不自由さ
げんすけ
2020/08/20 09:30
できません。どうやっても、できそうもありません。このブログの記事を書くさいには、自分自身、つまり、自分の持ち合わせの知識や記憶や、自分の知覚器官を含む身体だけを頼りに、ああでもあるこうでもある、ああでもないこうでもない、と考えたり、でまかせをかますわけですが、
*どうしても、できません。
1)時間の経過を「とらえる=知覚する=意識する」
2)「とらえた=知覚した=意識した」時間の経過を、「想起する=呼びもどす」
3)「想起した=呼びもどした」時間の経過を、「表現する=しるす=何かの形で残す=何か別のものに置き換える」
4)「表現し=しるし=何かの形で残した=何か別のものに置き換えた」、「想起した=呼びもどした」時間の経過を、「とらえる=知覚する=意識する」
以上のなかで、いちばん難しいというか、ほぼ不可能に感じているのは、2)なのです。個人的には、2)3)1)4)の順で難しいです。
きのうから、2)を何度も試みているのですが、できそうでできない、というか、自分が「望んでいる=期待している=できて当然だと思っている」ように、事が運ばないのです。こういうのを
*不自由さ
というのでしょうか。たとえば、中途難聴者である自分は、
*「耳が不自由な人」
と他人様から言われることがあります。
*聴覚の「障害者」あるいは「障がい者」あるいは「障碍者」
と言われたり、文字にされることもあります。いわゆる、
*「障害・障害者)」 vs. 「健常・健常者」という2項対立
は好きではありません。
うさんくさい=嘘くさいからです。この言い方にご不快な気持ちをいだかれた方には、お詫び申し上げます。ごめんなさい。微妙な問題であることは、百も承知しております。ただ、このアホがアホなりに考えていることを、このまま続けてお読みくだされば幸いです。
*
で、
*「障害・障害者」と「健常・健常者」は連続している
と思っております。自分の場合で考えてみます。たとえば、
*「聞こえる」 vs. 「聞こえない」というのは、「程度の問題」
です。自分は大学に進学して間もなく、「聞こえが変だ」と感じはじめました。
*耳鳴りがする。聞こえにくい。他人の声が音としては聞こえるけど、どういう言葉を発しているのかが聞こえにくい。
という違和感を覚えるようになりました。その時には、横着をして、病院にも行かずに放置していました。後悔しています。
四半世紀以上経った現在では、上記の症状の程度がそうとう悪化しています。つまり、現在では、かなり高価な高性能のデジタル式補聴器で
*聞こえを補っているのにもかかわらず、上記の症状があらわれている=感じている
のです。別の言い方をすると、
*補聴器を外すと、ほとんど何も聞こえません。ただ激しい耳鳴りが始終しています。
という具合です。
*聴力=聞こえの程度は、物理的な方法で計測し、デシベル(※音圧を意味し、dBと記します)という単位で表現する
ことも可能です。また、
*どの音域(音の高さ)が、どれほど聞きとれるかを折れ線グラフで表す
こともできます。自分の場合には、声域と呼ばれることもある、
*ヒトがふだん話す時の音の高さの部分が、ちょうど聞こえにくくなっている
そうです。
*
で、話をもどしますが、
*障害=不自由さという現象を、程度という言葉に置き換えてみる
と、
*ヒトは誰もが、障害者になり得る
という、当たり前の結論にいたります。たとえば、あるヒトが、
*風邪を引いて高熱に見舞われた
とします。
*起き上がって、歩くのさえ、ふらふらして不自由な状態になった時、そのヒトは、障害者であると言える
と、考えています。
また、
*誰もが年をとる
のを、避けることはできません。個人差はありますが、
*年齢とともに体力や身体の諸機能が低下していく
のが、ふつうです。その意味では、
*誰もが、障害者になりつつあると言える
と、考えています。
*
また、
*障害は見えるとは限らない
という点も、忘れられがちな重要な事実です。
*聴覚障害をかかえていること
は、ともすると、第三者には分かりません=見えません。そのために、日常生活で苦労することは多いです。初対面の人には、説明しなければ、分かってもらえません。待っていても、誰も助けてくれません。
