詩の織物(俳句と短歌と現代詩とマラルメも出てきます)(その1)

げんすけ

2020/07/11 13:12


 自分の場合、苦しい時には、肩がぱんぱんに凝ります。今の「消えてしまいたい指数」は30ほどです。きのうの記事に書いたように、きょうもオヤジギャクで気を紛らわそうかと考えております。


 うつで苦しんでいる多くの方々が俳句を作って心を癒やしていらっしゃる。「にほんブログ村」の「メンタルヘルス」のカテゴリー内にある、「うつ」というサブカテゴリーに登録されているブログを、あちこち訪問して知りました。よく分かるような気がします。もちろん、短歌の愛好者の方々もいらっしゃいますけど。


 ところで、俳句は体言中心、短歌は用言中心、という説明の仕方があります。これも、分かるような気がします。俳句と短歌の違いを、自分なりに言うと、


*俳句は言葉を言葉として扱いつつも、言葉が言葉でない所まで行こうとする。言い換えると、俳句においては、言葉は物になる。


*短歌は言葉を扱いつつ、言葉の始原と言葉の行き先に重点を置く。言い換えると、短歌においては、言葉は概念を目指す。


となります。


     *


 概念は苦しい。とりわけ、心に病をかかえている者にとっては重すぎる。こうした個人的なイメージがあるため、短歌は苦手です。一方の俳句ですが、日本独自の俳句がグローバルな広がりをみせ、haiku として、日本語以外の言語で作られていることは、よく知られています。英語で詠まれた haiku を専門にしているウェブサイトを、時々覗いてみることがありますが、なかなか壮観な眺めで、圧倒されます。活気があります。


 俳句および haiku の約束事について考えてみましょう。


 短い。


 これは主観的であり、また相対的なものですから、さまざま短さ(=長さ)がありますが、自由な形式で(※ haiku にも、ある程度の制約や型を設けているものあります)短く言葉をつづるというルールです。


 こうした緩い約束事のもとに、おびただしい haiku に出合うことができます。ヨーロッパの言語では、定型詩に「韻を踏む」とか「音節数を合わせる」とか、厳格でややこしい規則があるため、短くて自由な haiku に惹かれる欧米の方々が多いのかもしれません。もちろん、欧米にも定型詩以外に自由詩もありますけど。また、年少者に対し積極的に haiku 作りを奨励している学校も、海外にたくさんあると聞きます。


 季語。


 自分は、この制約については、あきれ返って物も言えないので、ここでは触れません。季語、字余り、うっとうしいです。ゆるくアバウトに5・7・5だけで、十分です。少なくとも自分にとっては。


     *


 話は変わりますが、


 かつての高見山(※ジェシーです)を先駆けとし、年月をへて小錦や曙が活躍したころに、相撲は sumo になりました。モンゴル出身者が番付の上位を占め、ロシアおよびその近辺の国々の出身者が目覚ましい活躍をみせている現在は、sumo どころか、сумо になってしまいました(※ちなみに、モンゴル国では歴史的経緯からロシアの文字、つまりキリル文字が未だに広く使われていますね)。いやしくも「国技」が「国際化」すれば、数々の日本人にとって「ゆゆしき」問題が起こるのは、当然の帰結です。それが「国際性」(=国をまたぐ)というものでしょう。


 やくさん、内館さん、委員を辞めないでください。それから、北○海さん、お国のために、この際、ついでに理事もお辞めになってください。


 さて、柔道は、もはや judo でしょう。 judo をマネージする国際的組織で日本人が顔をきかせていた時代は、過去のものになりました。着衣の色や判定基準など、これもごたごたするのは当然の帰結です。こうして日本の島国根性と鎖国癖は、完膚なきまでにやりこめられていくほかないというわけです。それが「国際的」という言葉の「意味=実態」です。


 山下さん、対ビゼール戦では一本とられましたが、肩を落とさないでください。judo が変わっていっても、いいじゃないですか。現実を直視しましょう。そして、井上さん、あなたが野心家なことは、薄々感じていますが、はっきり言って役不足です。CMで頑張れるうちに頑張ってください。


 明るい話題もあります。


 野球です。野茂が Nomo となったのが、今から振り返ると大きな契機でした。その意味では、Nomo は偉い。潔かった。Nomo が英断をしなかったとすれば、Ichiro、Matsui、Iwamura らが活躍する状況を目にするのは、もっと遅れたかもしれません。おっと、Daice-K = D-Mat を忘れてはいけません。言うまでもなく Matsuzaka のことです。Matsusaka ではなく Matsuzaka ――「S/Zの恐ろしさ」、これが○○年ほど前に書いた、自分の卒論のサブテーマでした。懐かしいです。


 Ichiro さん、間違っても引退後は、自○党の国会議員にならないでください。虫の知らせというか、あなたが一番心配なのです。何をしても、おかしくない。それが、あなたのいいところですが――。


 やはり野球がらみの話なのですが、次のような言葉をお聞きになったことがありませんか。


 ベースボールと野球は違う。別ものだよ。


 かつて一時期に、一部の人たちが、通(つう)ぶった顔で、そう語ったものでした(※懐かしい響きのあるフレーズです)。もはや、そんな言い草をすれば、失笑を買うだけでしょう。スポーツというイベントあるいはエンターテインメントの商品化の波は、ものすごい勢いでグローバルな展開をみせています。


