わかるはわかるか
げんすけ
2020/09/12 08:55
「でまかせ・いず・む 」、そして「もてあそばれるしかない」と、総論が続いたので、今回は具体的に、
*「表象」を「翻訳」する作業
に入りたいと思います。前回「もてあそばれるしかない」の最後のほうで紹介いたしました、うんと単純化した図式を引用します。
*ある「でたらめ」を他の「でたらめ」に「翻訳」することについて考える。
あるいは、
*ある「でたらめ」を他の「でたらめ」に「翻訳」するさいに生じる「ズレ」について考える。
以上の2つです。
ここでいう「でたらめ」とは、「表象一般」のことです。このブログでは、
*狭義の言葉である話し言葉と書き言葉を始め、手話、ホームサイン(※たとえば家庭内で使われている手話)、記号、符号、信号、アイコン、点字、指点字、仕草、表情、合図、身振り言語=ボディー・ランゲージ、音声、絵、映像(静止画像・動画)、視覚芸術、音楽など
を指します。
■
上記の「表象」は、
*何かの代わりに何か以外のものを用いる。
という、
*代理の仕組み
を基本としていますから、「でたらめ=不正確=何かそのものではない=代理でしかない」ということになります。「でたらめ」とは、それくらいの意味です。他意はございません(どういう意味じゃ)。
*「翻訳」
とは、
*「言い換える=置き換える=伝える=知らせる=言葉にする=何かの代わりに何か以外のものを用いる」
ほどの意味だと考えてください。
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お断りしておきますが、このブログでやっているのは、素人の「お遊び=でまかせ=でたらめ」です。学問でも研究でもなく、一部の人たちから「楽問」と呼ばれているものにちょっとだけ似ています。
この駄文をお読みになるさいには、どうかその点を誤解なさらないよう、あるいは、書いてあることの馬鹿らしさにご立腹なさらないようにお願い申し上げます。とりわけ、
*厳密さ、緻密さ、論理性、整合性、一貫性、明確さに欠ける
などと、「ないものねだり」をなさらないでくだされば、幸いです。無い袖は振れません。
とはいえ、みなさまがお笑いになるのを承知のうえで、あえて申しますと、
*正確さ
を心がけております。でたらめやでまかせを論じ、そして記述するには、「正確さ」が必要だと信じております(※ただし、ここでの「正確さ」には、いわゆる「矛盾」、いわゆる「荒唐無稽」、いわゆる「でまかさせ・でたらめ」が含まれます。でたらめやでまかせを論じるには、でたらめやでまかせが必要です)。
また、せっかくブログという媒体を通じて不特定多数の人たちに向けてせっせと記事を書いているのですから、文章はわかりやすくしたいと心がけてもおります。具体的には、
*中学3年生くらいから読めるほどの、わかりやすさ
を意識しています(※ただし、わかりやすさは、必然的にわかりにくさを含んでいます)。
なぜ、「中学3年生くらいから」なのかと申しますと、高校入試の国語の長文問題で取り上げられている「現代文」を目にする機会が最近あったからです。割とこみいったことが書いてあり、「そうなのか。今の中学3年生は、こんなにややこしい文章を読まされているのか」と感心した次第です。
要約すると、このブログでは、
*でたらめについて、正確でわかりやすく出まかせに論じる。
ということです。
本気です。正気とは申しませんが、本気です。アホがアホなりに正確さとわかりやすさを心がけている。そんな感じです。
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さて、
まず、「素朴な=ナイーブな=おめでたい=問題設定からして変な」疑問を箇条書きにします。
1)ヒトという種(しゅ)を決定する要素には、どんなものがあるのか。やはり、DNAレベルで判断するのだろうか。
2)いわゆる人種や民族に関係なく、ヒトを生後からある一定の年齢まで、ある母語で育てると、その母語を身につけることができるのは、なぜか。
3)ヒトが各集団によって異なる言語を話すのは、どうしてなのだろう。なぜ、ヒトという種に共通した言語が備わっていないのか。
4)異なる言語を用いるさまざまなヒトの集団同士が、太古よりコミュニケーションを成立させてきたが、それは具体的にどのような形で行われてきたのだろう。
5)翻訳や通訳という作業を成立させる条件や要素は何か。
6)ある言語集団と別の言語集団との間に、いわゆる理解は成立するのだろうか。
7)同じ言語を話す個人間で、いわゆる理解は成立するのか。
7つの疑問を読み返してみましたが、本当に「馬鹿みたいな=こんなことを不思議に思うなんて変な=そんなことを考えなくても生きていけるよ的=そんなことに頭を悩ませているから抑うつ状態が悪化するのだ的」疑問ですね。
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以上を、粗雑な形でまとめると、
A)ヒトとヒトは分かり合えるのか。
B)なぜ、ヒトは同じ言葉を話さないのか。
となります。
