わかるはプロセス

星野廉

2020/09/22 07:50


「わかるはわからない」の続きです。


 結論から書きます。


 まず、記号バージョンです。


*大→小


つまり、


*●→ ・


あるいは、


*全体→部分


または、


*A→B、C、D、E、F……


です。


 次に、「ことわり=事割り=理=断り」バージョンです。


*わける・つかむ・はこぶ・つくる・ゆれる・すてる・かたる


です。


     ■


 以上が、


*「でたらめ」の一つである「わかる」を他の「でたらめ」に「翻訳」した結果


だと、とりあえず言えそうです。


 説明を加えます。


 ここでいう


*「でたらめ」とは、「表象一般」


のことです。このブログでは、「表象」という言葉で、


*狭義の言葉である話し言葉と書き言葉を始め、手話、ホームサイン(※たとえば家庭内で使われている手話)、記号、符号、信号、アイコン、点字、指点字、仕草、表情、合図、身振り言語=ボディー・ランゲージ、音声、絵、映像(静止画像・動画)、視覚芸術、音楽など


を指します。


*「表象」


は、


*何かの代わりに何か以外のものを用いる。


という、


*代理の仕組み


を基本としています。したがって、「でたらめ=不正確=何かそのものではない=代理でしかない」ということになります。


 また、


*「翻訳」


とは、


*「言い換える=置き換える=伝える=知らせる=言葉にする=何かの代わりに何か以外のものを用いる」


ほどの意味です。


     ■


 このところ、このブログでやっていた作業をまとめると以上のようになります。


 とりあえず、まとめましたが、


*「わかる」が「わかった」「わけ」ではない。


ことに、注目してください。


*「わかる」を「わけた」。


とは、言えそうです。簡単に言えば、


*「わかる」をほかの表象に置き換えた。


だけです。それ以上でもそれ以下でもありません。


*「わかる」とは脳内での出来事だ。


とも言えそうです。


*自らの脳内の出来事が「わかる」


ことは、


*ヒトの脳には荷が重過ぎる


でしょう。このブログでは、


*ヒトには「わかる」ように「なっている=できている」ことと、「わからない」ように「なっている=できている」ことがある。


という前提で「話=でまかせ=でたらめ=与太話」を進めています。


*自らの脳内の出来事を「わかる」


ことは、後者の


*ヒトには「わからない」ように「なっている=できている」


ことだという気がします。


 ただし、


*ことわり=事割り=理=断りする


つまり、


*言葉や記号という「表象=代理=でたらめ」に置き換える


ことならできます。それが、冒頭で挙げた


*記号バージョン


と、


*「ことわり=事割り=理=断り」バージョン


です。


     ■


 このブログを途中からお読みになっている方のために、状況の説明をさせてください。以下に、以前の記事「わかるはわかるか」から、必要な部分を引用します。


     *


 調べ、考えたところで、たぶん、いや、きっと分からないだろうという気がします。でも、取り組んでみようと思います。


*楽しいのは、結果でなくてプロセスですから。


 比喩的に言うなら、ドライブ(車での旅行ではなく、あくまでも運転することです)が楽しいのは、運転というプロセスであり、行き先ではないのです。ドライブが終れば、「あーあ、疲れた」とか「あー、楽しかった(※過去形であることに注意してください)」で終るのがふつうでしょう。


 このブログでは、そもそも


*正解のある問題


に取り組んでいるわけではありません。なにしろ、


*「わかる」は「でたらめ」だ。


から出発しているのです。それを前提にしているのです。出発点と終着点は、どうでもいいと言えます。


 いささか大仰で構えた言い方になりますが、


*ヒトにおける、知の醍醐味は、きっかけや終点ではなく過程である。


と思っています。だからこそ、


*ヒトの知は、「でたらめ=でまかせ=作りごと=うそ」であって構わない。


とも思います。なにしろ、ヒトが相手にしているのは、表象=代理ですもの。それが身分相応ではないでしょうか。


 以上が引用です。


     ■


 そんなわけですので、上記の結論やまとめもどきの文章よりは、そこに至るまでの、


*ああでもないこうでもない、ああでもありこうでもある


みたいなくだくだしたプロセスを、お時間があれば、ぜひ再読していただきたいのです。


*わかるとは行為である。


という点を強調したいと思っています。


 ブログの場合だと、


*ディスプレー上の「文字=活字」を「読む」


という行為です。読んでいると、


*頭および体に何らかの「動き=変化=揺らぎ=熱の発生」


が起こります。進行中の行為です。それです。それが「わかる」です。やむを得ず「わかる」という「言葉=表象=代理=でたらめ」を用いていますが、あくまでも「行為=動作」、あるいは「体内で生じる動き・変化」です。