*どこに行っても、自分から説明しないと、目的や願いを達せらない
のです。
たとえば、一歩、家の外へ出ます。路上、お店、病院、役所、乗物――とにかく人が集まる所では、不自由が絶えません。家にいても、知らない人から電話がかかってくると、相手の声が聞きづらいために苦労します。言うまでもなく、これも、自分から説明しなければなりません。
*内部障害、あるいは、内臓障害
という言葉をお聞きになったことがおありでしょうか? 文字で見ると、だいたいのことは想像できるかもしれませんが、
*内臓や、身体内部の機能に障害がある
人たちがいます。その人たちは、たとえば、歩行に苦労したり、公共の乗物で立っていることが、非常につらい、あるいは、危険である場合があります。これも、
*見えない=分かりにくい障害
です。こうしたテーマについては、「聞こえるけど聞こえない言葉」2009-01-10 で書きましたので、ご一読いただければ、幸いです。
*
さて、
*不自由さは程度の問題である
に話をもどします。冒頭に挙げた、
2)「とらえた=知覚した=意識した」時間の経過を、「想起する=呼びもどす」
3)「想起した=呼びもどした」時間の経過を、「表現する=しるす=何かの形で残す=何か別のものに置き換える」
という行為は、
*すべてのヒトにとっての不自由さ
以外の何ものでもありません。
具体的に、例を示します。
*あなたは、きのうの夕食に何を食べましたか?
と尋ねられた場合には、答えるのは比較的簡単だと思います。メニューを思い出して、口にするなり、文字にするなり、絵に描くなりできるでしょう。そのさいに、思い出すのは、「映像=空間的ひろがりを視覚化したイメージ」(※たぶん、静止画像的なものではないでしょうか)であったり、それを「言語化したもの=要するに言葉」、であるはずです。では、
*あなたは、きのうの夕食に何をどういう順番で食べましたか?
と尋ねられると、ちょっと困るのではないでしょうか。さらに、
*あなたが、きのうの夕食の時間に何をどういう順番で食べたか、そして、その時間に、どんなことが同時に起こっていたかを起こった順を追って話してください。
などと言われたら、どうお答えになりますか? 誰かといっしょに夕食をとったのであれば、その相手との会話まで
*再現する
必要が出てくるのです。途中で、電話がかかってきたなら、その内容も再現しなければなりません。また、もしもテレビを見ながらご飯を食べていたとすれば、少なくとも、あなたが見た場面だけでも、
*忠実に再現しなければならない
のです。
たった1人で食べたにしても、食べた順番や、食べた様子を
*ビデオで撮ったみたいに再現
できますか?
*
ひょっとして、みなさんのなかに、
*警察で取り調べを受けた
方はいらっしゃいませんか? そうした経験のある方なら、上の文章を読んでいて、きっとその時のことを思い出したにちがいありません。
*取調室での本格的な取り調べ
ではなく、ちょっとした交通事故を目撃しただけでも、
*警察官にしつこく質問される
ことがありますよね。あれって、
*すごく難しいこと
ではありませんか? そんなことは、警察官にとっては、自分の仕事であり、日常茶飯事ですから、よく知っています。だから、
*警察官は「助け舟を出す」とか、「誘導する」とか、勝手に話をつくってくれてから「な、こういうことだよな」とか、言う
のです。さもなきゃ、
*起きたことを忠実に再現するなんて、できっこありません。
よほど特殊な、超抜群の記憶力をもったヒト以外には。なかには、いるそうですけど、
*あたまのなかにビデオカメラと画像記憶装置を備えたヒト
なんて、1,000人、いや、10,000人、いや、100,000人に1人いるかどうかという感じではないでしょうか。想像できません。
さらに、取り調べでは、
*復唱=同じことを何度も繰り返して質問する
のを重視します。嫌になるくらい、繰り返します。これは、
*ストーリー=物語を定着させる
ためです。
*起こったことを繰り返し説明させることで、矛盾点をついて、嘘を見破る。あるいは、正確な記憶の再現へと修正させていく。
