意味の論理楽(続・ふーこー・どぅるーず・でりだ)その2
げんすけ
2020/07/23 09:29
「わかる」って不思議だと思いませんか? 自分には不思議で不思議でたまりません。「わからない」も、不思議です。きょうは、「わかる」ってことは、いったい、どんな「仕組み=からくり」なのかを、考えてみたいです。哲学してみたいです。たまにはオヤジギャグなど、バンバン飛ばしながら、うつを紛らわしたいです。
ところで当ブログ日記では、やたら、くだらないギャグを飛ばしています。くだらないことは、十分承知しております。と、念のため言い添えておきます。で、自分なりに、ギャグが決まった時には、自己満足ですけど、とてもとても嬉しいです。「マンモスうれP= I'm very very happy. 」です。きのうも書きましたが、このところ、
*死語復活キャンペーン
を、ひとりで「展開=転回=空回り」しております。いつ終わるやら、この回転扉は(※独り言です)。きょうは、「いただきマンモス」なんかでおなじみだった、のりピー、こと、酒井法子さんを思い出しましょう。ご不明の「ヤング(※これも死語ですか?)」がいらっしゃいましたら、「酒井法子」をウィキペディアなどで検索してください。面倒くさい方は、今書いたことは、お忘れください。
さて、「わかる」と「わからない」ということの「仕組み = からくり」ですが、自分にとっては、昔から気になってしかたがない問題の1つです。こういうややこしいことは、科学者や、哲学者や哲学学者などに任せておけばいい、という考え方もあるでしょう。そうした意見のあることを重々承知したうえで、素人として素人らしく、あえて取り組んでみようと存じます。
で、ついでに説明しておきますが、哲学者と哲学学者とは違います。いわゆる哲学者は、「主に」自分の頭と体で考えたことを、書くなり、他の人に話したりします(※ここでは、後述のように「オリジナリティの有無」を問題にしていません、文字通りに取ってください)。一方、哲学学者は、「主に」他の人の考えたことを、書くなり、他の人に話したりします。ここで、大切なのは「主に」です。「主に」は、「ほとんどの場合に」と同じくらいだと理解してください。
なぜかと申しますと、
*ヒトに「独創性=オリジナリティ」などは、備わっていない
からです。ヒトにとって、
*知識や情報は、すべて既に誰かが言ったり書いたりした言葉だ、
という意味です。あらゆる知識や情報は、誰かの言葉の引用か、寄せ集め=コラージュ=パッチワーク=ごった煮なのです。
せいぜいできることと言えば、これまで集積された言葉と想念を、ああでもない、こうでもないと「組みかえる」手仕事=ブリコラージュです。最近、発想法とか、創造的思考とかいう類の本が売れていますよね。イメージ的には、ブレーンストーミングのパーソナル版という感じです。要するに、めちゃくちゃ、こじつけでもいいから、いろいろな言葉や想念を組み合わせる。言葉は下品ですが、頭の中を乱交=オージー状態にしてしまうことです。
節操とか、正しい正しくないとか、真面目不真面目なんて、気にしてはいけません。とにかく、一か八かで「賭ける」のです。そのうちに「こんなんでましたけど~」と妙案が浮かぶという、ギャンブル=ゲームを実践すること。それが思考すること、思想すること、あるいは哲学することだと思います。
その意味では、マラルメのやろうとしたことと、ちょっとダブります。マラルメにとって、詩作=思索=試作だったのです。と私は勝手に理解=曲解=たぶん誤解=それでもOKしております。話が、それました。ヒトには「独創性=オリジナリティ」などは備わっていない、という話でしたね。
いや、そんなことはない。オリジナリティは存在する。特許権や著作権があるじゃないか。
と言う人たちもけっこういます、未だに。でも、その人たちは大変です。「オリジナリティは『存在しない』」ということを否定しちゃうと、その人たちは、
「 オギャー! ウギャー!」
と産声をあげて以来、自分自身がたったひとりで生きてきたことを、証明しなければならなくなります。とりわけ、母語を真似る=学ぶことなく、ひとりだけで習得したことを証明しなければならなくなります。また、たとえば、太陽が地球の周りを回っているのではなく、地球のほうが太陽の周りを回っていることを、自力で知ったということを証明しなければならなくなります。
頭のいい人なら、口がうまいですから、証明しちゃいそうな気もします。言葉を用いれば、何とでも言える。何でもあり。言い換えるなら、黒を白と言いくるめることができる。というのが、言葉の特徴ですから、上記のことを言葉を用いて証明しても、ぜんぜん不思議はありません。だからこそ、人間様は、ここまできたのですもの。なお、特許権と著作権に関しては、究極的にはお金とハンコの問題だ、とだけ言っておきます。この点については、いつか詳しく書きたいです。気になる方は、当ブログのバックナンバー「あなたなら、どうしますか?」(※安心してください。過去の記事を読まなくても分かるように書きますので)と、「やっぱり、ハンコは偉い」をご一読願います。
で、さっきの哲学者と哲学学者の話に戻ります。「死語復活キャンペーン」のついでに、このブログでは記事を書き始めた初回から、一種の、
*「哲学を庶民の手に」キャンペーン
みたいなことを、独りでやっています。「自分の頭と体で考える」とか、「哲学がしたーい」が標語なのですが、「自分の頭と体で考える」というのは、比喩でして、きのうの記事の最後のほうで書いた、
>(1)ヒトは、言葉を使って考えることができる(※「言葉で考える」のではありません、「言葉の助けを借りて考える」という意味です、思考と言語との関係には、まだコンセンサスはないもようです)。これが「言=事分け」です。
>(2)ヒトは、体(※当然のことですが、頭も、お腹も、膀胱も、胃も、五感も、手足も、皮膚も体内にある何もかもを含みます)を使って考えることもできる。これが「身分け」です。
のうちの、(2)くらいの意味です。オリジナリティというものが存在する、という意味では、ぜんぜんありません。念のために申し添えておきます。現に、これまで、このブログで書いてきたことは、すべてが誰かの言葉の引用か、その言葉の断片の「寄せ集め=コラージュ=パッチワーク=ごった煮」でした。そうした作業を「手仕事=ブリコラージュ」として、やっていたのです。「乱交=オージー」していたんです。ヒトの書くもの、話すことで、そうでないものやことはありません。
で、さきほど書きました「哲学を庶民の手に」キャンペーンですけど、視点を変えてみましょう。現在の、政治家と呼ばれる人たちを思い浮かべてください。ついでに、現在活躍している作家と呼ばれる人たちを思い浮かべてください。できれば、その人たちの、経歴まで知っていると、いいんですけど、ふつうは知りませんよね、気にしませんよね、そんなこと。で、先週書いた「お口を空けて、あーん」という文章で、やや詳しく触れたことを、ここでかいつまんで説明します。
政治をやってお金を稼ぐことも、小説を書いて生計を立てることも、今では、いわゆる「偏差値」(※イヤーな言葉です)の非常に高い、一部の大学出身者だけの特権ではなくなっている。つまり、エリートだけが独占する職業ではなくなってきている。と、いうことを強調したいのです。昔は違いました。政治家や作家は、たいてい、いわゆる「いい大学」や「いい学校」を出た人たちがなる職業でした。もちろん、例外的な人物はいましたけど、少数でした。
国語の教科書を思い出してください。教科書に載っている文章を、読まされますよね。各文章の後ろのほうで、写真入りの作者の経歴って見かけませんでしたか? 自分は、国語が苦手で、授業も退屈だったので、よくそういう写真の顔にヒゲをつけたり、マユを鉛筆で濃くして、
ギャハハー!
なんて、ひとりで受けて喜んでいました。そういう写真の下とか横に、その文章を書いた小説家や詩人や評論家という肩書の人たちの略歴が載っていませんでしたか? やたら、東大とか、京大とか、早稲田大とか、慶応大とか、書いてありませんでしたか? あれです。そのことを、言いたかったのです。お分かりいただけたでしょうか? ちなみに、今挙げた大学名が、関東に集中しているのは、日本が中央集権国家を目指したからです。なお、私立の早稲田や慶応義塾は、国立の帝国大学への抵抗勢力でしたが、昔、そうした私立大学に通えたのは、裕福な家の子弟であったり、またはエリートだったと考えられます。
今は、違いますよね。試しに、現在の国会議員の一覧表なんかを検索して、学歴の部分だけでも見てみると、よく分かると思います。へーえ、と思う発見があるはずです。
もちろん、上で挙げた大学出身者は、現在も中枢を占めています。ただ、全体的に偏差値がかなり低くなっていることは、確かでしょう。ここで、偏差値などという、差別的な尺度を使って、話を進めなければならないのは、とても残念で悲しいことです。でも、こうした残念な事態を論じ、ひいては現状を打破するためには、現実を直視しないわけにはまいりません。ご理解いただければ幸いです。もっとも、政治家の場合には、二世や三世問題や、お金や、コネなどが絡みますので、事は以上述べたほど単純ではありませんが。
一方、文学の業界については、本屋さんに出向いて、ずらりと並んでいる文庫コーナーで、作者の略歴を片っ端から見ると、へーえと思うことがあるに違いありません。この業界では、かつての意味での「エリート」は、マイノリティになりつつあります。
で、哲学ですけど、哲学者とか哲学学者は、まだまだ、一部のエリートの特権という感じです。キャリアと呼ばれ、天下りや渡りで有名な上級の公務員といい勝負です。今、思い出しましたが、
日本人は思想したか?
というフレーズを読んで、反発を覚えませんか? これって高飛車で、挑発的な響きを持つ文句ではありませんか? 「あんた、すべての日本人に会って確認してから、そんな質問しているの?」とか、「そんな偉そうなこと、他人に尋ねる度胸がよくあるね」とか、言い返してやりたくなりません? ならないですか? そうですよね。ふつう、こんなこと言われても、無視しますよね? それが、今という時代でしょう。
「日本人は思想したか?」って、実は本のタイトルなんです。自分は読んでないので、何が書いてあるのか、誰が書いたのかも知りません。ただ、昔、新聞の下のほうにある本の広告で、その文字を見かけて、今、思い出しただけです。ところで、みなさん、思想してますよね? 思考していますよね? 哲学もしていますよね?
