日本語にないものは日本にない?(1)

星野廉

2020/09/22 13:14


 本を読むのは好きではありませんが、これまでに何冊の本を買い求めたことでしょう。そして、積読し、あるいは斜め読みや目次だけ読みやあとがきだけ読みだけをして、いつの間にやら処分してしまったことが、どれだけあったでしょう。また、わざわざ図書館に出向いて借りたものの、斜め読みや目次だけ読みやあとがきだけ読みだけをしたならまだしも、全然読まないで返却したことが、何度あったことでしょう。


 本については、だいたいそんなお付き合いしかしたことがありません。もちろん、例外もあり、いちおう全体を読み通したものもあります。ただ、内容があたまの中に残っていないため、あれとこれを読んだという具合に、思い出せないのです。フィクションでも、ノンフィクションでも、事態は変わりません。


 あとは、今書棚にある本たちや、押入れの中に積んである段ボール箱に詰められている本たちと、どう付き合っていくかです。「枕頭の書」や「愛読書」という言葉があります。要するに、愛着があるため手元に置き、頻繁に目を通す本のことですね。それなら、あります。ただし、正確に言うと、短編集に入っている短編ばかりです。愛読書というより、愛読短編作品というべきでしょう。今、書棚を眺めているのですが、やはり短編集が多いです。エッセイ集のたぐいも目につきます。


 長編は駄目です。読めません。途中でわけが分からなくなります。脳の記憶容量というか、情報処理能力がひとさまに比べると劣るという気がします。これは、幼いころから感じていたことです。だから、「ヒトは、1度に1台のテレビ受像機だけなら、マジで観ることができる。=ヒトは、1度に2台以上のテレビ受像機を、マジで観ることはできない」(「人面管から人面壁へ」から引用)なんて書いたりするのだと思います。


 あれって、「ヒトは」などと一般化しながら、実際には個人的な能力について感想を述べているだけなのですね。恥ずかしい限りです。


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 以上述べたように、本を読むのが苦手で、記憶力がとても悪いのですが、今、ある本に書いてあった断片的な記憶を必死でさぐっているところなのです。きっと、きわめてあいまいな話になると思いますので、あらかじめお断りしておきます。ごめんなさい。


 確か、その本には「日本語にないものは日本にない」という意味のことが書かれていたような気がするのです。タイトルも著者名も覚えていません。ただ、「日本語にないものは日本にない」の一例として、「社会」が挙げてあったことだけは覚えています。


 明治維新以後に欧米の文化を取り入れるさいに、「社会」という言葉と、「社会」に当たるものが、この国に存在しなかった。で、英語の society やそれに相当するヨーロッパの言語の単語を日本語に翻訳しようとして苦労し、「社会」という言葉を造語した。


 そんなような話でした。あいまいですよね。こんな場合には、そのいわば「幻の本」については忘れて、というか読まなかったことにして、上述のような「説」があるという前提をでっちあげて、話を進めるのがいいかと思われます。つまり、ここでフィクションを繰り広げるのです。


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「フィクションを繰り広げる」と書いてしまいましたが、言葉を用いて話したり書いたりすることは全部「フィクション=作り話」であると、自分は考えています。したがって、そもそもが「謎の本」の有無はどうでもいいと考えることもできます。


 そうしましょう。あの本のことはどうでもいいことにします。「社会」という造語のことは、ひとさまのお話ですので、忘れます。


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 さて、「日本語にないものは日本にないのか」という問題について、考えてみます。このブログで書いた「ずらす」と「かえるのではなくてかえる」という2本の記事では、わざと大和言葉系の言葉を選んで書くという実験をしました。


 自分にとって「書く」と「考える」は近い行為です。書くときには「言葉=語」を使います。「言葉=語」はたくさんあります。たとえば、あることを書こうとする場合に、「ヒト・人・人間・人類」のうちのどれを選んで使うかに迷うことがあります。「あの人・あの方・○○さん・彼女(彼)」や、「ある人・ある方・仮に○○さんとしますが・知り合いの人・友人」についても、同様に迷います。


「です・ます」調と「だ・である」調のいずれを使うか、どの「言葉=語」を用いるか、漢字にするかひらがなにするかカタカナにするか、読む対象としてどんな年齢層を想定するかなど、「書く」という行為にはさまざまな「選ぶ」という行為が伴います。


 個人的な癖なのか、多くの人たちも同じような経験をしているのかは、尋ねる相手がいないので分かりませんが、まず文体を選び、次に言葉=語を選びながら、文をつづっていくという行為は、考えるさいの「方向=進行=展開」に大きくかかわっているような気がしてなりません。少なくとも、自分にとっては、ですけど。


 みなさん、どうお思いになりますか。「書き方」で「書く内容」が変わるなどというのは、あまりにも行き当たりばったりというか、テキトーで出まかせ主義的でしょうか。


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 ちょっと話をずらします。


 さきほども触れた「ずらす」という記事から、いくつかの部分を「自己輸血=自己引用」し、それを「ずらす」、つまり「書き換える」ということを、以下でやってみます。A)が引用文で、B)が書き換えた文章になります。この時点では、B)がどういう文章になるかは予想がつきません。さて、「書く=考える」の実験をしてみます。


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A)それにしても、ヒトは、ずれている。なみはずれて、ずれている。かつて尻尾のないサルのあたまのなかで、何かがずれ、ヒトとなった。そうして、それまでのあるがままのさまから、はずれた。そんなものがたりを思い出さずにはいらない。あれは単なる語りかそれとも騙りか。確かめることができるたぐいの話ではなさそうなのだが。


