言葉とうんちと人間(うんち編)

げんすけ

2020/08/17 11:22



 前回の後半で、次のように書きました。


*「口から出てきた音(=おん)=言葉」は、肛門から出てきたうんちと同様に、それを出したとされる人間から、離れて存在するものとなってしまっている。


 ここで、言葉とうんちの共通点について考えてみましょう。


*言葉とうんちは共に、体にある穴から出てくる。


 これは確かなようです。口と肛門という穴は、人間およびほかの多種多様な生き物にとって、生存するためには不可欠とも言える器官です。


「阿吽=あうん=あーん=あーむ」の「あ」が口だとすれば、「ん=む」は肛門にたとえてもよろしいかと思います。人間は「あー」と産声をあげ、「ん」とか「む」という口の形をして「なくなる=亡くなる=無くなる」。


 肛門から出たものが土や水に返り、生命の一部となり、その生命が口に入る。そして、また出る。こうなると、人間だけの話ではなく、この惑星の生態系レベルの、壮大で美しく神秘的でもある「叙事詩=フィクション=お話=作り話」につながりそうです。あな、不思議。anananananana……。まあ、不思議。mamamamamam ……。まま、まんま、まー、まーむ。ままー、まんま。とめてくれるな、おっかさん。南無。


 失礼いたしました。


 そうなのです。この駄文では、「ぐちゃぐちゃごちゃごちゃ」について考えているのです。というわけですので、どうかご了承とご勘弁をお願い申し上げます。


     *


 で、肛門から出てくるうんちですが、個人的には次のようにイメージしております。


*「自分」と「他者=世界」の「間(=ま・あいだ・あわい)で、ぷかぷかと浮いている。


*「出る」とは、「出た」後には、「ぷかぷか浮いている」状態に落ち着く。


 このイメージにおいては、躍動感までは行かない浮揚感(=運動)つまり「ぷかぷか」が非常に重要です。


*出たものは、「静止」してはいない。


 この点に、注目していただきたいのです。


「でる・出る」に似た言葉で「あらわれる・現れる・表れる・顕れる」があります。でも、両者は微妙に異なっているようです。「出る」から、具体的に見ていきましょう。次に「○○は出る」という言い方をする「○○」を挙げ、いったん「出た」後にどうなるかを考えてみましょう。


 いったん「出た」ものは、必ず、何らかの運動に誘発されます。たとえば、いったん「出た」給料も、給付金も、保険金も、うんちも、太陽も、月も、声も、にきびも、幽霊も、新刊書も、選挙候補者も、テレビドラマの役者も、家出したお父さんや、家出したお母さんや、家出したお子さんも、火も、くいも、そのまま静止し続けることはありません。


 一方、「□□はあらわれる」という言い方をする「□□」を挙げ、いったん「あらわれた」後にどうなるかを考えてみます。


 いったん「あらわれた」ものは、「出た」ものとは異なり、静止したまましつこく居座ることも、往々にしてありそうなのです。真価、効果、正体、正義の味方、英雄、悪の権化、○○の神様、救世主、影響、才能、成果、結果などです。もっとも、影響や結果みたいに、「出る」とも言うものは、概して「不安定」な気がします。


 いったい、何を言いたいのかと申しますと、次のようになります。


*言葉は、うんちにきわめてよく似ている。


 言葉とうんちについて、特に重要だと思われる共通点を挙げます。



 1)「あらわれる」のではなく、「出した」結果「出る」ものである。


 2)いったん出た後には、長い目で見た場合、じっと静止していることなく、ぷかぷか浮遊するという運動に至る。(※「うんちの化石をテレビで見たぞ」というお言葉に対しては、たとえ、静止して化石化するとしても、化石に至るまでには内部で「運動」が生じるという屁理屈を用意いたしました、念のため。)


 3)出た後の「浮遊=液化=気化=運動」は、「宙ぶらりん状態=宇宙を支配する偶然性」とほぼ同義である。簡単に言うと、どうなるかは未定の状態に置かれるという意味です。行方不明にもなり得ます。


