歌と音楽の織物(その1)

げんすけ

2020/07/12 12:03


 子どものころ、次のような経験をしたことがありませんか?


 夜、床につく。目がさえて眠れない。近くで、あるいは、隣室から大人たちの声が聞こえてくる。耳をそばだてると、話の内容がはっきりと分かる。


 誰かの噂話をしている――。その誰かは、知っている人だ。へえー、あの人、そんなことやっているんだ。あんな顔をして。ふーん。えーっ、すごい。


 そのうち、眠気が訪れる。噂話には興味があるけれど、どうでもよくなってくる。


 聞いている。聞こえている。聞いている。聞こえている。


 そのうちに聞こえてくるのが、言葉ではなく、音、音楽、旋律のように感じられてくる。そして意識が薄れる。眠りに入る。


 そうしたことが、ありませんでしたか? 今でも、同様の経験ができるはずです。


 音、音楽、旋律のように聞こえる言葉――


いささか、甘美すぎる、たとえですが、


聞こえるけど聞けない、


というのは、それにちょっとだけ似ています。(「聞こえてる?」のオリジナル「聞こえるけど聞けない言葉」より)



     〇



「差異」という言葉は、難しく響くので、「間」を使って考えてみましょう。間が悪い、間を取る、間が抜ける――というときの「間」というのは、説明しにくくありませんか? 何となく、「イメージ」は分かるような気がするけど、言葉にしにくい。こういう場合には、やっぱり、魔法が必要なのです。魔法を使うと、いちおう言葉になり、これまた分かったような気がする。でも、あえて「イメージ」にこだわり、そこにとどまるのもいいですよ。すごく、こころよいです。


 今、「イメージ」と言ったものですが、音楽、歌、絵、空に浮かぶ雲のかたち、バレー(※バレーボールじゃなくて、ballet のほうです)、スポーツ、目的のない散歩、場合によってはゲーム――だったりします。「イメージ」のイメージが分かって、いただけたでしょうか? 


 言葉を、あまり意識しないものばかりです。


 言葉は影絵に似て、「差異」をあっさりと「見えるもの」にしてしまう面を持っている、


と言えそうです。


「差異 = 間」を知覚することは、影絵を見ることに「似ている」。影絵のように、「きれいだ」。


 そんな「見方=考え方」もできそうです。影絵は光と影の織り成す「まぼろし」です。漢字で書くと「幻」。「幻影」「幻灯」なんていう言葉もありますね。「幻灯」は「映画」のおとうさんか、おかあさん、みたいなものです。光と影の踊るさまを見ていると、何だか、ふわっというか、ぼーっとした気分になります。


 幼かったころに、影絵を見て胸をおどらせた体験を思い出しながら、そっと目を閉じてみませんか? 頭の中に残っている、きれいな映像と、当時の素直な感動にしばらく浸ってみませんか? 思い切って、今夜にでも童心に帰って、手を結んだり開いたりして、影絵遊びをしてみませんか? 


 きょうは、これ以上、言葉は要らないと思います。(「ま~は、魔法の、ま~」より)



     〇



> *「トリトメのない記号」とは、森羅万象、つまり「もの・こと・さま・自分というヒト・他のヒト」のことです。どうして「記号」なのかと申しますと、「もの・こと・さま・自分というヒト・他のヒト」は、それとそっくりなものが、たくさん並んでいたり、あちこちに散らばる形でたくさん存在するからです。イメージとしては、スーパーに並んでいるカップラーメンを想像してください。


 以上は、このブログの過去の記事である「おいしくない社会」から、「なぜ、お父さんがいないの?」に、コピーペースト=複製=コピー=引用したフレーズを、さらにコピペしたものです。


 たとえば、本というものは、印刷された製品=商品ですよね。印刷とは、コピー=複写=複製する行為です。音楽のアーティストの演奏を録音し、「原盤というコピー製造装置=マトリックス=お母さん」を作り、それをさらにCDという形で、おびただしい複製を作るのと、基本的に同じ行為です。スーパーに並ぶカップラーメンの製造と販売も同じ行為です。(「ゆうれいをはらう」より)



