でまかせ・いず・む
げんすけ
2020/09/10 08:43
ことばについて考える。これは、さまざまな立場でたくさんの人たちがおこなっているでしょう。ここでは自らのやり方でやってみようと思います。どんなやり方なのかは、ここにつづられていくことばをお読みくだされば、だんだんとおわかりになることでしょう。
*ことばについて考えること
が好きです。ことばについて考えたり、調べたり、まとめることをお仕事になさり、ご飯をいただいている方々もいらっしゃいます。素人の身としては、うらやましいかぎりです。
でも、どのようなお仕事にも、それなりの苦しみやつらさがあるはずです。自らの思いを通すことができない。やむを得ず、折れたり、曲げたり、偽る。時には、したくないことをしなければならない。なりわいとするからには、ひとりではできないようですから、いたし方ありません。
ここでは、ことばについて思いをめぐらし、ことばとしてつづるときには、
*出るにまかせる
という心がまえで臨みたいと思っています。いわゆる、
*でまかせ
です。
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わけあって、いわゆる「頑張る」ことができません。いわゆる「論理的思考」という作業が苦手です。他人様の書いたものを読むのも苦手です。でも、考えることは好きです。書くことも好きです。
人が死ぬ間際までできることって何でしょう。意識があれば、考えるとか、思いにふけるとか、夢に近い状態でさ迷うことではないでしょうか。できれば、そうしていたいと思います。そう願っています。
これからさき、なぐさみに、ことばをつづっていこうと思います。せっぱつまった今、何ができるかと考えたあげく、好きなことをやるのがいちばんいいと思うようになりました。
死ぬ前に何をやっておきたいかと言えば、考えたことをつづることです。そして、たとえばこうしてブログという形で、誰かに自分の考えたことを伝えることです。
ブログを始めたのは、昨年の12月19日でした(※この記事は2009年12月2日に書かれたものです。今回の再投稿では加筆は最小限にとどめています)。以後、のめり込んでいます。どんなふうにのめりこんできたのかは、当ブログの左側にある「ブックマーク」にある「うつせみのうつお」というウェブサイトをお訪ねください。過去のブログ記事が収めてあります。【注:「うつせみのうつお」は削除・閉鎖し、現在はありません。それに代わるものが、「パブーの電子書籍置き場」です。ここに電子書籍化した全記事が収めてあります。】
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いわゆる友達と呼べる人がいません。過去1カ月をふりかえってみても、家族以外に言葉をかわした人はいません。そんな状態がずっと続いています。こういう生活は苦ではありません。複数の他人様と接するほうがつらいです。
この生活で満足しています。
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抑うつ状態と体調不良が常態化し、就労は無理のようです。そもそも、働く気持ちがないのかもしれません。
老いた親の世話をし、病とつきあいながら、日々を送っています。ただ、介護を手伝ってくれる人がいるので助かります。
話が暗くなり、抑うつがひどくなりそうなので、この話題はここでやめておきます。
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話を戻します。
言葉について考えるのが好きです。冒頭の文章に、もう一度ちらりと目を通してみてください。何かお気づきになられた点がありませんか。それ以後の文章に比べて、ひらがなが多いですね。
意識して、そのように書いたからです。もう一つ、それと関連してお気づきになったことはないでしょうか。できるだけ、
*やまとことば
を用いて書いてみました。どうして、そんなことをしたのかは後に触れます。
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このところ考えているのは、翻訳という作業です。翻訳をかなり広い意味でとらえています。「翻訳=言い換え=置き換え=伝える=知らせる=言葉にする=何かの代わりに何か以外のものを用いる」という感じです。それだけの意味を担わせているわけですから、「翻訳」と括弧でくくったほうがいいかとも思います。
*「翻訳」
という言葉は、
*ある言語で書かれた文章の内容を、別の言語に文章として「置き換える」
という意味で用いられています。これが
*話し言葉
だと、
*通訳
という言葉が使われていますね。
英和辞典と和英辞典で「翻訳する・通訳する・translate・interpret」という言葉を調べてみました。「翻訳する・translate」のほうが意味が広く、また、「翻訳する・translate」に「通訳する・interpret」が含まれる場合もあるような印象を受けました。 あくまでも、個人的な印象ですけど。
また、いわゆる「通訳する」という作業を、「通訳する・interpret」という言葉を使わなくても言い表すことができるという感じもします。ほかに言い方があるという意味です。つまり、「通訳する・interpret」という語は、「翻訳する・translate」ほど使われないのではないかと思われます。
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辞書的な意味はさておき、ここでは「翻訳」を頻繁に使おうと思っています。括弧付きの場合には、「翻訳=言い換え=置き換え=伝える=知らせる=言葉にする=何かの代わりに何か以外のものを用いる」というぐらいの広い意味を持たせて使ってみます。
