「時間」と「とき」
げんすけ
2020/08/20 09:11
「時間」と「とき」について考えています。なぜ、
*「時間」と「とき」を分けて表記した
のかと申しますと、何だか両者が違うような気がするのです。どういうふうに違うのかは、まだ分かりません。
*「まだ」
と書いたからには、
*「これから先に」
「分かる」ことを想定しているわけですが、心もとない気分です。とはいうものの、まさに、たった今書いた、
*「まだ」や「これから先に」について考えること自体が、もう「すでに」「時間」あるいは「とき」を思考の対象とする行為である
と思います。つまり、「時間」or「とき」について考える機会と材料は、あちこちに転がっている=ざらにある、ということです。すると、心強い気持ちになってきます。
で、これまでと同様に、
*今、ここにある物・事・現象を観察し、手持の知識と記憶を頼りに、でまかせ=偶然性に身をまかせながら、楽問=ゲイ・サイエンス=「楽しくやろう、お勉強ごっこ」を実践していく
つもりです。それしか、自分には方法が思いつかないだけなのですけど。
*「ま、いっか」主義=ブリコラージュ状思考態
でいきます。とはいえ、このブログを書いているアホは、アホなりに本気ですので、気長に付き合ってくだされば、嬉しいです。
*
そんなわけで、以下に述べるような問いを投げかけられたり、フレーズを見聞きすると、困ってしまいます。
*「真理(or 存在 or 運命 or 愛 or 無 or 哲学 or 生きる意味 or 心)とは、何か?」
とか、
*「真理(or 存在 or 運命 or 愛 or 無 or 哲学 or 生きる意味 or 心)について語る・考える」
などです。
うーむ。やはり困りますね。というのも、尻尾のないおサルさんが言語とやらを獲得し、晴れてヒト、つまりホモ・サピエンスになったとかいう馬鹿話を前提とするなら、次のようにしか考えられないからです。上述の、
*「真理(or 存在 or 運命 or 愛 or 無 or 哲学 or 生きる意味 or 心)などは、すべてヒトという、ずれた生物が口にした、つまり作ったものである、言葉にすぎない、
みたいな気がするのです。
*ヒトには、何でも言葉という形で作ってしまう習性がある
と言えそうです。
「初めに言葉ありき」とかいうフレーズが書いてある世界的なベストセラーがあるとかないとか、聞いたことがあります。それとは、異なるのかもしれませんが、初めに言葉があるなんて、すごく「言えてる」なあと、つくづく思います。
何を言いたいのかと申しますと、言語活動 or 言語能力という、ヒトという生物に固有の習性が先走りした結果、本末転倒が起こっているのではなかろうか、と懸念しているのです。
たとえば、「真理=まこと」という言葉を口にするのが先で、その後になって、「その意味は?」という疑問が口にされ、あーでもない、こーでもないと大騒ぎしているみたいに見えるのです。要するに、
*ヒトは、「〇△X」という言葉を作り、その次に「〇△Xとは何か?」と問い、思い悩む生物なのである。
これって、滑稽じゃありませんか? 見方を変えれば、憐れじゃありませんか?
なにしろ、作っちゃったから、引くに引けなくなって大騒ぎしているのですよ。と言いながら、この駄文を書いているアホも、「○○とは、何か?」なって、ここでやっているのです。ヒトである以上、避けられないのでしょうね。投げた石は自分の頭に落ちてくるとも言えそうです。
話を、少し変えます。
*
このブログでは、以前から、
*あくまでも「言葉」にこだわり、いわゆる「概念」や「実体」には直接的にかかわらない。
という態度をとるように努めてきました。
*「言葉」と戯れているうちに、あとからついてくる形で、「概念」「実体」にかかわることができれば、いいなあ、
くらいの気持ちです。抽象的に、論理的に、あるいは筋道を立てて、体系的に論を進めていくという作業が、苦手だからです。つい、勘・感・観に頼ってしまいます。そのため、支離滅裂で、トリトメがない文章になりがちです。
*論理や筋道や体系化を信用していない
という強い気持ちもありますが、負け犬の遠吠え的な悪態=罵倒として受け取られるのがオチです。
*
事務的なお話は、このへんで止めておき、本題に入ります。
*「時間」or「とき」とは何か?
といきなり問うのは無謀ですので、じわりじわりと追いつめる作戦でいきます。
みなさんは、どんな時に、「時間」or「とき」を意識なさいますか? また、意識された時には、何を利用して「時間」or「とき」を知ろうとなさいますか?
