不思議なこと

星野廉

2020/09/25 09:46


 不思議でならないことがあります。それは、ことです。こと、ですよ。こと。「こと」という「事・言」なのです。まあ、くだらないことですこと。これ以上、くだらないことは言わないこと。なんて、言われても困ります。このところ、気になって仕方がないのです。


 殊に、ことことに至っては、このパリス・テキサスことアホめ、いや、このアホことパリス・テキサスめが、ことに触れて、このブログで触れてきたことであり、ことによると、今後のビョーキのなりゆきをも左右しかねない、ことなのです。Dr.コトーに診てもらうこともできない身としては、心の中の孤島で生きながら、事無きを得るのを祈るばかり。ことほど左様に重要かつ、どうしても考えてみたいことなので、ございます。【注:「パリス・テキサス」は、「うつせみのあなたに」というタイトルでブログを書いていた時期のハンドルネームです。】


 ことことに関しては、中途半端にうわべだけを糊塗するわけにはいかず、ことのほか、言と事が異なるかについて、ことごとしいのは百も承知で、ことわけ、たわけ、ことわりを重ねてまいりましたが、とどのつまりは、ことしかないことに気づき、「不思議なこと」というタイトルで、まことに戯けたことを、かたことの言葉をつづりながら、本日、語って=騙ってみようかと思っている次第なのです。


 こと・koto 。たった2音節の短い語でありながら、いろいろな語義があります。辞書では、短い語ほど長い解説がある。以前に、「見えないものを見る」と、その記事を別のハンドルネームを使っているときに書き直した「不思議」で触れたことです。そうした不思議なことについても、以下に書いてみるつもりです。あえて考えなければ、それまでのこと。いざ、考えてみると不可解。まことに、不思議なことなのです。【※「こと」にこだわっている自分の乱れように既視感を覚えました。「と」をめぐって書かれた「と、いうわけです、と「お知らせ」」という記事です。ある意味で記念すべき記事なので、ぜひご笑覧ください。】


     *


 さて、一部の読者の方々には、失礼な言い方になるとは思いますが、「初めに言葉があった」「万物は言葉によってできた」「できたもののうちで、言葉によらずにできたものはなかった」という一連のフレーズに疑問を呈したいと存じます。ここで出てくる「言葉」とは、英語訳では、たいてい Word という言葉がもちいられているようです。しかも、文中でも大文字。God と同じ扱いになります。同格ということでしょう。


 辞書を引いて word の語源の説明を読むと、これまた「言葉」「語」「話す」とかいう言葉が出できて、肩透かしを食います。がくん、がーん、がちょーん、という感じです。もっとすごいものが出てくると期待するほうが、馬鹿だったということでしょうか。


 そもそも、世界的なベストセラーである聖なる書に出てくる言葉は、電車ごっこじゃなくて転写ごっこを、時間的にも空間的にも繰り返しています。ほかの諸言語ではどんな意味合いの言葉に訳されているのかとか、これまでにどんな語を経由してきたかとか、原語が何かについても知りません。惹句・出理駄さんが罵倒していた路語素中華思想の路語素とも、関係がある気もしますけど。その路語素という語も、転写されたものだったとの話を聞いた覚えがあります。そもそも、転写されていないものなど、ないみたいですけど。


 こと(1)→ こと(2)→ こと(3)→ こと(4)→ こと……ということでしょうか。「転写=写る・写す=移る・移す=コピーのコピー」の連鎖です。ときには、うつし間違いも起こるようですが、詳しいことは知りません。とにかく、「こと」は増殖する属性を備えているようです。


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 言葉という言葉の言に当たる「こと・言」ですが、日本語の辞書では、「こと・事」と隣り合わせているか、その「こと・言」の親戚と言ってもいいような「こと」があいだに挟まっていることがほとんどだと言えそうです。広辞苑という字引では、「言」の項が先に来て、冒頭に「(事と同源)」と記してあります。その次に載っている「事」の説明としては、「(もと「こと(言)」と同語)とあります。