「思想」も「思考」も「哲学」も、別に難しいことではありません。それをしないで、ご飯が食べられないことは確かです。子どもを育てられないことも、確かです。誰もが、毎日やっていることなんです。「思想」も「思考」も「哲学」も、とどのつまりは、「よく考えること」。それも、頭だけではなく体を使って考えることだ、と個人的には解釈しています。
読んでもいない本のタイトルに、いちゃもんをつけるなんて、サイテーです。反省しています。でも、あと、ちょっとだけ言わせてください。「日本人は思想したか?」の答えが、その本の中で YES か NO か、または YES AND NO かは知りませんが、日本人を総称すると取られかねないセンテンスをタイトルにした以上、「思想したか?」と、過去形ではありますが、その「日本人」の中に、このブログを書いているアホや、あなたや、自分たちの身近な人たち、あるいは自分たちの先祖が含まれていることを願っています。というか、「日本人」を総称するなら、それくらいの他者への配慮と謙虚さをもって発言するべきではないでしょうか。お高くとまるのではなく。
なんて、難癖をつけているのは、今朝の散歩で犬の糞を踏みつけたから八つ当たりしているわけではなく、「自分・自分たち=思想界(そんなものがあるとしての話ですけど)=思想会」的なエリート的発想のにおいがしたからです。というか、自分の頭の中にまで土足で踏みこまれて、ジュッパヒトカラゲにされるのは、ごめんだ――。そう言いたかっただけです。
さて、「思想」や「思考」や「哲学」は、人それぞれにとって違う意味を持っています。これも確かなことです。というわけで、自分はこのブログで、自分なりに「哲学」しています。かなり、気まぐれで無精で省エネで、「頑張らない」をモットーにしてネガティブにぼちぼちとやっています。ただし、本気です。正気だとは言う自信はありませんが、本気です。
何だか、遠回りしちゃいました。きょうは、
>「わかる」ってことは、いったい、どんな「仕組み=からくり」なのかを、考えてみたいです。
って、冒頭に書いたのでしたね。じゃあ、ぼちぼちいきます。で、結論というか、いちばん大切だと思っていることを、先に書きます。
*すべては、「わかる」ように出来ている、
のではないでしょうか? 「はあ?」と感じられる方が、たくさんいらっしゃると思いますので、説明します。ヒトは、生まれて以来、いろいろなことを学びながら、育ちますよね。「学ぶ」=「真似る」だという話を聞いたことがありませんか? 発音からして似ています、もんね。「まなぶ=まねる=まねぶ」。ダジャレっぽいですが、何となく、分かるような気がしませんか? 大昔から比較的最近まで、いろんな国々に生きていた哲学者(※哲学学者も含めて)たちだけでなく、数学者たちや物理学者たちにいたる人たちまでが、
*ヒトは、忘れていることを思い出すだけだ、
*分かっているのに、うっかりして、分かっていることに気づかないだけだ、
*思い出したことを、悟りだとか、発見だとか、名づけて大騒ぎしているだけだ、
とか、
*「自分は分かんない」ってことを知るのが、大切なことだ、
*分かんないことは、分かんないんだから、言葉にできない、
*ヒトには「わかる」ことの限界があるし、「わからないこと」にも限界がある、
という意味のことを、書いたり、言ったりしてきた。そして、それを他の誰かが読んだり、聞いたりして、書いたり、言ったりしてきた、らしいのです。
自分は怠け者なうえに、忘れっぽいので、詳しいことは知りません。ですので、ただ「そうらしいのです」とだけ書いておきます。もっとも、上のような意見を述べた人は、少数派だという気はします。自分自身を、無知だとか忘れっぽいなどと認める、哲学者や哲学学者は、あまりいない、と考えられるからです。何しろ、お鼻が高い方々が圧倒的に多いみたいです。
でも、もし上に書きつらねたような、哲学者や哲学学者や数学者や物理学者たちが言ったり書いたことが、「言えている=本当らしい」としたら、笑えませんか? 少なくとも、自分は笑っちゃいます。場合によっては、爆笑するかもしれません。だって、「やらせ」みたいなもんじゃないですか? 本当は「わかっている」のに、または「忘れた」だけなのに、「わからない」とか「難問・難解だ」とか言って、額にしわを寄せ深刻そうに、のたまうなんて。これって、
*もしかして、出来レース?
うっかり者たちの出来レース?(※「うっかり者たち」を「健忘症の人たち」と書こうとしたのですが、記憶障害は病態や症候のようなので、使用を差し控えました)
「やらせ」「出来レース」「八百長」までは言わなくても、ほんの少し忘れっぽいからだ、と言えば笑えませんけど、さもなきゃ笑っちゃいますよ、やっぱり。
要するに、「わかるということ」について、以前から不思議だと思っていたことは、
*「わからない」って本当?
っていう、疑問なんです。ちょっと、ここでお断りしておきますが、今問題にしているのは「わからない」であり、「知らない」ではありません。両者はかなり似ていますが、違います。「知らない」については、いつか書きます。で、「わからない」ということですが、これは、「!?」ということですから、当然のことながら、この文章を書いている自分にも、わからない。つまり、疑問。要するに、忘れちゃっている! 「えっーと、えっーと、何だっけ」状態なわけです。なお、笑っちゃいますよね。
ただし、この疑問については、頭と体の中を整理する必要があるので、後日、できれば、あすにでも詳しく書きたいです。マラルメさんとアツノさんに、ご登場願わなければなりません。きょうは、お二人とも、お忙しいそうです。ですので、いちおう、
ここまで書いたことのポイントを、箇条書きにしてまとめます。
(0)ヒトは、わからないことを、わかると信じているらしい(※これが、原点です)
(1)ヒトは、わかることしか、わからないらしい(※これじゃ、身も蓋もないですね、ちょっと細工をしましょう)
(2)ヒトは、わかっていることしか、わからないらしい(※少し、元気が出ませんか?)
(3)ヒトは、わかっているのに、とぼけているらしい(※何だか、悪者にされた気分になりますね、じゃあ、こんなのは、どうですか?)
(4)ヒトは、わかっていたことを、忘れているらしい(※いくらか責任が軽くなった気がしませんか?)
(5)ヒトは、わかっていたことを、忘れそうになっているらしい(※いくぶん救われた気持ちになっていただければ幸いです)
以上です。
念のために、再度書きますが、本気です。正気とは言いませんが、本気です。
またもや、だらだらとした長い文章になりました。きょうは、特に後半が読みにくかったことを、お詫び申し上げます。今のところ、自分には、あのようにしか書けません。できれば、あす、あの続きを書きたいです。
この行まで、辛抱してついてきてくださった方に、深く感謝いたします。
また、来てくだされば、マンモスうれPです(※失礼)。(「もしかして、出来レース?」より)
〇
ヒトは、分かっていることを、すっとぼけて分かっていないと言い張っているらしい。あるいは、分かっていることを、うっかりして分かっていないと勘違いしているらしい。
ということは、「うん、分かる、分かる」「そうか、分かった!」「なるほど」「おお、すっきりした」というのは、結果として一種の「やらせ」、または「出来レース」なのではないか。
これが、きのう書いたことの要約です。
*
で、きょうは、きのうみたいに、ややしい文章にしたくないので、結論からズバッと書きます。
*やっぱり、「分かる・分かっている」とは、「出来レース」、または「八百長」らしい。
です。「なるほど、おお、すっきりした」と、言っていただけますでしょうか?
駄目ですよね。
やらせで、いいから、せめて、「分からないわけでもないけど……」くらいは、どなたかに言ってほしかったんですけど、やっぱり駄目ですね。
「畏(おそ)れ多くも、人間様の「分かる」という、いとなみを、「やらせ」だの「出来レース」だの、「八百長」だのなんて言うやつなど、無礼極まりない不届き者だ。打ち首にいたす」
あるいは、
「それを言っちゃ、おしめえだよ、このばかたれめが。ひっこめ」
といった幻聴が、難聴の耳に聞こえるんですけど。よく考えれば、確かに「出来レース」なんて言ったら、
「夢もチボーもないよ」
という状況に陥ります。ちなみに、チボーは、「キボー=希望」が訛ったものらしいです。ロジェ・マルタン・デュ・ガール作の『チボー家の人々』という、たくさんの人たちが出てくる、とてつもなく長い小説とは関係ございません。で、これって、きょうの、
*死語復活キャンペーン
なんですけど、古いですよー。自分も、うろ覚えです。気になる方だけ、「東京ぼん太」をウィキペディアで検索してください。もう、お亡くなりになった方です。うっすらとお顔とお姿を覚えております。何だが、涙が出そうです。「夢もチボーもない」って、今の経済状況そのものじゃありませんか。歴史は繰り返す。でも、東京ぼん太さんは、どういう状態を指して、「夢もチボーもないね」と、おっしゃっていたのでしょう? 確か、高度成長時代真っ只中に活躍されていたのに。不思議だなあ。いつか「夢もチボーも」ある時に、調べてみようと思います。
*
きょうは、それどころじゃないのです。いずれにせよ、夢も希望もないような、どっちらけ(=極度に興ざめである=非常にしらけたさま)、のお話をしているんですよね。さっき聞こえた幻聴のように、それを言ったらおしまいだ、みたいなお話をしているのです。で、きょうもマラルメ師ならびに泉アツノさんがご多忙だということなので、マラルメ師の噂話を、ここでこっそりしてみたいと思います。で(※相変わらず「で」が多くですみません、この癖、なかなか直らない=治らないようです、「で」ないと先に進めないんです)、
マラルメは(※いらっしゃらないと、いきなり呼び捨てです)、フランスの詩人でした。当然のことながら、詩を残しています。そのマラルメの、とある詩について、とある発見があったということを、今思い出しました。記憶は定かではありません。ほぼ、次のような話だったと思います。
マラルメを扱った卒論か修士論文かで、ある学生がマラルメの詩を分析した。で、その詩のなかに、ステファヌ・マラルメの姓だか名だか忘れましたが、とにかく名が織り込まれていたというお話です。
ソウ・ホワット?(英) エ・アロール?(仏) ナ・ウント?(独) で、それがどうした?(日)
という、感じですよね。普通の反応は――。でも、いちおう、これって大発見だったわけですよ。遠く離れた東洋の端っこ(※ファー・イースト=極東=何という、侮蔑的な表現!)に位置する島に住む一学生が、「難解=わけ分かんない= これ『なんかい』のう?」で、本国フランスの人たちでさえ読みもしない、マラルメの詩を「解読」した? アンクルワヤーブル=アンビリバボ=信じられない! と、おフランスでも、一部の方々がお騒ぎになったとか、ならなかったとか、いうお話ざんす。
要するに、マラルメさんも、自作の詩に署名を忍ばせるなんて、おちゃめで粋なことをやっていたのね。というだけの、お話ざんす。
*
ちょっと話をずらします。定型詩って、お聞きになったこと、ありませんか? 難しいことじゃありません。ほら、「5・7・5プラス季語」の俳句という、定型詩。「5・7・5・7・7の三十一文字(=みそひともじ=アラサー)」の短歌という、定型詩。この国にも、昔からありますよね。苦労して音節の数を合わせて、「できたー!」なんて言って喜ぶ。あれ、です。