 何しろ、お金はのっぺらぼうの化け物です。何でもかんでも、貨幣に化ける。化けた貨幣の匿名性は強い(※この点については、当ブログの「匿名性の恐ろしさ」2008-12-29 の記事で書きました)。あらためて、そう思います。そのことを実感させてくれる例を、もうひとつ挙げましょう。


 野球に比べれば、日本では相当出遅れたサッカーの世界ですが、漢字からアルファベットへの衣替えが、当然のことのように行われています。Nakata、Naka(mura)、Ina(moto)……といった固有名詞を並べるまでもないでしょう。


 カズは kazu ではなく、カズのままでいてください。「人間国宝」ですから、「化石」なんて言ってませんよ、「ジャスト・ジョーク」なんて言っていませんよ。書いてはいますけど。


 ところで、Nakata さん、お帰りなさい。「自分」は見つかりましたか?


 で、グローバルな視点で見れば、ベースボールにおける日←→米、米←→ラテンアメリカを中心とした、カネとヒトの流れに比べれば、サッカーやラグビーの多国籍性のほうが、圧倒的にすごいし、先進的でした。その広がりは、南半球にも及びます(※南アフリカ、ニュージーランドのラグビー、ブラジルのサッカーを思い出しましょう)。


 この国で、そうした意識が希薄なのは、やはり日米軍事同盟の産物でしょうか? アメリカナイゼーション(※これも懐かしい響きの言葉です)などという、ヤワな話ではないことは確かです。


     *


 さて、haiku です。ようやく、話が戻ってきました。ただし、haiku ではなく、俳句。これは、しんどいです。川柳の愛好者が増えているといいます。きのうネコを探しに行ったついでに、たまには見聞を広げようと、勇気を出して書店に入り(※たくさんの本が並んでいるのが、うっとうしくもあり、めまいを誘い、怖いのです)、「公募ガイド」という雑誌を立ち読みしましたが、なるほど、と納得しました。


 何しろ、間違って入賞すれば、20文字=シラブル(※正確には「モーラ」というそうです)が○万円に化けるのです。いいですねー。川柳ブームは、不況も大いに関係していると新聞に書いてありました。


 川柳はメッセージソングに似たところがあります。つまり、「言いたいこと」(※「概念」でもいいです)が込められている。だから、短歌とも似ている、とも言えます。俳句においては、「言葉は物になる」と、冒頭で書きましたが、川柳の場合には、言葉の「物質性」に迫るという、ちょっとシリアスな、自分好みの味わいに欠けるのです。もちろん、例外もありますが。


 haiku も、自分があちこちのウェブサイトでいろいろ読んでみた限りでは(※ほとんどが英語ですが)、どうも俳句とは趣(おもむき)が異なる。いや、かなり違う。


 漢字とひらがなとカタカナの組み合わせによる、多義性。


 主語・述語やセンテンスという、ヨーロッパから借りてきた概念の不在。


 「ノンセンス(※ナンセンスの仲間です)=無意味=反意味=無方向=無軌道」といったらいいのか、言葉を用いながら、言葉の意味を「脱色」あるいは「反転」あるいは「抹殺」しようとするラディカルな姿勢。


 言葉が「伝達」や「表現」の道具としての使命から遠く離れ、もはや「物=物体=オブジェ」としか言えないような「物質性」を帯びる瞬間に立ち会う「偶然性=アクシデント」。


 以上並べたような、俳句独特のたたずまいが、haiku には感じられないのです。だから、


haiku と俳句とは、絶対に違う。


philosophy と哲学とが違うくらい、違う。


と、声を大にして言いたいのです。


     *


 なぜ、こうしたことを肩に力を入れて訴えているのかと申しますと、今、<私家版『存在と無』―序文―>(※当ブログの「私家版『存在と無』―序文―」の続きの<私家版『存在と無』―その1―>を書こうとして、ああでもないこうでもないと考えているからです。


 誰に頼まれたわけでもないのに、


です。


 で、それを書くために、「存在」と「無」というふたつの言葉にまとわりついて離れない「概念」というもの――自分にとっては、「亡霊」のように恐ろしいものなのです――を相手に、誰に頼まれたわけでもないのに考えまくっているのです。


 まだ、言葉として書きつづることはできませんが、きょう書いた、


haiku と俳句の違い、


つまり固有名詞や名詞の、ある文字から他の文字への変換(=転換)、


ひいては翻訳という行為の不可能性=可能性、


つまり、各言語間にある違い(=隔たり)、


そして、俳句における言葉の「物質性」


は、自分の中ではつながっているのです。そのことについて、いつか書いてみたいと思っています。


     *


 それにしても、haiku と俳句との間、そして philosophy と哲学との間に、これほどの隔たりがあり、交流も翻訳も婚姻も野合も、うまくいっていないのに対し、どうしてベースボールと野球の間、soccer とサッカーの間には、あれほどの交流=交換=流通=交通があるでしょう? 