小学生の高学年くらいから、漠然とそんな疑問をいだいていました。それが高じて、中学3年生ころから高校生時代にかけて、NHKのラジオとテレビの語学講座全部を視聴するという、無茶をしていた時期もありました。
複数の「言葉=語」および「言葉=言語」が存在することが不思議でならず、いったいどうなっているのかが気になって仕方なかったのです。今も、そんな思いを引きずっています。ただし、複数の言語を学ぶ気力は失せました。
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具体的な作業に移ります。
このほぼ1年間に、言葉=言語について、いろいろ考えたり調べたことを文字=活字として記録してきました。当ブログの左側にある「ブックマーク」にある「うつせみのうつお」というウェブサイトに、そうした記事たちが収録されています。【注:「うつせみのうつお」とは、過去の全ブログ記事を収めたウェブサイトでした。削除して現在はありませんが、その代わりに、全ブログ記事を電子書籍化し、パブーのマイページに置いています。ここが、新しいブログ記事のお墓=倉庫です。】
それを資料としながら、
*わかる・しる・さとる・とらえる・まなぶ・ならう・みにつける……
*理解する・了解する・知覚する・察知する・認識する・認知する・会得する・学習する・習得する……
*【以下は日本で広く用いられている手話です。】右手を開き胸の上に当てそのまま下ろし、胸のつかえが下りるような動作をする(「分かる」や「知る」に相当する)・口に何かを放り込み、飲み込むような動作をする(「理解・理解する」に相当する)・右手の指でこめかみ辺りをさす(「感じる・覚える」に相当する)・右手を開いて上から側頭部へと下ろし、握った状態でくっつける(「覚える・習う」に相当する)・右手の人差し指を正面のやや上方から顔に向けて2度ほど指す(「教わる・習う」に相当する)・両手を顔面の前で並べて2度ほど軽く振り、本を読む動作をする(「勉強する」に相当する)【※「右手」は「利き手」と置き換えてもよさそうです。】
*understand、appreciate、know、see、tell、get、find、recognize、comprehend、learn ……
*【以下は米国で広く用いられている手話です。】自分に向けて握った右手を軽く側頭部につけ、人差し指を2度立てる(understandに相当する)・自分に向けて開いた右手を側頭部に持っていき、何度か軽く叩く(knowに相当する)・左手を相手に向けて開き、右手の指で側頭部をさし、その指を開いた左の手のひらにくっつける(recognizeに相当する)・右手を握り顔の斜め下に持って行き、握りこぶしを少し挙げて人差し指を突き出す(comprehendに相当する)・左手を胸の下あたりで上向きに開き、右手を開いて左の手のひらから何かをつかみ取り額へ持って行きくっつける動作をする(learnに相当する)【※「右手」は「利き手」と置き換えてもよさそうです。】
といった、意味的に近接していると思われる一連の「言葉=語=単語」の意味やコアイメージやニュアンスや使い方や語源などについて、観察していきたいと思います。
こういう「作業=手仕事=やっつけ仕事=ブリコラージュ=一銭にもならない内職=道楽」が好きなのです。
とはいえ、これはとても面倒で複雑な作業になりそうです。まともに取り組めば、抑うつ状態と体調が悪化することは目に見えています。
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そうなると困ります。
楽と横着をするためには、いくつかの方法が考えられます。
のめり込まずに、そこそこにやる。少しずつやる。テキトーにやる。気の向くままにやる。細かいことにはこだわらない。「うつせみのうつお」(※現在は「パブーの電子書籍置き場」)に収録されている記事から、以前に行った作業の個所をコピペしまくり、さらにパッチワークしまくる。
素人ですから、それくらいの「のんびり=手抜きをした」やり方で、作業を進めるのがいいと思っています。
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どうでしょう。
みなさんの中で、ご興味のある方がいらっしゃれば、自分なりの方法で、似たようなことをやってみてみませんか。おもしろいですよ。
たくさん本を買って読んだりしないで、手持のものと自分の頭だけを頼りに、しこしこと安上がりにやるのがコツです。
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前にも書きましたが、「言葉=言語」や「言葉=語=単語」について考え、考えたことを記述する場合には、ふつうは
*母語に頼り、母語を使って
作業をします。
ところで、たった今書いた文では、
*母語は日本語だ
という前提になっていますが、これって、すごく曖昧でテキトーで粗雑な言い方だとお思いになりませんか。
*母語って何? 日本語って何? 言葉を使うって、どういうふうにするの? 考えるって、本当に言葉でやっていることなの?