     〇



 よく冗談だと思われるのですが、自分は「ばばぬき」というトランプゲームを知りません。正確に言うと、今、「ばばぬき」を説明しろと言われてもできないという意味です。昔、2、3度やった経験はあります。その後、ほかの人たちがやっている様子を見たこともあります。でも、ルールがあたまに入らないのです。


 誓って申しますが、本当です。単純なルールだということだけは、何となく覚えていますが、どうやってやる遊びだったか、思い出せません。興味がない。覚える気がない。おそらく、そうしたメンタルブロックが働いているにちがいない、としか言えません。


 ですから、ほかのトランプゲームも知りませんし、できませんし、やる気もありません。こんなんだから、友達ができないのでしょうね。ついでに申しますと、あと、縁遠いものに、旅行と音楽があります。


 これも、ある人にこっそり白状したところ、冗談だと即断されましたが、高校2年生だった年の秋に、米国でほんの短期間のホームステイをしたのを最後に、泊りがけの旅行や観光旅行をした経験がありません。そういえば、その年の春に修学旅行もありました。それ以来、マジでなしです。これって、ギネスブックに掲載してもらえますでしょうか? 


 とにもかくにも、違った枕で眠ることが大嫌いなのです。そうなら、自分の枕を持参して旅行をすればいいのにと言われそうですが、少々閉所恐怖症気味なところがあって、自動車・バスをはじめ、列車、飛行機といった移動手段が苦手なのです。30分間でも長いです。15分くらいなら我慢できます。それ以上は、できれば、いや、何としてでも避けたいです。


     *


 もう1つの縁遠いものである音楽は、別に嫌いというわけではありません。ただ、大学生になったころから聴力が低下しはじめた以降は、楽しめなくなりました。複数のお医者さんの診断を受けましたが、ある周波数の部分を聞き取る能力が極端に落ちているらしいのです。現在は、補聴器で、そうした不自由さを補っているわけですが、器械を通して聞いているわけですから、快く聞こえてこない感じがあります。


 で、ある時、大恥をかいたのです。「レコード店」って、今でも言いますよね。レコードではなく、CDとかDVDとか、少し前ならレーザーディスクも売っていた時期でも、「レコード店」と言われていました。かなり前のことですが、ある時、ふと、何げなくレコード店に入ったのです。


 その頃は、円盤型のいわゆるレコードも売られていました。でも、その売り場面積が極端に狭いのです。そのかわり、「新譜○○」とかいう文字が印刷された細長い紙切れがプラスチックで包装されて、ずらりと売られているのです。あまり興味もないので、「新譜」だけが目に入り、きっと楽譜が売られているのだと思いました。楽譜がたくさん売られていることも、不思議だとは感じませんでした。何気なく、お店に入っただけでしたので、すぐに出ました。


 で、その少し後にCDというものが売られていること、レコードがもはや売られていないに等しいこと、そして、その「新譜○○」の包装を解けば、そのCDなるものが入っている事実を知ったのです。「あっ、そうだったのか」という感じでした。だから、あの時に入った店で、レコードが隅に追いやられていたのです。まさに、氷解というやつです。そのことを、ある知り合いに話すと、「うそー」という反応が言下に返ってきました。


 でも、本当なのです。もともと、語学は好きだったので、ラジカセと、ソノシート(※ビニール製のレコード)を聞くためのレコードプレーヤーは持っていましたが、レコード自体を買う趣味はなく、ステレオやコンポを持ったことはありませんでした。だから、レコード店に入るという機会も、数えるほどしかなかったのです。(「賭け・賭ける」より)



     〇



 さて、この記事の冒頭のほうで、


*「分からない」「通じない」「伝わらない」は必ずしもネガティブなことではなく、ポジティブな面もたくさんある


*「分からない」「通じない」「伝わらない」の前提として、自分と「他者 and / or 世界」は「違う」「異なる」「同じではない」という認識がある。


と書きました。


 こうした考え方は、ある意味では、「普遍性」や「普遍的」とは相反するものです。気になります。そこで、その「普遍性」「普遍的」について考えてみましょう。


*村上春樹の小説は普遍性をそなえている。だから、翻訳という形でも、世界のさまざまな言語を話す、多種多様な人たちに読まれ、支持されている。


という論調が、マスメディアだけでなく、ブログなどの形でネット上でも数多く見られます。この場合の「普遍性」とは、


*翻訳という「言語の置換え作業」を通じても伝わるもの


です。


 この翻訳でも伝わるという点は、非常に重要です。聖書(=the Bible)がもっとも分かりやすい例であり、歴史的事実です。この国に伝わった仏教のお経も、そうです。ディズニーのアニメ、ハリウッド映画、米国製テレビ番組なども、そうです。一方、