 異言語間の隔たりの大きさ(※これは、かなり絶望的)に比べて、スポーツの共通性=国際性(※ルールの差はわずかです、京都弁と大阪弁との違いよりも、その差は遥かに小さいのではないか)が著しいのはなぜなのか?


 やはり、さきほど触れたように、お金の問題が大きくからんでいると思われます。貨幣の匿名性って、やつです。選手とチーム間の契約金、放映権、選手と企業間の契約――すべてお金に還元できる話ばかりじゃないですか。選手(※あくまでもヒトですよ)までが、ブランドという一種の貨幣に化けるというわけです。そして、貨幣は匿名性を帯び、そ知らぬ顔をして流通するという次第です。


 それにひきかえ、haiku と俳句、そして philosophy と哲学は、お金にならない。旺盛な物欲がある人ならば、haiku も俳句も philosophy も哲学も、普通はしません。生業にはしません。哲学者ではなく、哲学学者なら、最高学府に大勢いそうです。もちろん、例外もあります。また、余技という場合もあるでしょう。


 やはり、話はお金に行き着くようです。


     *


 この行まで、読んでくださった方に、感謝いたします。長かっただけでなく、文章が下手なうえに、内容がややこしくて、ごめんない。そして、どうもありがとうございました。


 俳句について書いておきながら、ちなみに自分は俳句が詠めません。読むのは好きですが、作れません。「野球(のぼーる)」=「獺祭書屋主人(だっさいしょおくしゅじん)」=「常規(つねのり)」=「子規(しき)」の句なんて、実にいい。


 ネコの寝姿を見ていると、一句浮かびそうな瞬間を感じることがあります。詠んではみるものの、たいていは、季語なし、字余り、技量不足で、へこむのがオチです。肩の力を抜いて、もっと自由奔放にやればいいんですけどね。


 肩苦し 詠もうとすれど 型狂し(「haiku と俳句、ベースボールと野球」より)



     〇



「名付け得ないもの」に付けた「名前」は何か、そして「『名前がないという』名前=言葉」の動きと働きはどういうものなのか。


 事態は深刻なのです。


「名のないもの=ヒトが作ったもの=名無しという名」が、ヒトの思惑を超えてひとり歩きしているのです。「表象」、「代理」、「言葉」、「名前」、「○○」と呼んだところで、ひとり歩きがやむわけではありません。でも、名付けないわけにはいかないのが、ヒトの宿命です。その名付けずにはいかない、名付け得ないもののひとり歩きを、その名付け得ないものに、ヒトは責任を転嫁してはなりません。


「『名前がないという』名前=言葉」は、次々と変わります。変わるという動きが、使命であるかのように、変わります。本名なんて、単なる言葉です。あだ名、仮の名、別名、異名、ニックネーム、戒名、源氏名、ハンドルネーム、芸名……という言の葉が列をなして控えています。


 ということは、「名前=言葉」とは、空(うつお)です。せみの抜け殻と同じです。内容は無い様でございます。乾ききった殻という形で、死んだ後にも残る可能性がわずかでもあるのが、せめてもの救いでしょうか。


 ここで一句。


 からからと 冬木にからむ せみのから


 すると、


お墓みたいなものじゃないですか! そこに私はいません、と言われるに決まっていますが。


 じゃあ、


空(※そら=くう=うつお=から)ですか? 貴方は、どこにいるのですか? 「山のあなた(=彼方)の空遠く」ですか? 「幸い住むと人のいう」所ですか? 


 カール・プッセさん、いや、その方の詩を翻訳(※「訳す」とは、「翻す」ことなのですね)なさった上田敏さん、声に出して読みたいニッポン語、とか何とかいう仰々しい惹句(=キャッチフレーズ=プロパガンダ=景気づけ)を、お墓の下で、どうお思いになっていますか? やはり、そこにはいらっしゃいませんよね。そう信じています。あくまでも、空(※そら=くう=うつお=から)の、あなた(※彼方)、で翻っていらっしゃるのですよね?


 いずれにせよ、いや、だからこそ、


生きているヒトにとって、大切なことは、彼方ではなく、今、ここで、ひらひらと「考える」ことなのです。ぺらぺらと「頭を含む体を『張った=貼った』行為」が重要なのです。それが、きっと責任をとることなのです。張る、貼る。ぺらぺらのものを、ひたすら張り、貼り続ける。ひらひら舞う、眩う。決して安住しとどまることなく、まして掘り下げて分かったりすることなく。


 そう思います。本気です。正気とは言いませんが、本気です。


     *


 ここまでお読みくださった方に、心からお礼申し上げます。


 きょうの「消えてしまいたい指数」は30前後です。だいぶ楽です。ネコ(※今、足元にいる猫の名前です)、元気です。きょうは、頓服のお薬は飲みません。たぶん。


 空をみて けさもとなえる あなたの名(「名のないモンスター、あるいは外部の思考」より)



     〇



 ハンコ。


 手強い相手です。そもそも、ハンコは、なぜ存在するのでしょうか? それは、表象だからです。では、何の表象なのでしょうか? 法律の表象です。


 その法律って、何なのでしょうか? 分かりません。素人の自分には、分かりません。手持ちの頭と体で考えるという、当ブログのスタンスで言葉をもてあそぶ。その過程で、ぽろりと何かがこぼれ落ちるかもしれない。さいころを振れば、何かの目が出る。それに期待するしかない。采(さい)は投げられた――というやつです。要するに、ばくちですね。賭ける、しかない。