 これが、不思議で仕方がないのです。『言葉と物』という訳書がありますが、そのタイトルにある「物」、つまり「もの・物・者」という言葉があり、これがまた、「こと・事」とよく似ている点がまことに不思議というか、気になる言葉なのです。さらには、「ものごと・物事」などという「もの」と「こと」が合体した言葉までありますから、わけが分からなくなってきます。とはいうものの、こういう不可解なことって、個人的には、実はとても好きなんです。


 言葉、いかめしく言うと、言語について考えることが好きなのです。なぜ、好きなのかと申しますと、軽い目まい、場合によっては、かなり激しい目まいに見舞われることがあるからなのです。子どもはぐるぐる回るものや、自分自身がぐるぐる回ることが好きですね。目が回るのが好きな子が多いみたいです。もちろん、嫌いなお子さんもいるにちがいありません。


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 この記事の冒頭に挙げた「たわごと・戯言」では、やたら「こと」が出てきましたが、うんざりしますね。自分で書いておきながら、読んでみると軽い「めまい・目まい・眩暈・目眩・目舞い」を覚えます。個人的には「目舞い」という感字を当てたい感じなのですが、広辞苑によると「まう・眩う」(目がまわる・目がくらむ)と「まう・舞う」(まわる・めぐる)があったりして、またまた軽い目まいに誘われます。


 で、冒頭の駄文ですけど、今回書こうとしている「こと」というテーマを、書かれる側にある言葉たちが、あのようにことことと演じてくれるのを見ると、言葉というもの(いや、ことかな?)が健気でいとおしく感じられます。あの中には、言も事もことも異もコトも糊塗も殊も出てきますが、そういう「ことわり・事割り・言割り・断り・理」については、「どうでもいい」と「おもしろい」という、相反する感情をいだきます。その曖昧な気分、「あわいあわい・淡い間」感じに惹かれます。


 こういう状態を「おもいはおもい・思いは重い」とか「おもいはあつい・思いは厚い・思いは熱い」などと言って、このアホはひとりでにやにやしているのです。不気味ですね。それはさておき、音として、そして文字として、どの言葉も重みと厚みを備えている、つまり多義的=多層的であると言いたいのです。


 その重みと厚みは、ヒトという枠内においてのお話=戯言であることは言うまでもありません。音として、そして文字としての言葉は、ヒトという枠外では、あくまでもニュートラルな「もの」でしかあり得ません。つまり、意味はないということですね。


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 で、「こと」ですが、ヒトにとっては、いろいろな意味があるようですが、そうした「いみ・意味」というものを「いみ・忌・斎」、つまり「忌むべきもの」とずらしてみましょう。言葉には、「意味」というものが伴う一方で、「忌」もまた常にうるさくつきまとっていて離れないみたいなのです。


 ここでは「いみ・忌」を広く取ります。ヒトが言葉に担わせようとするメッセージを、裏切ったり、嘲笑ったり、場合によっては、撹乱する、いわば「滅正辞」という感字を当ててもいいような、ノイズもどきのものが「付く=憑く」。そんなふうにイメージしています。もう少しずらして、「揺さぶる・揺るがせる」と言ってもかまわないかな、とも思っています。


 意味と忌(※「いみ」と読んでください)が同居する場。それが言葉だ。なんて言ってもいいのではないでしょうか。まあ、ビョーキの者としては、そこまで肩に力を入れないほうが身のため、心のため、かもしれません。


 そう言えば、忌にも忌があるのを思い出しました。「暗澹死体・暗澹屍体」とか書いて、ちょっと訛って「あんた、ん、してー」みたいに読みます。「ん」を「する」とは、意味深です(※「ん」については、「ん?」、「「ん」の不思議」、「言葉とうんちと人間(言葉編)」で書きましたので、ご笑覧いただければ嬉しいです)。


 で、「あんた、ん、してー」ですが、何をして欲しいのでしょうね。転じて「案胆仕手」とか「安耽至帝」という感字を当てる場合もあるそうです。そういえば、「 intensité 」というフランス語とも関係があるとかないとか。いずれにせよ、なんでもありー的で、しかも不気味な気配にただならぬ趣とパワーを感じます。揺らいでしまいそうになります。目まいに誘われそうです。


