あなたとは違うんです

星野廉

2020/09/22 08:50


【※「ちょっとないんですけど」の続きです。】


 ヒトには、3つの「枠=場」があるのではないかという話の続きです。


 単純化すると


*内と外と間


あるいは、


*内部と外部と辺境


という感じです。でも、残念なことに、これらの


*「枠=場」は、必ずしもヒトに意識されない。


ものらしいのです。


     ■


 たとえば、母語である


*日本語という「枠=場=限界」の中で、考えたり、話したり、書いたりする


場合には、自分が日本語を使っていることを、あまり意識しないのではないでしょうか。


 ところが、外国に出かけたり、あるいは日本語以外の言語を母語とする人と出会って、何らかの接触をするさいには、


*「話が通じない」


とか


*「わけが分からない」


といった状況を経験します。相手の話していることが理解できなかったり、自分の思いが分かってもらえない。もどかしいし、時には悲しい思いをするでしょう。


     ■


 図式化すると、


*「自分=内部」という「枠=場=限界」


が、


*「異なった母語を話すヒト=外部」という「枠=場=限界」


と、


*「出逢う・接する=辺境」という「枠=場=限界」


に、


*身を置く


と言えそうです。


 立場を逆に考えてみましょう。


*「異なった母語を話すヒト=外部」という「枠=場=限界」


も、同じ状況に身を置いているわけです。「おあいこ=逆もまた同じ= vice versa 」というわけです。


     ■


 上では、異なった言語を話す人との接触という、分かりやすい例を挙げました。こうした体験を、少しずらして考えてみましょう。


*同じ母語を話すヒト同士の間


でも、


*「話が通じない」


とか


*「わけが分からない」


といった、


*もどかしい思い


をすることが、日常的によくありませんか? 職場、学校、近所にいる人たちだけでなく、家族や親しい友達との間でも、そうした


*じれったい気持ち


になることがありませんか? 結局、


*ヒトとヒトは分かり合えない


なんて、悲観的な感情をいだいてしまいそうです。そう言えば、自民党が政権を握っていたころの末期に、ころころと総理大臣が変わりましたが、


*(わたしは)あなたとは違うんです!


とか言った首相が何かが、かつていましたね。流行語にもなりました。あれは、至言=名言=迷言だと思います。


 すごく当たり前だけど、普段はあんまり意識しなくて、はっとその事実に気付き、大きくうなずいてしまう。そういう意味で、至言ではないでしょうか。一方で、


*(わたしは)あなたと同じなんです!


とも言えるような気がします。


     ■


*ヒトとヒトの間には溝がある


とか、


*ヒトとヒトは分かり合えない


なんて考えていると寂しくなります。にもかかわらず、


*ヒトには共通する部分がたくさんある


とか


*人類はみなきょうだいだ


なんて考え直すと、いくらか希望が見えてくるような気がして、いくぶん元気になりませんか?


*ヒトとヒトとは、重なる=かぶる部分と、重ならない=かぶらない部分がある


とも言えるような気がします。


 これって、すごく当たり前のことですよね。でも、その


*当たり前が、どれくらい当たり前なのか


が気になって仕方ありません。


     ■


 ちょっと整理してみます。


*ヒトには、「枠=場=限界」としての「内部」と「外部」と「辺境」がある。


みたいです。その


*「枠=場=限界」は、必ずしもヒトに意識されない。


ものらしいのです。ということは、


*「枠=場=限界」としての「内部」と「外部」と「辺境」は、「他者」なのではないか。少なくとも、部分的に、あるいは一時的に、あるいは可変的に「他者」なのではないか。


という疑問が湧いてきます。


     ■


*「他者」とは、「自分」ではないものだ。


と考えるのが普通だと思われます。


*「自と他」という2項対立


は、心理学や哲学と呼ばれる分野で、よく議論されているテーマです。さまざまな人たちが、いろいろなことを言い、多種多様な学派や理論や説や派閥を作っています。


 ヒト特有の、「テリトリー=なわばり」作りです。


 この駄文は、すごくテキトーで面倒くさがり屋が書いています。しかも、お勉強や他人様の言うことを聞くのが大の苦手ときています。結局、自分流でしこしこやっているという次第です。


 でも、それなりに本気ですし、正確であろうとし、ブログという形で書いているわけですから、分かりやすく書こうとしています。本当ですよ。


     ■


 実は、きのう、きょうと、かなり抑うつ状態が悪化しています。そういう自分の状態と、今書いていることとはだいぶ重なるのですが、


*「自分というもの」に対する違和感


について、ずっと考えています。


*「自分」


ではなく、


*「自分というもの」


と書いたことに注目してください。「自分」と「自分というもの」を比較してみましょう。


*「自分というもの」は「自分」より、自明なものではない。


気がしませんか? 「○○というものは、ですねえー」なんて、言い方があります。その時の


*「○○というもの」


と言ったり、書くさいには、


*「○○」は「定かではない=よく分からない」ものだ


というニュアンスがありませんか?


