「外国語」で書くこと

星野廉

2020/09/24 15:05


「母語」の中で「外国語」で書くこと。そのような話を、大学時代に見聞きしたことがありました。だれが、どのような文脈で言っていたのか、書いていたのかは忘れました。大切なのは、そうしたイメージとフレーズが、今、ここで、自分の中にあるということです。


「母語」を括弧でくくったのは、それが抽象的なものだからです。だれにも、知覚できず、極論を言えば、その存在さえも、明確な形で検証できるものではない。それくらいの意味です。「外国語」を括弧でくくったのは、それが比喩だからです。たとえですから、あくまでも、言葉の綾であり、これまた抽象的で、存在や真偽の検証など不可能というか、検証の埒外にあります。


 そうした、ないものづくしの、お話をしているのです。「うつせみのたわごと」というタイトルで連載した記事たちは、とりあえず「母語」と呼ばれている言葉をもとに、つたない書き手である自分が、わざと、くずし、まげて、つづった書き物です。「くずし、まげた」という点が、括弧つきの「外国語」と表記した理由とも言えるでしょう。


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 ふだん、自分がこうして書いている書き方の枠を「ずらした」とも、言えそうです。いつも自分を縛っている枠であれば、気がつかないのが当然でしょう。でも、その枠をずらせば、「縛り」や「締め付け具合」が気になるものになることは、想像しやすいと思います。いつもと違ったベルトをする。買ったばかりの服を身につける。新しい靴を履く。そんな場合に感じる、違和感を思い浮かべてください。


 違和感は、心地よいものであったり、窮屈なものであったりするでしょう。「うつせみのたわごと」シリーズでは、なるべく大和言葉系の語をもちいるように努めました。国語が大の苦手だった者の、お遊びですから、めちゃくちゃだったと思います。だからこそ、「たわごと」と名づけたのです。とはいうものの、以前からブログで書いてきたもののすべてが戯言ですから、相変わらずというべきでしょう。


 ものを書くさいには、用意していた走り書きメモを頼りに、アドリブで書く癖があります。そのため、文体的な統一など考えずに、文語調であったり、口語調であったり、駄洒落をちりばめたりの、ごった煮状態の文章になっています。こればっかりは、癖ですし、直す直さないの問題でもないと考えていますので、ご容赦願います。特に、このシリーズはほとんどが、ひらがなであったうえに、今述べたような、あやしげな言葉遣いをしたため、読みにくかったにちがいありません。辛抱して、読んでくださった方々に、あらためてお礼を申し上げるとともに、お詫びいたします。


 ありがとうございました。そして、ごめんなさい。


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 basic English や VOA の special English という言葉をご存知でしょうか。簡単に説明しますと、ふだん、日常生活で見聞きする英語よりも、単語の数を少なくしたものです。英語は、ほかの言語に比べて、語彙、つまり、単語の数がずば抜けて多いと言われています。日本語も、そうらしいです。なぜでしょう。不正確な説明になるのを承知のうえで、単純な理由を挙げると、英語も日本語も、大きな大陸の端っこにくっついている島々で話されてきた言葉だ、という共通点があります。


 いわば、ふちっこにあるわけですから、大きな大陸にある複数の言葉の影響を、受けやすい。言い換えると、外からの言葉が、島々にもとからあった言葉と混じり合ったという話ですね。すると、もとからあった言葉と、大陸から入ってきた言葉の、二重構造が生まれるわけです。例を挙げれば、「みごもる・はらむ」と「妊娠する・懐妊する」、「 have a baby 」と「 be pregnant 」みたいに、二通りの言い方が可能だということです。個人的な印象を申しますと、やまとことば系の「みごもる・はらむ」は、おなかのあたりでどんとくる感じがし、漢語系の「妊娠する」は頭の表皮あたりで理解している気がします。「懐妊する」にいたっては、「えっつ?」という具合に、理解するのに1秒ほど時間がかかる次第です。1秒って、意外と長いですよ。


 basic English や VOA の special English は、さまざまな目的や意図から、英語を母語としない人たちが英語を学習する過程で、なるべく負担のないように考慮し、語数を制限した人工的な英語だと言えそうです。2つの言語に興味のある方は、 それぞれ、"ベーシック英語"、 "スペシャル・イングリッシュ" をキーワードに、グーグルなどで検索なさってください。ウィキペディアの説明が、わかりやすいと思います。


