かえるにかえる
星野廉
2020/09/18 09:42 フォローする
前回の「かえるはかえる」では、話をややこしくしないために、あえて深入りしなかったというか、あっさり切り捨てたことに、今回はこだわってみたいと思います。
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何を切り捨てたのかと申しますと、「まえ・前」と「うしろ・後ろ」には2種類あるという点です。つまり、空間的および時間的な意味合いがあるということです。この問題については、「「揺らぎ」と「変質」」で詳細に検討したのですが、ややこしい記事なので、以下に要点だけを自己輸血=自己引用させてください。
*「ヒトは空間を主(しゅ)に、そして時間を従(じゅう)にして、たとえている」のではないでしょうか。
*「ヒトは、空間的(=視覚的)イメージを時間的(=聴覚的?)イメージに優先させる = ヒトは、時間的(=聴覚的?)イメージよりも、空間的(=視覚的)イメージをいだくほうが得意である = ヒトは、時間的(=聴覚的?)な情報処理よりも、空間的(=視覚的)な情報処理のほうが得意である」と単純化してみましたが、どうでしょうか。
以上が引用部分です。もちろん、素人の中でもアホである者の愚見=与太話です。それをご了承いただいたうえで、話を進めさせてください。
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英語を例に取ってみましょう。これは、必然的に、このアホの母語である日本語との対照になります。ジーニアス和英辞典を参考にさせていただきます。
「前に、前の、先に、先の、あとで」に当たる語(句)は、in front of、before、forward、ahead of、preceding、former、previous、ago、prior to、previous、back などがありますね。一方、「後ろに、後ろの、のちに」に相当する語(句)としては、back、rear、behind、backward、at the back of などが挙げられます。
各語(句)の用法を例文で調べてみると分かりますが、単純には割り切れません。言葉だから当然のことです。まして2言語がからみ合ってのお話ですから、込み入ります。そもそも割り切れないのが、「言葉=言語&語」の特性のようです。
たとえば、in front of は空間的な意味合いで使われるのがふつうです。before には空間的・時間的意味合いの両方があります。この辺の「かげん」というか「ほどあい」というか「ぐあい」は、日本語を母語とするヒトたちにはピンとこないのではないでしょうか。
ほかにも不思議に思えることがあります。ago は「~前に」という時間的な意味で用いられますが、これを「過去」と考えると、これが和英辞典において、どうして「これから~先に=(強いて言えば)前に」、つまり「未来」の意味でも使われる ahead と並んでいるのだろう。そんな具合に、わけが分からなくなります。
back が「前」と「後」の両方にまたがっているのも奇妙な気がします。a while back というと、「数週間(数カ月前)」だと辞書にあります。その一方で、back in London などといえば、「かつてロンドンにいたころには」みたいに過去の意味になります。
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ひとくちに「時間的」と言っても、「時間の経過」と「順序」では違いがあります。また、そもそも各語(句)のレベルでの意味と用法を、日本語と英語という異言語の「間・あいだ・あわい」で処理しようとしている前提と方法そのものに無理があるような気もします。また、「空間 → 時間」「時間 → 空間」「空間 ←→ 時間」という感じで比喩のやり取りをしている「言葉=言語&語」の「構造・仕組み・力学」(※そのようなものがあれば、の話ですが)自体に無理があるのではないかとも思えてきます。
ややこしいですね。いわゆる頭のいいヒト=情報処理能力の高いヒト or 直観力に秀でたヒトなら、もっとすっきりとした説明ができるにちがいありません。
ヒトは時間と空間の処理を、自らの知覚能力と、言語という代理を用いてかろうじて行っている。