 4)人は誰もがうんちをし、また、誰もが広義の言葉を発するという意味で、うんちも言葉も、ヒトという種においての普遍性をそなえている。【※「広義の言葉」としたのは、言葉は話し言葉だけに限らなく、手話、ホームサイン、点字、指点字、表情、目くばせ、合図、仕草なども含むという意味です。】


 5)ぐちゃぐちゃごちゃごちゃしている。



 以上五つの点が、共通しているように思われます。


 うんちは、この惑星においては、何かに帰していきます。分子、原子レベルで循環するそうです。


 音(おん)である言葉は、それを「発した=出した」人自身の内部で、あるいは、その人と他の人たちとの間で、またその人と何らかのもの・こと・現象との間で影響を及ぼし合います。


     *


 今回は、主にうんちについて書いていますが、その兄弟姉妹である「うんこ」という言葉を何げなく広辞苑で引いていて、語源が載っているのには、びっくりしました。「うん」というのが「いきむ声=息む声」から来ているというのです。


「うん」と素直にうなずけず、「うーん」と思わず息んでしまいました。「いきむ=息む」とは、息をつめてお腹に力を入れて、「うーん」と気張ることです。何だか、ますます、うんちに思い入れを深める結果となりました。ここで、さきほど書いた言葉を繰り返します。


*言葉とうんちは共に、体にある穴から出てくる。


 この「出てくる」、つまり「出る」という言葉が気になって仕方ないのです。なぜなのか? おそらく幼児体験と関係があるように思われます。幼児体験ですから、よくは覚えていません。


 でも、かねてより、人間は一人であっても複数形であるとか、多面的な存在であるとか、常に揺れ動いている流動的な「状態=常態」にあるなどと考えてきました。


 そうした考えからすると、大人や子どもや幼児は別個の存在ではなく、連続しているというふうに感じられるのです。自分の場合で申しますと、「あな」とか「でる」という言葉やイメージを頭に浮かべると、懐かしく切ない思いがよみがえってきます。ちょっと、エロチックなわくわく感も覚えます。


 小さな子どもは、「あな」とか「でる」という言葉や、そうした現象に対してすごく興味と愛着を示します。周りに幼児や小さな子どもさんがいて、毎日、あるいは日ごろよく接する機会のある方なら、体験的にご存知ではないかと思います。


 たとえば、座布団でドーナッツみたいに真ん中が開いたものがありますね。幼い子どもさんに見せてやってください。必ず、その穴に興味を示し、手を突っ込んだり、中を覗いて向こう側を見たりしますよ。うれしそうに、または真剣な顔をしてそんな行動をします。


 また、練り歯磨きのチューブや、中身の入ったマヨネーズの容器なんかを、チューっと絞って見せたとします。当然、にゅーとか、にゅるにゅるという感じで中身が出て来ますね。その様子を見た時の子どもさんの顔をよく見てください。これまた、うれしそうな、あるいは真剣な表情になります。


 中には、きゃっきゃっと言って、喜ぶお子さんもいるにちがいありません。あなは、あなどれないです。人間の原点かもしれません。マジにそう思います。


     *


 そんなわけで、「出る」という言葉に対し、内なる幼児が興味を示しているようなのです。つまり、何だか分かんないけどすごく気になる、という感じです。


 そうした内なる幼児の思いに対し、次のように、内なる大人が屁理屈めいたことをつぶやきます。


*「出る」の中心的なイメージ(コア・イメージ)は、うんちをすることである。


 ん? ですよね。なぜ、うんちなのか? と疑問をお持ちの方が、たくさんいらっしゃるにちがいありません。涙だって、よだれだって、おしっこだって、汗だって、おならだって、みんな「出る」って言うじゃないの? どうして、うんちだけが、「特権化=特別扱い=えこひいき」されなればならないの?