たとえば、
*何か or 誰かを待っていて、時計を見る
というのが、よくあるシチュエーション=場面=状況だと思います。
*「待つ」という行為は、もろに時間を意識する状況である
と言えそうです。待っているあいだの、「あいだ」=「間」=「時間+空間」=「時空」にぎっしり、「とき」が詰まっている。そんな気が、個人的にはします。
*ときときときときときときときときときときときときときときときときときときときときときときときときときときときときときときときときときときときときときときときときときときときときときときときときときときときときときときときとき・・・
なんて感じです。
いつだったか、記事にも書いたことですが、ロラン・バルト(1915-1980)というフランスの人が、
*待つ人は、どこか女性的に見える
という意味のことを何かで書いていた記憶があります。どういう意味なのだろうと、不思議に思ったので、記憶に残っている。そんな感じです。で、その
*記憶
ですが、これまた、時を隔てて今想起することですから、
*「とき」がぎっしり詰まっている時空
をイメージしてしまいます。とにかく、
*「とき」だらけなのが、ヒトが生きるということである
と言えるように思えてなりません。
で、ふと、思いつきました。漢語系の言葉である
*「時間」を物理的な time
とし、大和言葉系の語である
*「とき・時」をヒトが意識している time
として、このブログで、とりあえず、つかいわけてみます。あくまでも、「とりあえず」です。間に合わせです。でまかせです。都合が悪くなったら、つまり、つかえなくなったら、変更するつもりですけど。
*
で、こんなふうに、「時間」と「とき」を分けることで、これまで言いたかったのに、言葉にできなかったことが言える=書けるようになりました。何を言いたかったのかと申しますと、
*物理的「時間」と、ヒトの意識する「とき」とが、ずれているのではないか
という、かなり以前、というか、幼い頃から漠然と感じていた疑問というか、違和感というか、不思議な現象なのです。
以前、このブログに「架空書評」を寄稿してくださっていた孟宗竹真(もうそうだけまこと)という詩人兼何かのご職業をなさっている人が、第1回目として投稿してくださった「架空書評:狂った砂時計」でもテーマになっている、
*「人間をはじめとする地球上の生物の時間感覚と、物理的な時間のずれ」
という言葉を思い出します。今、問題にしようとしているのは、まさにそのことなのです。ご興味のある方は、ぜひ、孟宗竹真氏の上記のブックレビューをご一読ください。
で、今、問題にしているのは、みなさんも、おそらく、日々、お感じになっている現象というか、気分というか、あの
*「ズレた感覚」
のことです。
*「うそーっ、もう、『ちびまる子ちゃん』の時間なの? あれから1週間経ったの? 信じられない。2、3日前って感じがする」
なんてシチュエーションを、大小合わせれば、自分の場合、それこそ、ひっきりなしと言っても言いすぎではないくらい頻繁に経験します。みなさんは、どうですか? 「ひっきりなし」は言いすぎですか? 「たまに」くらいですか? 「ときどき」くらいですか? 「まれに」ですか? たった、今「○○」と括弧でくくった言葉たちも、「とき」を表す言葉ですね。
*「とき」とは、きわめて個人的な体験=現象である
と言いたいのですが、賛成していただけますか? 個人的だと考えているくらいですから、1人で決めつけるのも気が引けるのです。そう言うわりには、いつも、勝手に=でまかせに、どんどん決めつけているではないか、と言われれば、返す言葉もありませんけど……。
自分は友達がいないので、こういう微妙なことを尋ねたり、話す相手が身近にいないのです。この種の質問は、親には、ちょっとしづらいです。こちらの目を怪訝(けげん)な目つきでまともに見ながら、
*「あんた大丈夫?」
と言われそうだし、高齢の親に要らぬ心配をさせたくありません。
というわけで、「「とき」とは、きわめて個人的な体験=現象である」ということで、話を進めさせてください。
*
ところで、「とき」がきわめて個人的な体験=現象だという場合の、
*「体験」と「現象」
ですが、「体験」が個人的=主観的であるのに対し、「現象」は客観的な響き=意味合いをもっている言葉ですね。主観も客観も突き詰めて考えると、大問題ですが、ややこしくなりそうなので、今は保留しておきましょう。
で、