アホとしては、そんなふうに、自分の頭の悪さを「脇に置いて=棚に上げて」、ヒトという種の「能力・脳力・意識・知覚・言語活動」に責任を転嫁するくらいの浅知恵しか持ち合わせていません。まことにトホホな話なのです。いや、卑怯だと反省すべきです。ごめんなさい。
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突然ですが、出まかせを言わせてください。漏れそうなのです。
かえるにかえることはできない。
失礼いたしました。おかげさまで、すっきりしました。「こんなんでましたけど……」
当ブログでは、徹底して言葉に身をまかせます。まけるのです。地面に背中をくっつけ、お腹を見せて、前足をちぢめる。こうした動作を、気のいいワンちゃんがよくしますね。あんな感じです。白旗を掲げる、なんて言い方もできそうです。言葉に遊んでもらう。言葉にもてあそばれる。そんな言い回しも、しっくりします。
なお、なぜ、言葉に身をまかせるのかについては、「台風と卵巣」 、「あなたとは違うんです」 、「ケータイ依存症と唇」 、「もてあそばれるしかない」のうち、どれかにちらりと目を通していただければ嬉しいです。また、その根本にある「代理=表象=道具」とヒトとの間の「主従」の関係性をめぐっては、「できないのにできる」、「めちゃくちゃこじつけて」 、「銃が悪いのではなく」 に書きました。ご関心のある方だけ、ご参照ください。そんな暇はない、興味もないとおっしゃる方はパスしちゃってください。
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「出まかせ」などという言い方をしますと、何だか、このブログでは言葉に対して悪態ばかりついている、とお思いの方がいらっしゃるといけないので、ここでお断りしておきます。自分は、言葉を愛しています。いとしいと思っています。正直申しまして、いかがわしいとか、うさんくさいとも、思っています。でも、言葉を信じています。
たとえ、言葉が「何かの代わりに何かでないものを用いる」という意味での代理であっても、言葉を信じています。信じるしかないのです。このアホもヒトなのです。「ひとでなし」にはなりたくありません。
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で、話を戻します。きのうは「かえるはかえる」という出まかせの「言葉=フレーズ」にもてあそばれ、きょうは「かえるにかえる」に翻弄されている次第です。繰り返します。
かえるにかえることはできない。
これをずらしてみます。きのうのように分光してみます。
「返る・帰る・還る」に「返る・帰る・還る」ことはできない。
こうなります。でも、「原点」や「自分たちの本来の姿」や「本当の自分」という曖昧模糊としたものに「返る・帰る・還る」ことができると信じているヒトが、世の中には圧倒的に多いようです。それは日々痛感しております。そう信じていないヒトはマイノリティとか偏屈者とか非国民とかアホとか売国奴とか、ひどい言葉=ラベルを貼られます。
それだけではなく、「『返る・帰る・還る』に『返る・帰る・還る』ことはできない」なんて言えば、「事件=出来事を言葉によって再現できる」という大前提に立つ、司法制度そのものにケチをつけることにもなります。これも顰蹙(ひんしゅく)を買うでしょうね。いや、司法の世界には、いわゆる頭のいいヒトたちや言葉つかいの名人が多いみたいですから、そういうお利口な方はこんなアホの言うことは無視するに決まっています。もしもケチをつけてくるヒトがいるとすれば、「『返る・帰る・還る』に『返る・帰る・還る』ことはできない」を「論破」(※この言葉は好きではないのですけど、いちおうつかっておきます)できない雑魚(ざこ)でしょうか。
それはともかく、きのうも触れましたが、ヒトは時間的にも空間的にも「返る・帰る・還る」ことはできないみたいなのです。どうしてかと申しますと、時間的には、「タイムマシンがない」ということが答えになります。この場合の「タイムマシン」とは、SFの世界で見聞きする例の「機械」であるだけでなく、「比喩」でもあります。「比喩」というのは、「想起・再現・復元」という意味です。