 ごもっともなご質問だと存じます。


 ここで、「うんち=何ものか」と、人間の出発点である赤ちゃんとの「であい=出会い=で合い=出愛」について、考えてみましょう。


 生後あまり経過していない赤ちゃんが、なるべく固形に近いうんちをほぼ初めて、しかも裸で排泄した場合を想定しています。たぶん、「あれっ?」って感じで、「見る=知覚する」のではないでしょうか?


 赤ちゃんは、大人のような言葉を発することはできないと思われますので、「翻訳=意訳=超訳=想像」しましょう。「あれっ?=出た=何だろう?=どこから来たのだろう?=(外部から)あらわれた」という感じではないでしょうか?


     * 


 さて、ここで、「いないいないばあ」という赤ちゃんを対象とした遊びが、赤ちゃんにとって「いる/いない」「ある/ない」「あらわれる/きえる」という現象を体感する象徴的な体験であるらしい、という「説=与太話」を思い出しましょう。それを前提に、話を進めます。


 ある赤ちゃんが、「未分化」というか、自分と他者とを意識していない「段階=時期=状態」であれば、「あれっ?=出た=何だろう?=どこから来たのだろう?=(外部から)あらわれた」と言えそうです。


 一方、自分と他者との区別ができ始めた「段階=時期=状態」であれば。「あれっ?=出た=何だろう?=自分から出たのかなあ?=自分が出したのかなあ?(=「(外部から)あらわれたのではない」)という具合になるような気がします。


 もしも、こんな経験をしたとすれば、これって、赤ちゃんにとっては大発見だと思います。言い換えると、「(外部から)あらわれたのではない」(否定)を「知覚=意識=思考する」のは、同時に、「(外部から)あらわれる」(肯定)を「知覚=意識=思考する」ことでもあるからです。


 もう少し正確に言うと、「(外部から)いきなり、あらわれる」=「不意の出あい」=「遭遇」(肯定も否定もない=肯定も否定もできる余裕はない)が生じたのではなく、「自分の中から外へ出た」=「どこからかではなく、自分から出た」=「『ない』が『ある』になった」=「『いないいないばあ』が生じた」と言えそうです。


「自(内部)と他(外部)の区別の萌芽=誕生」、「自己意識の萌芽=誕生」、「自他未分化からの離脱の始まり」、「自我の目覚め」という「感じ=テキトーなイメージ=思い込み=嘘は泥棒のはじまり」でしょうか。


     *


 以上を要約しますと、赤ちゃんにとって、「うんち=何ものか」は、たとえ「うん」と息んだにしろ漏れたにしろ、「出た(=あれっ!?)」と「出した(=やっぱり!)」の中間というよりも、むしろ、その両者の連続した意識のうちでは、「出した(=やっぱり!)」寄りにある出来事である、という気がします。


 言い換えると、「うんち=何ものか」を「出した自分」を意識することは「自分」を意識すると同時に、「他者=世界」の存在を意識することにより、両者が異なると意識することでもある、となります。


 具体的に言うと次のようになります。「うんち=何ものか」が出た。でも、うんちは自分が出したみたいだ。自分の体から離れてここにあるうんちは自分の一部でもあり、もう自分とは関係のないものでもある。とにかく、自分から「隔てて=離れて」、そこにある。存在する。重要な点は、「自分から『隔てて=離れて』」です。


 さきほども申しましたように、以上述べたことは、うんちを出した赤ちゃんの思いを、大人が「翻訳=意訳=超訳=想像」したものでしかありません。


     *


 もう少し厳密に言います。


「出した(=やっぱり!)」を、あえて「出た(=あれっ!?)」へと「引き戻す=逆戻りする」意識の働きもあります。


 つまり、自分のした行為の責任を「周りの世界=他者=世界」に転嫁することにより、まるでそれが自然発生的な現象であるかのように装う、あるいは、故意にそうだと思い込むことにより、その現象との距離感を演出しようとする場合があるのです。