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話を戻します。
冒頭の文章で、わざわざ
*やまとことば系の言葉
でつづったのには、わけがあります。
さきほど紹介した「うつせみのうつお」(※現在は「パブーの電子書籍置き場」です)をご覧になるとお分かりになると思いますが、この約1年間、言葉についていろいろ考え、そしてそれをブログ記事として投稿するさいに使ってきたのが、日本語でした。
当たり前ですよね。日本語を母語とする者が「言葉=言語」について考え、それを記述するさいに、日本語を用いるのは当然です。というか、それしか方法は思いつきません。
たとえば「わかる・分かる・解る・判る・別る」とか「わける・分ける・別ける」という具合に、大和言葉系の言葉に漢字を当てはめてみるという作業をし、その意味を考えてみたりしました。
また、「分別(ふんべつ)・理解・判読・解釈」とか「分別(ぶんべつ)・分類・区別・識別」とか漢語(漢語系の言葉)を漢和辞典や国語辞典を使って集めてみたりもしました。
日本語にあると言われる、漢語と和語の二重構造について思いをめぐらすのは、なかなかスリリングな体験でした。
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日本語で「言葉=言語」一般について考えるという、「矛盾した=杜撰(ずさん)な=テキトーな=いかにも素人らしい=でたらめな」ことをやってきました。学者が学術論文を書くのではないとはいえ、あまりにもテキトーでお恥ずかしい限りです。
言い訳=弁解をさせていただきますと、
*「言葉=言語」なんて「真剣に=緻密に=周到に=筋道を立てて=論理的に=明快に=整合性を重んじて」取り組むほどのものではない。
という根強い「言葉=言語」への不信感をいだいています。「言葉=言語」は、
*ぐちゃぐちゃごちゃごちゃだ
とか、
*とりとめがない
とか、
*欠陥品である
というイメージを持っているという意味です。
■
以上のイメージは言葉だけでなく、
*何かの代わりに何か以外のものを用いる
という、いわば、
*代理の仕組み
を基本とする、
*広い意味での「表象」
と呼ばれるものすべてに備わっている属性だと思っています。広い意味での「表象」とは、
*狭義の言葉である話し言葉と書き言葉を始め、手話、ホームサイン(※たとえば家庭内で使われている手話)、記号、符号、信号、アイコン、点字、指点字、仕草、表情、合図、身振り言語=ボディー・ランゲージ、音声、視覚芸術、音楽など
です。
■
ここでお断りしておきたいのは、
*ぐちゃぐちゃごちゃごちゃだ
とか、
*とりとめがない
とか、
*欠陥品である
という、「表象に備わっている属性=表象に対していだいている個人的なイメージ」は、
*表象自体に備わっているのではなく、ヒトと表象との関係性である
ということです。
*関係性
という「もの・こと・状態」は一筋縄では論じることも、イメージすることもできない、まさに、
*ぐちゃぐちゃごちゃごちゃ
していて、
*とりとめがない
属性をもっているように思われます。
今、
*「属性」とか「もの・こと・状態」というわけの分からない言葉およびイメージ
を使いましたが、これは
*ヒトの知覚・認識・体感・直観
と呼ばれている、これまた「わけの分からない=未だ解明されていない=これからも解明されることもない=胡散(うさん)くさい」ものによって
*とらえる対象
であるということなので、この「お話=説=フィクション=作り話」はますます怪しく思えてきます。
■
というわけで、話は飛躍しますが、このブログでは、
*でまかせしゅぎ
で言葉について考えたり、さまざまな思いをめぐらしたり、その結果を言葉としてつづっていくつもりです。
*でまかせしゅぎ
とは、
*「世界=宇宙=森羅万象」(※ヒトにとっては絶対にとらえられないものです)
に備わっていると想像=妄想される
*圧倒的な偶然性(※言葉は欠陥品ですから、偶然性を整合性とか必然性と言い換えることも可能です。実際、そう言い換えているヒトたちがたくさんいるようです)
に「身を任せる=身をゆだねる=一緒に揺れるように努める=一緒にぶれるように努める=『参りました』と言う=降参する=白旗を掲げる=ワンちゃんやにゃんこのように腹を上にして寝転がる」という意味です。
*でまかせしゅぎ
とは、
*でまかせいずむ=でまかせ・いず・む=出任せ・出づ・夢=でまかせ・イズ・霧=でまかせ is 無
なのです。
でまかせしゅぎにおいては、
*「正しい」対「正しくない」とか、整合性対矛盾とか、真偽とか、正誤といった世迷言
にはこだわりません。それでいて、
*本気で、できるだけ正確であろうとする
のです(※正気かどうかはわかりませんが本気です)。それを矛盾であり世迷言と感じるかどうかは、そのヒト次第です。流行(はやり)の言葉を使うなら、
*誰にも観測できない
のです(※何て「陳腐な=ステレオタイプ化された=思考停止的な=何も言っていないに等しい=単なるレトリックでしかない」言い方なのでしょう、反省)。
■
そんな感じのブログです。よろしければ、またお訪ねください。お待ちしております。
ブログ開設者の抑うつ状態および体調の良い時のみに、更新させていただきますので、どうかご理解とご了承をお願い申し上げます。
次回は、「翻訳」についてさらに思うところを書く予定です。
※以上の文章は、09.12.02の記事に加筆したものです。なお、文章の勢いを殺がないように加筆は最小限にとどめてあります。
#エッセイ
#言葉