*音楽やスポーツの場合


はどうでしょう? 基本的には、翻訳という作業は必要ありません。


 音楽といっても、世界には


*多種多様な音階があり、楽器があり、演奏の形式がある


ようです。譜面の解釈も多様でしょう。当然のことながら、いわゆる


*クラシック


だけが、音楽ではありません。しかし、欧米が、歴史的に、世界において政治的および経済的に大きな影響力をおよぼしてきたために、


*たとえば、クラシック、ロック、ポップスと呼ばれている西洋音楽が世界標準のような役割を果たしている。


だけと言えそうです。とりわけ、


*クラシックという分野は、均一性が高い=ルールが厳密=世界どこでも同じ方法がつかわれている。


のではないでしょうか。


*クラシックの世界における、日本人を含むアジア系の人たちの活躍ぶり


には、目覚ましいものがありますが、これは、


*経済的な力と密接な関係がある


と思われます。才能はもちろん必要ですが、経済力なしに、クラシックの世界で成功することはできません。


*とかくお金のかかるクラシック音楽というテリトリー


に、師弟の身を投じさせるだけの余裕をもった、アジアの国々の人たち、および、欧米で生きるアジア系の人たちが増えてきた証拠とも言えるでしょう。また、欧米では、飛びぬけた才能があれば、経済的に恵まれなくても、その才能を伸ばすために支援するという、長いあいだに培われた


*機会均等を是とする思想


があることも忘れてはなりません。その点は、すばらしいことだと思います。


     *


 で、ロックやポップスになると、言語がともないますから、


*英語中心の世界的規模のマーケットが存在する


とはいえ、


*国、あるいは、地域によって、バリエーションがある


ようです。1例を挙げると、


*スペイン語を話す国や地域や人たちは、ラテンポップスと呼ばれるジャンルを確立している


と聞いたことがあります。また、


*中国語には、方言がたくさんある


とはいえ、おそらく、ある種の中国語(※複数かもしれません)が世界に散らばる形で


*マーケットを形成している可能性は高い


と推測しています。そうしたマーケット=市場では、中国語の歌だけでなく、中国語が原語の映画、テレビ番組、書籍が、膨大な数量で流通しているはずです。


 詳しいことは知りませんが、いわゆるエマージング市場を形成している、インド、ブラジル、東欧、ロシアなどでも、同じような現象が起こっているに違いありません。


 これは勘ですが、


*歌詞という形で言語と結びついている音楽のジャンルと、文学、メディア、演劇、映画、インターネットのサイトは、互いにかなり重なる部分が大きい。


のではないでしょうか。言い換えると、


*言語が仲介者となって、いわゆるマルチで多層的な形での、複数の文化圏が形成されている。


という気がします。


 逆に言うと、だからこそ、


*中国などでは、政府がネットやケータイの規制に必死に取り組んでいる


のです。


*旧ソ連が崩壊したのは、広義の情報技術(IT)の流入と浸透を防ぎきれなかったからだ


という説を思い出します。


*権力=国家の支配体制にとって、言論と情報の統制は体制維持ための最大のカギ


なのです。


 この国の将来のためにも、現在のイラン情勢を見守りましょう。(時の神=あわいわあい(1)」より)



     〇



 ブログ記事「時の神=あわいわあい(2)」の最後の部分がきっかけになって、「「時間」と「とき」」から、かなり本気になって、


*物理的な「時間」、および、ヒトが意識している「とき」


について、考え続けているのですが、当初は、直線的なイメージと円環的なイメージという2項対立をそうとう意識していました。で、お勉強が嫌いなので、あらためて本を読んだり、検索したりはせずに、高校生くらいまでに理科や社会科で習ったことや、物心ついてから現在にいたるまでに見聞きしたり、経験したことを思い出しながら、


