3つの枠

星野廉

2020/09/22 07:57


【※「わかるはプロセス」の続きです。】


「枠」ということについて、考えています。


 このところ「わかる」について考えていたところ、しきりに「わく」という言葉=イメージが気になって仕方なくなりました。


     ■


*でまかせしゅぎ


では、こういう時に


*「分光」


という作業をします。もちろん、比喩です。


*「わく」という音(おん)を、光に見立ててスペクトル(縞や帯みたいなもの)に「わける」


のです。別に難しいことではありません。馬鹿みたいなことです。では、やってみます。


*わく・枠・惑・分く・別く・沸く・湧く・涌く・わくわく


 ねっ。馬鹿みたいでしょ。もったいぶって屁理屈をつけると


*音(おん)の、多義性=多層性を浮かび上がらせる。


とか、


*宇宙を支配する圧倒的な偶然性にまかせる。


とも言えます。


*さいころを振る


動作にも似ています。さいころを振ると、どの目が出るかは予想できません。その意味では、「かけ・賭け・掛け・宙ぶらりん・ばくち」でもあります。


 ぶっちゃけた話が、


*だじゃれ=でまかせ=でたらめ=むちゃくちゃ=ごちゃごちゃ=支離滅裂=尻滅裂


です。


     ■


 このブログでやっている、


*でまかせしゅぎ


は、


*言葉=語も、言葉=言語も、こじつけ=でたらめ=恣意(しい)的なものだ。


という前提に立っています。「正しい」や論理や整合性という、戯言=作り話=フィクション=はくしょんには加担しません。ただし、「正確さ」にはこだわります。


*正確に、でまかせを言う。


という感じです。


     ■


「分光」のほかに、


*「ずらす」


という作業も、よくやります。


*「枠」


をずらしてみます。あらかじめお断りしておきますが、「分光」と同じく馬鹿みたいな作業です。


*枠=ふちっこ=縁=辺境=境界線=境い目=分かれ目=隔たり=間・あい・あいだ・あわい=際・きわ=差異=差=違い=ズレ


という具合です。ずらしたら、ズレが出てきました。こんなことも、よくあります。出来レースぽいですね。


 うんと簡単に、ずらすと


*枠=限界


となります。


     ■


 話を戻します。


*「わかる」について考える


ということは、


*母語である日本語という「枠=限界」の中で、思考し、記述する


と言えそうです。ただし、


*思考において言語がどれほど大きな位置を占めているか


は知りません。言語だけでなく、


*広義の表象


つまり、


*狭義の言葉である話し言葉と書き言葉を始め、手話、ホームサイン(※たとえば家庭内で使われている手話)、記号、符号、信号、アイコン、点字、指点字、仕草、表情、合図、身振り言語=ボディー・ランゲージ、音声、絵、映像(静止画像・動画)、視覚芸術、音楽など


を総動員して、ヒトは思考をしているような気がします。さらに、そこに


*宇宙を支配する圧倒的な偶然性


が重なるような感じがします。


 というか、そもそも、


*ヒトは表象に対して主導権を握っていない


言い換えると、


*ヒトと表象の主従関係は、表象が主でヒトが従だ


と思われます。


 このように、


*「言語=表象=枠=限界」の中で、ヒトはもてあそばれるしかない


という事態が常態化していると考えています。


     ■


「枠=限界」の「内部」を、「テリトリー=なわばり」と呼んでみましょう。テリトリーは、居心地のいい場です。安心していられる。お母さん=おふくろの懐(ふところ)=袋(ふくろ)=子宮・胞衣というイメージでしょうか。


「昔は良かったなあ」という気持ちも、テリトリーの一種です。この感慨には、「自分がかつて輝いていた時期」つまり、単に「若かった時期」を懐かしむ心理が大きく働いているとも考えられます。


「○○の原点に返る」、「本当の○○」、「純粋な○○」、「真の○○」、「本来の○○」といった紋切り型の言い方も、テリトリーを守ろうとする気持ちから発している感じがします。


 その気持ちは分かりますが、いかがわしいフレーズだと思います。政治的なプロパガンダに利用される可能性が高いからです。不純な動機の餌食になりがちだという意味です。


 きな臭い話はやめましょう。


 ちなみに、今挙げた「内部」という意味での「テリトリー=なわばり」の「外部」には、


*「敵がいる」


とヒトはふつう想像します。


 やっぱり、きな臭くて物騒な気配がしてきました。抑うつ状態が悪化しそうな予兆がしてきました。


 話を少しずらします。


     ■


 ヒトは、各人がいろいろな「枠」にとらわれています。さきほど挙げた、「広義の表象」という考え方で説明ができそうです。また、別の観点から「枠」をとらえることも、可能かと思います。


