さらに気になることが
げんすけ
2020/08/07 09:19
さらに気になることが、1つあります。これも
*数学
と関係があります。よりにもよって、なぜ数学なのでしょう。なにしろ半端じゃなく苦手な科目でした。数学の授業を受けていた中学・高校生のころ、さっぱり理解できなかったのです。
どうして、分かりもしない数学の領域に関するテーマやトピックが、今も気になったり、その種のことにこだわったりするのか、不思議です。数学の授業で見聞きした断片的なフレーズやイメージが、どこか(※たぶん脳でしょうけど)に残っているらしくて、ときどき不意にあたまに浮かんで、しばらく去らないという感じです。
で、
*微分におけるグラフの曲線
の話というかイメージに加えて、さらに
*確率
が気になって仕方ありません。正確に申しますと、
*確率・統計・行列という言葉とイメージが気になる。
のです。気になるのは、今挙げたそれぞれの領域というか分野の内容ではありません。ぜんぜん、授業が理解できなかったのですから、その内容など論じることはできません。
恥ずかしい話、赤点、つまり20点以下しか取れなくて、校長室で再試験を受けるように指示されて、何とか単位をもらっていました。その再試験も、わけが分からないものでした。よく覚えていないのですが、あれは、
*形式的な救済策=形だけの儀式≠「再試験」
だったのではないかと、今になって思います。当時の数学の先生に、感謝すべきなのでしょう。
ですので、今、書こうとしているのは、「確率」と申しましても、
*あくまでも「確率」という言葉と、「確率」についての個人的なイメージ
をめぐってのお話なのです。
*
で、本題に入ります。
悪態みたいな言い方になりますが、そもそも
*確率・統計なんてテキトーな響きのある分野が、数学という「学問」に存在していること自体が不思議だ。
と思えてなりません。
ところで、ここでお断りしておきたいことがあります。たった今、確率・統計について、
*テキトー
という言葉をつかいましたが、個人的には
*いい意味
でつかっています。微分に関しても同じです。
*でまかせ
は言うまでもなく、
*いい加減=でたらめ=感覚的=勘=直感=直観=行き当たりばったり=成り行き任せ
といった一連の言葉たちにも、愛着を感じています。ですので、微分にしろ、確率・統計にしろ、その親=親分らしき数学にしろ、テキトーだと言っているのは、
*褒めている
というか、
*感動している
のです。もうお気づきになられたと存じますが、このブログでは、どちらかというと、
*偏屈でへそ曲がり
な視点から言葉をつづっております。お読みなる方に誤解されるだろうな、と心配しつつも自分なりの言い回し=言葉遣い=文体=スタイル=スタンス=タラッタラッタラッタうさぎのダンスで、言葉をいじっています。
で、今、問題にしているのは、愛すべき
*テキトー=いい加減=でたらめ=感覚的=勘だより=直感的=直観的=行き当たりばったり=成り行き任せ
といった言葉で飾られるはずの操作=作業=手仕事=お遊びが、なんだか
*いかめしい=威張った=冷たい=上から目線の=傲慢な
衣をまとって、語られて=騙られているような気がするということなのです。これは、
*「好ましい=快い=気持ちいい=楽しい」「状態=状況=環境」ではない
と、個人的に感じております。
*
*「テキトー=いい加減=でたらめ=感覚的=勘だより=直感的=直観的=行き当たりばったり=成り行き任せ」
という、
*ヒトという種(しゅ)の存在と行動の習性=特性=属性=惰性=性癖=傾向
を、
*的確に=正確に=うまく=ぴったりと表している言葉・イメージ
があるにもかかわらず、
*「いかめしい=イカめし=イタめし=さらめし、クールで売っているはずの貴一さんの声とテンションがこの番組ではなぜ高いの?=威張った=冷たい=上から目線の=傲慢な」「衣=衣装=雷様が穿いている派手派手の虎の毛皮のパンツ=虎の威」を、まとわせて誤魔化すのはやめよう。
という感じです。
*
で、話をもどします。
確率・統計は、物理学とも関係しているみたいです。
*神様がサイコロを振っているわけがない
とか何とか、よく覚えてはいないのですが、そんな意味のことを、
*ある物理学者がわめいていた