 昔々、マルメロに似た名のフランスの詩人が、さいころを振るという身ぶりをめぐって、ものすごい実験的な詩を書きました。若き日の自分は、うちのめされました。言語を始めとする、表象にかかわることは、ある種のばくち、または偶然に挑むことである。こんなギャンブルを、マジにやろうとすれば、身の破滅に至ります。罰(ばち)があたります。罰(ばつ)を受けることもあります。


 万が一、この「ばくち」に興味のある方は、グーグルなどで、「マルメロ」じゃなくて「マラルメ」を検索してみてください。


 ただし、マラルメには深入りなさらないように、くれぐれもご注意ください。かなり「あやうい」ことになります。今、その名を出してしまったことを後悔しています。マルメロをペロペロするか、マシュマロをメロメロするか、パタリロをヨミヨミするくらいで、とどめておいてください。


     *


 話を戻します。法律とは何でしょう? 他人事ではありません。ヒトは、生まれてから死ぬまで、いや生まれる前から死んだ後も、法律と無縁ではいられないのです。婚姻、結婚、(中略)、死亡、埋葬、相続――すべてに届けが必要です。どこに? イヤーな言葉ですが、「お上(かみ)」にです。(「やっぱり、ハンコは偉い」(電子書籍オリジナルバージョン)より)



     〇



(わめきの1): マラルメの「さい」ころが、「賭ける」ことによって「書ける」ことの実践としての「詩作 = 思索 =試作」の道具とされたように、「差異」は、このブログという場(=間=空間)で「さい」ころを振って出た「目=芽」である。


(わめきの2): 偶然性の産物である「差異」という言葉に寄り添い、その身ぶりと表情を模倣し、奥には至らず、言の葉の表層をすりすり滑走しながら、psych(o)- (※「サイクとかサイコと読みます)=霊魂=心理=精神=脳=動揺=ショック=驚異=興奮=「なんちゃって(※リーダーズ英和辞典など大きな英和辞典では、ちゃんと、この意味も載っています)」と戯れてみる。(「それは違うよ」より)



     〇



1)弁明 : 戦略です。徹底的に言の葉の表層にこだわり、言語活動の必然性である抽象化に、あえて絶望的な抵抗を試みることを、具体的な言葉の身ぶり、および運動として実践するのを目的とする。言い換えれば、マラルメの詩作=思索=試作のツールであるサイコロのように、言葉に「賭ける」ことにより、「書ける」という当たり前のようで決して当たり前ではない、偶然と必然の共存を実践するため。(「ま~は、魔法の、ま~」より)



     〇



 えいっや!(※これ、サイコロを振っているんです)


 bath。「こんなん出ましたけど~」「ありがとう、ございまする、アツノさん」


 はあ? 先週に引き続き、またもや英語ですか? フランスの詩人兼中学の英語教師であられた、マラルメ先生、ど、どういう、こ、ことなんでしょうか? なぜか、舌がもつれる。th の発音苦手なんです。その点、A六輔さんは日本語でも、うまく th を発音なさっている(※Aさん、ごめんなさい)。うらやましい限りです。ホエア・イズ・ザ・バスルーム・プリーズ? はばかりは、どこじゃ?


 それどころじゃない、bath が出たので、考えなければ、この日記が進まない。(「ケータイ依存症と唇」より)



     〇



 ちょっと話をずらします。定型詩って、お聞きになったこと、ありませんか? 難しいことじゃありません。ほら、「5・7・5プラス季語」の俳句という、定型詩。「5・7・5・7・7の三十一文字(=みそひともじ=アラサー)」の短歌という、定型詩。この国にも、昔からありますよね。苦労して音節の数を合わせて、「できたー!」なんて言って喜ぶ。あれ、です。


 ただ、フランスや、他のヨーロッパの国々の定型詩の場合には、「韻を踏む」とか、「音節の数を合わせる」とか、ちょっとややこしいんです。自分も大学時代に、英語やフランス語の詩を、授業で読まされたり、暗唱させられたりしました。慣れると、母語でないにもかかわらず、それなりに「口に出して読んでみると、心地よいなあ」という気分の一端に触れることができます。「韻を踏む」は、漢詩にもあるんですけど、覚えていらっしゃいませんか? 個人的には、ちんぷんかんぷんでした。このダジャレって、漢語=中国語と関係あるらしいのですが、漢文で苦労した自分には、そのダジャレの「わけ分かんない」イメージが分かるような気がします。


 ここまで話したのですから、思い切って「韻を踏む」と「音節の数を合わせる」っていう、ヨーロッパの定型詩の「一端=ちょっとだけよー」(※あっ、加藤茶のギャグだ!)――。突然ですが、