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「こと・事・言」という思いの厚みと重みについて考えてみましょう。「事=言」ということになれば、さきほど挙げた「初めに言葉があった」「万物は言葉によってできた」「できたもののうちで、言葉によらずにできたものはなかった」に似ていなくもないですね。違いは、God が出てこないくらいです。出てこないかなあ。ゴドーを待ちながら、しあわせな日々。なんちゃって。さて、あの一連のフレーズは、人類最大のギャグ、あるいは人類の歴史という不条理演劇の台詞だと思っていたのですが、ここで心が揺らいできました。


 ところで、「大ごと」の反対は何でしょうか。とっさに尋ねれば、「小ごと」という答えが返ってきそうです。でも、「大事←→小言」とすると、違うなあと思えてきます。それとも、やっぱり、素直に「事=言」と考えるべきなのでしょうか。こういうのを、たわけと申します。たわけとは、形式的に考えることです。論理的に考えることの多くも、たわけに含まれます。笑いごとでは、ありません。ざらにあることなのです。気がついていないだけです。


 ぐちゃぐちゃごちゃごちゃしたものを、すぱっととか、すっきりとか、くっきりとか、分けよう、切ろう、割ろうなんて考えるから、戯けと言うのです。かといって、ふにゃあとか、ぶちょっとか、ぼよよーんという具合に分けたり、切ったり、割ったりできそうもありません。いや、案外できたりして……。


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 こうなると、このブログでやっている、いつものやり方でお茶を濁すしかないようです。ずらすのです。「ずらす」というのは、連想ゲームや、ひとりブレーンストーミングみたいなものです。例によって広辞苑(※手元には、これしか手ごろな辞書がないのです)を参考にします。


*ずらし方(1) : こと・事・言・もの・物・者・さま・様・状・方・態


*ずらし方(2) : 言・ことば・詞・語・言う・話す・歌・詩歌


*ずらし方(3) : 事・抽象的・現象・できごと・事件・事情・事態・様子・理由・わざ・しわざ・しかた・やりかた・おこない・つとめ・中身・内容・実体


*ずらし方(4) : 物・物体・物品・存在・物のけ・物事・事柄・言葉・言語・・わけのわからないもの・内容・対象・対象物・物質・状態・ありよう


*ずらし方(5) : 者・人・あいつ・あのやろう・事


*ずらし方(6) : 様・状・あり方・しかた・方・方向・方法・方式・形式・ありさま・様態・ふう・様子・すがた・かたち・形・型・なりふり・おもむき・心の動く方向・心の動き・心のあり方・なりゆき・内容・伝えたいこと・事情・趣向・あじわい・体裁・感じ・表面・みえ


 うーん。なかなか興味深いです。本を読むのが苦手なアホにとっては、こうして言葉をずらして眺め入るほうが、哲学書なんかを読むより、ずっとスリリングなのです。誰々が何々と書いていた。それは、何々と位置づけることができる。といった作文での引用や解説ごっこをするのも読むのも退屈です。お仕事なら、たぶん別でしょうけれど。というのは大嘘でして、ものぐさで横着なうえに、頭が悪いので、そうした芸当ができないだけなのです。一時は、その手の職業を目ざして大学院に入ったこともありましたが、3カ月も経たないうちに退学。修行に耐えられませんでした。芸道の厳しさを思い知りました。トホホ。


 実は、このアホは、身の程知らずと呼ばれるのを承知のうえで、言葉のフェティシストを自任させていただいております。そんなわけで、フェティシズムおよびフェティシストについて、「トリトメのない話」、「あう(3)」、「げん・言 -4-」で、その効用を力説しておりますので、もしご関心をお持ちの方がいらっしゃれば、関係のある部分だけにでも、目をお通しください。ちなみに、エッチな意味のことは書いてありませんので、ご安心を。


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 ヒトは、なぜか言語を獲得してしまいました。その結果かそれが原因かは分かりませんが、うだつの上がらない、体毛の薄い、尻尾のないおサルさんから、ホモ・サピエンスという偉そうな智人、年中発情している痴or恥人になってしまったらしいのです。で、なぜかは分かりませんが、ヒトは言葉=語を発し、それをもちいて、「もの」、「こと」、「さま」に名前をつける作業を始めました。その名前は、ヒトに大きな自信を与える役割を果たしました。