このような疑問が次々と湧いてきます。気になります。つい、こだわってしまいます。それが誠実な態度ではないでしょうか。でも、その誠実さに素直に従うと、かなり危うい=やばいことになりそうです。
下手をすると、イっちゃいますよ。イっちゃうのはいいとしても、戻れなくなってしまう可能性も高そうです。どうせ、イっちゃってるんだから、とことんイけ――なんて幻聴みたいな声が聞こえてきます。
マジでヤバいです。
ですので、テキトーにやります。ただでさえ、ビョーキの身ですから、これ以上無理はしないほうがいいと思います。
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ところで、
さきほど手話を取り上げましたが、手話というのは言語です。体系化された文法も品詞もあるそうです。国や属する集団によって異なるとも聞きました。手話言語学という研究分野もあるらしいです。
数年前に、2年続けてNHKの手話講座を受講したことがあります。身体障害者手帳を持つ中途難聴者であり、しかも聴力が年々低下しつつあるので、手話を習っておこうと思ったのです。いつかは、中途失聴者として、手話のお世話になる時が来るでしょう。
手話を習い始めて知ったのですが。手話を母語としている人が、この国にも万単位でいるそうです。詳しいことは、手話をウィキペディアで検索なさってください。驚くような事実がたくさん書かれています。
*ある日本語の単語が、たとえば日本で広く使われている手話において、どのような手と指の動作と、手と指以外の動きによって表されているか。
それだけでも、興味深いのに、たとえば米国、あるいはフィンランドで広く使われている手話だと、どのように表現されるのだろうか、などと考えていくと気が遠くなりそうになります。
ちなみに米国とフィンランドは、手話に対して国家が非常に寛容で進歩的な態度をとっているそうです。その点において、日本はかなりな後進国らしいです。
恥ずかしいというより、悲しいです。
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しんどくなってきたので、続きは次回に回させていただきます。
今考えているというか気になって仕方がないことを、少しだけ書いてみます。
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気になっているのは、
*わかるはわかるか
ということなのです。2通りの解釈ができそうです。
1)「わかる」という、「表象=代理」としての「こと・言葉・イメージ・行為」は、ヒトに「分かる=理解する」ことができるのか。
2)今ここで文字としてつづっている「わかる」という、「表象=代理」としての「こと・言葉・イメージ・行為」は、「わかる」という「表象=代理」としての「言葉=語」として、この国で一般的に了解され、広く流通しているとされる、「表象=代理」としての「こと・言葉・イメージ・行為」とほぼ同じものなのか。
です。
その2点が、さっぱり分からないのです。疑問なのです。だから、調べたり、考えてみたいのです。
調べ、考えたところで、たぶん、いや、きっと分からないだろうという気がします。でも、取り組んでみようと思います。
*楽しいのは、結果でなくてプロセスですから。
比喩的に言うなら、ドライブ(車での旅行ではなく、あくまでも運転することです)が楽しいのは、運転というプロセスであり、行き先ではないのです。ドライブが終れば、「あーあ、疲れた」とか「あー、楽しかった(※過去形であることに注意してください)」で終るのがふつうでしょう。ここで矛盾しますが(言葉をつづるときに矛盾を恐れてはなりません、たまに矛盾をしたほうが言霊も張り合いがあるのではないかと勝手に想像しています)、この過去形は結果であってプロセスではないにもかかわらず、ずっと残ります。変奏をともないながら=差異を生産しながら反復し続けるプロセスとして、こころに残ります。
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このブログでは、そもそも
*正解のある問題
に取り組んでいるわけではありません。なにしろ、
*「わかる」は「でたらめ」だ。
から出発しているのです。それを前提にしているのです。出発点と終着点は、どうでもいいと言えます。
いささか大仰で構えた言い方になりますが、
*ヒトにおける、知の醍醐味は、きっかけや終点ではなく過程である。
と思っています。だからこそ、
*ヒトの知は、「でたらめ=でまかせ=作りごと=うそ」であって構わない。
とも思います。なにしろ、ヒトが相手にしているのは、表象=代理ですもの。それが身分相応ではないでしょうか。
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話を戻します。
*「わかる・分かる(・理解する)」と「わける・分ける(・分類する)」が語源的に結びついている。
ということは、割とよく知られていますね。ずばり、その種のことをタイトルやテーマにした本が出版されていると、先日の新聞広告か書評で知りました。
でも、これは日本語で考えた場合の「わかる」です。
その「わかる」を、
*意味の近い他の日本語の複数の単語(大和言葉系、漢語系の両方を含めて)と比較してみる。
とか、
*日本で広く用いられている手話の、ほぼ同じ意味の単語と比べてみる。
あるいは、
*英語など異言語の、ほぼ同じ意味の複数の単語と照らし合わせてみる。
そうした作業をしてみたいのですが、出発点が、
*「わかる・分かる(・理解する)」と「わける・分ける(・分類する)」
という日本語なのです。これは、
*「枠組み=しがらみ=限界=刷り込まれたイメージ=日本語を母語とする限り免れない視点」
だと考えられます。
この「枠=限界」を強く意識するとしないとでは、比較という作業の仕方がかなり違ってくるはずです。
言うのは簡単ですが、すごく大変でしんどくて、ややこしいことだと思われます。
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ちょっと、つらくなってきました。
書くのは、この辺でやめて、続きは次回に回そうと思います。
では、失礼いたします。
※以上の文章は、09.12.04の記事に加筆したものです。なお、文章の勢いを殺がないように加筆は最小限にとどめてあります。
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