ただ、フランスや、他のヨーロッパの国々の定型詩の場合には、「韻を踏む」とか、「音節の数を合わせる」とか、ちょっとややこしいんです。自分も大学時代に、英語やフランス語の詩を、授業で読まされたり、暗唱させられたりしました。慣れると、母語でないにもかかわらず、それなりに「口に出して読んでみると、心地よいなあ」という気分の一端に触れることができます。「韻を踏む」は、漢詩にもあるんですけど、覚えていらっしゃいませんか? 個人的には、ちんぷんかんぷんでした。このダジャレって、漢語=中国語と関係あるらしいのですが、漢文で苦労した自分には、そのダジャレの「わけ分かんない」イメージが分かるような気がします。
ここまで話したのですから、思い切って「韻を踏む」と「音節の数を合わせる」っていう、ヨーロッパの定型詩の「一端=ちょっとだけよー」(※あっ、加藤茶のギャグだ!)――。突然ですが、
*死語復活キャンペーン
に入らせていただきます。
「ちょっとだけよ~。アンタもすきねえ」
を覚えている方、いらっしゃいませんか? お若い方だと、ご存じないかもしれません。
*
さて、さきほどの続きです。
>ヨーロッパの定型詩の一端
に、触れてみませんか? えっ? 「触れるなんて、あんたも好きね」ですか? この幻聴は聞かなかったことにします。で、「韻を踏む」と「音節の数を合わせる」ですが、自分は専門家ではないので、自分なりにリフォームして説明いたします。ただイメージだけ(※ちょっとだけ)、感じ取っていただければ、それでけっこうです。例を挙げて、やってみますね。では、いきます。
(例1)
セブン (3)
イレブン (4)
イイキブン (5)
(例2)
スカット (3 or 4)
サワヤカ( ka ) (4)
コカ( ka ) (2)
コオラ( ra ) (2 or 3)
上の2つの例を見て、なんとなく、分かるような気がしませんか? どれも、
*語呂がいい。覚えやすい。
この記憶しやすいということが、ポイントです。そもそも、暗唱しやすいように、「韻を踏む」と「音節の数を合わせる」という定型が作られたという話です。詩はもとは口承文学(※口づてに語り継がれ歌い継がれてきた神話や昔話や詩歌)だったようですから、その名残でしょうか? で、(例1)の「ブン」「ブン」「ブン」っていうのは、完璧に「韻を踏んで」います。(3)(4)(5)は、音節の数です。(例2)の場合には、( ka ) ( ka ) ( ra )と、( a )が共通していますね。こういうのも、ありです。「韻を踏んで」います。
ちゃんとした定型詩の場合には、たとえば、「ブン」「ブン」「パラ」「パラ」「ブン」「ブン」とか、「ブン」「パラ」「ブン」「パラ」「ブン」「パラ」みたいに、きれいに並びます。すごいですね。ダジャレと同じくらい、作るのが大変そうですね。ダジャレと「韻を踏む」は、基本的に同じ作業だと勝手に理解しおります。
ただし、(例1)(例2)ともに、音節の数は不ぞろいです。ちゃんとした定型詩では、音節の数をそろえなければ、ならないんですよー。上の例のような短い詩がヨーロッパにはあるわけないみたいですから、音節の数は、10とか20くらいはざらにあったと記憶しておりますが、正確なことは、すっかり忘れました。いずれにしても、オヤジギャグと同じく、それなりの苦労がありそうです。ご苦労さまって感じです。
*
以上、すごく大ざっぱに「韻」と「音節の数」をそろえるということを、説明しました。専門家からは、「この、でたらめやろうが!」と罵倒されそうです。ここでは、イメージだけさえ、何となくつかめばいいのですから、悪態をつかれても知らん顔しておきます。
でも、不思議に思いませんか? どうして、上で書いたみたいに、「韻」と「音節の数」をそろえるのに、血道をあげたり、中には命をかける人もいるんでしょう? 理由は2つくらい、ありそうです。
1つは、さきほど述べたように、口調をよくして記憶しやすくする、ためです。起源が、口承文学ってやつだからです。確かに、「セブン、イレブン、イイキブン」なんて、語呂がよくて「いい気分」になり、しかも覚えやすいですね。それは、納得できるような気がします。2つめの理由は、そういうダジャレ、いや、「芸=技=テクニック」が上手だと、尊敬されるそうなんです。「わざ」とらしさが、「芸」や「術」になる。ふーん、そんなもんですかね。
マラルメの話に戻ります。以上見てきたように、ヨーロッパの定型詩には、面倒くさい約束事があります。俳句や和歌(わか)を考えても、「わか」るように、偶然性= accident =アクシデントに左右されます。運にも左右されます。難しく言うと、偶然と必然の間を彷徨(ほうこう) (=うろうろさまよう)するわけです。
*偶然と必然
哲学っぽいですね。「存在と無」みたいに。で、マラルメって人は、偶然性と必然性とに、非常に意識的だった詩人なんです。あれほど、偶然と必然にこだわって詩作=思索=試作した人はいなかったんじゃないか、なんて思ったりもします。ウィキペディアで「マラルメ」を検索して、ざあっと目を通せば、だいだいの感じがつかめます。それだけで十分です。考えて読んじゃ、駄目です。絶対に深入りしてはなりません。深入りすると、あそこが危うくなりますよ。内緒の話ですけど。
偶然と必然っていうと難しそうに聞こえますが、簡単に言えば、ダジャレやオヤジギャグも、偶然と必然の間で、おろおろ、うろうろしながら、作ります。賭け事=ギャンブルも、同じです。ギャンブルの達人には、偶然の中に必然を読む特殊な才能がありますね。うらやましいなあ、格好いいなあ、なんて自分は思います。イ・ビョンホン主演の、ギャンブラーの生きざまをテーマにした韓国ドラマを見ての感想ですけど、この気持ち分かっていただけましたでしょうか?
ものすごく単純化して説明します。サイコロを振ったとします。2の目が続けて2回出て、その次に3の目が3回出たと仮定しましょう。2233ですね。あるいは、最初に2の目が出て、次に3の目が出て、その次に2が出て、さらに3が出たとします。2323ですね。すると、「にーにーさんさん」「にーさんにーさん」という2つの「おにいさん」というタイトルの短い詩ができたことになります。
馬鹿みたいな説明ですが、そんな感じです。
*
で、サイコロだと、そうした目が出る確率はかなり低いでしょう。でも、サイコロの目が語の数くらいたくさんあったと考えてください。韻を踏んだり、音節の数を合わせることのできる確率は、相当高いのではないでしょうか。そう考えると、ヨーロッパでおびただしい数の定型詩が作られてきたのは、当然だという気がします。何しろ、サイコロを振った場合には、6つの目のいずれかしかでないのに比べ、
*言葉=語という「サイコロ」(※言うまでもなく比喩です)を振る
ならば、韻を踏み音節を合わせた語の連なりなど、本物のサイコロに比べれば、比較的簡単に定型詩を作ることができるはすです。
*定型詩を作る行為とサイコロを振る行為の共通項=偶然と必然とのからみ合い=マラルメがこだわったこと
とは、そんな感じです。以上は、ど素人の曲解=誤解=与太話でした。
*
で、言葉が「書ける」という不思議ないとなみが(※よく考えると不思議じゃありませんか? えっつ、ぜんぜん不思議じゃない? 失礼しました)、「賭ける」(=ギャンブルをする)に限りなく近いということに関しても、マラルメほど意識的な詩人はいなかった。何しろ、「エイヤッ」とサイコロを振る名人ですから。いきなりですが、
*カジノ資本主義
って、言葉をお聞きになったこと、ありませんか? このブログでは、「投資って何だろう? お金って何だろう?」という文章で、ちょっとだけ触れました。自分は、経済や経済学には、めちゃくちゃ弱いのですが、
*カジノ資本主義というのは、資本主義がいくところまでいっちゃって、ギャンブルみたいにゲーム化しちゃった。
そんなイメージで勝手に理解しています。また、
*ケインズの経済学の研究と、ケインズの株式狂いとの関係は、投資と投機(=ばくち)との関係によく似ている。
つまり、両ペアは酷似=激似=ほぼ同じ、と勝手に理解しています。ですので、そうした素人の出まかせとして、この続きを読んでいただきたいのですが、よろしいでしょうか?
*
で、思うんですけど、やっぱり資本主義って、やりすぎではないでしょうか? 金融工学か証券化か投資か市場か相場か、何だか知りませんけど、ギャンブルしてません? どさくさにまぎれて小細工していません? 素人を馬鹿にした玄人が、人の褌(ふんどし)で相撲をとっていません? 一部の人だけが甘い汁を吸っていません? 国同士のレベルでも国民間のレベルでも、貧富の格差が大幅に拡大してきていません? でも、いったん始めちゃったし、世界中に広まってしまったし、中国までやってるし、イスラム圏もやっているし――もう、降りられない状態になっちゃっているのでは、ないでしょうか? ヒトは、本質的に、
*ギャンブル依存症
では、ないのでしょうか?
*
都合により、ここで、変調or偏重or移調or胃腸します。これから先、多少、ノイズが入りますが、気にしないで読み進んでください。
*やっぱり、出来レース、やらせ、八百長らしい。気づいているくせに、あるいは、気がついていないふりをして、または、すっかり忘れて、やらせを本当だと思いこんでいる、もしくは、思いこもうと自分をだましている。
*ある種のスポーツ(※あえて、名指ししません)や、ある種のテレビ番組(※あえて、名指ししません)と同じです。嘘、作りもの、フィクション、編集済み、情報操作されたもの、筋書きなしに見せかけて本当は筋書きがあるもの――そういうものを見て、ヒトは何とも思わなくなっている。心の底では、嘘だと分かっていても、嘘だと思うと楽しめないから、「ただ見ている」。実質的傍観者状態。重度の思考停止状態。
*悪いと分かっている、間違っていると分かっている、正しくないと分かっている、正直じゃないと分かっている。とどのつまりは泥棒や搾取だと分かっている。でも、都合が悪いから、そういうことは忘れる、あるいは、忘れたふりをする、または、すっかり忘れてしまっている。
*思い出そうと努力すれば、思い出すことができる、学び直すこともできる、再発見することもできる、「分かった!」と叫ぶこともできる。そうなのに、忘れている。思い出そうとしていない。そうした気迫も努力もみられない。都合が悪いから、必要がないから、という言い訳が心の奥底にある。
*へたなことを口にしたり、実行に移すと、他のヒトたちから、寄ってたかっていじめられたり、場合によっては、消されるから、思い出さないし、分かろうともしないし、実際に忘れてしまっているし、分からなくなっている。
*「分かる」は「分ける」ことだから、見えたり手にしているものは断片だけ。細切れ状態。要するに、現実も事実も真実も、まだらにしか分からない。「分かる」「分からない」ということは、ふるいにかけて、選(よ)り分けること。そのふるいに、かからないものは、分からない。そういう仕組みになっている。
*ヒトは、まだら模様の世界を見ている。おそらく、そのまだら模様はヒトに共通している。だから、ある程度、話が通じる。ただし、通じ合えないこともかなり多い。ひょっとすると、相手に通じているという認識は、個人レベルの錯覚かもしれない。
*ヒトは、知覚され記号化され信号化されデジタル化された情報を、シナプスとかいう導線と回路を通して、まだらに脳で処理している。その導線も回路も、無限ではなく有限の質と量のものしか通さない。ノイズは、抑制されている。そうやって、脳の過熱による機能不全を防ぐ仕組みが存在する。それでも、ノイズは駆逐できない。除去できない。
*カジノ資本主義というものは、上に書きつづったヒトの行動とすごく似ている。激似。酷似。かなりの部分がダブっている、かぶっている、そっくりと言ってもいい。
*答えが最初から出ている、出来レース。筋書きが最初からある、やらせ。何か黒い目的があって仕組まれている、八百長。