という理屈をよく耳にしますが、はなはだ疑問です。取り調べる側と取り調べられる側とのあいだに生じる力関係(=力の差)が、
*ストーリーつくり=調書作成作業
に、大きく働く=影響をおよぼすからです。これは無視できません。
*ストーリーの真偽は二の次
です。
*もっとも大切なことは、ストーリーを定着させる=何度聞かれても同じ話をできる
ように「訓練=練習=リハーサル」することなのです。もちろん、「想定されている=目的とする」のは、法廷での確認作業です。
*
以上のようなことが堂々と、当たり前みたいに、公然と(※いや、内々に、かな)行われているのですから、
*警察官や検察官による自白の強要や、冤罪(えんざい)が起きる
わけです。だからこそ、
*取り調べの模様をビデオカメラで残しておくべき
です。あるいは、これだけ科学捜査が進歩していたのですから、物的証拠をもっと重視した判決を、最終関門である裁判所がくだすべきです。
でも、
*<司法の目的は、人を逮捕することではない。まして、処罰することでもない。書類を作成することだ。>
という鉄則は変わっていないようです。この点に、興味をお持ちの方は、ぜひ、「あなたなら、どうしますか?」をお読みください。恐ろしい現実が書いてあります。
取り調べをビデオ撮影するだけでなく、そもそも、形骸化したペーパーワーク偏重に陥っている、
*取り調べという「フィクションつくり」について、専門家がその是非を研究するなり、手法の再検討をするなりするべき
なのです。でも、しないでしょう。なぜなら、(※再度コピペさせていただきますが)
2)「とらえた=知覚した=意識した」時間の経過を、「想起する=呼びもどす」
3)「想起した=呼びもどした」時間の経過を、「表現する=しるす=何かの形で残す=何か別のものに置き換える」
という、おそらく
*ヒト or ヒトの脳が、もっとも不得意とする行動=操作=作業
にかかわるからです。これは、
*「それを言っちゃあ、おしまいだ」のレベル=次元の話である
と言ってもかまわない、
*ヒトの情報処理能力の「根源的な欠陥=とてつもない不自由さ」
だと思います。
それにしても、どうして、取り調べが、あのような、ヒトにとってほぼ不可能な形態をとるようになったのでしょうね。できもしないことを、みんなで出来レース=やらせみたいにやっているなんて。
*
*ヒトって、案外、「抜けている=おバカさん」なのかもしれない
という思いがあたまをよぎりました。いや、それはちがうと思います、きっと、いや、たぶん、いや、ひょっとして、いや、よく分かりません。
*覆水盆に返らず
ということわざがあたまをよぎりましたが、もしかして、これじゃないですか? 何だか知らないけど、こうなっちゃったから、
*これが「正しい」
ということにしておく。
*後戻り
なんて、できっこない。じゃあ、このままいこう。先送りしましょう。きわめてテキトーな「ま、いっか」主義、事なかれ主義。これこそ、ヒトが
*文明
とか
*文化
とか
*進歩
って呼んでいるものではないでしょうか。
*ヒトって、案外、「抜けている=おバカさん」なのかもしれない
って、さっき書いた言葉は撤回します。
*ヒトって、やっぱり、ずるい
に訂正します。「ずるい」がお気に召さない方は、
*ヒトって、やっぱり、賢い
でも、大差ないと思いますので、そう読みかえてください。
と、書きましたが、暑いせいか、「抜けている=おバカさん」「ずるい」「賢い」ぜんぶが、同義語に見えてきました。ぼーっとしてきました。
*
で、暑いにもかかわらず、この数日間、誰に頼まれたわけでもないのに、
*時間について考える
なんて、
*ややこしい
ことをするようになって、よけい、熱くなって、ぼーっとすることが多いのですが、「ぼーっとする、ゆえに我あり」(※安心してください。過去の記事を読まなくても分かるように書きますので)のなかで書いた、
*「ぼーっとする、ゆえに我あり」
ですけど、あれって、そのパクリのもとである、デカルト(1596-1650)の書いたと言われている
*Je pense, donc je suis.(ジュ・パンス・ドンク・ジュ・スイ、みたいに発音しますね)= 英語にすれば、I think; therefore I am.