 簡単に言うと、「これ、わたし(ぼく)のうんちじゃない」です。


 なぜ、そのような距離感の演出をするのかというと、うんちが自分から「離れる=分離される」、あるいは「分離する=周りの世界の一部になる」さまを「見る=知覚する」からです。大切なのは、これは演出であって断定ではないという点です。簡単に言うと、「これ、わたし(ぼく)のうんちじゃないということにしておこう」です。


 断っておきますが、赤ちゃんにとっては、自分と「周りの世界」は分化されているような気もするし、分化されていないような気もするという、きわめて曖昧な状況にあるらしいのです。


 ただし、ここで次のように考えないでください。


 やっぱり赤ん坊だね。分からないんだね。「自分」と「他者=世界」が区別できないんだね。


 強調しておきたいのは、「自分」と「他者=世界」が区別できないという状態は、決して赤ちゃんだけの話ではないという点です。大人と呼ばれたり、自分を大人だと思っている人にとっても、状況は同じなのです。


 大人は「自他未分化」という階段を晴れて卒業して、「自他分離」という階段に上ったというような考え方は、「嘘=作り話=与太話」です。


 百歩譲って、「自分」と「他者=世界」という別個のものが存在するならば、比喩的に言えば、それは固体のように、どかーんと存在するのではなく、液体か気体のように、時によって混じり合ったり、分離し合ったりする形で存在するのでしょう。さらに比喩的に言えば、分子あるいは原子的レベルで混在しながら、別個のものとして存在するという感じでしょうか。


 混じっているけど、別――。そんなふうにも言えそうです。


 たとえば、ぼけーっとしている時、うとうとしている時、眠っている時、あるいは、動転している時、精神的にかなり動揺している時、ショックを受けた時、酔っ払っている時、あるいは、何かに夢中になっている時の大人は、「自分」と「他者=世界」が混じり合った状態にあるはずです。こうなると、人間は常時、そうなっているとも言えそうです。いわゆる常態です。


 ヒトという種は、ヒト自身が思っているより、ぼーっとしている――。そんなふうに思えてなりません。


     *


 ここまで書いたところで、前のほうの文章を引用します。


 肛門から出てくるうんちですが、個人的には次のようにイメージしております。


*「自分」と「他者=世界」の「間(=ま・あいだ・あわい)で、ぷかぷかと浮いている。


*「出る」とは、「出た」後には、「ぷかぷか浮いている」状態に落ち着く。


 このイメージにおいては、躍動感までは行かない浮揚感(=運動)つまり「ぷかぷか」が非常に重要です。


*出たものは、「静止」してはいない。


 この点に、注目していただきたいのです。


 以上が、引用部分です。


 これって、言葉とそっくりではないでしょうか。


「ぐちゃぐちゃごちゃごちゃ」と「ぷかぷか浮いている」とは、静止していなくて、揺らいでいて、不安定で、いい加減だ、という点で、酷似しています。


 言葉もうんちも、穴から出て、きわめて不安定な状態をさ迷っているのです。念のためにお断りしますが、いい悪いとか、正しい正しくないの問題ではありません。そうなっているという「話=フィクション=与太話」として受け取ってください。


 ちなみに、すべての言説は、「話=フィクション=与太話」としてしか存在し得ないのです。言葉という代理を使っている代償です。言葉を用いる以上、人間は言葉と「戯れる=もてあそぶ=もてあそばれる」しかないのです。言葉を「コントロールする=支配する=整合性を持たせる=論理的に操作する=使いこなす」のは無理なのです。それくらい、「あるものを『あるもの以外のもの』で代用する」仕組みは、あなどれないし、誤魔化しがきかなくて、しつこいと考えたほうが、人間にとっては「潔い=誠実な=身の程をわきまえた」態度であると言えそうです。


     *


 ここで話をうんと飛躍します。


 言葉とうんちが似ているように、言葉とうんちと人間は似ていると思います。


 その話に入る前に、ちょっと休憩しましょう。


 次回は、この駄文の続きである「言葉とうんちと人間(人間編)」を投稿する予定です。



※この文章は、かつてのブログ記事に加筆したものです。https://puboo.jp/users/renhoshino77


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