     ■


 比喩を出しましょう。


*自転車に初めて乗る。


とか


*初めて泳ぐ。


といった体験=行為=動作は、


*記号バージョン


と、


*「ことわり=事割り=理=断り」バージョン


とは、基本的には無縁です。もちろん、図解や説明の書かれたハウツー本はあります。でも、そうした本なしに、自転車に乗ったり、泳げるようになるのがふつうでしょう。


*暗黙知


という「怪しげな=小賢しげな=うさんくさい」言葉がありますが、言葉で知っているだけですので、ここでは無視します。身分相応に、あくまでも、でまかせに徹します。


     ■


 もう一つ強調したいのは、


*わかるはプロセスであって結果ではない。


という点です。日本語では、よく、


*「わかった!」


と過去形=完了形で言いますね。あれはヒトとしての「見栄=驕(おご)り」、あるいは「勘違い=うかつさ」だと思います。


*「わかった」=過去・完了=おしまい=結果が出た=結論=「これで決まりだ」=一件落着=「めでたしめでたし」


という感じですね。


*「わかる」=「わかりつつある」=「わかるのじっこうちゅう」=「わかるようでわからないけど一応わかるかな?」=暫定=臨時の措置=中途半端=進行形=「○○かもね、たぶん」=「次回に続く」=「 To be continued. 」


というのが、正確な状況はないでしょうか。


 現に、「わかった」はずのことが、どんどん修正されていったり、「うそー!」という感じで想定外の展開をたどることは、日常的に起こっています。また、各ヒトのそれまでの人生において、「わかった」はずのことが「はずれる=ちょんぼとなる」ことは頻繁に起こっていて、誰もがそうした事態を何度も体験してきたはずです。


*「わかった」は早とちり


です。それくらい「でたらめ」なことだと覚悟しておくのが賢明かと思われます。安心して、「わかった」なんて決めつけてはいけません。


 ただし、「わかりつつある」は言いにくいので、「わかった」とか「わかる」という言い方=時制を用いているだけです。言葉の綾とも言えそうです。


*ヒトは言葉にもてあそばれるしかない。


の一例みたいです。


 その意味では、量子についても、脳についても、DNAについても、


*「わかった」(完了形)は、常に修正される運命にさらされている。


のです。「わかりつつある」(進行形)だけです。「わかる」(現在形=断定)ようにはなっていないのです。つまるところ、


*永遠に「わからない」


ということです。


     ■


 英語でも、例を挙げてみましょう。


 元気よく、


* I've got it! = I got it! (※現在完了形や過去形が使われています)


と、うれしそうに叫ぶのではなく、


* I see. (※現在形ですね)


と、考え込んだような表情で=沈んだ表情で=浮かぬ顔で、つぶやく。そんな感じが「わかる」だと思うのですけど。


     ■


 冒頭の記号バージョンだけを、ちょっと説明=「ことわり=事割り=理=断り」させてください。


*大→小


つまり、


*●→ ・


とは、「わかる」という行為が、


*「大」=「●」=他者=何か=見えたり聞こえたり触れたり匂ったり味わうことができるけれど、わけのわからないもの=見えず聞こず触れられず匂わず味わえない、わけのわからないもの=自分の頭の中に浮かぶもの


を、


*「小」=「・」=「部分」=「わけたり、つかんだり、はこんだり、ありもしないのにつくったり、ちからをかんじてゆれうごいたり、いらないものをすてたり、ものかたったり、ごまかしたりする行為を通して頭と体でとらえること」