らしいという噂を聞いた記憶があります。前後関係が思い出せませんし、たった今書いた「神様がサイコロを振っているわけがない」というフレーズが、果たして正確な記憶かどうかもおぼつかないのですが、とにかく気になって仕方ありません。
だったら、調べればいいじゃないの。キーワードを工夫すれば、ネット検索できるはず。そうお思いになる方もいらっしゃるにちがいありません。でも、調べるのは嫌なんです。あたまのなかでわめいている物理学者の名前は、覚えているのですが、そうした手掛かりをもとにネットで検索したくはありません。
なぜかと申しますと、
*実際はどうだったかには興味がない。
からなのです。
*「正しい」 vs. 「正しくない」は、どうでもいい。
と言ってもよさそうです。
*出るに任せて出てきた記憶・言葉・イメージのほうが、真偽や正誤よりも、ずっと大切だと思っている。
とも言えそうです。ですので、あえて固有名詞は出しませんでした。
いったいどういう神経をしているのか、とお思いの方もいらっしゃるでしょう。ですので、ここで、自己弁護=弁解=開き直りをさせてください。
自分にとって大切なことを考えたり、言葉としてつづるにあたって、心がけているのは、
*死の間際の心境でいたい
という姿勢=覚悟=スタンス=おたんこなすです。「死の間際」というのは、もちろん比喩というか、イメージ=想像=妄想です。自分がどんな死に方をするかは、ふつう予想できません。ただし、
*自ら死を決意して、死に臨むとするならば、死の間際に、何かを考えたり、何かを書き残すだけの余裕があるかもしれない。
とは言えるような気がします。そんな
*仮定=想定に近い、想像=妄想
という感じなのです。分かっていただけるでしょうか。
その「仮定=想定に近い、想像=妄想」に、まさに「仮に」身を置いてみると、「死の間際」という「仮の」比喩=たとえが、現実味を帯びて感じられてきます。「たとえる」という言葉の親戚らしい「たとえば」という言い方が、「例示」のほかに「仮定」の意味をもっていることから、お分かりになると思いますが、
*たとえ=比喩は、想像=妄想とかなり近い「意味合い=意味の位置関係」にある。
みたいです。
*
で、「死の間際」という発想ですが、これは、現在の自分が置かれている精神的および身体的状況と、経済的な状態および社会的な環境といった要因から導かれるものです。
結論から申しますと、これから先、自分が仕事をして食べていくことはかなり難しいし、しんどい。その困難と苦しさに耐える自信はまったくない。突発的な出来事がないかぎり、ゆるやかに最後の瞬間に向かっていくだけ。そんな感じです。
*「なしくずしの死」
という小説(※ルイ=フェルディナン・セリーヌ作です)のタイトルが思い出されます。で、自分が、
*死の間際に、PCのモニターを見ていたり、キーボードを叩いていたり、紙切れにボールペンで何かを書きつけている。
という状況は想像しにくいです。そうはいっても、
*死の間際におよんでも、何かを考えていたい。
というのが、せめてもの願いです。そのときには、おそらく、PCも、ペンもなく、ただ目を閉じて、
*考えている=思いにふけっている=夢をみている=ぼけーっとしている=もうろうとしている
つまり、自分を意識、あるいはぼんやり意識しているか、または無意識、もしくは意識不明・昏睡状態の境地に
*「いる」=「ある」
だけでしょう。
*死の間際の心境でいたい
という思い=スタンスは伝えるのが難しいです。
今、でまかせで浮かんだ比喩=たとえですけど、
*夢
を例にとるといいかもしれません。
夢のなかでは、自分の思いやイメージがすべて肯定されます。夢のなかで、自分の考えていることの真偽や正誤を確かめるために、辞書を引いたり、事典をめくったり、ネット検索しようという気になるヒトは、ほとんどいないのではないでしょうか。そんな感じです。だから、上述の物理学者については調べません。
*
話をもどします。
*「神様がサイコロを振っている」とは、宇宙が圧倒的な偶然性に支配されている。
という意味だと、仮定して=たとえてみましょう。また、
*確率・統計とは、偶然性を数量化する作業である。
ということにして話を進めてみましょう。すると、
*確率・統計とは、「限りなく」お遊びに近い作業である。
みたいに感じられます。飛躍すると、