の訳語として、そのまま採用すればいいのではないでしょうか。つまり、
*「我思う、ゆえに我あり」
なんて、格好をつけて訳すのではなく、ありのままのヒトの思考と知覚と意識を見つめた場合、
*思う・考える= penser(仏語)= denken(独語)= cogitare(ラテン語)= think(英語)
の訳語は
*思う・考える・思考する=ぼーっとする・ぼけーっとする
でも大差ないということにして、
*「ぼーっとする、ゆえに我あり」
(※センテンスの前半に「我」という主語がないことに注目してください。「ぼーっとしている」ゆえに、「我」という主体の意識も定かではないのです。後半でも、省略して「ぼーっとする、ゆえに在り」でも、いいかなと今になって、「ぼけーっとしています=思っています=考えています」。)
でいいのではないか。そのように、「ぼけーっとしています=考えています=思っています」。
ちなみに、個人的には、
*わてアホ、そやさかい、わておるんや
が気に入っております。関西人でもないアホの変な=インチキな関西弁をお許しくださいませ。
なお、「ぼーっとする、ゆえに我あり」についての私見について、以上書いたことは、半分、冗談です。もし、混乱させたようでしたら、ごめんなさい。でも、半分は本心です。
*
またもやコピペさせていただきますが、ヒトは、とにかく、
2)「とらえた=知覚した=意識した」時間の経過を、「想起する=呼びもどす」
3)「想起した=呼びもどした」時間の経過を、「表現する=しるす=何かの形で残す=何か別のものに置き換える」
ことが苦手なようです。
ひょっとして、このアホ=自分だけかなとも、ぼけーっと、いや(※面倒なので、もうこの言葉はつかいません)、考えていますが、自分だけでもないみたいなので、自分だけではなく、みんなが苦手だということで話を進めさせてください。ごめんなさい。さもないと、前に進めないのです。
*時間の経過を処理するのが苦手であるために、空間のひろがりの処理で代用する。
というのが、ヒトが考え出した知恵なのか、単に、都合上=成り行きで、そうなってしまったのか分かりませんが、とにかく、そうなっていると考えられます。
これは、勘=でまかせですが、たぶん、
*楽をしようとしているうちに、そうなってしまった
と考えるのが妥当ではないかと思います。というのは、
*ヒトは「快か不快か」「楽ちんか楽ちんではないか」を原則にして生きている
ように見えるからです。つまり、
*昔だったら、映画=活動写真がないから、スチール( still )写真のままでいこう
の乗りで、
*現在だったら、ビデオ=動画記録および再生装置がないから、デジカメでいこう
の乗りで、
*太古において、ヒトは、順番に全部なんて思い出せっこないから、ちょこっとだけ思い出して、言葉(=単語やフレーズ)か、話(=物語=ストーリー)か、絵(=1枚、または、連続した複数の絵)にしてみよう
の乗りで楽をするように、何となくなってしまった。そんな感じではないでしょうか。いかにも、でまかせっぽいですね、ごめんなさい。でも、わりと本気で、そう想像して=妄想しています。
*
短く言えば、きのうの記事でも書いたように、
*ヒトは、時間的経過を空間的広がりに置き換えてイメージする
ようになった=そうした習性を身につけた、ということです。では、
*このやり方=戦略=惰性=習性が、どれだけ、有効なのか=正確さを備えているのか=テキトーではないのか
を考えてみましょう。単純な例を挙げます。
*揺れるという動作=運動
がありますね。比較的短い時間のものをイメージしてみましょう。たとえば、
*立ち上がるか、上体だけを起こした状態で、胴体を中心に、前傾姿勢をとり、頭部を時計回りに、ぐるりと回して、一回転させて、元の前傾姿勢にもどす
という動作をしてみてください。
暑くて、からだを動かしたくない方は、あたまのなかで、
*けん玉
を思い浮かべてください。
*十字形のけんを手で握って、糸をたらし、玉が下で宙ぶらりんになる
さまをイメージしましょう。で、
*手を動かして、玉が時計回りにぐるりと回って、一回転する
様子を思い描いてください。
上体を動かすにしろ、玉が動くにしろ、
*一回転=一周なら、2、3秒のあいだの出来事
でしょう。これくらいなら、あたまのなかで、その
*動作=運動を、動画的=連続的に再現する
ことができると思います。
次に、その
*様子を、言葉で表す
とすれば、たった今、上で書いた描写力の乏しい文章みたいになります。では、その
*様子を、絵で書く
とすれば、どうなりますか? 残念ながら、このブログを書いているアホには、
*絵心
がありません。また、たとえ、下手なりにマウスを動かして、
*お絵描きソフト
で絵を描いたにしても、それを
*この記事に貼り付ける
などという、高等テクニックは知りません。
というわけで、おたがいに想像しながら、話を進めませんか。それしか、方法がないんです。ごめんなさい。
*
で、
*お絵描き
です。肝心なことを確認しておきます。あくまでも、絵=静止画像です。ビデオで撮るのではありませんよ。
*一回転=一周
ですが、その動作=運動を視覚的静止画像としてあたまのなかに描いた場合に、ある困ったことに気づきませんか?