*すべてがぴったり当てはまり、すべてが正しいとされ、すべてが分かるような仕組みができている。「分かる」は言葉、ヒトが勝手に自分を基準にして決めたもの。だから、「分かる」と「分からない」とは反意語ではなく、表裏一体。観測者の位置によって見え方が変わる、玉虫色。
*真理や実体なんて、哲学や科学の出来レース。それを支えているものが、表象という名の代理人。何でも代行屋さん。まいどありー。おおきに。儲けさせてもらっております。
*Aだと思っているものは、括弧にくくられたA、つまり「A」。それを、(括弧なしの)Aだと思いこんでいる。さもなきゃ、人間=ヒトなんて、やってられないよー。確かにね。その通りだ。それこそが真理だ。トゥルースだ。ヴェリテだ。誰も否定できない真実だ。
*だから、大丈夫。このままで、大丈夫。「仕組み」とか「からくり」なんて、ちゃちゃを入れる、ふざけたやつは、くたばってしまえ。二葉亭四迷。浮雲。そんなやつは、人間様じゃない。ひとでなしだ。
*
とにかくヒトには出来レースが多すぎやしませんか? その原因は、Aの代わりに「Aではないもの」を代用するという、「表象の働き」にほかならない。代用品を使っているから、ぶれるし、ずれる。これ、当たり前のこと。カツラと同じ。
だから、「表象という仕組み」をかかえて生きるしかない、偶然と必然の間で「うろうろおろおろ」するしかない、こうしたヒトのギャンブラーぶりを、このブログでは、
*カジノ人間主義
と呼ぶことにします。 Casino-Homo-sapiensism 。カジノ・ホモ・サピエンシズム。そんなことを言っている自分もヒトの子ですから、さっきから、あちこち、ぶれています。ぶれまくっております。標的は狙っているつもりなのですが、ぶれて、ずれて仕方ない。このへんで、ブレを修正し、「分かる」「分からない」に的を絞ります。
*
では、軌道修正します。
★ 知覚 : とりあえず、必要のあるものしか知覚しない。都合の悪いものは知覚しない。たとえば、「見る」「聞く」という行動が、いかに選別と排除に満ちたものであるかは、誰もが日々体験している。テレビを例にとれば、すぐに分かる。画像と音声が伝える全情報を、視覚と聴覚が残らず知覚していたら、そのヒト、頭=脳が爆発してしまうでしょう。
★ 知る : ゲーデルさんの何とか定理や、ヴィトゲンシュタインさんのつぶやき集を持ち出すまでもなく、ヒトの知にはリミットがある、枠がある、囲いがある。つまり、知ることが可能なことしか、知ることはできない。ひっくり返して言うなら、知ることができることだけ通す、便利な「回路=ふるい」が存在する。それ以外のものは、通しません。でも、どういうわけか、ノイズというものが入り込む。どうやら、ヒトの「分かる」は欠陥品らしい。とはいうものの、リコールや回収してくれる存在が見当たらないため、「ま、いっか」でやるしかない。
★ 学ぶ : これは、手垢の付いたダジャレ=語源に習えば、「まねる」ことである。赤ん坊のころから、ヒトは真似が実にうまい。真似られないことは真似ない習性が、しみこんでいる。三つ子の魂百まで。人類は、みな、きょうだい。だから、水中でエラなどつかって、「生きる=息る」真似など、できっこないのは、先刻承知。仙石イエス。やっぱり、都合のいいこと、必要なことしか、ヒトは学びません。
何しろ、ヒトは、賢くて抜け目がないのです。
以上、3ケの★が、きょうのまとめです。ただ、こういうことを書いていると、罰(ばち)が当たります。どういうことかというと、「不毛」な状況に到達します。不毛は文字通り、毛が生えない、けなし、なさけない。実が実らない状態。みなし(※ ご、とは差別語になるから、付け加えません)。かわいそうな、ハッチ。
ここまで、お読みくださり、どうもありがとうございました。感謝しています。よかったら、また、来てください。待ってます。(「カジノ人間主義」より)
〇
*何となく生きている。
みなさんのなかで、そんな感覚をおもちなっている方も、たぶんいらっしゃるかと思います。自分の場合、そんな心もちでいることが、よくあります。さもないと、抑うつが悪化するという事情もあります。とにかく、そうしていると楽なことは確かです。
*「自分が」生きている意味=「自分の」人生の意味については、あまり深く考えないほうが、生きやすい
と言えそうです。でも、
*「一般論として」生きている意味=「一般論として」人生の意味について考える
というズルをすると、話はがらりと変わります。個人的には、これが、
*いい気分転換=気晴らしになる
のです。自分が注射 or 手術されるのを考えるのは嫌だけど、世間一般のレベルで「注射 or 手術される」ことを考えると、恐怖心が薄れる、というのに少し似ています。でも、自分が注射をされたり、手術を受けるのが大好きだという人も、世間にはいます。実際、そういう人から話を聞いたことがあります。その人の場合は、歯科医院で抜歯することなのですけど。それは、さておき、
*「個人の問題」を「一般論」に置き換える
のって、やっぱり、「ずるい」と思います。「ずるい」⇒「ずる賢い」⇒「賢い」とみなすという「ずるい」考え方=操作もあります。いずれにせよ、「ずるい」ことに変わりはありません。で、厚顔に=いけしゃあしゃあと、そのズルをしますと、
*ヒトという種(しゅ)は、何となく生きていることができない生き物である。
また
*ヒトという種は、生きていることに意味を見いだそうとする生き物である。
とか言えそうです。これには、
*ヒトは「何となく」なんていって、すっとぼけながら、実は「何となく」なんて生きていない
という前提があります。ヒトという種は何となく生きていない、と言っているわけですから、
*たぶんに、他の生物を見下した言い方だ
とも言えます。でも、見下すつもりなどぜんぜんありません。なぜなら、「何となく生きていることができない」も、「生きていることに意味を見いだそうとする」も、自分にとっては別に優れた資質=特性=習性だとは思えないからです。むしろ、
*ヒトという種は、惰性で=何となく、「何となく生きていることができない」=「生きていることに意味を見いだそうとする」という行為を、日々実行=実演している。
からです。「惰性」というと、ネガティブな響きがありますね。でも、「何となく」というと、ネガティブな響きは薄れる=「許せる」ような気がしませんか。さらに、次のようにも言えます。
*ヒトという種は、惰性で=何となく=「経路」に沿って、「何となく生きていることができない」=「生きていることに意味を見いだそうとする」という行為を、日々実行=実演している。
*
実は、たった今書いたフレーズが、きょうのテーマ=いちばん言いたいことなのです。ここで、ちょっと脱線させてください。このブログの文章では、やたら、
*「=」
をつかいます。これは、もちろん、わざとやっているのです。なぜ、わざわざそんなことをしているのかと申しますと、わざ=方法=戦略としてやっているのです。言い換えると、
*意味=進行方向を固定させたくない
つまり、文=フレーズ=センテンスを、
*停滞させたい=つまずかせたい=踏みはずしたい=吃音させたい(※「吃音」はあくまでも比喩です。不快な気持ちになられた方に、お詫び申し上げます。ごめんなさい。)
または、
*すっきりさせたくない
からなのです。
*「これしかない」や「簡潔に」や「単純明快に」や「流れるように」の逆
です。すっきりした文章も大好きですけど、
*「すっきり」は、何かをそぎ落とした=何かを排除(=選別)した結果である
および、
*「すっきり」は、面倒なことを放り出す=放棄するという横着=怠惰の産物である
ことを思い出しましょう。彫琢や推敲の結果なんかじゃありません。「ま、いっか」=妥協=「テキトーにみつくろう」の結果です。それどころか、ある意味では、
*「すっきり」は、「ズル・ずるい」と「消す=殺める」を行った、大雑把で血生臭い結果
とも言えるのです。
*Simple is beautiful.
とは、言葉や文章に関する限り、誠意に欠けた美辞麗句でしかありません。
以上が、冗漫=冗長=散漫=わかりにくい=ごちゃごちゃした文章を書いているアホの、言い訳=弁解=戦略の説明=「堪忍してちょ」=脱線です。とはいえ、この脱線は、きょうの本筋と大いに関係があるのです。
*
で、さきほどの「惰性で=何となく=「経路」に沿って」に、話をもどしますが、
*「「経路」に沿って」
と言うと、何だかわけが分からなくなると思います。「経路」というのは、このブログで、最近、このアホが馬鹿みたいによくつかっている、
*きわめて「個人語」的色彩の濃い言葉=自分で勝手につかっている言葉=自己満足の言葉=自分受けする言葉=他人には通じそうもない言葉
です。
ですので、この言葉がこのブログでどのようなつかい方をされているのかを、ご存じない方、および、きのうの記事を読んだけれど、「経路」なんてどうでもいいとお思いになっている方のために、きのうの記事から、必要な部分だけを少し改変=変奏=変装=編曲して、引用させてください。
*「経路」には一定した意味はない。
*「経路」=「線路」は意識されない。
*「経路」=「線路」は、敷かれている=引かれているが、意識されない。
*「経路」の中心的なイメージは、「すじ=方向=進行」である。
*「経路」=「意味」とは、分からないものである。
*分かるものは、「経路」=「意味」ではない。
*分かったとたんに、「経路」=「意味」ではなくなる。
以上のフレーズ=言葉を並べたところで、さっきのフレーズ=言葉を、以下にコピペしますので、申し訳ありませんが、もう一度読んでください。
*ヒトという種は、惰性で=何となく=「経路」に沿って、「何となく生きていることができない」=「生きていることに意味を見いだそうとする」という行為を、日々実行=実演している。
ということなのです。少しは、分かりやすくなりましたか? 駄目? じゃあ、駄目押しに、ものすごく、簡単に=すっきりさせてみます。
*何となく「何となくでない」をしている。
です。矛盾に思えますか? 論理的ではないとお思いになりますか? 「矛盾している」とか、「論理的ではない」とお感じになれば、こちらの
*イメージが通じた
と言えそうです。通じたのが、「イメージ」であることに注目してください。「意味」「考えていること」「メッセージ」ではなく、
*あくまでも「イメージ」
です。
*イメージとは、とても、テキトー=気まぐれ=大雑把=でまかせ的=頼りにならない=不安定なものである、と想定している
と考えてください。ですから、
*「矛盾している」あるいは「論理的ではない」と感じても、いっこうに差支えがない
のです。イメージのテキトーさについては、「あらわれる・あらわす(8)」(安心してください。過去の記事を読まなくても分かるように書きますので)で、かなり詳細に論じましたので、ご興味のある方は、ご一読願います。どれくらいテキトーかを知っていただくために、その記事からちょっとだけコピペしてみます。
*imagine のアナグラムは enigma (英語で、謎、謎の人)+ i(虚数単位)。image のアナグラムは、magie (仏語で、魔法、魔術)。「マジ」で、あやしい。imago ⇒ amigo (西語で、男性の友人)とはいえ、気を許してはならぬ。
以上のフレーズが、引用ですけど、英語の image の動詞形である imagine が曲者でして、
*言霊の幸ふ国(=ことだまのさきはうくに)(※意味は広辞苑でお調べください)の言葉で、「分光する=分ける」と、imagine のアナグラムは「imigane =意味がねぇ=意味がない=「意味がね、イマイチなのよ、の『意味がね』」、あるいは、「iminage =意味なげ=「意味なげに思ゆ or 覚ゆ、の『意味なげ』」とも読める