     ■


*「○○というもの」



*「もの」


という「言葉=語」が曲者(くせもの)です。


*「もの・物・者・モノ」


と「分光」(※このブログでは、同音の言葉に分けてみる行為を指します)できます。


 次に、「ずらして」みましょう。このブログでは、「ずらす」とは、同じような=似た意味の言葉を並べていく行為を指します。


*「もの・存在・対象・物体・事物・物事・何か」


*「もの・何か・こと・事・言・ことがら・事柄」


*「もの・こと・言・ことば・言葉・語」


*「もの・存在・ひと・ヒト・人・人間・誰か・あいつ」


 いろいろな含みを持った言葉=語であることが分かります。さきほど用いた「曲者」とは、そういう意味です。


     ■


*「分光」も「ずらすこと」も、「でまかせ=出るに任せること=言葉にもてあそばれること=圧倒的な偶然性に身をまかせること」


です。


*ヒトは言葉を使うことはできない。むしろ、言葉に使われる。


というのが、このブログでの基本的な考え方です。


*主導権は言葉が握っている。


と言い換えることもできます。なぜなら、


*言葉とは、各人が習得した「枠=場=限界=枷(かせ)=各人を縛るもの」である(※「習得した」が決定的に重要です、いわば「掟=ルール」みたいなものだという意味です)。


し、


*言葉は各人が生まれる以前から体系化されて存在し、語の数とそれぞれの語の語義は各人の制御可能な能力を超えて数多く存在する。


からです(たぶんに単純化した言い方ですけど)。


     ■


 ただし、各人が一致団結した、あるいは同様の行動を示すと、若干、言葉を変化させることが可能です。でも、その変化は微々たるものです。とはいえ、その微々たる変化が積み重なると、大きな変化になることは言うまでもありません。実際、そうしたプロセスを経て、どの言語も変化してきたようです。


 上述の、


*主導権は言葉が握っている。


とは、各人の日常生活および生涯でのレベルの話だと考えてください。本当は、各人のレベルだけでなく、ヒト一般のレベルでも、「主導権は言葉が握っている」と言いたいのですが、ここでは、その点には立ち入りません。


     ■


 話を戻します。


*「自分というもの」に対する違和感


を、強く意識する「こと=場合=状況=気分の時」があります。うつ病だからかもしれません。


 たとえば、朝に目を覚まします。その時に、


*自分のご機嫌をうかがう


ことがありませんか? 


*「きょうは、どんな気分かな? どんな体調かな?」


     ■


 また、次のような時もあります。


 何かうまくいかない。気分が乗らない。しっくりいかない。しっくりしない。変な感じがする。もどかしい。言い換えると、


*心が言うことを聞いてくれない。体が言うことを聞いてくれない。


*どうしようもない。


*どうしたらいいか分からない。


*わけが分からない。


*はあ(※ため息です)。


*あーあ(※同上)。


*ふうーっ(※同上)。


*しくしく(※泣きそうに、あるいは涙が目に浮かんでいます)。


*うじうじ(※戸惑ったり、途方に暮れています)。


*バン(※ものに当たっています)!


*ドン(※ものに当たっています)!


*ドスン(※ものに当たっています)!


*バタンキュー(※すねて、寝転がっています)!


という感じです。


     ■


 繰り返します。


 ヒトには、


*「自分というもの」に対する違和感


を、強く意識する「こと=場合=状況=気分の時」があります。ちょっと「客観的なニュアンスで=他人事(ひとごと)みたいに」言えば、


*自分を扱いかねている=自分をもてあましている


状態という感じでしょうか。


*ヒトは自らが考えている以上に不自由である。


という言い方も近いと思います。


     ■


*「自分」と「自分というもの」が「ズレている」。


 これが、現在の自分にとっては、最も正確な言い方だという気がします。「○○」と括弧でくくってあることに注目してください。


*「とりあえず、○○と呼んでいるもの」という「保留=留保=断定を避ける気持ち」が働いている


さいに、括弧を用いる場合がありますが、それです。


     ■


*「自分」と「自分というもの」との間にある「ズレ」


というフレーズの「ズレ」とは、名付け得ないもの、つまり、言葉で言い表せないものだと考えられます。


 ただし、


*体で、そのズレの気配を「察知する=感じる」


ことなら、できそうです。さきほど、ため息や擬態語や擬声語を用いて書いた部分を、もう一度見てください。そして、その文字と括弧内の説明を読みながら、イメージしてみてください。体感できるのではないでしょうか。


「それ」なんです。ここで問題にしているのは、


*あなたが「イメージしている=体感している」「それ」


なんです。たぶん、ですけど。なぜ、


*たぶん


なのかと申しますと、


*(わたしは)あなたとは違うんです!


と同時に(※この「と同時に」が決定的に重要です。「Aと同時にB」という場合には、AとBは対立しません、両立するのです)、


*(わたしは)あなたと同じなんです!


だからです。たぶん。


     ■


*「自分」と「自分というもの」との間にある「ズレ」


について、できればもっと考えてみたいです。ただ、やはり括弧がついているものを思考の対象とすることは、土台無理だという感じがします。


 ダメモトという言葉で、自分をだまし、おだててみます。


     ■


 テレビに話しかけても応えてこない。写真に映っている人を針で指しても痛いと言わない。そんな括弧がついた代理たち。


 括弧のついた「自分」と「自分というもの」、その両者の間にある「ズレ」に、声をかけ、針で刺すように働きかけてみる。


 うーむ。やっぱり、駄目みたいです。



※この記事は、かつてのブログ記事に加筆したものです。https://puboo.jp/users/renhoshino77



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