜、哀悼、哀愁、哀歌、哀憫、哀憐、哀願、悲哀


*憐 : 憐情、憐憫、可憐、哀憐



 ぐっときます。めちゃくちゃで、ごちゃごちゃで、ぐちゃぐちゃ。それでいて、心に迫るし、染み入る。これらの言葉たちは「生きている」としか、思えない。


*いろいろな出自のものたちが「一堂に会している」=「あっている」=「視線を交わし合っている」=「目配せをし合っている」。つまり、「生きている」。


 語源とか、歴史的経緯とか、正統性とか、由緒とか、根拠とかいう、「正しい・正しさ」とも置き換えられるであろう、窮屈で抽象的なものやこととは無縁で、


*今、ここに「ある」ものやことをじっと観察し、今、頭の中に「ある」らしきものやことを呼び起す=呼び覚ます=よみがえらせる。


の精神で、「あう」と「信号」について、しばらく考えてみようと思います。


 あとは、目を凝らすだけ。


 夜の暗闇の中で、さまざまな信号たちが点滅しているように、既に「あう」は目の前で明滅を繰りかえしながら「ある」のですから。


 たぶん、「生きている」のですから。(「あう(3)」より)



     〇



「占い」は、この惑星に生息するヒトという種に、共通した行為=行動のようです。文化人類学、考古学、歴史学、社会学、文学などでも、さかんに扱われています。何しろ、面白いのです。個人的も、興味があります。種類を挙げたら、切りのないほど出てきます。種類別に「占い」を列挙しようとしましたが、うんざりしそうなので、やめました。ここは、言葉のフェティシストのはしくれが開設しているブログなので、観念や概念よりも言葉に注目してみます。


「うらない・占い」という大和言葉系の言葉が、「うらかた・占形=占象=卜兆」と呼ばれる、亀の甲や鹿の肩甲骨を焼いたさいに生じる裂け目・割れ目の形で、吉凶を占う行為から来ていることは、大きめの辞書を引くと知ることができます。そういえば、「亀裂」という言葉がありますね。なぜ、カメさんやシカさんなのでしょうか? 調べれば、分かるでしょうが、興味はありません。


     *


「唯○論」という言い方があります。ある特定のものごとや現象や特質みたいなものを用いて、森羅万象をひっくるめて面倒みよう、といった場合に用いるネーミングの産物、あるいはブランドのことです。グーグルなどで検索するさいに、半角の「*」を使うことがありますね。試しに "唯*論" で検索してみたところ、あるはあるは、そのヒット数の多さにびっくりしました。まず、以前に見聞きしたことのあるものを列挙します。


 唯幻論=唯心論=唯物論=唯臓論=唯言論=唯我論=唯脳論=唯神論=唯金論……


 次に、初めて見たものの中で、特に印象的だった使用例を並べます。


 唯ゲーム論=唯エネルギー論=唯情報論=唯退屈論=唯創論=唯遺伝子論……


 この言葉の羅列を見て感じるのは、


*「唯○論」というのは、メタな立場=「これですべてが解決=説明=解明できるぞ。大したものだろ」という視座に立ちたいという欲望である。


と言えそうです。でも、これまで見聞したところでは、メタな位置に立とうとするとメタメタ=めちゃくちゃになることは確かです。だから、わざと上の言葉を全部「=」で結びました。ちなみに、「=」は一種の感字であり感覚的なものです。「すべての面倒をみる」というメタな心意気があれば、ほかの「唯○論」と「=」で結んでもいいことになります。


 なにしろ「何でも面倒をみよう! まかせとき!」というのですから。ということは、「=」は権威のあるお墨付きの印(しるし)であり、5つ星とか勲章みたいな「栄誉」のシンボルということになりませんか? つまり、