というテキトーぶりなのです。えっつ? 「テキトーなのは、imagine ではなくて、おまえだろう」ですか? そう言われると、返す言葉がありません。その通りでございます。
*
で、要するに、
*イメージを扱おうとするならば、矛盾、論理、筋道、真偽といった「凡庸な」フィクション=物語の出る幕ではなく、むしろ、去年ノーベル物理学を受賞した3人の日本出身の学者たちによる、受賞の対象となった研究論文に見られる「摩訶不思議な」=「非凡な」=「荒唐無稽ともいえる」フィクション=物語に出てくるたぐいの言葉たちの表情=仕草=動きこそが、主役を演じる。
のです。ですから、
*「矛盾している」あるいは「論理的ではない」とは、褒め言葉である
と言えないこともありません。
*現代物理学では、イメージが重視されているらしい
と妄想しております。しかも、
*そのイメージは、たぶんに「矛盾している」あるいは「論理的ではない」の乱舞=不条理演劇=「伝染るんです or ぼのぼの」=「わけわかんない」=「禅問答」(※「禅問答」という言葉はあまり好きではないのですけど、理由は禅僧が位が高いほど偉そうにしているからという単純な理由だけなのですけど、人によっては、この言葉でイメージが分かっていただける気がするので挙げておきます)を演じている
みたいなのです。
*現代物理学は、「1+1=2」や「犬が西を向けば、尻尾は東を向く」の世界ではない。
みたいなのです。
と、妄想して=決めつけて=思い込んでおります。
くどいですが、もう一度、書きます=コピぺします。
★
*ヒトという種は、惰性で=何となく=「経路」に沿って、「何となく生きていることができない」=「生きていることに意味を見いだそうとする」という行為を、日々実行=実演している。
ということなのです。ものすごく、簡単に=すっきりさせてみます。
*何となく「何となくでない」をしている。
です。
★
以上の説得=説明の方法は、イメージを伝えるために、どちらかというと理屈=論理に訴えています。倒錯したやり方です。次に、変奏=変装=言葉の置換えという方法で、みなさんへの説得=説明を試してみます。
*「我思う、ゆえに我あり=Je pense, donc je suis.」by デカルト
↓
「ぼーっとする、ゆえに我あり」by アホ in 「ぼーっとする、ゆえに我あり」&「不自由さ(2)」
↓
「何となく、ゆえに何となくにあらず」
↓
「「経路=線路」に沿って、「経路=線路」を外れる」
↓
「「線路」に沿いつつ、同時に脱線する」
↓
「「A」でありながら、同時に「Aではない」である」
↓
「「何か」でありながら、その「何か」ではない」
いざ試してみると、依然として、どちらかというと理屈=論理に訴えています。やっぱり、これしか道=手はないのでしょうか。それとも、
*人工言語という、フィクション=いかさまの体系=「圧倒的な偶然性に支配されている宇宙のなかで、細々と人為的な必然性をつくりあげ、それを信奉しながら、ある程度の有効性に賭けたツール」に頼る
べきなのでしょうか。
別の説得=説明の方法として、今度は、きのうの記事に書いた、辞書での言葉の料理法=説明の仕方1)~5)までのうち、
3)見出しの言葉をつかった例文を挙げて、ほのめかそうとする。=「Aは、『PがAしたらQが起きた』みたいにつかうのだけど、分かるかしら」。
を試してみましょう。あれっつ! きのうの記事からコピペをしようとしたら、その記事のなかで
*「意味」=「経路」
を説明しようとした結果、出てきたのが、上にコピペした、いくつかのフレーズだったことに気づきました。こういうのを
*堂々巡り=「あら、また、あんたじゃないの」
というのですね。「だめだ、こりゃ」的状況ですね。でも、めげずにやってみます。別のフレーズで試せば、何とかなるのではないかと、「何となく」思います。では、いきます。
*
*意味は分からないけど、何となく、お経を読んでいる。
*意味は分からないけど、何となく、その歌をうたっている。
*意味は分からないけど、何となく、お風呂に入っている。
*意味は分からないけど、何となく、ご飯を食べた。
*意味は分からないけど、何となく、選挙で○○党の××に投票した。
*意味は分からないけど、何となく、戦争で人を殺めた。
*意味は分からないけど、何となく、この△年間自動車を運転してきた。
*意味は分からないけど、何となく、レジ袋使用をやめてブランド製のエコバッグをつかっていて、たくさんあるダサいもらいもののエコバッグは押し入れに突っ込んだままだ。
*意味は分からないけど、何となく、地球温暖化を助長してきたらしい。
*意味は分からないけど、何となく、大不況になっちゃったみたい。
*意味は分からないけど、何となく、神様を信じていることになっている。
*意味は分からないけど、何となく、この惑星がやばい方向にむかっている気がする。
*意味は分からないけど、何となく、すごく悪い=罪深いことをしている気がする。
もう、これくらいで、よろしいですよね。
*何となく「何となくでない」をしている。
の意味が、体感できてきたのではないでしょうか。
次に、ヒトにとって、わりと苦手な時間的経過の処理に挑戦しましょう。いえ、難しいことではありません。ここでは、ただフレーズの最後=文末をちょっといじるだけです。
*何となく「とんでもないこと」をしている。
*何となく「とんでもないこと」をした。
*何となく「とんでもないこと」をしてきた。
*何となく「とんでもないこと」をしつつある。
*何となく「とんでもないこと」をするだろう。
*何となく「とんでもないこと」をし続けてきた。
*何となく「とんでもないこと」をし続ける。
*何となく「とんでもないこと」をし続けるだろう。
こう並べてみると、空間的な広がりだけでなく、時間的な広がりも体感できて、
*「何となく」は「とんでもない」ではないだろうか?
と「何となく」思えてきませんか? きょう、みなさんに、このアホがどうしても、訴えたいことは、それなんです。
この記事の冒頭で、いきなり、
*「何となく」は「とんでもない」のだ。
なんて申し上げても、
*「はあ?」で、片付けられてしまった
にちがいありません。それが、とうぜんだと思います。自分でも、いきなり、そう言われたら、
*「はあ?」
ですもの。今なら、
*「何となく」は「とんでもない」のだ。
と書いても、それほど抵抗感=「わけわかんない」はないのではないでしょうか。
*知らず知らずのうちに、大変なこと=罪なことをしている
とか
*無意識のうちに、多大な影響=危害=被害を及ぼしている
とか
というふうに読みかえていただいても、大差ありません。
*
ここでまた話は、ずれますが、
*「何となく」の正反対
であるはずの
*間違ったことは何もしていないのに=然るべきことをちゃんとしているのに=言われた通りにしているのに、やることなすことがうまくいかない
という状況がテーマになっている小説を思い出しました。きのうの記事でも出てきた、
*ギュスターヴ・フローベール(Gustave Flaubert:1821-1880)作の『ブヴァールとペキュシェ』(Bouvart et Pécuchet)
です。個人的には、この作品は小説ではなく、
*宗教色のない、むしろ、自然科学的な意味での、一種の「預言書」
だと思っているのですけど。テーマが大きすぎて、ここでは扱えませんので、万が一ご興味のある方は、実物をお読み願います。あえて、言えば、
*ヒトは、何となくうまくやっているつもりで、何となく途方もなくズレたことをやっている
みたいな「お馬鹿な」=「真面目な」話が書いてあります。
*
で、
*「何となく」は「とんでもない」のだ。
に話をもどします。大切な点は、
*「何となく」が、きょうの日替わり定食のメニュー的「経路」の意味
なのです。ごちゃごちゃぐだぐだ書いていますから、もう、お忘れになったと存じますが、さきほど、
*「経路」には一定した意味はない。
と書きましたように、「経路」は、その日によって意味が変わることがあるのです。ですから、「きょうの日替わり定食のメニュー的」という修飾語をつけました。たとえば、これから先の記事で「経路」の意味が変わっている可能性は高いと言えます。
ちなみに、きのうの記事では、
*「経路」は「意味」という「意味」だ。
みたいなことを書いていました。きょうは、
*「経路」とは、「何となく」であり「とんでもない」だ。
です。見通しとしては、今後、
*「経路」は「刻印」である。
みたいな話になる感じがします。
*刻印=DNA=運命=宿命=「どうにもとまらない」=「因果」=「業(ごう)」=GO=さだめ=「リセット不可能性」=「駄目」……
という連鎖があたまに浮かびます。あくまでも、見通しですので、変更もあり得ますけど……。なお、こうした一連の言葉たちが、出てくる心境については、「カジノ人間主義」という、個人的に非常に愛着のある記事と呼応しているので、ご一読いただければ幸いです。その記事では、「経路」が
*「出来レース」
という言葉で登場しています。
*
ところで、最近、
*自然言語と人工言語
について、すごく気になって仕方ありません。めちゃくちゃ苦手な人工言語をちょっと「お勉強」してみたくなりました。で、しばらく、その「お勉強」に専念し、このブログはお休みさせていただきます。
こんにゃく、いや、絹ごし豆腐ほどの柔(やわ)な根性しかないアホのすることですので、すぐに挫折するのは目に見えていますが、いちおう、やってみます。
*
ごちゃごちゃぐだぐだした文章を、我慢して、ここまで読んでくださった、心優しいあなたに、感謝いたします。どうもありがとうございました。では、また、再開=再会のときまで。
何となく それでは済まぬ 出来レース(「何となく」より)
〇
きのうは坂田利夫さんについて書きましたので、きょうは、高倉健さんと、故・忌野清志郎さんのことを書いてみたいです。このお三方に共通するのは、自分が大好きだという点だけです。誤解のないようにお願い申し上げます。
同時に、タレントや有名人と呼ばれる人たちが、どのような役割を果たし、いかなる仕組みで社会において受けとめられているか、本人はどう自分自身を見ているのかについても、考えてみたいです。
以前、タレントは「トリトメのない記号=まぼろし」として、消費され、いつかは消えていくという意味のことを書きました。
簡単に申しますと、タレントさんにはまことに失礼な言い方になりますが、タレントという存在は、スーパーに売られている商品に似ているということなのです。つまり、大量生産された、そっくりなものがずらりと並んでいる。それを人がお金と引換に入手し=購入し、使用=消費し、あるいは、保存し、いつか不要になった時点で、廃棄 or 処分する、というイメージです。大臣も含む国会議員も同じような存在です。どれも大差なく取り換え可能だ、とも言えます。
そうした特徴をもつものを、「トリトメのない記号=まぼろし」と、このブログでは呼んでいます。
森羅万象が、「トリトメのない記号=まぼろし」になり得ます。ヨーグルト、パソコン、ケータイ、クルマ、ノートやペン、クルマ、キュウリやナスなど……もそうです。このブログを書いているアホも含めて、ヒトである限り誰もが「トリトメのない記号=まぼろし」になり得ます。ただし、そういうふうにみなすことも可能だ、くらいの軽い意味で取ってくださいね。
そんな「トリトメのない記号=まぼろし」にも、晴れの舞台や脚光を浴びる時があります。コモディティ化=陳腐化に逆らって、差別化や特化をすればいいのです。