*数学や物理学とは、一般にイメージされている学問から「限りなく」遠くに隔たった一連の作業である。
ように思えてきます。
粗雑=杜撰(ずさん)=いかがわしい=胡散(うさん)くさい言い方=考え方ですね。でまかせで言っている=書いているから当然です。で、
*でまかせとは、「神様がサイコロを振っている」=「神様は賭け・ギャンブルをしている」、つまり「宇宙が圧倒的な偶然性に支配されている」に、全面的に負ける=負かせる=任せることである。そして=だから、ヒトはでまかせに生きることを免れることはできない。
と言いたいです。どうしてかと申しますと、
*ヒトは、「何か」の代わりに「その「何か」ではないもの」を用いている
【※「何か」とは「餅」とか「レストランの料理そのもの」、「その「何か」ではないもの」とは「絵に描いた餅」とか「レストランのウィンドウに並んでいる料理のイミテーション=食品サンプル」と考えると分かりやすいかもしれません。
また、「何か」とは「あそこ(ヒトぞれぞれですので、お好きな「あそこ」を想像なさってください)」、そして「その「何か」ではないもの」とは「あそこの映った写真とか、テレビの映像とか、ネット上に出回っている写真や動画」と考えると、すごく切実=リアル=ガッテン=あら、いやだ、に感じられるかもしれません。ああいうものを見ていて、そこにはない=それ自体ではないにもかかわらず、燃えて=萌えて=催してきません? この場合には、燃えないほうが、きわめて危うい=ヤバいかと存じます。燃えてこそ、ヒトなんでしょうね。あれを見て燃えないなんてヒトでなしかもしれません。それにしても、きょうも暑いですね。汗ばむわぁ〜。】
みたいで、さらに言えば、
*「何か」の代わりに「その「何か」ではないもの」を用いているという現象=状況=事態は、ヒトという種(しゅ)の根本にかかわっている。
からでして、たとえば、
*曲線の微小な部分を拡大すると、ヒトには直線に見える(「何か」⇒「その「何か」ではないもの」)。
し、
*点からなる静止画像をコマとして早送りするすると、ヒトには動いているように見える(「何か」⇒「その「何か」ではないもの」)。
し、
*数学と物理学においては、数量化(「何か」を数量に置き換えること)という作業を大前提にしている(「何か」⇒「その「何か」ではないもの」)。
ようなので、やっぱり、
*「何か」の代わりに「その「何か」ではないもの」を用いているという現象=状況=事態は、ヒトという種の根本にかかわっている。
みたいで、もっと短く言うなら、けっきょく、
*ヒトは、「何か」の代わりに「その「何か」ではないもの」を用いている。
らしいからなのです。
問題は、「何か」が何かということです。たぶん、
*万物、あるいは森羅万象
ということになりそうです。さきほど書きました、
*数学や物理学とは、一般にイメージされている学問から「限りなく」遠くに隔たった一連の作業である。
とは、
*ヒトが「何か」の代わりに用いている「その「何か」ではないもの」と言うときの、「何か」とは森羅万象である。
という考え方=意見=お話=紙芝居の筋書き=でまかせを前提にしています。
*
ここで、きのうの記事の最後のほうでご紹介した、きわめてテキトーな図式=チャート=見取り図=でまかせ図である、
*「まぼろし・幻・幻想」=「現実・うつつ」=「言葉・言語・言の葉」(※この3者が、なぜ「=」で結ばれるのかは、おいおい説明していきます)
に、少々変更を加えてみます。すると、
*「げん・幻・幻想・まぼろし・魔を滅ぼす・間を滅ぼす・(隔たったものを)近くする・知覚する」=「げん・現・現実・うつつ・打つを打つ・うつをうつ・うつ(全・空・虚)をうつ・うつうつ」=「げん・言・言語・ことば・言葉・言の葉・事の端」=「げん・限・限界・限度・境い目・ふち・へり・端っこ・かぎり・かぎる・限る・かげる・翳る」(※この4者が、なぜ「=」で結ばれるのかは、おいおい説明していきます)
となりました。あくまでも、出るに任せて出てきた、でまかせです。
※この文章は、かつてのブログ記事に加筆したものです。https://puboo.jp/users/renhoshino77
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