 名前はラベルみたいなものですから、勝手に貼ればいいのです。貼る対象は何でもかまいません。たぶん、そのいい加減さから、「こと・事・言」なんていう混乱が生じたのではないでしょうか。何か分かんないけど、訳が分かんないけど、とりあえず、名前を貼る。そんなテキトーな態度で臨めば、「貼られた対象が何か」などという問題は、すっ飛んでしまいます。


 こと、もの、さま。事・物・様。事象・物体・現象。何とでも呼んでください。要は、名前というラベル。ぺらぺらのラベル。中身や、貼った対象が何かなんて考えるのは野暮。名こそが命。命名万歳!


     *


 何にでも名前をつけるとすごくいい気分になる。この快楽を覚えたヒトは、もうやめられません。名前依存症。名前中毒。名前至上主義。名前教。そんな感じになってしまいます。「妄想・もうそう」ではありません。もう、そうなのです。もう、そうなっています。この状況には弊害があります。名前と名前をつけた対象を混同するのです。好例は、「分かる・分かった」とか「見える・見る・見えた・見た」。こんな名前をつけたために、「分かる・分かった」とか「見える・見る・見えた・見た」気持ちになってしまう。ヒトには、自分がつくった名前になりきってしまう癖がついたらしいのです。言葉を「模倣する=擬態する」癖がついた、とも言えそうです。


 なりきる。これは、恐ろしいことです。「ヒト=名前」状態が常態化することですから。なお、この点について、ご興味のある方は、「なる(6)」と「なる(7)」に、ぜひ、目を通してください。お時間のない方は、パスしちゃっていただいて、いっこうに差し支えありません。


 名づける。すると、その名づけたものが「ある・在る・有る」「いる・居る」「おる・居る」ことになってしまう。ちなみに、今挙げた「ある・在る・有る」「いる・居る」「おる・居る」も、名前。「ある・在る・有る」「いる・居る」「おる・居る」ことになってしまっただけ。


 それは、「実在するのか」「真実なのか」と、問い正したいところですが、「実在(実在する)」も「真実(真実である)」も、名前だから処置なし。ほどこすすべがない。手のつけようがない。これって、恐ろしいことではないでしょうか。でも、大丈夫なんです。ヒトであるかぎり、気にすることはないと言えます。迷惑するのは、ヒトでない生き物たちです。ひいては、この星です。その意味では、まことに恐ろしいことです。


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 実に不思議なことです。「こと・もの・ものごと・さま」を錯覚させる「仕組み=仕掛け=装置=システム=メカニズム=ダイナミズム」が、なぜか、ヒトに備わっているらしいのです。「らしい」としか言えない悲しさを噛みしめましょう。


 動きであれ、在りようであれ、ヒトの心or頭or意識の中に浮かんだ「こと・もの・ものごと・さま」であれ、すべてが名=名前=名詞=言の葉=事の端=言葉=語になってしまうのです。オー、マイ、語っ! 大迷語!


 驚くべきことです。怪しいことです。こんなふうに、「こと」としか言えません。実に摩訶不思議な「こと」なのです。


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 namae。name。似ている。激似。なめんじゃない。なめんなよー。


 name の語源をジーニアス英和大辞典で調べてみました。すると、nama、nomen、onoma という語が記してありました。なま、のーめん、おのま。何だか日本語っぽい響きがありませんか。生、能面、大野間・大埜間(※こんな苗字があります)。驚くには当たりません。アルファベットにはいろいろありますが、英語やフランス語であれば基本的に26文字だけです。その組み合わせで、どれほどの数の単語ができるのか。上限を5文字という条件で、コンピューターに確率の計算をさせれば、答えは出てくるでしょう。いわゆる、確率の問題という名の問題。わけが分からない時に吐く決まり文句の1つ。思考停止状態。


 それだけのことです。いちいち偶然にびっくりしていたら、ヒトなんてやっていられません。せいぜい、その偶然に対する感応力=無知=鈍感力を利用して、名前や言葉を素材にした、占い師になるとか、スピリチュアル方面に進むという方法もありそうです。実際、それで成功なさって、お金持ちになっている方も大勢いらっしゃいます。一つ間違えて、ビョーキ扱いされたり、詐欺罪に問われて獄中にいる方々も少なからぬ数にのぼると聞きます。name を name ちゃ、no-no ということですね。