死語復活キャンペーン


に入らせていただきます。


「ちょっとだけよ~。アンタもすきねえ」


を覚えている方、いらっしゃいませんか? お若い方だと、ご存じないかもしれません。


     *


 さて、さきほどの続きです。


>ヨーロッパの定型詩の一端


に、触れてみませんか? えっ? 「触れるなんて、あんたも好きね」ですか? この幻聴は聞かなかったことにします。で、「韻を踏む」と「音節の数を合わせる」ですが、自分は専門家ではないので、自分なりにリフォームして説明いたします。ただイメージだけ(※ちょっとだけ)、感じ取っていただければ、それでけっこうです。例を挙げて、やってみますね。では、いきます。


 (例1)

  セブン         (3)

  イレブン        (4)

  イイキブン       (5)


 (例2)

  スカット       (3 or 4)

  サワヤカ( ka )    (4)

  コカ( ka )      (2)

  コオラ( ra )      (2 or 3)


 上の2つの例を見て、なんとなく、分かるような気がしませんか? どれも、


語呂がいい。覚えやすい。


 この記憶しやすいということが、ポイントです。そもそも、暗唱しやすいように、「韻を踏む」と「音節の数を合わせる」という定型が作られたという話です。詩はもとは口承文学(※口づてに語り継がれ歌い継がれてきた神話や昔話や詩歌)だったようですから、その名残でしょうか? で、(例1)の「ブン」「ブン」「ブン」っていうのは、完璧に「韻を踏んで」います。(3)(4)(5)は、音節の数です。(例2)の場合には、( ka ) ( ka ) ( ra )と、( a )が共通していますね。こういうのも、ありです。「韻を踏んで」います。


 ちゃんとした定型詩の場合には、たとえば、「ブン」「ブン」「パラ」「パラ」「ブン」「ブン」とか、「ブン」「パラ」「ブン」「パラ」「ブン」「パラ」みたいに、きれいに並びます。すごいですね。ダジャレと同じくらい、作るのが大変そうですね。ダジャレと「韻を踏む」は、基本的に同じ作業だと勝手に理解しおります。


 ただし、(例1)(例2)ともに、音節の数は不ぞろいです。ちゃんとした定型詩では、音節の数をそろえなければ、ならないんですよー。上の例のような短い詩がヨーロッパにはあるわけないみたいですから、音節の数は、10とか20くらいはざらにあったと記憶しておりますが、正確なことは、すっかり忘れました。いずれにしても、オヤジギャグと同じく、それなりの苦労がありそうです。ご苦労さまって感じです。


     *


 以上、すごく大ざっぱに「韻」と「音節の数」をそろえるということを、説明しました。専門家からは、「この、でたらめやろうが!」と罵倒されそうです。ここでは、イメージだけさえ、何となくつかめばいいのですから、悪態をつかれても知らん顔しておきます。


 でも、不思議に思いませんか? どうして、上で書いたみたいに、「韻」と「音節の数」をそろえるのに、血道をあげたり、中には命をかける人もいるんでしょう? 理由は2つくらい、ありそうです。


 1つは、さきほど述べたように、口調をよくして記憶しやすくする、ためです。起源が、口承文学ってやつだからです。確かに、「セブン、イレブン、イイキブン」なんて、語呂がよくて「いい気分」になり、しかも覚えやすいですね。それは、納得できるような気がします。2つめの理由は、そういうダジャレ、いや、「芸=技=テクニック」が上手だと、尊敬されるそうなんです。「わざ」とらしさが、「芸」や「術」になる。ふーん、そんなもんですかね。


 マラルメの話に戻ります。以上見てきたように、ヨーロッパの定型詩には、面倒くさい約束事があります。俳句や和歌(わか)を考えても、「わか」るように、偶然性= accident =アクシデントに左右されます。運にも左右されます。難しく言うと、偶然と必然の間を彷徨(ほうこう) (=うろうろさまよう)するわけです。


 偶然と必然


 哲学っぽいですね。「存在と無」みたいに。で、マラルメって人は、偶然性と必然性とに、非常に意識的だった詩人なんです。あれほど、偶然と必然にこだわって詩作=思索=試作した人はいなかったんじゃないか、なんて思ったりもします。ウィキペディアで「マラルメ」を検索して、ざあっと目を通せば、だいだいの感じがつかめます。それだけで十分です。考えて読んじゃ、駄目です。絶対に深入りしてはなりません。深入りすると、あそこが危うくなりますよ。内緒の話ですけど。


 偶然と必然っていうと難しそうに聞こえますが、簡単に言えば、ダジャレやオヤジギャグも、偶然と必然の間で、おろおろ、うろうろしながら、作ります。賭け事=ギャンブルも、同じです。ギャンブルの達人には、偶然の中に必然を読む特殊な才能がありますね。うらやましいなあ、格好いいなあ、なんて自分は思います。イ・ビョンホン主演の、ギャンブラーの生きざまをテーマにした韓国ドラマを見ての感想ですけど、この気持ち分かっていただけましたでしょうか?