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「うつせみのたわごと」という連載では、自分なりに、使用する単語に制限を設けて、あやしげなつづり方で、文章を書いたわけですが、そのときに、つねに頭にあったのが、basic English と VOA のspecial English でした。ところが、回を重ねるうちに、だんだん、マンネリ化してくるのを感じました。第二次世界大戦中に、英語を敵性語とみなし、英語を日本語に言い換えるという政策が、この国でとられていました。たとえば、野球では、「アウト」を「ひけ」と言ったらしいですね。


 それに似た馬鹿馬鹿しさを感じるようになってきたのです。目的が形骸化してきたと言えば格好をつけすぎですから、ただ飽きてきたというべきでしょう。「うつせみのたわごと -10-」で「Gen界」をあつかったさいには、遺伝子、投資、経済といった分野の話題を、できるかぎり漢語系の言葉をつかわずに、大和言葉系の語に置き換える作業が、とてもおもしろかったのですが、界=回を進めるごとに、徐々に難しく、また、わずらわしくなってきました。


「限界」は、「うつせみのたわごと -8-」で、すでに通り過ぎたのに、「うつせみのたわごと -12-」で、「弦界」をめぐって書いているうちに、大和言葉だけでなく、外国語の単語もまじえるようになってきて、英語と日本語をクロスさせての駄洒落までするほどになり、まさに限界をひしひしと感じるようになりました。枠が、だんだん緩くなっていったということです。お恥ずかしい限りです。10 の「げん」のうちの最後である「絃界」で、インターネットについて書いているときに、Internet を「あわいあみ」などと置き換えているうちに、あまりにも馬鹿馬鹿しくなり、思わずひとりで笑ってしまいました。


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 でも、本気だったのですよ。本気で、このシリーズを書いていたことは、確かです。本気だからこそ、楽しかったし、ひとさまに笑われようとも、自分にとっては、やりがいがあったのです。だから、続けられたのです。今でも、「たわごとシリーズ」を書いたことは、後悔していません。また、いつか、大和言葉づくしで、文章をつづってみたいという気持ちもあります。


 収穫というとおおげさになりますが、枠をずらして書く、あるいは、言葉をつくりながら書くという体験は、当たり前だと思っている、ことや、ものや、さまを、それまでとは異なった視点からとらえる機会になった気がします。とらえなおす、見なおす、考えなおす、感じなおす、という感じです。枠をずらすさいには、


1)ある漢語系の言葉に相当する大和言葉系の語を、辞書などで探しだして使用する、


2)大和言葉系の語を組み合わせて説明的に書く、


3)大和言葉系の語を用いて比喩をつかい、ほのめかす、


以上の3つの方法があるように思います。


 いずれの作業も、自転車に乗れるようになるとか、泳ぎを覚えることに似て、体でおぼえる部分が大きいと感じました。実際に、やってみないと、ピンとこないところがあります。万が一、ご興味のある方がいらっしゃるとすれば、ぜひ、お試しください。なかなかスリリングな経験ですよ。いい頭の体操にもなります。どうせ素人のやることなのですから、自己流でかまいません。楽しければいいのです。お勧めします。


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 異化という言葉があります。学問の分野によって、さまざまな意味があるようですが、個人的には、自分をいつもいる場所のふちっこに置くことだ、と理解しています。さきほど、違和感とか、窮屈という言葉を出しましたが、ふちっこ、つまり、そとに近い場に身を置くことは、自分を揺さぶることです。比喩をつかえば、崖っぷちにいて、崖の向こうを目にし、軽いめまいを覚えることです。


 たとえば、国籍という言葉があります。漢語系の語です。しかも、抽象的な意味をもっています。辞書や法律関連の専門辞典を引けば、ややこしい説明が書いてあります。でも、何となく、わかったつもりの言葉だとも言えそうです。国籍とは何か。これを感じ取るには、辞書を引くのもひとつの手ですが、国籍の異なる人と接してみるとか、外国に行き、自分が「外国籍の人」になってみるとか、そこまでしなくても、外国旅行をするために必要な手続きを、業者に任せるのではなく、自分でやってみるといいと思います。パスポートの取得作業をしたり、訪ねたい国の大使館などに出向きビザを申請するといった手続きです。


 また、いわゆる不法滞在者と呼ばれている人たち、難民とみなされている人たちに関する、テレビニュースや、ドキュメンタリー番組、新聞や雑誌の記事、ウェブサイト、書籍を利用するという方法もあります。そのさいには、自分自身がそうした人たちの立場になったら、どうなるか、というように、「他者=よそ者=自分とは関係ない人=縁のない人=これまで気にもかけたことのない人」を思いやる気持ちと想像力が必要になるでしょう。