*「時間」という物理的な現象と、「とき」という主観的=個人的体験との「あいだ」に、「ズレ」を感じる「とき」、その「ズレ」は物理的な現象であるというより、むしろ主観的=個人的体験であると考えるのが妥当であろう。
と思っています。何だか、物理学、あるいは、物理学に関する「言説=お話の言葉づかい」に似てきました。でも、このブログは、ゲイ・サイエンスをやっているので、
*物理学は関係ない
と、別に言わなくてもいい断りの言葉を、いちおう、申し上げておきます。
で、今、思い出したのですが、物理学や数学では、日常の言語が、つかいものにならないために、特殊な言語をつかうというのは本当なんでしょうか? そんな話を何かで読んだ記憶が、ぽろりと出てきたのです。思い出したら、すごく気になってきました。
…………。
ちょっとネット検索して、お勉強をしてみました。といっても、
*ウィキペディアで、物理学、数学、自然言語、人工言語を検索して、斜め読みして、うんざりして、引っ込んだ
だけです。かつて、ちょっと、かじって、ひどい目にあった
*コンピュータ言語や、それとは全然違うものである、機械語=マシン語
など、今はきれいさっぱり忘れている言葉を、検索中に思い出しそうになったのです。だから、ウィキペディアから逃げてきました。このへんの経験については、
*X68000というPC
がらみで「「人間=機械」説(2)」に、少し書きましたので、興味をお持ちになった方だけ、ちょっと目を通してください。この手の話が苦手な方は、パスしちゃっていっこうにかまいません。
ああいう、話にはついていけません。もっとも苦手とするお話=フィクションです。ですので、
*物理学も人工言語も関係ない
でいきます。というか、扱えないのです。脳の情報処理能力が低いということです。本当は扱いたいのです。数学や物理学、勉強してみたいです。でも、これまでの経験ですと、駄目なんです。そうした未練があるせいか、
*マシン語=麻疹語=魔人語
という言葉が、ノイズのように、またあたまに浮かんできました。これってトラウマになっているということでしょうか。マシン語をやるくらいなら、ヒマシ油かマシン油でも飲んだほうがマジでマシです。それよりピジン語やオジン語やオヤジギャグのほうが自分には楽しいし、合っています。
なお、たった今、書いた部分に、深い意味はぜんぜんありません。魔よけのおまじないの文句みたいなものです。暑くて熱くなり、いつも起している脳の誤作動がエスカレートしただけです、たぶん。と、念のために、書き添えておきます。
*
で、話をもどします。さきほどのフレーズを繰り返させてください。
*「時間」という物理的な現象と、「とき」という主観的=個人的体験との「あいだ」に、「ズレ」を感じる「とき」、その「ズレ」は物理的な現象であるというより、むしろ主観的=個人的体験であると考えるのが妥当であろう。
再度読み返してみると、当たり前のことを言っているのに気づきました。犬が西を向けば、尻尾は東を向く、と同じくらい当たり前のことじゃないですか。でも、そういう当たり前に思えることが気になり、つい、こだわってしまうのです。やっぱり、アホですね。それに、そうしたことにこだわったとしても、そもそも、
*物理的な現象
など、このブログで扱えるわけがありません。
*物理学という学問=お話=フィクションの訓練
を専門的に受けた人なら、
*物理的な現象を、あくまでも、学問=お話=フィクション=錯覚として、扱える
とは思いますけど、素人で、しかも、アホである自分には
*その種の錯覚をいだく
のは無理というものです。そうです。いわゆる、
*「物理学」という「錯覚」をいだけるようになるのにも、訓練と苦節が必要
なのです。というわけで、冒頭からくだくだとつづっている、
*個人的に、勝手に1人でいだくことが可能な錯覚と妄想
の続きを、「ま、いっか」主義=「ブリコラージュ状思考態」で書いていきます。
*
まず、原点にもどります。上で書いた、
*何か or 誰かを待っていて、時計を見る
にまで、もどりましょう。「とき」を意識するという意味では、格好の題材となる経験=行為=状況です。
みなさんはどのような時計をお持ちですか? 2本の針が右回りにまわる
*アナログ式の時計
とか、
数字が表示されるだけの
*デジタル式の時計
が代表的なものですね。
孟宗竹真氏の「架空書評」で出てきた「砂時計」もあります。昔は、日時計、水時計なんてものもあったようですね。高校時代に英語の先生が教えてくれた話があります。結論から言うと
*「とき」は「聞くもの」から「見るもの」へと変わった
ということです。英語で「時計」にあたる単語を挙げましょう。