     *


 でも、どうやら、ヒトは、なまえに、なめられているらしい。もてあそばれているらしい。


 名前は麻薬。名前がついたもの=いったん言葉に置き換えたものは、すべて「了解済み=解決済み=既知のもの=分かったもの」。だから、もう考える必要はない。そんなもの、とうのむかしに知ってるよ。分かってるよ。考える必要なし。そんな具合に、名前はヒトが手抜きをするための「口実=すべ=道具」になってしまった。成り下がってしまった。


 決まり文句と紋切型の「氾濫=反乱」と「饗宴=共演=狂宴」。思考停止。判断停止。えっ、ぽけーっつ。自動操縦。ああ言えばこう言う。想定問答集。阿吽の呼吸。コミュニケーション。ディベート。ダイアローグ。ディスカッション。論文の書き方。論理的思考。ロジカル・シンキング。問題解決テクニック。ME(?)E=飯のたね、考える技術。作文技術。4代目柳亭痴楽の綴り方狂室。もっともらしい名前がついているけど、ほぼ出来レース。ほぼやらせ。ほぼ八百長。型がある。様式美の世界。形骸化。むくろ。なきがら。うつせみ。


 考えるのではなく、考えないための手抜きが、まかり通る。だから、世の中うまく行かない。うまくいったとすれば、たまたま。たまたまにまで、セレンディピティなんて、ちゃっかりと名前がついている。あれを真に受けるなんて、考えていない証拠。著者名、タイトル名、本の帯についたキャッチフレーズ=長い名前、推薦文=長い名前の威力。張子の虎。イワシの頭。単なる名前の呪術にかかっているだけ。それほど、名はパワフルでテリブルということ。パワハラ、テリハラ。


     *


 意味なし。筋なし。でも、伝染るんです。ぼのぼの。不条理演劇。自動筆記=児童ヒッキー。自動書記=総書記=もぬけの殻。ナンセンス・nonsense =ノンセンス・non sense =無方向=無軌道=おだむどう= Where is that guy now? =あのヒトはいま。


 こうなったら、「いみ・意味」じゃなくて、「いみ・忌」しかないか。暗澹死体・暗澹屍体」「あんた、ん、してー」「案胆仕手」「安耽至帝」――。もはや、ラベル=名前はどうでもいい。


 パワーだ、フォースだ、言霊だ、intensité だ、「あんさん、して~」だ、インテンシティだ、強度だ、匈奴だ。これも名前か。名前を貼られた「何か」が発する「何か」。「何か」という、影の薄いつーか、わけのわかんない名前に甘んじるしかないのか。「何か」はもったいぶっているから、「何でもありー」にしようか。いっそ、「……」でいくか。


 取り乱しまして、大変失礼致しました。ことそんな具合なのです。いやー、ことって、ほんとーに不思議ですね。ということ。


     *


 まれに不思議なことが、確かに起こります。というか、見かけるというべきかもしれません。たとえば、「目」と「 m 」と「見る」との出あいです。この3つは似ていませんか? 目が目の形から取られたという象形文字を祖先に持つという話は分かります。でも、m が目に似ているなんて、冗談は顔だけにしてくれと言われそうですが、似ているように見えてなりません。n + n = m。 n Λ n。「見る」を主題にした「眼界」を扱った「うつせみのたわごと -11-」について「こんなことを書きました」で、同記事に触れて簡単な解説を書きました。 m は出てきませんが、似たような戯言です。


「目・眼・見・視・me・manako・miru 」という言葉たちが、まなこを合わせる=目を交わす=目配せし合う。「目」も「口」も、ヒトの内と外とが触れ合う「穴」だとまで言うと、もはやこじつけだと笑われるにちがいありません。それはともかく、その目という穴と、口という穴が開いたり閉じたりする。「唇」と「瞼・目蓋」が動くという揺らぎを見せる。そのさまに誘われて=同調して=共振して、読む=見る=目にする、あるいは、口に出して「音=空気の揺らぎ」として耳の鼓膜を震わせる。出あう。これを不思議なことと言わずして、何と言えばいいのでしょう。