絵で描いてみれば、分かると思いますが、
*左右と前後と区別ができますか?
確かに絵で描けば、正面を中心に考えて、
*こっちは右、あっちは左、こっちが前、あっちが後ろ
なんて決めつけられますが、それは
*決めつけただけで、決まっていることではない
という点が気になりませんか。「ぜんぜん、ならないよ」と言われれば、「はい、そうですか」と答えるしかないのですが、自分としては、非常に気になるのです。
*一回転=一周という動作=運動を、空間的に静止画像=絵として、とらえた場合には、左右前後が決まる=決めつけられる
のに対し、
*一回転=一周という動作=運動を、時間的に連続映像として=ビデオ的に、とらえた場合には、左右前後は決まらない
と言えるような気がします。
実は、もう1つのフレーズのバージョンがあるので、ご紹介します。
*一回転=一周という動作=運動を、時間的に連続映像として=ビデオ的に、とらえた場合には、左右前後は必ずしも決まらない
です。「必ずしも」がついているだけの差ですが、これは、
*ヒトへの配慮=観察する側である主体への配慮
なのです。というのも、おとといの記事「「時間」と「とき」」2009-06-28でも、書きましたように、このブログでは、
*物理学は関係ない
し、このアホに
*物理的な現象など、扱えるわけがない
からです。ですから、物理学とは関係なく言いますが、
*ある現象=出来事を、ヒトが何かの方法で記述する=表現する=再現する=再演する場合には、ヒトの視点=見方=視座を無視することはできない
と思っています。で、上の「必ずしも」をつけたバージョンも、併記しておきます。ややこしいので、補足説明します。
*「静止画像=絵」としてよりは、「連続映像=ビデオ」としてとらえたほうが、ずっと正確な再現になるが、それでもなお、ヒトは「回転」に「左右前後」というありもしないものを「見てしまう=でっちあげてしまう」。これは、ヒトの視覚にとって、「視点」という「仕組み=装置」が絶対的に必要だからである。
ということです。別の言い方でまとめますと、
*回転や揺れといった、「持続した=時間の連続した」「運動・出来事・現象」を、空間的に描写あるいは再現すると、左右前後という空間的イメージが「あらわれる=出てくる」が、これは、描写の対象である運動、あるいは、再現の起源となる運動においては存在しない。
と言えそうです。
*
もう2つ、気になる点があります。
*回転や揺れといった、「持続した=時間の連続した」「運動・出来事・現象」を、空間的に静止した状態で描写あるいは再現すると、その運動・出来事・現象から時間的経過という要素が排除されるために、その運動・出来事・現象が、これから先も繰り返されるようにも見える。さらには、その運動・出来事・現象が逆戻り、つまり、逆方向に回転したり揺れる可能性があるようにも見える。
それに対し、
*回転や揺れといった、「持続した=時間の連続した」「運動・出来事・現象」を、空間的に連続した状態で(※たとえば動画として)描写あるいは再現すると、時間的経過という要素が反映されるが、その運動・出来事・現象が逆戻りできない、つまり、逆方向に回転したり揺れる可能性はないようにも見える。
以上の2つの文章で「ようにも見える」という表現がつかわれているのも、上述の
*ヒトへの配慮=観察する側である主体への配慮
です。
*
そういえば、
*現代物理学でも、ヒトへの配慮を取り入れた、物理的現象の「記録=記述=フィクション=物語」が流行っている
ようですが、さきほど書きましたように、このブログでは、
*物理学は関係ない
し、このアホに