すると、廃棄 or 処分までのあいだが長くなります。珍重され、活躍の期間が延長されるわけです。次々と「出て or 現れて」「消えていく」ミュージシャン、タレント、俳優のなかで、忌野清志郎さん、高倉健さん、坂田利夫さんは、目覚ましい活躍をされています。忌野清志郎さんは、その半ばで亡くなったわけですから、ファンとしても残念でなりません。
*
きのうは坂田利夫さんが「アホ」を、
*演じて
いらっしゃることについて触れました。
さて、高倉健さんを映画作品で見ていて、いつも感じるのは、個性が非常に強いということです。映画の登場人物と高倉健という俳優とがかぶる=重なる=ダブるという意味です。いろいろな役柄を演じ分けることができる、
*器用な
役者さんというより、
*ぶきっちょ=不器用な
ところが魅力である役者さんだと思います。その意味では、もう物故された俳優の笠智衆(りゅうちしゅう)さんに通じる魅力を備えているように感じます。
忌野清志郎さんも、ほかのミュージシャンとは取り換えのできない存在感がありました。自分は中学生の頃、いわゆる和製のグループサウンズに熱中しましたが、GS時代が終わった以降の海外のロックや和製のロックの隆盛には興味がなく過ごしてきました。
それなのに、RCサクセションというより、忌野清志郎という存在に、なぜか興味を引かれていました。テレビでその歌っている姿を見ると、どういうわけか見入っていたという感じです。享年を聞き、びっくりしました。忌野清志郎さんも、
*器用な
ミュージシャンというより、
*ぶきっちょ=不器用な
魅力を持っていた方だと個人的に感じております。
その意味では、「差別化」「特化」していた、と言えるのではないでしょうか。清志郎さんが亡くなったとき、日常生活では、いい意味で「常識人」だったと聞きましたが、単なる死者への儀礼の言葉とは受け取れませんでした。
*
坂田利夫さんも、アホを演じることで、「差別化」「特化」に成功しているお笑いタレント・ナンバーワンだと思います。
*「アホ」
とか
*「アホの」
とか口にした場合、この国で生まれ育った人の70%以上の方が(※関西では90%以上ではないでしょうか)、その言葉を聞いて、すかさず、
*「坂田」
と声に出して言うか、あるいは、その固有名詞なり顔なり仕草をあたまに浮かべるのではないでしょうか。これって、すごいことです。このブログを書いているアホ以外に全国に多数いるはずのアホのなかで、巨星のようにきらめいているのです。アホの独り占めです。独禁法違反ですよ。
で、何を言いたいのかと申しますと、実は、きのうの話の蒸し返しなんです。きのうの記事の核心部分をコピペさせてください。
*
★で、例の、
*「テーマ=筋書き=理屈」(※抽象的)を、「テーマに登場する言葉たちの身ぶり=表情=運動」(※具体的)に演じさせる。
を、今回のシリーズに当てはめると、次のようになります。
A)あう・であう ⇒ みる・ちかくする ⇒ あらわれる・でる
B)合う・出合う・出遭う ⇒ 見る・知覚する・近くする ⇒ 現われる・洗われる・あら、割れる・出る
A)とB)は、基本的に同じです。違いは、上が「ひらがな」ばかりで、下は「漢字=感字+ひらがな=送り仮名」で書かれていることだけです。A)もB)も、今、このシリーズでやっていること、つまり、「テーマ=筋書き=理屈」(※抽象的)であると同時に、シリーズで扱っている「テーマに登場する言葉たちの身ぶり=表情=運動」(※具体的)でもあるのです。もっと短く、次のようにも言えます。
*「A)とB)」をつかって、「A)とB)」を演じている。
こんだけーです(※本当は、「こんだけー」じゃなくて、もっと「もっともらしい=格好をつけた」説明の仕方もありますが、きょうは恥ずかしいので、やめておきます)。
*
★から以上までが、引用部分です。
で、最後に書いてある
*「もっともらしい=格好をつけた」説明の仕方
というのを、きょう、やってみたいのです。アホが格好をつけても、格好をつけたアホでしかありませんが、やらせてください。
個性の強い、つまり、「差別化」「特化」に成功しているタレントというのは、
*意図的に=意識して=故意に=わざと=自ら or 所属事務所の方針で、
そうなっている場合もあれば、
*期せずして=なりゆきで=どういうわけか=自然に=無作為に or 作為的なのが普通になっちゃって、
そうなっているケースもあるように思えませんか?
いずれのケースでも、結果的に、そうなって、そこそこ成功しているのであれば、引き返すことはできないというか、たいていは、後戻りや路線変更やイメチェンはしません。ファンを裏切ることになるからです。また、収入が激減するリスクがあるからです。言い換えると、
*いったん、出来てしまった=現れてしまった=出てしまった自分自身のイメージ
とそのタレント自身とは、付き合って=折り合って=手なずけて=手なずけられて=共生・共存していかなければなりません。これって、ひょっとすると、しんどいことなのではないでしょうか。
かなり前のことですが、いつだったか、誰かがテレビで、
*アイドルは、うんこもおしっこもしません
なんて意味のことを言っていました。それを聞いて、アイドルって職業も、大変だなあ、と思ったことをはっきりと覚えています。だって、そうじゃありません? 渋谷なんかをプライベート=お忍びで歩いていたら、突然、
*キャーという黄色い声や、
*ウォーなんていう、だみ声が、
飛んでくるかもしれない身なんですよ。
そんな人が、こっそり、デパートのトイレなんかに入れますか? または、「そっと」だとしても、公衆のなかで、おならなんてできますか? そう思うと、しんどいとしか感じられません。ご同情申し上げたくなります。いろいろ大変ですねー、なんて。
つまり、
*いったん、出来てしまった=現れてしまった=出てしまった自分自身のイメージ
というのは、諸刃(もろは)の剣(つるぎ)みたいなものです。公私共に行動には、慎重にならざるを得ません。ひとつ間違うと、大スキャンダルです。酒、クルマ、おクスリ=ドラッグ、恋愛、家族、お金、交友関係……何もかもがリスキーな存在=要因になり得ます。
週刊誌やテレビの芸能ニュースやネット関連の目が、常に光っているのです。虎視眈眈(こしたんたん)と狙う目がどこにあるのか、分かったものじゃありません。へたをすれば、さっそく、掲示板に書き込まれますよ。「証拠写真はこちらをクリック⇒×××」なんて具合に。他人様のこととはいえ、想像しただけで、ぞっとします。1人で受けて立つ「監視社会」みたいなものです。
*
で、高倉健さんなんかの映画での演技と、映画以外の映像とを見比べていての印象=感想なのですが、両者のイメージにあまり差がないように感じられませんか? もっとも、私生活での健さんは、わりとおしゃべりになる方だと、ちらりと聞いた覚えがありますが、映像で見る限りは、朴訥(ぼくとつ)で寡黙な印象ですよね。
*健さんは、人前でも常に健さんを演じている。
と言えば、健さんに失礼でしょうか。個人的には、驚嘆しているというか、称賛しているつもりなのです。健さん、格好いい! なんて。一方で、健さんにしてみれば、多少窮屈な思いもされているように想像=妄想してしまいます。
*
で、当ブログ恒例の、こじつけ=でまかせ=アホ芸に入ります。タレントさんや有名人の、
*いったん、出来てしまった=現れてしまった=出てしまった自分自身のイメージ
は、まさに、
A)あう・であう ⇒ みる・ちかくする ⇒ あらわれる・でる
B)合う・出合う・出遭う ⇒ 見る・知覚する・近くする ⇒ 現われる・洗われる・あら、割れる・出る
ではないでしょうか。
どういうことかと申しますと、故意であれ、なりゆき上であれ、自分自身のイメージというのは、
1)「あう・であう・合う・出合う・出遭う」 : 自分自身ではコントロール=制御できない状況で、出来上がる。たとえば、ある映画作品で演じた役にはまってしまう。ファンが、役と役者を同一視してしまう。
2)「みる・ちかくする・見る・知覚する・近くする」 : 上での作品で出来上がったイメージを、本人が「あれって、誰? ひょっとして、わたし? なかなか決まっているじゃん」と知覚し、身近なもの=ほぼ自分自身として受け入れる態勢が整いはじめる。
3)「あらわれる・でる・現われる・洗われる・あら、割れる・出る」 : ファンや社会が、「そのヒト=そのイメージ」を認知=消費し、流通=普及させ、定着=浸透=深化=長期化させる。本人および事務所が「しめた!」「よし、これでいこう」と決意したり、「ありゃりゃ」「ま、いっか」と半ばテキトーに、ファンと社会主導の流れ=波=勢いに乗ってしまう。スター出現。昔だったら、映画館の看板に水をかけて、先輩スターの姿=イメージが「洗い」落とされ、新人のスターがペンキで新たに描かれる。打ち上げパーティーで祝い酒の樽が「割られ」、出席者に枡酒がふるまわれる。ついに「出た」ぞ、大型新人。パチパチ(※拍手)。
という感じです。
めっちゃくちゃこじつけました。でも、言えてません? 言えてるって、言ってくださいよー。とアホの泣き落とし。
肝心なところは、
*いったん現れてしまう=出てしまうと、なかなか引っ込みが付かなくなる。
点です。その「現れ」「出」が鮮烈で長続きしそうなものであればあるほど、その傾向は強まります。「熱い! やばい! 間違いない!」です(※再度、この文句を使用しましてすみません。なお、不快な思いをいだかれた元関係者の方々に、お詫び申し上げます)。
*
さて、タレントおよび有名人という具体例で検証をしたのちに、
A)あう・であう ⇒ みる・ちかくする ⇒ あらわれる・でる
B)合う・出合う・出遭う ⇒ 見る・知覚する・近くする ⇒ 現われる・洗われる・あら、割れる・出る
について、上でコピペをした部分のうち、
A)もB)も、今、このシリーズでやっていること、つまり、「テーマ=筋書き=理屈」(※抽象的)であると同時に、シリーズで扱っている「テーマに登場する言葉たちの身ぶり=表情=運動」(※具体的)でもあるのです。もっと短く、次のようにも言えます。
*「A)とB)」をつかって、「A)とB)」を演じている。
と書かれた個所を、説明させてください。きのう、少しやりかけたのですが、時間がなかったのと、間借りしているブログサイトの文字数制限にひっかかりそうだったのでやめてしまったのです。
*「テーマ=筋書き=理屈」(※抽象的)を、「テーマに登場する言葉たちの身ぶり=表情=運動」(※具体的)をもちいて演じさせる。
とも言い換えられます。
これは、自分としては、ブログで記事を書きはじめて以来、一貫して心がけているスタンスなのです。「何がスタンスだ、このオタンコナス!」などと、あきれ返らないでください。本気なんですよー。
きのうは恥ずかしいというか、失礼になると考えて、書くのを控えたことを、書かせてください。
ある文学作品、あるいは文学というもの、哲学の著作、あるいは哲学というものをテーマにして、論じようとするとします。そのさいに、
*そのテーマについて=関して論じる方法
が一般的です。
Aというテーマがあれば、Aそのものを書けば、引用・複製・コピーしただけになります。したがって、Aの代わりにBやCやD……をもってきて、継ぎはぎしたり、ちょっと変えたりして、Aそっくりにならないように気をつけながら、Aを論じる=説明する=批評する=批判する or 賛同する、という作業をします。
学術論文であれば、自説と引用との区別をかなり厳密にし、引用した場合には出典を明記しないと、学会を追われる場合すらあります。本として売れればいいというスタンスで書くとなると、少しくらいテキトーでもかまいません。まして、素人が対象の啓蒙書(※もう、死語ですか?)やハウツー本の類であれば、きわめてテキトーでまかり通ります。しょせんビジネスですから、売れればいいのです。