 違和感や窮屈どころではない、過酷な体験を想像しなければならないかもしれません。でも、そうしないかぎり、国籍という抽象的な概念は、体感しにくいと思います。「国籍」だけでなく、「不法滞在」や「難民」という、何となくわかったつもりでいる言葉を、その言葉が指し示す立場や状態として、体感しようとするならば、相当な覚悟が要るでしょう。そうした境遇にある人たちと出会わないかぎり、あるいは、自分自身がそういう状況にないかぎり、「わかった」とは言えないにちがいありません。


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 話が飛躍しました。「母語」の中で「外国語」で話すこと、に戻します。上で、「国籍」という話題を持ち出したのには理由があります。大和言葉系の語と、漢語系の言葉についての、個人的なイメージを取り上げてみたいのです。「国籍」はちょっとややこしい例でしたが、たとえば、「遺伝子」という言葉を見聞きしたさいに、自分が「何となくわかったようなつもり」になっているのを感じることがあります。「インターネット」でも、そうです。「電話する」でも、同じです。


 今挙げた3語に共通するのは、広義の「からことば」系の語だという点です。漢字から成り立つ語にしろ、英語をローマ字で表記した語にしろ、抽象度が高いという個人的な印象を受けます。説明にしにくいのですが、「偉そう」、「もったいぶっている」、「これを知らなければ馬鹿だという雰囲気を漂わせている」、「真実・事実・正確という言葉やイメージに裏付けられた強い存在感がある」という言い方もできるかと思います。


 ちょっと遊んでみます。「いのちのもととなる細かな粒」。これは、「遺伝子」を大和言葉系の語をもちいて言い換えた表現なのですが、説明であり、比喩でもあると思われます。詩の一部であっても、おかしくないでしょう。「この星にめぐらされた、人と人をつなぐ大きな網」が、「インターネット」のことです。「広くめぐらされた糸を通じて、言葉をやりとりする」が、「電話する」に当たります。


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「遺伝子」では、その形態や、転写という仕組みや、正確な大きさや、受け継がれるというメカニズムが無視された言い方になっています。これは、文脈に応じて、必要な個所で別の表現にするという方法で、何とかやり過ごせるかなと思っています。


「インターネット」と「電話する」も、文脈次第で異なった言い方はできるかもしれませんが、両者に共通する「電気」あるいは「電子」を大和言葉系の語で表現するのは、至難の業だと半ばあきらめています。せいぜい、「魔法のように」などという具合に、比喩というより「逃げ=ごまかし」でお茶を濁すのが落ちでしょう。まさか、大和言葉系の語を細工して造語するわけにもいきません。つまり、「かみなりちから」とか、「いなずまちから」みたいに勝手につくるわけです。本文で用いているうちに、なじんでくれば、造語もひとつの手かなとも思えますが。


 なんて、アホなことをやっているのかと、お笑いのことでしょう。でも、連載中には、本気でこんなことを考えていたのです。また、今も考えているのです。直りそうも=治りそうもありませんね。


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「直りそうも=治りそう」で、思い出しましたが、「たわごとシリーズ」を書きながら、つねに心に留めていたことがあります。「翻訳不可能」な言葉でつづろうという、これまた、アホな企てなのです。シリーズでは、やたら、かけことばや、駄洒落を使いました。以前に、翻訳の仕事を少しやっていた時期があったのですが、英語での洒落や言葉遊びを日本語にするのには、とても苦労しました。


 英語の洒落を日本語でも洒落にして訳す。そんな言葉のアクロバットに命をかけている翻訳家の方がいます。例を挙げると、柳瀬尚紀という英文学者です。翻訳不可能と言われていたジェイムズ・ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』を訳した人です。「独特の日本語」で訳されているとの話です。自分は、その訳書を読んだことがないので、何とも言えませんが、ご関心のある方は、お調べになってください。これも又聞きで、恐縮なのですが、小田島雄志という英文学の先生が訳したシェイクスピアの戯曲集は、洒落に満ちているとのことです。これも、お勉強好きな方は、原文と照らし合わせて、確認なさってください。


 で、このアホの「たわごとシリーズ」ですが、これは、たとえば英語には訳せないと思われます。「標準的な日本語」(※括弧つきなのは、「そんなものがあれば」というくらいの意味です)にも、直せない感じがします。要約ならようやく可能でしょう。そんな、とちくるった企みで書いたたわごとですから、内容はないような部分がたくさんあるだろうとも感じております。