*物理的な現象など、扱えるわけがない
ことは言うまでもありません。それはさておき or とはいえ、今問題にしているのは、
*ヒトにとって、どう見えるか=感じられる
かなのです。あくまでも、
*描写・再現は、ヒトの、ヒトによる、ヒトのための行為
だからです。つまり、
*ヒトのイメージ、印象、感じといった漠然とした錯覚と呼んでもいいものが、大きな意味をもつ
ということです。ただし、さかんに「ヒト」とか「ヒトへの配慮」などと書いたものの、この記事を書いているアホの個人的見解=想像=妄想にすぎない、とお断りしておきます。
*
ところで、みなさんは、どうお感じになりますか? 「そんなふうには、ぜんぜん感じないよ」ですか? だとすれば、このアホにとっては、「ぎゃふん」ですけど……。
で、なぜ、以上の
1)(時間的経過を空間的広がりへと転換した場合における)左右前後の「決定=捏造(ねつぞう)」の問題、
2)(静止画像における)これから先の繰り返し、および逆方向するとの「予感=錯視」、
3)(動画における)逆戻りの不可能性の「印象=錯覚」
の3点にこだわっているのかと申しますと、
*時間的経過を空間的広がりに、「置き換える=たとえる=こじつける」場合には、時間的「前後」(=「方向」)と空間的「前後」(=「方向」)という、「重なる=かぶる=ダブる」言葉遣いが、混乱・混同・錯覚を招きやすいのではないか。
という疑問があるからです。上の文にある「混乱・混同・錯覚」とは、
*ヒトがかかえる「不自由さ」=「障害」=「バリアー」
にほかなりません。
*
今、あたまにあるのは、
*円というイメージ
です。気になって仕方がありません。
*「一回転=一周」という「動作=運動」、つまり、揺れるという運動を「記述する=描写する=写生する」場合には、「前後」というイメージおよび言葉が重要な意味をもつ。なぜなら、ヒトには、時間と空間を、「円形=円状=円環」という「イメージ=比喩=言葉」を基盤にしてとらえる習性が備わっている。
と考えられるからです。で、以上について、さらに、考えてみるつもりです。
実を申しますと、以上の
*「一回転=一周」についての「馬鹿話=でまかせ」は、ネコ(※うちの猫の名前です)と、遊んでいて思いついたこと
なのです。ネコは、こちらが、ものを回す仕草=動作をすると、強い関心を示します。でまかせ好きなアホは、「なんでだろう? ネズミを連想しているのか?」などと、つい深読みをしたりします。
ヒト以外の生き物を観察したり、いっしょに暮らすというのは、いい勉強になります。
*いろいろなことを教えてくれる
からです。もっとも、こちらに
*学ぶ姿勢
がないと学べませんけど。ネコと遊ぶときには、
*「絶対他者」であるネコ
はどんなふうに、この遊びを「知覚している」のか、または、「とらえている」のか、あるいは、「考えている」のかと、つい、考えてしまい、ぼーっとしてしまいます。
扇風機で部屋が涼しくなったせいか、ネコが部屋に入ってきました。ちょっと、遊んでもらおうと思います。今、気になっている回転遊びでもしましょうか。
*
散漫な文章にもかかわらず、ここまで我慢して読んでくださった方に、お礼申し上げます。どうもありがとうございました。
では、また。
ネコは猫 絶対他者が ここにいる
ネコの目で 1度は見たい アホのつら
ネコは猫 ぐるぐる回る あほはアホ
※この文章は、かつてのブログ記事に加筆したものです。https://puboo.jp/users/renhoshino77
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