なわ=わな
げんすけ
2020/09/06 09:21
広辞苑で「な」から「なあ」までの各項目を、ざっと斜め読みしてみるとおもしろい。そんな意味のことを「テリトリー(2)」に書きました。実は、この数日間斜め読みではなくて、けっこう真剣に何度も読んでいました。じっくり時間をかけて読むのです。
で、思うことがたくさんありました。そうやっていろいろ考えているうちに、「わ」についても、気になったので、ついでに「わ」から「わあい」までの項目も読んでいました。これが、またすごく刺激的だったのです。
あれこれ考えたことは、走り書きメモに残してありますが、収拾がつかないくらいのさまざまな思いや発見がありました。収拾がつかないというのは、
*結びつくようで結びつかない=つながるようでつながらない
という意味です。言葉はきわめて柔軟、言い換えるときわめてテキトーな側面をもっているので、
*たいていのことは結びつく=つながる、つまり、こじつけることがきる
と言えます。
かなり強引にくっつけても、別に学問や研究をしているのではありませんから、遠慮や配慮はいりません。単なるお遊びです。まして、こめかみに付近に指をやり、「こんなでたらめと出まかせをやっているけど、ここは大丈夫だろうか」などという心配も無用です。というか、どうでもいいことです。しょせん、お遊びです。
とは言うものの、本人はそれなりに真剣に遊んでいます。みなさんも、ご自分の趣味には、ある程度、真面目に取り組んでいらっしゃいませんか? ゲームでも、お絵かきでも、楽しいと熱中してしまい、つい真剣になってしまいますよね。それと、たぶん同じです。
「な」~「なあ」と「わ」~「わあい」まで、1項目ずつ順番に丹念に読んでいったり、時にはアト・ランダムにあちこち読みながら、常にあたまにあったのは、
「禍福はあざなえる縄のごとし」
ということわざでした。申し遅れましたが、冒頭で「な」に加えて唐突に「わ」が出てきたのは、このことわざに促されたという事情があったからです。
*
小学生の時に、週に1回くらい、始業前に体育館で一種の全校集会みたいなものがあり、そのさいに校長がちょっとした話をすることが恒例化していました。その話の1つのなかで、上に書いたことわざを聞いた覚えがあり、その意味が頭のなかで、
*縄をなう=縄をよる、という視覚的なイメージ
として、今も残っているようです。
で、どういうわけか、先週あたりから、その縄をなうイメージがとりついたようにあたまから去らないため、そのイメージに身を任せながら、広辞苑を読んだり、考えたり、メモを書いたり、家事や親の介護をしているあいだにも、そのイメージがちらつくのをぼんやりと意識して、この数日間を過ごしていました。
どういうことなのでしょう? そろそろ縄とはお別れしたい、というわけで、きょうは、お祓いのつもりで、
*なわ=わな
について書いてみたいと思います。
*
縄をなった=よった経験はありません。藁(わら)や麻(あさ)など、純植物性の縄を最後に目にした、あるいは触れてみたのはいつだったか、思い出すことはできません。けさ、洗濯物を
*プラスチック製のロープ
に干しているときに、ふとロープを観察してみたのですが、その構造がかつて目にした縄そっくりなのに気づきました。
3、4日前に、色違いなだけで同じメーカーのロープを、違う目的で使用するために――もしも他人様が見たとすれば、さぞかし暗い顔をしながら――デイパックに詰め込んでいた時には、そのことにはぜんぜん気がつきませんでした。
小学校の低学年の頃か就学前に、好奇心からだったのでしょう、縄をいじり、ほどいてみた鮮明な記憶があります。ですから、幸せと不幸せは縄をより合わせるように交互に訪れるという、ことわざの意味が、縄をほどく動作を逆にした視覚的イメージ=映像という形で、今でもよみがえってくるのかもしれません。
わのなのこくおうのいん――という言葉が手元のメモにあります。今、辞書で調べて「倭奴国王印」という漢字を当てるのを、久しぶりに確認にしました。どうして「倭奴」という漢字が用いられているのかも、思い出しましたが、歴史的経緯に関心はありません。今、気になって仕方がないのは、
*わのな
という具合に、
*「わ」と「な」が、「の」を挟む形で並んでいる
ということです。それだけで、つまり、そのようにひらがなが並んでいる様(さま)が不思議だという思いをいだいただけで、キーを叩く動作が、一時停止=フリーズしてしまいました。
*どうして? どういうわけで? なんで? なぜ? どうなってるの?