 ものすごく単純化して説明します。サイコロを振ったとします。2の目が続けて2回出て、その次に3の目が3回出たと仮定しましょう。2233ですね。あるいは、最初に2の目が出て、次に3の目が出て、その次に2が出て、さらに3が出たとします。2323ですね。すると、「にーにーさんさん」「にーさんにーさん」という2つの「おにいさん」というタイトルの短い詩ができたことになります。


 馬鹿みたいな説明ですが、そんな感じです。(「カジノ人間主義」より)



     〇



 いつもの悪い癖で、話が広がりすぎました。話題を絞ります。ぎゅっとしぼって、きょうは「書く」こと、そのなかでも韻文=定型詩を書くことに話を限定します。マラルメというフランスの詩人の


*詩作=思索=試作


について、考えていることを書きたい思いがありますが、まだ煮詰まっていません。26の表音文字を用いて、さまざまな規則に沿って詩を書くという、英詩やフランスの詩について不案内である。これが最大の問題点なのですが、別にヨーロッパの言語の詩について専門的な研究をするつもりも能力もぜんぜんないわけで、


*ある制約のもとに何かについて書く


という行為のメカニズムを探ってみたいという、強い好奇心があるだけなのです。そのメカニズムについて深く考えをめぐらしたらしい、マラルメという人というより、


*マラルメという固有名詞=言葉=信号を、媒介=シャーマン=巫女(みこ)として、自分のあたまとからだという磁場において、匿名的な言葉=ニュートラルな信号と戯れてみたい。


と願っているのです。困難な作業であるという強い予感があります。でも、やってみたいです。以前から、気になって仕方がないからです。


 この作業に近いことは、当ブログの記事「カジノ人間主義」で、1度試みました。記事のタイトルから想像がつくかもしれませんが、そこでも「賭ける」=ギャンブルと「書ける・書く」という言葉が、重要な役割を果たしました。必然と偶然についても触れています。


 あの問題を、もっと深く掘り下げてみたいです。でも、まだ、煮詰まっていません。というより、まだ、機が熟していないというか、マラルメというシャーマンが近くに感じられないのです。オカルトめいた言い方になりましたが、そんな感じです。


 きのうは、一時的ですが近くに、その気配を感じました。この「かく・かける」シリーズでは、きのう、「書ける・賭ける」について、ちょっとややこしい記事を2本続けて書きました。お読みになった方は、そのダジャレ=こじつけの多さにうんざりなさったことでしょう。申し訳ありません。


 あのようにしか、あのテーマを書く方法を思いつかなかったのです。その結果「書けた」=「賭けた」のが、きのうの記事です。書いた後は、ぐったりしていました。


     *


 きょうは、日本における韻文=「定型詩・短歌・俳句」に話を限定しようと思います。きのう書いたことを、日本の韻文に当てはめて、なるべく具体的に、分かりやすく書こうと努力しますので、どうかお付き合いを願います。きのうは、話を広げすぎたと反省しています。そこで話を絞ろうとしているのですが、


*詩作=思索=試作


という点では、日本語とフランス語との違いを超えて、共通する部分について考えることもできそうな気がします。


 というわけで、韻文です。韻文の反対は、散文と呼ばれていますね。あまり使われていない言葉です。散文とは、要するに普通の文。たとえば、このブログの記事も、散文のはしくれです。


 一方の、韻文とは、さきほど述べたように、「定型詩・短歌・俳句」を指します。まず、短い俳句なんかを例にとれば、分かりやすいのではないかと思います。俳句にも、流派みたいなものがあり、比較的自由なものもあれば、厳密さを要するものもあります。ここでは、


*5・7・5の音=音節(=拍=モーラ)から成る短い詩


くらいのゆるやかな定義をし、季語、切れなどは考慮に入れないことにします。これだけでも、立派な定型です。定型とは、約束事=規則=「おきて」=ルールです。


*規則とは、自由ではない


という意味にも取れます。「何でもあり」の定型詩なんて、あるわけがありません。


*規則で縛ることにより、ある種の緊張感と規律を保ち、同時に余韻や響きを持たせる


わけです。


     *


 ここで、きのうまでの記事で盛んに用いていた言葉を持ち出します。


*宙ぶらりん


です。


*「ち・ゅ・う・ぶ・ら・り・ん」


かろうじて7音になりそうですが、そうではなく、次のような細かい規則があります。


「ちゃ・ちゅ・ちょ」といった拗音(ようおん)は、それで1音と数え、「はっぱ」の「はっ」といった促音(そくおん)は2音、つまり「はっぱ」は3音と数える。また、「ノート」であれば、長音の「ー」は1音と数えますから、全部で3音となり、「ん」という撥音(はつおん)も1音に数えるらしいです。


 こういう音節の扱い方は、「モーラ」というそうです。これで、だいたいのところは網羅(もうら)されたと思います。以上は、まさに規則です。したがって、


*「ちゅ・う・ぶ・ら・り・ん」(6音)


 宙ぶらりんが、1音足りずに宙ぶらりんになってしまいますが、「てにをは」を付ければ、「宙ぶらりん」も俳句のなかで何とか詠めそうです。一句浮かびました。


*マラルメと ちゅうぶらりんで がちんこか


という具合です。なんのこっちゃ? とても、読めたものじゃありませんけど、とにかく詠めました。


     *


 こうやって、ある規則のもとに、言葉を組み合わせて、意味のあるフレーズを作っていく作業が定型詩=韻文なわけです。この作業=動作=身ぶり=運動を見たり、実際に体験してみると、