*clock : 置き時計や掛け時計のたぐい : 語源は、「鐘」 : 「なぐる、打つ」の意味もある
*watch : 懐中時計や腕時計のたぐい : 語源は、「眠らずに起きている」 : 「じっと見る、見張る、不寝番をする」の意味もある
で、「とき」とは、次のような順で、ヒトの日常生活において活用されるようになったらしいのです。大昔は別にして、この国やヨーロッパの中世くらいからのお話だと思ってください。
教会やお寺や集会所など、共同体のセンター=本部で、鐘を打って「とき」を共同体のみんなに知らせる。たぶん、そのセンターには、当時は非常に高価で珍しいものであったと思われる、置き時計や掛け時計のたぐいがあったらしい。 ⇒ ふつうのヒトたちにとって、「とき」は、遠いところにある「鐘の音」として「聞くもの」であった 【※どうやら、「鐘(かね)のある所には金(かね)があった」、と言えそうですね。現在でも、東西を問わず、鐘と金が同居する宗教施設が多いような気がします。】
↓
経済的余裕があるヒトたちは、自分の家で、おそらく1台だけ高価な置き時計や掛け時計のたぐいを設置するようになった。 ⇒ 一部のヒトたちにとって、「とき」は、ボーンボーンとかチャリンチャリンとかいう具合に、時計に付属する小型の「鐘の鳴る音」が家のなかで響くという形で、「聞くもの」となったと同時に、「長短2本の針の組み合わせ」として、「見るもの」にもなった
↓
ヒトびとにもっと経済的な余裕ができてくるにつれ、超小型で精巧であるだけに宝石のように高価な、懐中時計や腕時計のたぐいを携帯するヒトが現れるようになった(そういえば、現在とてつもない高価な時計を手首に着けることはステイタスですよね、それに時計屋さんで宝石が売られているのを考えるとTime is money. じゃなくて、時計が宝石と同列に扱われていることに「なるほど」と思ったりします)。 ⇒ そのごく一部のヒトたちにとって、「とき」は、手のひらに乗せることができるほどの小型の精密な器械にそなわった、「長短2本の針の組み合わせ」として、「見るもの」にもなった。
以上は、高校の先生から聞いた話と、その後に得た知識を組み合わせて、ただ今即席でつくった、素人の思いつき=お話=フィクションです。詳しいことをお知り方は、どうかお勉強なさってください。思いつきとはいえ、それほど、的外れなお話ではないかと思いますけど。
ちなみに、フランス語でも、懐中時計や腕時計のたぐいを意味する語 montre は、「見せる」という意味の語 montrer と同系です。一方の置き時計や掛け時計のたぐいの horologe は、英語の hour と同系の語です。horloge (「オルロージュ」みたいに発音します)と hour (「アウアー」みたいに発音しますね)って、何となく似てませんか。
両方とも、h を発音していない点に注目してください。英国が、かつて、フランスの北にいた民族に征服されて(※「ノルマン・コンクエスト」と高校時代に「世界史」で習いました)、フランス語が英語に混じったさいの名残だそうです。honest (「オネスト」)、honour = honor (「オナー」)なんかも、そうらしいです。
で、ドイツ語では、この英語の hour と同系の語 Uhr (「ウーア」みたいに発音します)が、置き時計や掛け時計のたぐいと、懐中時計や腕時計のたぐいを意味する語の両方でつかわれています。区別するさいには、前後に何かをつけて造語しているようです。 hour と Uhr も似ているような気がしませんか。
ヨーロッパの諸言語は、方言ぽくって、おもしろいですね。昔、独仏語のバイリンガルであるドイツ国籍の人と知り合いになりましたが、その人に言わせると、たとえば、フランス語や英語を知っていると、スペイン語やポルトガル語やイタリア語の新聞なんか、ちょっとしたコツを覚えると、7割くらいは意味がとれると言っていました。
で、英語の hour が気になったので、辞書で調べてみました。
*hour : 時刻、(60分という意味の)時間、時代、(特別な)時 : 語源は、「ある特定の時・時期・季節 ← 過ぎ行くもの」
以上です。
*
さて、このように、
*「時間」や「時刻」や「とき」というものを知る=意識する
ためには、
*「聞く」=「耳をつかう」と、「見る」=「目をつかう」
が大きな役割を果たしていることが分かります。もっとも、以上は、日時計、水時計、掛け時計、置き時計、懐中時計、腕時計といった
*時計という機械=器械=計器
によって、
*「とき」を分けて=細分化して、「時間」「時刻」として知覚する