*
一方、
*そのテーマを、そのテーマについて書くつもりの文章に登場する=用いる言葉たちの表情・めくばせ・身ぶり・運動に、演じさせる=模倣させる方法
を試みようとする場合もあり得ます。
具体例を挙げると、ノイズがテーマになれば、「と、いうわけです(2)」(※安心してください。過去の記事を読まなくても分かるように書きますので)でのように、言葉たちにノイズを演じさせます。すると、とうぜん、読みにくくなります。また、「書く・書けることは賭けることだ」がテーマの場合には、「書く・書ける(2)」のように書きます。正確に書こうとするあまり、文章がややこしくなっています。
さらに、自分の書いた文章の読み方を解説するという、まことにみっともない邪道をしている例が、「あう(4)」と「あう(5)」です。万が一、興味がおありでしたら、ご一読いただければ、嬉しいです。アホにはついていけないとお感じの方は、パスしちゃってください。
なぜ、こんな一種の言葉遊びをしているのかと申しますと、言葉は表象である。つまり、言葉は、言葉が指し示す「もの(=形や動き)」の代わりでしかないからです。諦めと言ってもいいです。ですので、この言葉遊びは、
*言葉たちが「ある形や動き(=実体=不可能性)を描いている『振りをしている』(=演技=ほぼ可能性)だけ」にしかすぎないのなら、その言葉たちが描いている形や動き(=実体=不可能性)を追求することは放棄して、その「振り」(=演技=ほぼ可能性)自体を、鏡に映すように、その言葉たちが描いている形や動きの「振り」(=演技=ほぼ可能性)自体を言葉たちに再演(=ほとんど可能性)させる。
ことを選ぼうという、方法=戦略とも言えるみたいなのです。
ただし、この方法=戦略は、このブログを書いているアホが勝手に思い込んでいる一人受けギャグである可能性が非常に高いのです。したがって、まことに失礼であると承知のうえで、あえて、そういう方法で書かれているのではないかと、勝手に想像=妄想している他人様の著作の名を挙げてみたいと存じます。
なお、その著作のタイトルをご紹介するにあたっては、著者名はあえて省かせていただきます。なぜなら、著者は関係ないからです。著者名も、しょせん、固有名詞=言葉ではあるといえ、生身の人間として実際にその著作を書いたのではないか。そう言われれば、はい、ごもっともです、と答えるしかないのですが、固有名詞のそなえているパワーというのは、とてつもなく強いのです。
この点については、初期のブログ記事「あえて、その名は挙げない」、「遠い所、遠い国」、「横たわる漱石」で書きました。まだ、とちくるい文体に染まっていく前の文章なので、比較的読みやすいと思います。お時間があれば、どうか、ご一読願います。
では、ご本を紹介いたします。
『批評あるいは仮死の祭典』、『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』、『泉鏡花論―幻影の杼機』、『谷崎潤一郎―擬態の誘惑』、『余白とその余白または幹のない接木』、『砂の顔』、『引用の織物』、『紙片と眼差のあいだに』
です。
残念なことに、現在、これらの本は手元にありません。でも、ある意味では、そのほうが自分には幸せなのです。夢のなかでしか出あうことができないからです。今は、読むことより書くことに専念しています。夢は、個人的な秘密=謎=空間=イメージの詰まった箱です。書くという作業は、自分にとって、その夢を見ることと大差はないのです。さらに、妄言を申しますと、書くことは読むことと大差はないのです。
上記の本たちと再会できないのには、経済的余裕がないとか、図書館や古本屋に行こうとしても、家事と親の介護で長時間の外出ができないという、事情もあります。でも、そんな事情より、インプットはもういい、アウトプットするだけで精一杯だし、それで満足だ、という現在の心境のほうが強く働いています。だから、別に悔いはありません。
書くという作業は、事を書くと同時に事欠くこと、つまり、不自由さを実感する行為でもあります。きりがないです。息がこと切れるまで、「書く=欠く=読む=詠む」ことができれば、自分にとってそれ以上の幸せはありません。
*
で、ご紹介した本たちに話をもどしますが、なかには大きな図書館でなければ、もう閲覧できない本があるかもしれません。比較的入手しやすいものもありそうです。検索をしたり、実際に本を手に取れば、著者名は目に入りますが、できれば、
*その本に書かれた言葉たちの表情・めくばせ・身ぶり・運動に身を任せて、じっくり読んでみる。
という作業を実践してほしいなあ、と思っております。
ところで、坂田利夫さん、高倉健さん、故・忌野清志郎さんは、自分自身という生身の存在として、有名人としての自分のイメージと、どうやって折り合っていらっしゃる(or いらっしゃった)のでしょう? でも、有名人に限らず、ヒトは誰もが、同じように、
*自分自身と、自分のイメージとの「間(=ま・あいだ・あわい)=際(=さい・きわ)」で宙ぶらりんで、ぷかぷかと、揺れ動いている。
のではないでしょうか。
だいいち、自分自身=自我とであれ、自分のイメージとであれ、本当に、
A)あう・であう ⇒ みる・ちかくする ⇒ あらわれる・でる
B)合う・出合う・出遭う ⇒ 見る・知覚する・近くする ⇒ 現われる・洗われる・あら、割れる・出る
できているのか、と自問してみるなら、でてくる、
*答えそのものが、宙ぶらりんで、ぷかぷかと、揺れ動いている。
つまり、問いそのものを、
*模倣する=真似る=鏡に映った自分にまなざしを送るだけ
と、とりあえず and/or せいぜい、言葉にしてみるしかないのです。
あとは、
*全身で知覚する=運動する=生きる=息るのみ
という状況を、素直に身に引き受ける。そんだけー、ではないかと思います。ややこしいことを書きましたかもしれませんが、どうしても、書きたかったことなので、ご容赦いただければ、幸いです。
あすは、「あらわれる・あらわす・出る」につきまとう、幽霊のような、「イメージ」という言葉について、書いてみたいです。ぜひ、遊びに来てください。
清志郎 歌は祈りと 夢で言い
アホひとり 言葉は言葉 夢で書き(「あらわれる・あらわす(6)」より)
〇
想像してみてください。この地球上で、現時点に、あなたのことを想っているヒトは何人くらいいるでしょうか。いるとすれば、誰でしょうか。常に、自分のことを見守ってくれる「存在」がいる。そうおっしゃる方もいるにちがいありません。ヒトではなく、「存在」がです。申し訳ありませんが、宗教やスピリチュアル関連のテーマは苦手なので、ヒトに限定して話を進めさせてください。
誰かが自分のことを想う。または、自分が誰かのことを想う。そういう場合に、
*イメージ
という言葉をつかうことがありますね。曖昧でとらえどころのない言葉です。その意味では、
*幽霊
に似ていませんか。「なんだ、宗教やスピリチュアルが苦手な者が、幽霊だって?」とおっしゃる声が聞こえるような気がします。ここでは、幽霊自体(※そのようなものが存在するかどうかは知りません)のことを論じてはいません。「幽霊」という言葉について話しているのです。
さて、「幽霊」だと「出る」と言います。「あらわれる」と言うかどうかは人によって差がありそうです。ただ、「霊」だとどちらかといえば、「あらわれる」のほうが優勢かな、という感じがします。これも個人差がありそうです。
*
*イメージ
という言葉の場合には、どうでしょう。「イメージが出る or あらわれる」は、個人的にはしっくり来ません。「をいだく」「がある」「をもつ」「がわく」「がうかぶ」「をつかむ」「をおもいうかべる」「する」「をおもいだす」「をこころに、えがく」「がふくらむ」「が喚起される」「をかんじる」といったところでしょうか。
もっとも、イメージの「もと=元=素≒本体・実体・本尊」はヒトとは限りません。森羅万象がなり得ます。今、あなたがあたまのなかに思い浮かべているものすべてが、イメージです。実在するかどうか、物体であるかどうか、も関係ありません。実在する物・事・現象、架空の物・事・現象……何でもがイメージです。極端なことを言えば、今、手にしているものでさえ、イメージ。自分自身の身体と精神 or こころさえも、イメージ。そう考えている人もいるでしょう。
で、結論から申し上げますと、イメージって、
*きわめてテキトー
なものだ、と言えるような気がします。
たとえば、今、あなたのことを想っている複数の人がいるとします。その人たちのなかには、あなたに対して良いイメージをいだいている方も、どちらかというと悪いイメージをいだいている方もいるわけです。そのどちらでもないイメージを思い描いている方もいるにちがいありません。
言い換えると、きわめて不安定で、気まぐれで、信頼性に欠けるということです。短絡的で軽佻浮薄(けいちょうふはく)な表現になりますが、
*イメージとは、いかがわしくて、うさんくさくて、あてにならなくて、テキトーだ。
と言ってかまわないのではないでしょうか。
人にたとえるなら、「要注意人物」=「危険人物」=「ヤベーやつ」=「あやういやつ」です。はあ? 「おまえと同じだ」ですか? 返す言葉もありません。
*
きのうから、イメージについていろいろ考えていたら、寝不足になってしまいました。きょうの記事を書くために用意した、走り書きメモが、PCの横に盛り上がっています。8束に分けてクリップで止めておいたのを、整理しようとして、さっき外したところ、ネコ(※うちの猫の名前です)が部屋に入ってきたのに驚いて、思わず、デスクから落として散らばってしまったのです。ひとりで大騒ぎをしていると、ネコのほうがびっくりして、部屋から出て行っちゃいました。
メモは、いつもの5、6倍の数になります。夜中に、起きて書いたものもあり、自分の字なのに読めないものもあります。いつもは、メモを整理して、パッチワークのように継ぎはぎしながら、でまかせに記事を一気に書くのですが、きょうは無理みたいです。収拾がつかないのです。ですので、「イエス・アイ・キャン」2009-02-27 で、試みたように、きょうはメモに少し手を加えて並べていくという、
*「断片集」
というか
*「つぶやき集」
のような形にします。七夕の短冊のように、宙ぶらりん、ひらひらと断片が舞う様子をご覧ください。こんな形で横着をしてすみません。ただ、ある程度、テーマ別に、グループ分けをしておきました。それにしても、「イメージ」のトリトメのなさには、閉口しました。「イメージ」って、奥が深いなあ、とも感じました。
*
★イメージ
*ヒトは、「絶対他者」には出あえない。「絶対他者」の「影」とおぼしき「イメージ」=「自分の知覚した結果を受けとめた、意識というスクリーンに映った像」だけに出あう。ヒトは、「自分自身」にも出あえない。したがって、生まれて間もない赤ちゃんが、まわりの世界=他者に(を)、
A)あう・であう ⇒ みる・ちかくする ⇒ あらわれる・でる
B)合う・出合う・出遭う ⇒ 見る・知覚する・近くする ⇒ 現われる・洗われる・あら、割れる・出る
というのは、フィクション=作り話=おとぎ話=説明のための方便=妥協の産物、である。
*イメージの原語である英語の「 image 」は、「真似たもの、似せたもの」という意味らしい。つまり、「にせもの=偽もの」ということ。
*何かに「似ている」ということが、前に見た記憶があるという意味ならば、その「前」とはいつなのか? どこで、なのか? 「前世」だと考えるヒトもいるだろう。自分は「前世」を否定してはいない。肯定もしていない。ただ、分からないだけ。
ただし、イメージを「前」に見た「記憶」の、「断片」=「一部」=「残照」とするなら、その「前」とは「今」だと思う。「過去」=「現在」という意味。