 こうした、めちゃくちゃなこじつけた「読み」に興味のある方が、万が一いらっしゃれば、ぜひ、「あう(4)」と「あう(5)」をご一読願います。あまりにも馬鹿馬鹿しくて、目を丸くし、開いた口がふさがらなかいようでしたら、このアホめの不徳の致すところです。ごめんなさい。でも、言い訳をさせてください。本気なのです。残念ながら、正気だと申し上げることはできませんが、本気です。大目に見ていただければ、幸いです。


 いずれにせよ、「目」と「m」と「め」と「ま」と「見る」との出あいのような、不思議なことが、「こと」にも起こってくれないでしょうか。


     *


 行き詰まりましたので、また、ずらしてみます。


 な・名・字・那・無・儺・己・汝・何・na


 ことわり・事割り・言割り・断り・理・kotowari


 かみ・神・髪・守・皇・上・紙・kami


 たま・霊・玉・魂・魄・珠・球・適・遇・tama


 うーん。感慨深いものがあります。ぞくっとします。


     *


「こと」という名の仮名という場で、「事」と「言」という名の真名と、「koto」という音が出あう「こと=出来事」を、目にする=見るということ。ことたちが舞い、目まい=目舞いを誘ってくれるようなことが、起きてくれないでしょうか。


     *


 だれかがいったように、かみは、しんだ。ということ。だれかがいったように、ひとは、すなのかおのごとく、なみうちぎわに、きえた。いや、きえている。ということか。ことわりという、なのしくみと、しかけ。しくみと、しかけという、な。ことわりというなの、ゆらぎとうごき。ゆらぎとうごきという、な。ゆらぎとうごきという、なが、ひとに、はたらきかけている、ということ。ひとをのぞく、ものや、ことや、さまにも、はたらきかけている、ということ。


 なにかをなづけ、てなずけることにより、ひとは、なにかが、みえなくなり、なにかを、うしなったということ。なにかをみうしなったことに、ひとは、きづいていないということ。なづけえない、なにかに、もてあそばれていることもしらない。もてあそんでいる、なにかの、なさえもしらない。ということ。


 なづけるということ。なのかずには、かぎりがある。それなのに、ひとは、なにかをさらにこまかくわける。おのれのちいささに、あわせて、わけにわけまくる。わけるごとに、なをつければ、ながたりなくなるのは、あたりまえ。おなじおとの、なをつけるしかない。おなじかたちの、なをつけるしかない。ということ。


 かくして、なは、またぐ。なは、かさなる。わけがわからなくなる。なは、あつい。おもいも、あつい。しかるに、なは、おもい。ということ。


 なづけるとは、かわすこと。かわすたびに、なにかがかわる。ひとは、ゆらぐや、かわるには、ついていけない。とらえられない。それが、さが。ますます、わけがわからなくなる。ということ。


 すべては、ひとという、わくのなかのこと。わくのそとのことは、どうしても、わからない、ということ。それが、ことであるかどうかさえ、わからないということ。あやしきこと。ことこと。


     *


 誰かが言ったように、神は、死んだ。と言う「こと・事・言」。誰かが言ったように、ヒトは、砂の顔のごとく、波打ち際に、消えた。いや、消えて居る。と言う「こと・事・言」か。「ことわり・事割り・言割り・断り・理」と言う、「名・字・何」の仕組みと、仕「掛け・賭け・懸け」。仕組みと、仕「掛け・賭け・懸け」と言う、「名・字・何」。「ことわり・事割り・言割り・断り・理」という「名・字・何」の、揺らぎと動き。揺らぎと動きと言う、「名・字・何」。揺らぎと動きという、「名・字・何」が、ヒトに、働き「掛け・賭け・懸け」ている、と言う「こと・事・言」。ヒトを除く、「もの・物・者」や、「こと・事・言」や、「さま・様・状・方」にも、働き「掛け・賭け・懸け」ている、と言う「こと・事・言」。