*たぶん、時間って円環状なのではないか


という考えに傾いていきました。


 温帯にあるとされる列島に生まれたせいか(※最近は亜熱帯じゃないかと、夏になるたびに思いますけど)、


*季節の繰り返し=サイクルを何度も体験してきたこと


が、その考えの大きな支えになっています。


*アナログ時計を見たり、カレンダーを取り換えたりしたこと


は数知れません。きのうの記事では、ごり押しに、


*ぐるぐる運動にこだわる


なんてことをやっていました。夢にまで、ぐるぐるを見ました。ネコを相手に、ぐるぐるをして遊びもました。目も回りました。そんなわけで、うんざりしてきたのです。


*めまい=「目が舞うから、めまい、でしょうか?」


を思い出しました。


 みなさんのなかに、めまいに見舞われた経験をお持ちの方はいらっしゃいませんか? 軽いものから、激しいものまであるようです。


 昨年の2月の終わり頃のことですが、


*ものすごく激しいめまい


に襲われました。マジで死ぬかと思いました。大きな病院で、X線検査、CTスキャン、MRI検査を受けました。けっきょく、脳には異常はみとめられないので、耳のほうに関係する症状ではないだろうか、


*しばらく様子を見ましょう


という感じで、検査は終わりました。症状もそれ以来、起きていません。


*変だな


と感じたら、飲むようにと医師から言われて、予防薬? みたいなものを処方されました。


     *


 激しいめまいについては、もう1つ、経験があります。大学に進学して間もなく、耳の聞こえと耳鳴りが気になっていたにもかかわらず、横着をして放置し、大学卒業後に初めて耳鼻科のお医者さんに診てもらったさいに、


*耳に水を注がれる検査


をされたことがありました。その検査の時にも、


*世界がひっくり返っているのではないかと思うほどの激しいめまい


に見舞われました。どうやら、それは


*平衡機能検査


といって、わざとめまいを起す検査法だと、後になって知りました。めまいはそれほど頻繁に誰もが経験するものではないようですが、嫌なものですよ。


     *


 もっとも、次のようなこともあります。


*コドモは、自分から目を回すような仕草や運動をしたり、他人によって目を回すような状態にしてもらうのを好む


ということをご存知かと思います。みなさんご自身の、かつてのそうした経験を覚えていらっしゃいませんか? 


*メリーゴーラウンド、ティーカップ


なんかも、基本的に、めまいを誘う装置です。


*観覧車


も上部に行けば、怖くてめまいがするかもしれません。


*ジェットコースター


なんて、もろに目が回ります。


 乗り物酔いという症状があるように、


*自分が動く、動くものに乗る


ことにより、


*気分が悪くなる


とか


*目が回る


という生理的な現象が起こります。


 また、


*お酒による酔い


も度を越すと同様の現象をもたらします。いわゆる


*「危ない薬」


でも、同様の体験ができるかもしれません。もちろん、個人差はあるでしょうが、


*ヒトは、目が回るような体験を好む


と言えそうです。


 で、


*円環状の時間というイメージ


については、こんな感じで、もうたくさんという思いが強いのです。一方の


*直線的な時間というイメージ


に関しては、今のところ、どうでもいいという感じです。それよりも、


*連続性=持続性という視点から時間を考える


ほうに、現在は興味があります。で、思い出すのが、


*アンリ・ベルクソン(アンリ=ルイ・ベルクソン:Henri-Louis Bergson:1859-1941)というフランスの哲学者


です。なぜか、ノーベル文学賞の受賞者でもあります。なんででしょう? この人については、知りません。ただ、


*durée(=「持続・持続性」:「デュレ」みたいに発音します)


という語の出てくるベルクソンの文章の一節を、大学生時代にフランス人の先生の指示で暗唱させられた。だから、たまたま覚えていて、その語が今になって気になるのです。


     *


 きのうの記事でも書きましたが、フランスという国の


*国語観


つまりは「フランス語観」ですけど、これには独特のものがあり、詩であろうと、小説であろうと、哲学者の書いた論文であろうと、数学の論文であろうと、科学論文であろうと、