なぜなら、ヒトが、「他者=外」を、(1)知覚器官で「信号」として受信=「知覚」し、(2)ニューロン=経路を通して「伝達」し、(3)脳において「情報=データ=信号」として「処理」したのちに、(4)その処理された「情報=データ=信号」を、「意識」=スクリーン=画面に「イメージ=まぼろし」として、映し出す=「受理」する、と考えられるからであり、(5)ここまでの過程のうち、(1)の「知覚」と(4)の「受理」のあいだに「タイムラグ=遅れ」+「ノイズ=乱れ=ずれ=くるい」が生じると言われているからである。その「タイムラグ=遅れ」が、1秒の何百、何千、何万分の1のかは知らない。ただ、ヒトの意識は、それをほぼ「同時」、つまり、「過去」=「現在」として認識するのではないだろうか。
*
★意識
*脳の「情報処理」の速さに、「意識」はついていけないのではないか。その理由として、ヒトは1度に1台の「テレビ画面」=「注意を集中することが可能な、意識のスクリーン」しか見る=知覚することができないという、構造=仕組み=メカニズム=限界性=枠を想定してもいいのではないだろうか。
【※以上の点については、「人面管から人面壁へ」でも、触れました。】
以上の限界性は、「知覚器官」における「知覚」と、脳で処理された情報=信号を、「意識」が「認識する」までのタイムラグ=遅れを、著しく増大=増幅すると考えられる。それだけでなく、「意識」といういわば「ぼけーっとした」=「信頼性が乏しい」=「テキトーな」=「不安定な」存在 or 現象が、それ自体の特性か、あるいは、外的要因によるものか、または、その両者に起因するのか、定かではない「ノイズ=乱れ=ずれ=くるい」の発生と組み合わさり、上記のタイムラグ=遅れを、さらに増大=助長させているとも考えられる。
以上述べた、タイムラグ、「意識」の不安定さ、ノイズの3者による、相乗作用によって、それ自体が信頼性に乏しい「意識」という存在 or 現象が、1秒の何百、何千、何万分の1のかは不明である時間内に、脳が処理した情報=データ=信号を、数分前、数時間前、数日前、数週間前、数カ月前、数年前、数十年前、あるいは、前世に生じたものとして「受理」=「錯覚」することがあっても、不思議はないのではないか。
つまり、「意識」に備わっている、情報=データ=信号の「受理」能力は、そうとう鈍いのではないか。
*
★脳と意識
*ヒトの「脳」と「意識」とを、厳密に区別する必要があると思われる。「脳」の情報処理能力が、きわめて速く、また、優れている=信頼性が高いのに対し、「意識」は、想像力=想像力=妄想力=空想力=夢想力=幻想力=思考力を肥大させていると考えられる。その「意識」の途方もない=とんでもない=すごい=驚嘆すべき特性を、大いなる乱れ=ずれ=くるい=錯覚の「常時産出態勢」と呼ぶことも可能であろう。
*「意識」に備わってと考えられる、上記の特性を前提とするならば、ヒトが、(1)脳によって処理された情報を「意識」が「受理する」という形で、あるいは、(2)「意識」が(1)で受理した情報を「受理しそこなう」という形で、または、(3)「意識」が、(1)と(2)とは無関係に、「『マトリックス=元情報』を欠いたコピー」=「コピーのコピー」=「意識自体による情報の産出=ほぼ誤作動=捏造」という形で、「『認識』が生じたと『意識』が信じている=思い込んでいる」という事態も、あり得るのではないか。
*上記の仕組み=メカニズムを前提とするなら、上記の「認識」の産物=結果として、日常生活において「現実=他者=外」および「現実=自分自身=内」を「認識」したり、あるいは、オーラ、スピリチュアリティ、○○様、前世、来世、予知、予言、預言、霊感、占い、賭け、投資、投機、自己改善、発想法、思考法、処世術、コーチング、心理療法、霊、神、神々、仏、妖精、超常現象など、と呼ばれている「物・事・現象・言葉」を、「現実 = 他者 or 自分自身 = 外 or 内」の1部として、「認識」することも、あり得るのではないだろうか。
また、ヒトは、自分の「意識」が「認識」したものを、「錯覚 or 幻想 or でたらめ or 精神的病理現象」として疑うこともあるだろう。それは、ケースバイケースで行われていると考えられる。
【以上の補足として申し添えますが、ヒトの「意識」のネガティブな特性を、「飽きっぽさ・諦めやすさ・忘れっぽさ」という言葉で考察した、「おいしくない社会」、「あきらめない」という記事を、合わせてお読みいただければ幸いです。】
*
★意識と整合性
*「意識」は、脳から受理した情報=信号を、大量に蓄積し、改変し、組み替えると同時に、受理してもいない情報=信号を偽造し、捏造し、複製している節がある。その結果、「意識」は、体よく言えば、「想像界」=「思考界」、ぶっちゃけた話が「ぐちゃぐちゃごちゃごちゃの玩具箱」=「信頼性に欠けるイメージのアミューズメントパーク=遊園地」を運営しているのではないだろうか。また、「意識」が主役となって「思考する」あるいは「認識する」という行為は、捏造された=思い込まれた=人為的な、整合性のパーツである「理・必然性・法・業・因果・意味・条理・有意味・有・在」という名のもとに、大混乱とカオスを展開することにほかならないのではないか。つまり、「意識」の想定=信奉している整合性は、幻想ではないだろうか。ただし、そのヒトのいだいている幻想が、仲間を月に送り込む程度の有効性を備えていることは、言うまでもない。その程度の有効性が、ヒトに自信=驕(おご)りを与えていることも、否定できない。
*
★イメージの力および効用
*おびただしい数のヒトたちが、オーラ、スピリチュアリティ、○○様、前世、来世、予知、予言、預言、霊感、占い、賭け、投資、投機、自己改善、発想法、思考法、処世術、コーチング、心理療法、霊、神、神々、仏、妖精、超常現象など、と呼ばれている「物・事・現象・言葉」をテーマ=素材にした出版物、テレビ番組、映画、イベント、組織=団体=集団、個人、ウェブサイトなどに惹かれたり、購読 or 購入 or 視聴 or 参加 or 加入 or 崇拝 or 訪問するのは、ヒトの「意識」がそうした類のものを「欲求している=欲している=求めている」からだと考えられる。
また、実際、そうしたものによって、救済、癒やし、納得、娯楽、幸福感、全能感、エクスタシー=忘我=法悦、満足感、充実感、安らぎなどの感情を得るヒトたちが数多くいる。それとは、逆に、絶望、失望、こころの動揺、不安、恐怖、不快感、怒り、憤り、騙されたという感情などを得るヒトたちも数多くいる。
上記の「物・事・現象・言葉」をテーマ=素材にした出版物、テレビ番組、映画、イベント、組織=団体=集団、個人、ウェブサイトなどが、1国あるいは1共同体において経済活動の一翼を担っていたり、グローバルな経済活動および社会運動を展開していることも事実である。その意味では、個人レベルのイメージが、集団レベルで共有されたイメージとして、肥大化=増大化する可能性=パワーがあることは無視できない。それを、ヒトが、必然的=人為的=本能的に生み出しているイメージの効用と、みなすこともできるであろう。
*
★謎=疑問
*一般論として、ヒトという種(しゅ)が、オーラ、スピリチュアリティ、○○様、前世、来世、予知、予言、預言、霊感、占い、賭け、投資、投機、自己改善、発想法、思考法、処世術、コーチング、心理療法、霊、神、神々、仏、妖精、超常現象など、と呼ばれている「物・事・現象・言葉」に惹かれ、依存し、それらを基盤にして文化や文明や知と呼ばれている現象を築きあげているのは、そうした現象の最小単位=最小レベルとしての、ヒト個人の「意識」に備わっている、これまで述べてきた特性を、遺伝子のレベルで持つヒト個人が、そうした遺伝子を持たないヒト個人に比較して、高い生存率を達成してきた=生き延びてきた=相対的に多くの子孫を残してきた、からではないか。
その結果として、そうした遺伝子を持つヒトの割合が多くなっている、と考えられるのではないだろうか。逆に言うと、そうした遺伝子を持たないヒト個人や、そうした遺伝子を持ちながら不遇な境遇にあるヒト個人の生存率は、低いと言えるのではないか。
*
★まとめ
*上の「★意識」で述べた「鈍い」「意識」=「鈍感さ」と、「★脳と意識」で述べた「意識」の「大いなる乱れ=ずれ=くるい=錯覚」とを、兼ね備えること、および、兼ね備えているヒトに注目しよう。それが兼ね備わっていない場合には、自分自身において、そういう状態が「実現する=あらわれる=でる」ように、専門家の助けを借りるなり、日々自力で努力することが、ヒト個人レベルで長生きをするコツ=秘訣である、と言えるかもしれない。
*万が一、深刻化しつつあるかに見える地球温暖化、金融危機・信用危機に端を発するという現在の大不況、この惑星のリミットを超えた人口増加、ミツバチの世界的規模での激減などの、由々しき数々の予兆=問題=危機が、「★謎=疑問」で述べた「文化や文明や知と呼ばれている現象」が招いた結果であるとするならば、上で述べた「ヒト個人レベルで長生きをするコツ=秘訣」と、「ヒト=人類」レベルでの「行く末=未来」への対処=対策とが、相反する方向を目指していることは言うまでもない。
* * * * * * * * * * * * * *
なお、これもまた、言うまでもないことですが、以上の「断片」=「つぶやき」に、いわゆる科学的根拠はまったくありません。でまかせと、勘=観=感=疳=癇の産物です。「断片」のなかには、ある種の方々に、不快なお気持ちをいだかせるにちがいないものも含まれていたと存じます。
当ブログは、楽問=ゲイ・サイエンス=「楽しくやろう、お勉強ごっこ」の場です。したがいまして、この記事に書かれている事柄はすべて、理論的・実証的根拠の検証を経ていない、個人の感想文=意見にしかすぎませんので、ご理解とご容赦を願います。どうか、アホの戯言として、お笑いください。
*
きょうは、「あらわれる・でる」につきまとう、幽霊のような、「イメージ」という言葉について、きのうから考え続けていたことを、「つぶやき」形式で書きました。ちょっと、脇にそれたような格好になりましたが、言うべきことは書いたと思っています。まだ、メモはだいぶ残っていますが、別の機会に利用するつもりです。
あすは、また、シリーズの続きを書く予定です。お待ちしておりますので、また、遊びに来てくださいね。
*
最後に少しだけ、お付き合いをお願いします。
前に出る 右往左往で 後戻り
鬼を見た 鏡に映る ヒトは誰
あらわれた 出ぬ出ぬヒトに あらわれた
自分は俳句が詠めません。ぜんぶ、川柳もどきになってしまいます。ま、いっか。
詠む詠むと いきんだものの がんもどき
蜘蛛と雲 カレイとヒラメ 詠むと読む
あれとこれ どれがまずいか ネコに聞き
ネコにそっぽを向かれました。だめだ、こりゃ。ネコを見習って、もう一度、顔を洗って出直してきます。
では。(「あらわれる・あらわす(7)」より)
◆
【※以上引用した抜粋の出所になるブログ記事は、パブーの電子書籍置き場にあります。パブーのリニューアルにともない、全電子書籍のレイアウトが崩れてしまったので、リンクが張れません。というか、各ページ(記事)へのリンクが張れないのです。意地悪をしているわけではありません。ご面倒をおかけしますが、興味のある方は、電子書籍にて閲覧ください。申し訳ありません。】
※この電子書籍が便利です。⇒ 「こういうことができるのですね。」
※この作文は「引用の織物・余白に・連歌」というマガジンに収めます。
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