何を言いたいのかと申しますと、「何かの代わりに何かではないものを用いる」という「代理の仕組み」の大御所である言葉(音声や文字)と視覚的イメージ(映像)を用いる「限り(=限界)」、「想起・再現・復元」は無理・不可能ではないかということです。調書であろうとビデオであろうと厳密に言えば no no というわけです。「想起・再現・復元」という前提が、no no なのですから――。これも、いわゆる頭のいいヒトには、戯言(たわごと)だと感じられるにちがいありません。たぶん。
「原点」や「自分たちの本来の姿」や「本当の自分」や「過去の出来事」や「過去の状態」を「想起・再現・復元」することは、ヒトという種の「知覚・意識・能力」を超えています。「想像・空想・妄想・錯覚・幻覚・思い込み・創作・捏造・『できるということにしておこうゼ!』・『な、できただろう』・『できないなんて言わせないよ』」なら、「できる」でしょう。このアホには、それくらいのことしか言えません。
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「返る・帰る・還る」に「返る・帰る・還る」ことはできる。このフレーズへの信仰というか信奉はきわめて根強いようなので、平和主義者であり、弱虫であり、腕力もなく、仲間や友達もいない、特定の集団や組織にも属していない身である、このアホはフレーズを「ずらす」ことにします。
「孵る」に「返る・帰る・還る」ことはできない。
これなら賛成していただける方が多いのではないでしょうか。たとえば、ひなが卵から孵ることを思い浮かべてください。いったん孵った鳥の赤ちゃんが、ふたたび孵るという状況は「あり得ない」のではないでしょうか。賛成していただけますでしょうか。
アレゴリーという言葉があります。寓意と訳すこともありますね。言いたいことを直接言えない場合に、用いられるレトリックです。風刺と親和性があります。時には「ふうゆ・諷喩・風諭」と呼ばれるくらいです。このアレゴリーについて興味のある方がいらっしゃいましたら、「たとえる(4)」、「たとえる(5)」 、「たとえる(6)」で、おふざけをまじえて詳しく論じていますので、よろしければご笑覧ください。もちろん、パスしていただいても一向にかまいません。
さて、「かえる」を「孵る」と「返る・帰る・還る」とに心の中で分光しながら、「かえるにかえる」ことはできない、と言ってみる。これも、一種のアレゴリーではないでしょうか。差しさわりがありそうな場合に、Aと言う代りに「とりあえず=わざと」Bと言っておく。分かるヒトだけには、AではなくBだと分かる。これがアレゴリーの仕組みです。簡単に言えば、「たとえ・比喩」です。比喩のうちでも、隠喩をエスカレートさせた一種の「ほのめかし」と言えそうです。
なんで「ほのめかす」のかと言えば、さきほど述べたように「差しさわり」があるからなのですが、その「差しさわり」にもいろいろあります。「気遣い」「配慮」「遠慮」くらいなら、いいのですが、「こんなことをいっちゃ相当ヤバい」「すごく腹を立てるヒトたちがいそうだ」「身の危険すら感じる」という具合に、まことにきな臭い事情がある場合にも、「ほのめかす」「アレゴリー」を用いることがありますね。
「ファシズム=全体主義」体制下では、文字を使った文学や記事だけでなく、漫画・絵・写真など視覚的な手段を用いたり、歌・演劇・映画・テレビドラマといった形態で、広くアレゴリーが活用されてきました。権力に対する弱者によるささやかな抵抗である場合が多く、検閲の標的にされたあげく「処分される」という、恐ろしい運命を覚悟しなければならないこともあります。
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かえるにかえることはできない。
このフレーズは、時には非常にヤバい事態を招きかねないのです。ですから、「かえるにかえる」の部分は、「『返る・帰る・還る』に『返る・帰る・還る』」ではなく、「『孵る』に『返る・帰る・還る』」と差しさわりのない漢字を当てておきます。念のため。
「孵る」に「返る・帰る・還る」ことはできない。
以上のようにしておきます。音読すれば、同じなんですけどね。このアホは、アホのくせに意外と気遣いのヒト、いや、気遣いのアホなんです。ぶっちゃけた話、小心者なのです。
※この文章は、かつてのブログ記事に加筆したものです。https://puboo.jp/users/renhoshino77
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