 何かを「名・字・何」づけ、てなずける「こと・事・言」により、ひとは、何かが、「見・観・視」えなくなり、何かを、失ったと言う「こと・事・言」。何かを「見・観・視」失った「こと・事・言」に、ヒトは、気づいていないと言う「こと・事・言」。「名・字・何」づけ得ない、何かに、もてあそばれている「こと・事・言」も知らない。もてあそんでいる、何かの、「名・字・何」さえも知らない。と言う「こと・事・言」。


 「名・字・何」づけると言う「こと・事・言」。「名・字・何」の数には、限りがある。それなのに、ヒトは、何かをさらにこまかく「分ける・別ける」。おのれの小ささに、合わせて、「分け・別け」に「分け・別け」まくる。「分け・別け」るごとに、「名・字・何」をつければ、「名・字・何」が足りなくなるのは、当たり前。同じ音の、「名・字・何」をつけるしかない。同じ形の、「名・字・何」をつけるしかない。と言う「こと・事・言」。


 かくして、「名・字・何」は、またぐ。「名・字・何」は、重なる。「分け・訳」が「分からなく・判らなく・解らなく」なる。「名・字・何」は、「厚い・篤い・熱い」。「思い・想い」も「厚い・篤い・熱い」。しかるに、「名・字・何」は、「重い・重い・想い」。と言う「こと・事・言」。


 「名・字・何」づけるとは、交わす「こと・事・言」。交わすたびに、何かが「変わる・代る・替わる・換わる」。ヒトは、揺らぐや、「変わる・代る・替わる・換わる」には、ついていけない。とらえられない。それが、性。ますます、「分け・訳」が「分からなく・判らなく・解らなく」なる。と言う「こと・事・言」。


 すべては、ヒトと言う、枠の中の「こと・事・言」。枠の外の「こと・事・言」は、どうしても、「分からない・判らない・解らない」、と言う「こと・事・言」。それが、「こと・事・言」であるかどうかさえ、「分からない・判らない・解らない」と言う「こと・事・言」。怪しき「こと・事・言」。ことこと。


     *


 馬鹿馬鹿しいですね。めちゃくちゃなこじつけ。尋常ではない。


 こうなると、以下の2つの態度のうち、いずれか一方を取る、あるいは、そのうちのどちらかに寄るしかなさそうです。


 (1)不思議なこと。そうだ、そういう「こと」にしておこう。これ以上、名前に逆らうことはやめよう。参りました。負けました。名前至上主義、漫才じゃなくて、万歳! ことについては、もう、いっさい、悩まないこと。


 (2)不思議なこと。そうだ、「こと」に徹底的にこだわろう。徹底抗戦。相手は手強いから、討ち死にしてもかまわない。妥当、じゃなくて、打倒名前至上主義! 「名・字・何」という「音」が音でなくなる。「名・字・何」という「文字」が文字でなくなる。そんな感性をとりもどそう。


 とはいうものの、(2)の負けは明らかなようです。(2)のスタンスは、ヒトという枠から外れることですから、危険です。ことのふち、つまり、限界=崖っぷちに身を置くようなものです。異なるはずの事と言が結託しているのですから、こちらに勝ち目はありません。ことに打ち勝つこと。そんなこと、できっこない。ということ、です。


     *


 危うくなってきました。そもそも、なんでこのアホは、以上のようなことに頭を悩ませているのか。そうお思いになっている方が、ほとんどだろうと察しております。神経症的どころじゃ、なさそうです。ほんまもんの重篤な気配が濃厚です。


 我に返る必要がありそうです。とはいえ、返る我が見当たらないのです。我がない。破鏡再び照らさず。割れた鏡で、自分の姿さえ映し見ることはできない。要するに、かえるにかえれない。どこかで、聞いたか目にしたフレーズです。思い出しました。「かえるはかえる」、「かえるにかえる」、「もどるにもどれない」と立て続けにつづった記事のタイトルが合体したリフレーンみたいです。


 やばい。マジやばです。事無きを得るためには、「こと・事・言」への負けを素直に認め、この辺で退散したほうがよさそうです。ということで、失礼いたします。ねえ、おねえさん、これでいいこと?



※この文章は、かつてのブログ記事に加筆したものです。https://puboo.jp/users/renhoshino77



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