B)それにしても、ヒトは、ずれています。途方もなく、ずれています。太古に尻尾のないおサルさんの脳の中で、ズレが起きて、ヒトという種(しゅ)になった。そんな「お話=フィクション=説=与太話=でたらめ=でまかせ」を思い出さずにはいられません。あのようなガセを検証するなんて、そもそも可能なのでしょうか。


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A)ヒトは、いま、おのれのあたまのなかを、のぞこうとしている。皮をはぎ、骨をくだいて開き、なかにある「もの」を、みて、わけて、とらえようと、たくらんでいる。開いたところで、これも、とらえることができるたぐいの話ではなさそうなのだが。


B)今は脳ブームですね。脳の研究者を自任するヒトがたくさんいます。脳にいいことばかりするオーソリティーのひとりが、最近、自分の欲ボケだけは解決できなかったことが知れて問題になりましたが、ああしたブームやその立役者たちのうさん臭さを垣間見る思いがしました。


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A)そればかりではない。ヒトは、親から子へと受け継がれていく、いのちの「すじ」の仕組みを解きほぐすわざにも、血道をあげている。病を治し、豊かな実りを手にするためだというのだが。解きほぐしたところで、ほぐしきれるたぐいの話なのだろうか。


B)ほかにも例を挙げると、遺伝子の研究が急速に進んでいますね。たとえば、病気の治療に役立てるとか、遺伝子組み換えなどの技術により農作物を増産させるといった大義名分のもとに盛んに行われています。でも、何でもDNAに還元できると言いたげな、能天気さと傲慢さのミックスサンドみたいな節操のなさを感じませんか。


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A)ヒトはわける。わけてわけまくる。幾度も皮をむいて、何やらまた皮が出てきたらしい。小さな小さなつぶが見えてきたという。そのあやしい動きを目にして喜び勇んでいるもようが、ヒトの小ささに重なる。いくらわけたところで、わかるたぐいの話とは思えないのだが。


B)ヒトは、「わける・分ける」にとり付かれている生き物のようです。「わける」という、切りのない行為に歯止めをかけることは不可能なのでしょうか。とうとう「量子」という「お話=フィクション=説=いわゆる一種の与太話」が流行り始めました。いつまでブームが続くのでしょう。これにも「賞味期限」があるみたいな気がするのですが、どうなんでしょう。


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A)ヒトは、さらに、この星のそとと、彼方にまで目を向けている。遠くに目を向けたところで、見えるたぐいの話とは思えないのだが。


B)ヒトは、月に仲間を送り込んで歩かせたり、石を盗んで来させることに成功し、かなり気を良くしているようです。そのせいで、この惑星の大問題をそっちのけにして、もっともっと遠くの惑星に仲間を送り込む計画を立てているヒトたちもいるみたいです。それだけじゃなくて、ブラックホールやビッグバンなんて、とてつもない大風呂敷を広げているオーソリティーもいらっしゃると聞きますが、身の程をわきまえるべきではないでしょうか。それとも、あれはロマンというのですか。マロンくらいで我慢しておきましょうよ。


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「書く=考える」の実験は、以上のような結果になりました。蛇足ながら申しますと、「実験」という言葉を使いましたが、「お遊び=戯れ」であることは言うまでもありません。あえて「理屈めいたもの」を述べるとすれば、A)の各文章は大和言葉系の言葉をできるかぎり使うという「ルール」と、「だ・である調」という「文体」を「枠」とする一方で、B)の「翻訳文」は「です・ます調」と、このブログでこれまで書いてきたさまざまな自分流の「書き方」を「枠」として書かれたものです。


 ヒトは生体のレベルにおいても、また精神・意識・気分といった曖昧模糊とした状態・状況のレベルにおいても、常に移ろい、変化しつつある生き物です。そうした揺らぎも「枠」として働いていると考えられます。「枠」は、今挙げた以外にもあるにちがいありません。


 したがって、上記の5組のA)とB)は、ある時点でのさまざまな「枠」がからみ合った「とりあえず」の結果である、とみなすのが妥当かと思われます。また、あのような文章が書かれたもとには、「勢い」のようなものもあるでしょう。「実験」という言葉にかこつけて、出まかせで「即席の=即興の」翻訳ごっこをやってみましたが、「出るに任せて出たもの」というのは、うんちに似て興味深いものがあります。いとおしさも覚えます。あれよあれよという具合に漏れ出たようなものなので、出たうんちを眺め入る好奇心の強い幼児を見習って、これからじっくり読み直し、A)とB)を読み比べて観察してみます。


 なお、ただ今書きました「うんち」と「出る」に関する比喩にご興味をいだかれた方は「言葉とうんちと人間(うんち編)」という記事をご参照願います。前後には、「言葉とうんちと人間(言葉編)」と「言葉とうんちと人間(人間編)」という記事もあります。


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 今回は最後のほうで、本筋からは話がずれましたが、引き続き次回も、「日本語にないものは日本にないのか」という問いについて、考えてみる予定です。


 ちなみに、この問いは比喩であり、深い意味はありません。文字通りに取らないでくださいね。当ブログは、「正しい」「正しくない」とか、「研究」とか、まして「学問」などとは無縁です。でも、それなりに本気でやっております。その点について、どうぞ、ご理解とご了承をお願い申し上げます。



※この文章は、かつてのブログ記事に加筆したものです。https://puboo.jp/users/renhoshino77


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