 ところで、翻訳機や翻訳ソフトなら、前回まで書いていたあやしげな日本語を、どのように訳すのでしょう。その種の機械やソフトが苦手というか、畏れ多くて敬遠していますので、使用を検討する気もありませんし、翻訳の結果については見当もつきません。それなりに健闘してくれるのでしょうか。


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 もうひとつ、「翻訳不可能」を目ざして仕組んだことがあります。これは、以前から何度もやっている「愚行=徒労」なのですが、つづられる言葉たちに、つづられる内容を演じさせるという、めちゃくちゃな「演出=自己満足=ひとりよがり」をやっております。


 たとえば、「ふえる」をテーマにした「Gen界」をあつかった「うつせみのたわごと -10-」では、つづられる言葉たちに、「増殖する」さまを演じさせた「つもり」なのです。あくまでも、「つもり」です。また、「減ると増えるとは矛盾しない、むしろ裏腹の関係にある」をテーマにした「減界」を「えがいた」「うつせみのたわごと -8-」でも、「Gen界」以上に、言葉が増殖するさまを「絵」として「かいた」つもりなのです。こんなことを書いていると、うんざりなさっているみなさんの顔が眼に浮かぶようです。でも、本気なんです。正気とはとうてい申せませんが、本気です。


 シリーズの最終界=回の「うつせみのたわごと -14-」では、「揺らぎ」と「伝わる」という、言葉にするのは不可能と思われるテーマに挑みましたが、文字通り、不可能=失敗を演じております。これは、誰がつづっても、失敗になるでしょう。つまり、巧まずして=企まずして、目まいに見まわれたという感じの、言葉たちの情けない表情を、文章をつづるというより、絵としてえがいたつもりなのです。つもり、つもりと、つもり重なってしまいましたが、そうするつもりではなかった、つまり、強いて意識して行ったことではないと、申し添えておきます。つまり、言葉に身をまかせて、でまかせに、つづっていると、こういう不思議なことがしばしば起こるのです。


 言葉であそぶつもりが、あそばれちゃうのです。言葉はあなどれません。


 なお、つづられているテーマをつづられている言葉たちに演じさせるについての弁解=説明に、興味のある方が、万が一いらっしゃいましたら、「夢の素(2)」で「渡部直己」という固有名詞がある部分に、ちらりと目を通していただければ、うれしいです。


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「絃界」をあつかった「うつせみのたわごと -14-」では、検索が検閲ときわめて近いことについて、触れています。このシリーズでは、読者の方に、マラルメのさいころ遊びに付き合っていただく、つまり、読者参加型ブログを意図とし、「追記」という形で、グーグルを用いてのキーワード検索ができるようにしておきました。


 で、その「追記」の部分を除く、たわごとの本文ですが、そこだけは、なるべく検索エンジンにテーマが引っ掛からないように、工夫をしてみました。仕組んだ、とも言えます。ひらがなが多いですから、テーマと関係のある語は、通常の検索エンジンの網=罠には、かからないのではないかと、高をくくっておりますが、どうでしょうか。固有名詞ですと、ひらがなでも、たいてい引っ掛かります。たとえば、最終回で出てくる「えしゅろん」は、固有名詞ですから、もし「えしゅろん」が、噂どおりに然るべき働きをしている=ちゃんと機能しているのなら、アホの書いたたわごとがデータとして、傍受され、どこかに保存されている可能性もなきにしもあらずだと考えています。ちなみに、瓶裸出院と表記すれば、餌腫論の網に引っ掛かるでしょうか。


何だか、うつだけじゃなくて、このところ、被害妄想の傾向が強くなってきて、ビョーキ持ちとしては、かなりやばいと自分でも危惧しております。もともと、そうした傾向は強いと感じていました。だからこそ、「架空書評 : ビッグ・ブラザー」、「ビッグ・ブラザー」、「きな臭い話」、「け〓〓く」、「2010年1月20日にギャグる」などを書いたりするのでしょう。被害妄想とも言えそうですが、要するに、ビビり=小心者=臆病者ということですね。


>まぼろしよ、まぼろしであってくれ。ゆめよ、ゆめであってくれ。くるいよ、くるいであってくれ。たわごとよ、たわごとであってくれ。


 これは、「うつせみのたわごと -13-」の最後の段落から、引用したものですが、今は「もうそうよ、もうそうであってくれ」という心境です。もう、そうだったりして。「もう、そうなら=もうそうなら」、「マジこわー=あやうい」ですね。



※この文章は、かつてのブログ記事に加筆したものです。https://puboo.jp/users/renhoshino77



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