*偶然


というものに支配されている自分を感じます。偶然とは、


*必然


と対を成して使われることが多い言葉です。


*偶然性・必然性


と手を加えると、また違った趣(おもむき)を感じませんか? 個人的な感想を申しますと、ちょっと、気取ったような感じがします。こういう細部が、言葉では大切です。特に、俳句のような短い詩では、1音、あるいは1語を変えたり、ずらしたりすることで、趣ががらりと変わることがよくありますね。


*偶然性と必然性とに支えられて、匿名的であるはずの言葉の、意味と無意味とが立ち現れる。


 さて、たった今、上のセンテンスを書きましたが、実は、いわば


*「でまかせ」


で言葉をつづりました。「でまかせ」というと「テキトー」「いい加減」「でたらめ」「たわごと」「支離滅裂」「めちゃくちゃ」などの親戚ですから、響きは悪いです。ネガティブなイメージがある言葉です。


 でも、正直申しまして、自分が他人様に対し、何かを「話す」なり「書く」さいには、多分に「でまかせ」で話し書いていますと、ここで白状いたします。「でまかせ」とは、文字通り、


*「出るに任せる」


ことです。自分は「でまかせ」を悪い意味で取ってはいません。この言葉を使うことに抵抗は感じません。ただ、他人様には聞こえが悪いだろうな、という気持ちはあります。両義的=アンビバレントな感情というやつです。ここまで、話したので、さらに白状いたしますと、特に自分が書く場合には、「でまかせ」に「こじつけ」が加わります。その結果として、


*ダジャレ=オヤジギャグだらけの文章


をよく書くことになります。


 ダジャレはアートであり、芸(=げい・ゲイ)であるとさえ、思うことがあります。マジです。ゲイ・サイエンス=楽問=「楽しいお勉強ごっこ」があるなら、


*ゲイ・アート=楽術=「楽しい言葉の曲芸(=アクロバット)」


があってもいいのではないかと、考えたこともあります。


 でも、しょせん、ダジャレは駄洒落です。とはいえ、ものは言いようでして、


*比喩を多用した文体


と書けば、いくぶん響きがよくなります。かつてジャズが好きな時期がありました。ジャズのどこがいいのかというと、


*即興性=アドリブ


です。


 これも、広義の「でまかせ」「こじつけ」だと信じています。何か、こうしたものに惹かれるのは、「体系的・論理的・終始一貫・筋道を立てる」ということが大の苦手で「直観・直感・飛躍・勘」に頼って、考えるというか、思うというか、空想するというか、妄想するタイプだからかもしれません。


 このブログを読んでいる方は、それを実感なさっていることと存じます。お恥ずかしい限りです。


 で、俳句ですが、これは、「でまかせ」と「こじつけ」にはぴったりの韻文=定型詩ではないかと思うのです。なぜかと申しますと、俳句について調べていて、その起源が、


*連歌(れんが)


および


*俳諧(はいかい)


というものらしいと知ったからです。連歌と俳諧について調べていて、感じたのは、


*連歌と俳諧は、テキトー=でまかせ=こじつけ=いかがわしい=わけわかんない=ふかかい=みだら、だった。


らしいということです。なにしろ、かつて、


*連歌は、「付合(つけあい)」=「ほぼくっつけ合い」と称して、5・7・5や7・7を用いての、複数人物による乱行=乱交=オージー、および夜這い=野合であった(俳句のように、言葉を相手に、「宙ぶらりん」のヒト1人で「くっつけ合い」をするのも大変なのに、複数でやるなんて、すごすぎます)。


 また、


*俳諧は、5・7・5・7・7の和歌の形式を用いた、おふざけ=お笑い=ジョーダン=ジャスト・ジョーク=「えへへ」=「うふふ」=「くすくす」=「あら、いやだあ」=「何だ、これ?」=「ん?」であった(※ここに、俳句に感じられる、シュール=不条理=ナンセンス=ノンセンスの萌芽があるのかもしれません)。


らしいのです。そう勝手に感じただけですので、あくまでも「らしい」としておきます。「らしい」にしても、それを知って嬉しかったです。さらに嬉しかったのは、きのうの「かく・かける(3)」で、マラルメ師を待つまでに、うじうじぐずぐずしていたときに「でまかせで出てきた」=「やらせで出した」、


*この符合=符号は、只事ではない。


と、


*「信号=符号」たちの「符合」は、仕組まれた「必然」= necessity =「必要性」なのか、奇しくも表れた=現れた=顕れた、「偶然」= accident =「事故」なのか?


というフレーズを、ついさきほどぼんやりと読み返していて、そのなかにあった「符合」という言葉を目にしてデジャ・ヴュを覚え、ありゃ、


*「符合(※ふごう)」と「付合(※つけあい)」は、激似である。


と感じたことです。こうなると、


*この符合(※ふごう)=符号(※ふごう)=付合(※つけあい)は、只事ではない。


と言うしかありません。やっぱり、マラルメ師が見守っていてくれているにちがいありません。


     *


 少々、うろたえています。きょうは、これから家事と親の介護をしながら、この


*符合(ふごう)=符号(ふごう)=付合(つけあい)


について、しばらく考えてみます。あすは、このあたりの不思議さについて、「不思議さを解明しよう」などという気持ちも意気込みも毛ほどもありませんが、いちおう、「こんなふうに不思議です」という感じで、不思議さを整理してみる予定です。