だという「感じ=イメージ」です。ややこしいですね。うんと簡単に言えば、


*ちっちゃいから、馬鹿にして手玉に取れる


という「感じ=イメージ」です。要するに、上から目線で馬鹿にするのです。そのうえで、「こんなもん、わかった」と自分に言い聞かせるのです。


 一方、


*全体→部分


は、複数のヒトが1頭のゾウの部分に触れて「ゾウは○○のようなものだ」と語る話と似たイメージです。ここでの「全体」とは宇宙・世界というより、「何かの全体」という意味です。結局、ヒトは、「何かの全体」を把握することはできないと言えそうです。とらえることができるのは「何かの一部分」だけです。正確に言うと、「『代理=代替品=まがいもの』である一部分」だけです。


 また、


*A→B、C、D、E、F……


とは、「わかる」という行為が、


*「A」=「大」=「●」=「全体」=他者=何か=「見えたり聞こえたり触れたり匂ったり味わうことができるけれど、わけのわからないもの=見えず聞こず触れられず匂わず味わえない、わけのわからないもの=自分の頭の中に浮かぶもの」


を、


*「B、C、D、E、F……」という具合に、ほかの「A」=「大」=「●」=「全体」=他者=何か=「見えたり聞こえたり触れたり匂ったり味わうことができるけれど、わけのわからないもの=見えず聞こず触れられず匂わず味わえない、わけのわからないもの=自分の頭の中に浮かぶもの」


に、


*「小」=「 ・ 」=「わけたり、つかんだり、はこんだり、ありもしないのにつくったり、ちからをかんじてゆれうごいたり、いらないものをすてたり、ものかたったり、ごまかしたりする行為を通して頭と体でとらえること」を通して、次々と置き換えていく


という「感じ=イメージ」です。


     ■


*「大→小」、つまり「●→ ・ 」


も、


*全体→部分


も、


*A→B、C、D、E、F……


も、「知覚=認識=意識=錯覚=ごまかし」であるという点が、決定的に重要です。


 うそなのです。でたらめなのです。思い込みなのです。


     ■


*「わかる・わける・つかむ・はこぶ・つくる・ゆれる・すてる・かたる」は「わからない・わけない・つかめない・はこべない・つくれない・ゆれない・すてない・かたらない」と同時に起こる行為である。


という点も重要です。これを矛盾だと感じるのは、「言葉=表象=代理」という枠内にいるからです。致しかたない事態です。誠に遺憾に存じます。


また、


*「わかる」以前に、そもそも「きづかない」


とか、


*「わかる」と同時に、どんどん「わすれる」


という行為=事態が起こっている点も忘れるわけにはいきません。


     ■


 ややこしいですね。


 比喩に頼りましょう。このブログの親ブログである「うつせみのうつお」(※左側のブックマークにリンクがあります)から、引用します。というか、あまりにもよく使い覚えてしまっている比喩なので、再現=再演します。


*ヒトは、せいぜい1台のテレビの1画面にしか注目することができない。


*ヒトは、地動説を頭で知っていても、体は天動説を信じている。


*ヒトは、テレビの映像が画素から成り立ち、ある視点から撮影された静止画像をコマ送りしたものであることと、その音声が再生された機械音であることを意識せずに、番組を「現実」として受け取る。


*ヒトは、自らが捏造した数学における微分というフィクションで、「方程式をグラフに描くと曲線になって、その曲線の微小な部分を拡大すると直線に見える」という、すり替えと錯覚をテーマにした小話を展開している。


 ヒトにとって、「わかる」とは、今挙げた4例ほどに「でたらめ」なものなのです。矛盾だらけなのです。


 それでも、その「でたらめ」は、月に仲間を送り込んで歩かせたり、地球の温度を徐々に上げるほどの精度は持ち合わせているのです。


 あなどれません。この「でたらめぶり」を備えたヒトは、この惑星にとって超危険生物=地球破滅危惧種です。


     ■


 次回は、「わかる」について考える過程で出てきた「枠」というイメージに、身をまかせてみる予定です。「枠」をめぐって、まさに、


*でまかせしゅぎをじっこう


してみたいと存じます。



※この記事は、かつてのブログ記事に加筆したものです。https://puboo.jp/users/renhoshino77



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