*美しければ暗唱するに値する


みたいな感じなんです。少なくとも、昔、指導してくれたフランス人の先生は、そう言っていました。


*「だから、どんどんいい文章を暗唱しなさい」


と何度も言われました。


 で、その


*持続性という考え方


ですが、そっちのほうが、物理的な「時間」およびヒトが意識する「とき」を考える時に、


*個人的にはしっくりくる


のです。さらに言うなら、


*快い=気持ちよい=うっとりする=うっふん=あっはん=ほあーん=でれー


という感じなのです。たとえて言うと=ほかの言葉に置き換えると、


*音楽=旋律=歌=うなり=流れ


です。


 視覚的には、次のように図式化できます。


      流れ + 方向

       経路・道筋

         音声

       快・美・生

      意識 + 自由


 きわめて個人的な図ですが、ほぼそんな感じです。


 要するに、エコーなんか効かせて


*カラオケで気持ちよく声を響かせながら歌っている自分


を思い出していただければ、よろしいかと思います。それです。


 歌や音楽には、


*旋律=メロディー=節という道筋みたいなもの


があって、


*それに導かれて=それに手を引かれて=それに乗って=それに運ばれていうという感覚


がありますよね。このブログを書いているオンチでも、それなりに


*旋律というものに沿って=乗って歌っている


つもりになります。その


*ある種のお任せ感=無責任状態


が心地よいのです。


     *


 で、キーワードである、


*「うたう・うた・うち」


を、広辞苑をはじめとする手持の複数の辞書で調べてみましたので、自分の好きなように以下に、まとめて=散らかしてみます。


*うたう・歌う・謡う・唄う・謳う・詠う・歌+合う・打ち+合う・訴ふ・訴える


*うた・歌・節をつけて言葉をうたう・音律に合わせる


*うち・打ち・その意味を強めたり、音調をととのえる・打ち興じる(おもろしろがる)の「打ち」・打ち続く(次々と続く)の「打ち」・瞬間的な動作を示す・打ち見る(=ちらりと見る・見るを強調した言い方)の「打ち」


 で、


*「うたう」がどうして気持ちよいのか


を考えてみました。いろいろな思いが浮かびましたが、結論から申しますと、


*今、ここにある・いる、それが続く期待・喜びを、全身で感じる・味わう


という感じです。


*持続性を分節化する


なんて、野暮・無粋・興ざめ・どっちらけなことをするのは、気が引けますが、上のような言語化=分節化も可能ではないかと思います。


 早い話が、みなさん、


*お好きな歌をうたってみてください。


それが


*持続性体験=今を生きること


なのです。実際には、


*鼻歌でも、ハミングでも、うなるだけでも、十分だ


と思います。要は、


*旋律に乗ること


なのです。


*旋律は今という瞬間を引き延ばし、どこかへ連れて行ってくれる乗物みたいなもの


です。


*「どこか」は「彼方(かなた)」といった遠い=抽象的な場所ではない


という点が大切です。


*「どこか」は、あくまでも、「今いるここ」であり、「今ここで、期待する=待つ」ことである


あるいは


*「どこか」は、「今いるここ」が、「今いるここ」のままに、びろーんと、のびる=伸びる=延びることである


と言ってよいと思います。そう言えば、


*「うたう」と似た体験に、「待つ」・「期待する」がある


と言えそうです。


 以下に、「「時間」と「とき」」から、関係のある部分を引用します。


*「待つ」という行為は、もろに時間を意識する状況である


と言えそうです。待っているあいだの、「あいだ」=「間」=「時間+空間」=「時空」にぎっしり、「とき」が詰まっている。そんな気が、個人的にはします。


*ときときときときときときときときときときときときときときときときときときときときときときときときときときときときときときときときときときときときときときときときときときときときときときときときときときときときときときときとき・・・


なんて感じです。


     *


 以上ですが、次のようにも書き換えることができると思います。


*「待つ」・「期待する」、そして「うたう」とは、「今ある・いる自分」を具体的体験として生きる、つまり、「今を引き延ばし続ける」行為である。


と言えそうです。待っている・期待している・うたっているあいだの、「あいだ」=「間」=「時間+空間」=「時空」にぎっしり、「いま」が詰まっている。そんな気が、個人的にはします。