 なお、素人が、本当のことを知ろうともせず、玄人の苦労を反故にするような形で、俳句や連歌について書きなぐりましたことに対し、玄人およびほぼ玄人、並びに、この道の通を自任なさっている方々にお詫び申し上げます。


 事実誤認のご指摘は、馬の耳に念仏、いや、蛙の面に小便で、もったいなく存じますので、ご辞退申し上げます。このブログは、正しい、正しくないごっことは無縁でございます。


 ないないに ないものねだる ないないばぁ


 失礼いたしました。(「かく・かける(5)」より)



     〇



 そんな感じで、企み=戦略をもって、記事を書いていますが、わりと自分で気をつかっていることは、比喩とイメージを用いる場合には、


*Aの代わりにBを用いていると常に意識しよう


という、きわめてシンプルなルールなのです。バランス=舵取りとは、そういう意味です。


*Aの代わりにBを用いるということは、AとBが似ていると感じているからだ。


という前提があります。でも、あくまでも、重点はAにあるべきで、


*いつの間にか、話がBに変わってしまっている


という迂闊(うかつ)な=アホな事態だけは、アホながらも絶対に避けたいと思っています。でも、やってしまうんです。やはり、根っからアホなようです。過去のブログ記事を読み直していて、「あらまあアホな」と思うことが、いかに多いことか。


 結局のところ、


*比喩やイメージを扱うさいにも、ある種の論理的操作が必要である。


とも言えそうです。よく考えれば、当たり前ですね。さもなきゃ、


*現代詩


みたいな文章になります。


 今、不意に「現代詩」という言葉が出ちゃいましたが、これって死語ですか? 最近、あまり見聞きした記憶がありません。学生時代には、現代詩研究会などという名称で、サークル活動をしている人たちが大学にいましたが、現在はどうなのでしょう? たった今、ネット検索してみましたが、まだいらっしゃるみたいですね。


 思い返してみると、自分のまわりだけの現象だったのか、もっと広範囲でそうした、つかわれ方がなされていたのか知りませんが、


*何でもありぃ=分けわかんない


みたいな意味で、「現代詩みたい」とか「現代詩的な表現 or 文体 or 文章」などという、ほぼ悪態=ほぼ罵倒と言っていいフレーズをよく耳にしました。今述べたフレーズのニュアンスがピンとこない方は、このブログの文章をご覧ください。好例というやつです。きょうの記事のタイトルを、一瞥(いちべつ)なさるだけでもかまいません。


「現代詩みたい」とか「現代詩的な表現 or 文体 or 文章」とは、こんな=そんな感じです。つまり、「何でもありぃ=分けわかんない」ですよね。


 そもそも、定型詩をのぞく、


*詩、特に自由詩


というのは、論理や筋道とは隔たりのある=遠ざかった言葉のつかい方をするジャンルであるわけですから、イメージもどき、比喩もどき、自動書記もどき、総書記もどき、がんもどき、明らかなこじつけ、支離滅裂、尻滅裂、荒唐無稽、江東剥鶏に満ちていて当然なのです。いや、むしろ、そうでなければならない=必然なのです。


 ところで、新聞社主催の


*オーサー・ビジット


なんかで常連=レギュラーのように出てくる「詩人」、小学校や中学校の国語の教科書に引用されている詩を書いている人たちがいます。あれは、


*詩人


ではなく、単なる私人か、


*コピーライター


です。誰とは名指しませんが、「何でもありぃ=分けわかんない」とは正反対の、非常に読みやすい詩を書き、実際にCMなんかでも詩と称するものを提供=販売なさっている人がいますが、立派なコピーライターです。


 別に両者の境をつくる必要はありませんが、ややこしいですね。お子さんたちが、


*勘違い


をします。「十△歳のハローワーク」的な意味で混乱をします。その意味では罪作りなお方です。私見を申しますと、詩人は兼業であるはずです。詩人としてだけで食べていける人は、詩人とは言えません。


 純文学を書いたり文学賞の下読みをしたり文学賞の審査委員になったり、あるいは、俳句を詠んだり読んだり評したりして、食べていける人はいるでしょう。でも、詩を書くだけでご飯を食べられる人はいない、と思います。「詩人・コピーライター」なら別ですが。でも、そうした肩書きを目にしたことはありません。


     *


 話を、コピー(※コピーライターのコピーです)から詩にもどします。現代詩は、「詩」という言葉に、


*駄目押しの「現代」という冠をいただいている


のですから、こうなると、もう「何でもありぃ=分けわかんない」です。ごちそうさま=もう結構=悪いけどそろそろ=勝手にしやがれ、というわけです。(「台風と卵巣」より)



    ◆



【※以上引用した抜粋の出所になるブログ記事は、パブーの電子書籍置き場にあります。パブーのリニューアルにともない、全電子書籍のレイアウトが崩れてしまったので、リンクが張れません。というか、各ページ(記事)へのリンクが張れないのです。意地悪をしているわけではありません。ご面倒をおかけしますが、興味のある方は、電子書籍にて閲覧ください。申し訳ありません。】


※この作文は「引用の織物・余白に・連歌」というマガジンに収めます。




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