 たとえば、


*個人として、および集団としての「枠」


が考えられます。


 まず、


*集団レベルの「枠」


から検討してみましょう。


*家族、職場、職業、技能、学校、町内、所属する団体、宗教、自治体、地方、国家、母語など


といったところでしょうか。そうした組織内のルールや人間関係、ある職能や技能や言語を身に付けていることによる行動様式や価値観が、集団レベルの「枠」に当たります。


 その中に、


*個人レベルの「枠」


があると単純化してみることもできそうです。


 個人レベルの「枠」とは、


*あるヒトが生まれ、育ち、成長していく過程での、日常的な体験のすべて


だと言えます。当然、集団レベルの枠と重なります。生後間もなくある病気にかかったとか、初めて海を見たのが3歳の時だったとか、○年□月△日の夕食にハンバーグを食べたとか、日常的なささいな、あるいは重要な


*出来事や状況や事件の積み重ね


だとイメージしてください。


     ■


*個人レベルと集団レベルの枠は、外的な要因とか後天的な出来事に左右される


ものです。両者はからみ合って、かなりごちゃごちゃぐちゃぐちゃしていると思われます。


 ここで問題にしたいというか、個人的に気になって仕方がないのは、以上のような「枠」ではなく、


*内的な「枠」


とでも言うべきものなのです。


「わかるはわからない」という記事から、以下に必要な個所をコピーペーストしてみます。


     ■


*ヒトはわかることしかわからない。


とか、


*ヒトには「わかる」ように「なっている=できている」ことと、「わからない」ように「なっている=できている」ことがある。


感じがします。


 ちなみに、こうした、


*「○○する」あるいは「○○できる」ように「なっていること=できていること」と、「なっていないこと=できていないこと」


を、このブログでは、


*「経路」


と呼ぶこともあります。万が一、ご興味のある方がいらっしゃいましたら、「あわいあわい・経路・表層(1)」と「あわいあわい・経路・表層(2)」をご一読ください。


     ■


 以上が引用部分です。


 この


*「経路」という考え方=作り話=でまかせ


は、言語と関係がありそうです。正確なことは知りませんが、


*ヒトには、生後に言語を運用する能力・機能が先天的に備わっている。


という意味のことを、考えている=妄想している=思い込んでいる言語学者たちがいるらしいです。しかも、


*その能力・機能は、各言語に共通する=個別の言語の差異には左右されない普遍的なものである。


と想定しているようなのです。誤解があったら、ごめんなさい。もし、誤解であれば、このブログでの考え方としてもいいかと思っています。


 そんなことがありそうな気がします。「ありそう」とは、「うさんくさい=いかがわしい」とほぼ同じ意味です。例の、


*本能


という考え方=作り話=でまかせに似ていませんか? 


     ■


*うだつの上がらない尻尾のないおサルさんの脳内で「ズレ=狂い=壊れ」が生じて、ヒトとなった。


という意味の考え方=作り話=でまかせがあります。これも、「うさんくさい=いかがわしい」話です。いずれにせよ、


*本能が、「ズレ=狂っ=壊れ=逸脱し」て「言語=表象」という体系を獲得した。


とするなら、本能と言語能力とはきょうだいみたいなものですから、分かりやすい考え方=作り話=でまかせだと思います。


     ■


*「わかる」という「枠」


について考えていた時に、


1)「わかる」という行為は、ヒトの端くれとしての知覚(知覚機能)・認識・意識・錯覚・想像・夢想・幻想という「枠=パターン=仕組み=メカニズム=ダイナミズム=情報+ノイズ」を免れることはできない。


2)「わかる」という行為は、先天的に備わっていて生後に発揮される、言語一般を運用し得る能力・機能という「枠=パターン=仕組み=メカニズム=ダイナミズム=経路」に沿っている。


3)「わかる」という行為は、母語である日本語の「枠=語義=用法=イメージ=ニュアンス」で考えざるを得ない。


4)「わかる」という行為は、個人レベルでのあらゆる体験(忘れたものも、覚えているものも含む)という「枠=記憶=情報」および「枠=記憶・情報・想像・幻想に基づき意識的および無意識のうちに生じる思考や行動」に左右される。


ということを意識するように努めました。もちろん、これも実に「うさんくさい=いかがわしい」話です。


     ■


 また、さきほど述べました、


*ヒトは表象に対して主導権を握っていない。


つまり、


*ヒトと表象の主従関係は、表象が主でヒトが従だ。


ということも意識しながら、


*「わかる」という「枠」


について考えるように心がけました。


     ■


 このように、


*ヒトは、さまざまな「枠」のからみ合いの中で「生きている=人間関係を成り立たせている」


という観点から考えると、


*テリトリー=なわばり=枠=枠の内部


と、


*テリトリー=なわばり=枠=枠の外部


と、


*枠=ふちっこ=縁=辺境=境界線=境い目=分かれ目=隔たり=間・あい・あいだ・あわい=際・きわ=差異=差=違い=ズレ


という、


*3つに大別される「枠」と、そのからみ合い


というイメージ=うさんくさいお話=でまかせが頭に浮かんできて、気になって仕方ない状態になります。


     ■


 単純化すると


*内と外と間


あるいは、


*内部と外部と辺境


という3つの「枠=場」です。うさんくさい話です。


     ■


 次回は、その


*3つの「枠=場」


について、それぞれ考えてみたいと思います。



※この記事は、かつてのブログ記事に加筆したものです。https://puboo.jp/users/renhoshino77



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