行為です。それ以外に、たとえば、
*腹時計、太陽の位置を見る、他の生物の行動、明暗、寒暖を知覚するという、機械=器械=計器に頼らない、「とき」or「時間」「時刻」の知覚の仕方もある
と言えそうです。
*
実は、たった今書いたことは、ある実体験を思い出したものです。
ある時、
*「消えてしまおう」と思って山に入って、一晩を過ごした
ことがありました。
時計はもって行きませんでした。その時の状態・状況・様子、つまり、ある日の午後から翌日の正午くらいまでのあいだの記憶をたどってみると、やたら、「とき」 or 「時間」「時刻」が気になったのを思い出します。
*迷っていた
のです。
*「消えてしまおう」という気持ちが強くなる
と、「とき」が気になりません。まったく、気になりません。
*「やっぱり、帰ろう」という気持ちになる
と、「とき」を知りたくなります。むしょうに知りたくなります。そのうち、こころの迷いだけでなく、道に迷ってしまい、てんてこ舞いしたというお恥ずかしい結末を迎えました。
その結末はさておき、里が恋しくなった=人生に未練を感じた時に、
*どうやって「とき」 or 「時間」「時刻」を知ろうとしたか
と申しますと、それが、腹時計からはじまる上述の方法でした。自分はアウトドア的な活動が苦手ですが、今申し上げたような経験があります。
*キャンプや登山や山歩き
などがお好きな方なら、ほかにも
*時計に頼らずに「とき」を知る方法
をご存知にちがいありません。なにしろ、
*自然は「とき」の「印・徴(しるし)」に満ちている
のです。自分の場合には、あの苦い体験で知りました。
*
で、自分なりに、そのほかにも、「とき」を知る方法がないかと、山のなかではなく、今、PCを前にして考えているのですが、
*何かが「変化していく=移り変わっていく」「さま・様・様子・模様」=「過程」=「流れ」=「動き」を知覚する
方法もありそうです。今、あたまに浮かんでいるのは、
*食べ物
です。ぶっちゃけた話、お腹がすいているのです。
太古にヒトが、まだ農耕や牧畜という手段を思いつくまえ、つまり、
*自然界にあるものを採取・狩猟・漁労という手段によって手に入れて、食べていた
という、中学と高校の社会科なんかでならったことを思い出しています。で、当時のヒトたちが、
*食べるために取ってきたものをじっと眺めている
という様子=光景が、さきほどから、あたまに浮かんでいます。食べるために取ってきたものをじっと見つめているのは、
*腐ってしまうと困る
から、どうしようかと考えているのです。かといって、食べるのにも限度があります。だから、食べきれないものを見守っています。
*食べ物はいつも手に入るわけではなかった
と思われます。比較的長く保存できるものと、できないものがあります。その保存できないものを、見守る。とうぜん、
*変化
があらわれます。
*腐敗の進行
です。
*夢野久作(1889-1936)の『ドグラ・マグラ』
という奇妙な小説を思い出しました。さらにまた、高校生か大学生の頃に、リンゴが腐っていく過程を撮った短編映画を見た記憶がよみがえってきました。英国かどこかの前衛作品=実験作だったような気がします。こうした
*ものが朽ちていくイメージ=光景も、「とき」=「うつりかわり」と重なる
感じがします。ということは、
*「としをとる」ということも、一種の腐敗だ
とも言えそうな気がしてきました。
*We all live and die. だから、I'm alive. = I'm living. = I'm dying. であり、生と死は連続している。
ということでしょうか。
*
空腹のせいか、ぼーっとしてきました。あたまの整理をする必要があるみたいです。思いつくままに、大和言葉系の語を並べてみます。
*かわる・変わる・うつる・移る・うつりかわる・移り変わる・すぎる・過ぎる・へる・経る・へだたる・隔たる・ま・まあい・あいだ・間・こく・刻・とき・時
こんなところでしょうか。これらの言葉の羅列をじっと見つめて、「とき」「時間」「時刻」について、引き続き考えてみます。
*
トリトメのない文章をお読みいただき、どうもありがとうございました。では、また。
生まれ死ぬ あいだなどなく 生まれ死ぬ
詠めないが ネト下俳人 自称して
※この文章は、かつてのブログ記事に加筆したものです。https://puboo.jp/users/renhoshino77
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