「わ」と「な」についての辞書以上の知識=由来=情報は、調べれば、分かるかもしれません。ネット検索という便利な方法=可能性が目の前にあります。でも、調べる気にはなりません。いわゆる
*「事実」
に興味はありません。
靄(もや)なのか霧(きり)なのか霞(かすみ)なのか、分かりませんが、
*不思議という宙ぶらりんに、からだとあたまをあずけ=まかせたままでいる
ほうが、よほど快いからです。
*「わ」は「わ」、「な」は「な」でいい。それが、なぜか「の」に隔たれて列を成している。得体の知れない3つの音=文字=「言葉の物質性」がむき出しのまま並んでいる。その具体的=物質的「事実」と向かい合っていること自体が、なぜか心地よい。
「なぜか」を解決することで覚えるであろう知的興奮や、好奇心を満足させることで得られるであろう刺激も、ぞくぞくわくわくするような経験であるにちがいありません。でも、そうした気持ちを味わいたいという欲求はありません。少なくとも今は、ありません。
ある文字と文字が隣り合わせに、あるいは、ほかの文字を挟みながらも連なっている=並んでいる=フレーズを成している。その不思議に身をまかせるのが、なぜか心地よいのです。あえて、ここで心地よさを断念し、「なぜか」を言葉にしてみるなら、
*知っているはずの、あるいは、知ることができるであろう言葉の意味=「言葉の抽象性」を忘れ、あるいは、知らずに、まるで初めて接する外国語のように、「言葉の物質性」だけと遭遇=出合っているという夢のような体験が心地よい。
と言えるかもしれません。
でも、このように「なぜか」を、とりあえず、他の言葉に置き換えてみたところで、「なぜか」を打ち消すことはとうていできそうにもありません。その意味では、言葉の「抽象性」だの「物質性」だのという言葉を「超えて」、
*あらゆる個々の言葉は、在る=存在する=自らを露呈したままでいる
と言うべきでしょうか。
*
話は変わりますが、広辞苑では、「な」に「己・汝」という漢字=感字を当てた項目があります。それによると、一人称の語義の次に、
*「転じて」
二人称となったという記述が見えます。この「転じて」とか「訛って」という言葉が好きです。言葉がおもしろいのは、この「転じて」や「訛って」があるからだと思います。一方、「わ」に「我・吾」を当てた項目にも、「転じて」という説明はないものの、一人称と二人称の語義が並んでいます。
ちなみに、ヨーロッパの言語では、二人称単数、つまり、「あなた・きみ」に相当するものが2種類存在する場合が珍しくありません。単純化して説明すると、(1)親しいあいだ柄でつかう、(2)丁寧さを込めたり社交上の敬称としてつかう、の2通りがあるということらしいです。細かいニュアンスまでは、知りません。
たとえば、若い頃にかじったドイツ語とフランス語とでは、(1)と(2)のニュアンスがだいぶ違っていたはずです。確か、キリスト教の神に対して話しかけるさいに、どちらを用いるかも異なっていたような記憶があります。それとも、スペイン語とドイツ語とのあいだでの相違だったのか……。懸命に思い出そうとしていますが、駄目です。忘れました。
で、日本語の、
*「な・己・汝」
と
*「わ・我・吾」
とに、共通して起こっている、一人称と二人称の「混在=同居=共存」という現象が、とても不思議=おもしろいです。そういえば、
*「てまえ・手前」
も、同じようなつかい方ができますね。たった今、辞典で確かめてみましたが、やはり、そうした用法が記述されています。ひょっとしてと思い、ついでに、
*「おまえ・御前」
も調べてみましたが、こっちのほうには一人称の語義が記載されていませんでした。ついでのついでに、
*「てめえ・手前」
も調べてみます。こっちは「てまえ・手前」と激似。一人称と二人称の語義が、併記されています。
不思議な感じがします。考えていると、わくわくしてきます。
*自分と目の前にいる相手を同じ言葉で指す
のですから、不思議です。とはいっても、その曖昧さが分からないわけではありません。よーく、考えると、
*不思議さが後退していき、曖昧さのほうに近しさ=親しさを感じる
ようになります。
そんなことを、この数日間考えたり感じたりしてきました。今、ふたたび、考えてみると、当然のことながら、強度の既視感を覚えます。広辞苑で「な」から「なあ」、そして「わ」から「わあい」にいたる各項目を丹念に読みながら、
*自分と目の前にいる他者を、同じ言葉で呼ぶ。
ということについて、ずっと考えていました。なぜか、「な」から「なあ」、そして「わ」から「わあい」のあいだに並ぶ項目たちが、かぶり=かさなり=つながり=からみ合うように思えてならなのです。
*単なる混乱=錯覚=「とちくるい」である。
と言うこともできるでしょう。混乱=錯覚=「とちくるい」がこんなに心地よいものなら、喜んで受け入れます。
でも、そもそも言葉が、混乱=錯覚=「とちくるい」であることは、
*誰もが忘れがちな「周知の事実」
ではなかったでしょうか。
*
いつの間にか、ネコ(※うちの猫の名前です)が窓際にいます。ガラス越しに、外を見ています。「吾輩は猫である。名前はまだ無い」。いや、うちのネコはネコです。な、ネコ。
*な・名 = なまえ・名前 = てまえ・手前 = わ・我・吾 = な・己・汝
ということでしょうか。
*な
と
*わ
は、やっぱり不思議です。この2つの言葉=音をつぶやくと、
*「自分」と目の前にいる or ある「相手=対象=存在」を同じ言葉で指す
という、やわらかな近しさ=親しさを感じます。なかなか去らない既視感にシンクロして、合掌に似た仕草で藁か何かをより合わせて縄をつくるイメージが重なります。「わ」と「な」をより合わせる。
*なわ、わな、なわ、わな、なわ、わな……
と、キーを操作しモニターに文字を映し出しながら、映し出された文字を声に出して読んでみる=呼んでみる。
もしかして……と、あたまに浮かんだことを実行してみる。
*「わな・罠・羂」
を辞典で引いて、説明を読んでみると、やはり、縄(なわ)が出てきます。
*この符合(ふごう)=符号(ふごう)=付合(つけあい)は、只事ではない。
というのは、「かく・かける(5)」で書いたフレーズです。思わず、
*わななく
などいう、くだらないオヤジギャグが出てきたところで、きょうは、とめておきます。久しぶりに記事を書いたので、疲れました。
つたない記事を、お読みいただいて、どうもありがとうございました。では、また。
縄張りの 境で鳴いた 猫に負け
↓
縄張りの 境で鳴いた 猫を抱き
※この記事は、かつて「台風と卵巣」(昨日の記事です)の前日に書いたものです。前後が逆になりましたが(まさに「なわ=わな」ですね)、これを書いたころの衰弱した心境が妙に懐かしく、また読み切り記事として読める内容なので投稿しました。なお、別宅の blogger でも投稿しています。
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