幻=心=物=臓=言=我=脳=神=金=ゲーム=エネルギー=情報=退屈=創=遺伝子……


という「存在の偉大なる連鎖」が形作られると言えます。やっぱり、「ぜんぶ、わたしに、まかせなさい!」状態です。


 それにしても、すごく貪欲というか野心的な考え方ですね。思わず、占いを連想してしまいました。星、タロット、トロッコ、水晶、ミラーボール、姓名、生年月日、茶柱、貝柱、おみくじ、恋するフォーチュンくっきー!、動物、植物、ミジンコ、鉱物、風水、噴水、筆跡、指紋、声紋、鼻紋、DNA、ハンコ、電子サイン、印鑑、きんかん、印章、印象、髪型、寝癖、歯型、黒子(ほくろ)、白子、明太子、色、エロ、亀の甲羅、ナオこーら、おかゆ、オートミール、夢、霊感、性感、手相、人相、顔芸、骨相、家相、仮装、女装、鏡、りゅうじ、ひげ、はげ、まげ、鼻糞の色と質、朝一番のおしっこの色と透明度、しいたけ、さるのこしかけ、オーラ、おらしんのすけ……。「何でもあり」が「何でも占っちゃう」。


 それは脇に置いて、上記のような列挙作業をしたのには、理由があります。このブログでやっていることが、


*「唯○論」という「まぼろし」を形成する作業に似ている


からです。そういうわけで、このブログにはそんな野心は毛ほどもありません、と断っておきたいのです。(「占い・占う(連載「かく・かける」の補遺)」より)



     〇



 ややこしいですね。なんで、こんなことをするんでしょうね。好きだからなんです、とお答えする以外、申し開きができません。よく言えば、


*記事に書かれている言葉たちの、表情・仕草・動き・めくばせまでに、目を配ってあげてください。


という願いなんです。悪く言えば、


*おふざけ


ですが、決して悪意から出るおふざけではありません。たとえ、おふざけであるとしても、本気で=マジでやっているんです。


 嘘くさく聞こえるかもしれませんが、


*言葉たちを愛している。


からなんです。誤解を招きやすい表現ですが、この記事を書いているアホは


*言葉のフェティシスト


なんです。言葉に愛着を持ち、言葉が好きで仕方がないんです。その意味では、ビョーキかもしれませんが、このブログを読んでくださっている方々に、嘘はつきたくないので、正直に告白します。本気です。正気とまでは申す勇気も自信もありませんが、本気です。


     *


 ここまでお話ししたので、付け加えて申しますが、このブログの文章では、


*○○=△△=□□


という具合に、似たような意味の言葉や、ちょっとずれた意味同士の言葉や、場合によっては、正反対の意味の言葉を「=」でつなぎます。あれも、方法=戦略=ビョーキの症状なんです。たった今、ここで話している最中のサブテーマを言葉に演じさせましたが、お気づきになりましたでしょうか? 「方法=戦略=ビョーキの症状」が、そうです。で、どうして「=」をつかうのかと申しますと、少しまえのところで書きましたように、


*言葉には、「何とでも言える」という特性があり、それはヒトが故意に「偽る・ごまかす」さいに、よく用いられる。


ということを、「暴(あば)く」と同時に、話の方向が一方に傾いていったり、意味が固定=固着=断定=「それ以外はなし」=「これだけが正しい」となるのが、嫌いなので、それを避けようとしているからなのです。


 さらに申しますと、


*○○=△△=□□


と並べることで、言葉に対する自分の愛着やこだわりや姿勢といった、きわめて個人的な考え方=主張を読者の方々に「体感」してほしいと願っているからなのです。


     *


 以上述べたような方法=戦略は、確かに、ややこしいです。ですので、以前は、ほのめかすくらいに止(とど)めたり、あえて詳しく説明することまでは控えていました。


 ところが、プロフィールに載せてあるメールアドレス宛に、複数の熱心な読者の方々から、「読みにくい」「なぜ、『=』をつかうのかが分からない」「全体的には、言いたいことは分かるので、文章をもっと簡潔にしてはどうか」。といった意味の苦言とアドバイスを頂戴するので、


*ややこしいけど、何とか分かっていただけるように説明しよう、


と決意したのです。


 で、このところ、頻繁に記事のなかで、上述の方法=戦略を実践したさいに、すかさず説明を加える、という弁解=言い訳=一種の種明かしをしているのです。ややこしいですね。くどいですけど、本気なのです。これが自分流の


*言葉への接し方=愛し方


だと信じて、マジでやっていることなのです。(「つくる(1)」より)




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