*いまいまいまいまいまいまいまいまいまいまいまいまいまいまいまいまいまいまいまいまいまいまいまいまいまいまいまいまいまいまいまいまいまいまいまいまいまいまいまいまいまいまいまいまいまいまいまいまいまいまいまいまいまいまいまいまいまい……


なんて感じです。


*「物理的な「時間」およびヒトが意識する「とき」=「持続性」」という考え方=フィクションは、あくまでも具体的な体験を志向している。一方、「円環状あるいは直線状の、物理的な「時間」およびヒトが意識する「とき」」という考え方=フィクションは、抽象的なレベルにある。


と対比することも可能だという気がします。なぜなら、


*「物理的な「時間」およびヒトが意識する「とき」=「持続性」」という考え方=フィクションにおいては、「現在=今を生きているという意識」が現前している。一方、「円環状あるいは直線状の、物理的な「時間」およびヒトが意識する「とき」」という考え方=フィクションにおいては、年(365日)・時刻(「とき」を「きざむ」)・人生(空間的イメージにたとえられやすい、たとえば川、階段、植物、長い物体)・年代(空間的イメージに置き換えられやすい、たとえば年表)・世代(空間的イメージに置き換えられやすい、たとえばトーテム・ポール、系図)、歴史(空間的イメージに置き換えられやすい、たとえば、年表、植物)、過去現在未来(空間的イメージにたとえられやすい、たとえば、円、輪、線、紐、縄、川の流れ)という分類=分断された言葉=イメージとして個別に扱われる。


からです。


 上の文章で、(「物理的な「時間」およびヒトが意識する「とき」=「持続性」」という考え方が具体的な体験を、)


*「志向している」


と記述されているのに対し、(「円環状あるいは直線状の、物理的な「時間」およびヒトが意識する「とき」」という考え方=フィクションは、抽象的なレベル)


*「にある」


と書かれている点に注目してください。


「言葉の表層=音(おん)・文字」ではなく、「言葉の抽象的な側面=意味・イメージ」にかかわっているフィクション=考え方について記述する場合には、そのように表現するしか方法はないのです。


 つまり、


*具体的な体験をいくら言葉で書き表そうとしても、それは不可能な夢でしかない


のです。そのことに敏感でありたいと思っています。


     *


 それはさておき、次の点がきわめて重要です。


*「物理的な「時間」およびヒトが意識する「とき」=「持続性」」という考え方=フィクションを空間的イメージでとらえるとするなら、それは「重なる・かぶる・ダブる/ずれる・ゆがむ・はずれる」という映像になる。


と言えそうです。歌にたとえて考えてみましょう。


*歌は、「再現・再演・模倣」=「重なる」、あるいは、「変奏・編曲・改変」=「ずれる」という形で現前する。


そして、


*「うたう」という行為は、「再現・再演・模倣」=「重なる」、あるいは、「変奏・編曲・改変」=「ずれる」という形で、具体的に体験される。


のではないでしょうか。


     *


 きょうは、これから家事をしながら、「うたう・まつ」について考えてみたいです。


 めまいの後に千鳥足でふらついているような文章に、お付き合いいただき、感謝いたします。どうもありがとうございました。


 ところで、「鳴く」というのも、「うたう」に通じるものがありませんか。「通じる」なんて、きっとヒトの不遜な=勝手な=思い上がった妄想でしょうが、とにかく真似てみて、心地よいことは確かです。空耳かもしれませんが、遠くでネコが鳴くような声がしたので、鳴いて呼んでみようかと思います。


 ネコが鳴き 声音を真似て アホが鳴く


 にゃんにゃんにゃ にゃにゃんがにゃんで にゃあにゃあにゃ


 ねころがり 漱石読んで 猫語訳(「うたう」より)



    ◆



【※以上引用した抜粋の出所になるブログ記事は、パブーの電子書籍置き場にあります。パブーのリニューアルにともない、全電子書籍のレイアウトが崩れてしまったので、リンクが張れません。というか、各ページ(記事)へのリンクが張れないのです。意地悪をしているわけではありません。ご面倒をおかけしますが、興味のある方は、電子書籍にて閲覧ください。申し訳ありません。】


※この作文は「引用の織物・余白に・連歌」というマガジンに収めます。






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